第六十三夜 追手を断つ
第六十三夜 追手を断つ
追手は、音より先に数字で来た。
「魔導騎装反応、二」
ローランド級の指揮所で、管制官が告げる。
「北工廠区東側格納線より一。軍指定診療所南門側より一」
地図の上で、二つの光点が赤く変わった。
一つは、八咫烏のいる広場へ向かう。
もう一つは、診療所から搬出された三床の退避経路へ向かう。
リシアは、それを見た瞬間、喉が固くなった。
全対象移動中。
その言葉は、助かったという意味ではない。
まだ、全員が狙われる位置にいる、という意味でもあった。
「馬車二、第二経路を北へ」
「馬車三、南回廊へ入る」
「診療所搬出班、東側小路から合流点へ」
「降下班四、担架三。速度を上げすぎるな。揺らすな」
管制官の声が、次々に重なる。
速く逃げなければならない。
けれど、速すぎれば搬送対象が壊れる。
その矛盾が、指揮卓の上で細い線になっていた。
「殿下」
クラウディアが通信を開く。
「東側一機は、こちらへ向かっています。南門側一機は診療所搬出班の経路に交差します」
「見えている」
アインの声は静かだった。
広場の中央で、八咫烏は膝をついた帝国機の前に立っている。
動かない。
その黒い背中だけで、帝国兵の足が止まっていた。
「ヴァレン」
「はい」
「南門側は地上班で抜けるか」
「可能ですが、負傷者を揺らします」
「なら、揺らすな」
アインは短く言った。
「俺が道を変える」
◇
帝都北工廠区の広場で、八咫烏が動いた。
ゆっくりと。
まず、膝をついた帝国機から手を離す。
支えを失った機体は倒れそうになったが、腰の制御束を断たれているため、ぎこちなくその場に沈むだけだった。
アインは、それを確認してから振り返る。
東側から来る一機。
南門側へ向かう一機。
距離は違う。
経路も違う。
だが、どちらも追手だ。
八咫烏の戦術主眼が、東側の路地へ向いた。
その光を見た帝国兵が、息を呑む。
黒い機体は、走らなかった。
一歩。
ただ一歩、踏み出した。
石畳が鳴る。
それだけで、広場の空気が後ろへ下がった。
次の瞬間、八咫烏は消えた。
いや、消えたように見えた。
実際には、低く沈み、広場の端を滑るように移動しただけだった。
だが、見ていた者の目は、黒い機体の上体を追ってしまった。
足元を見ていなかった。
目付けができていない。
だから、消えたように見えた。
八咫烏は東側路地へ入る直前、右腕をわずかに上げた。
剣は抜いたまま。
刃には、まだ何も通っていない。
ただの実体剣。
黒い鉄の延長。
それで十分だった。
◇
東側から来た帝国魔導騎装は、二番機よりも軽かった。
市街地対応型なのだろう。
肩は薄く、腕は長い。
その代わり、脚部の脈が荒い。
瞬間的に跳ねる動きで路地を抜けるための機体だった。
「前方、黒機!」
搭乗者の声が外部へ漏れる。
「二番機をやった奴か」
魔導騎装が腕を上げた。
手には短い斧槍。
路地で振り回すには長い。
だが、突くには使える。
「止まれ!」
外部スピーカーが叫ぶ。
「帝国軍機だぞ!」
八咫烏は止まらなかった。
返事もしなかった。
ただ、戦術主眼だけがわずかに動く。
右。
左。
ほんの少し。
それだけで、帝国機の斧槍の先が迷った。
どこを突けばよいか。
どこを守ればよいか。
目が、八咫烏の光に引かれている。
アインは、その迷いを見た。
「騎士を名乗るな」
声は外へ出していない。
コクピットの中だけで落ちた言葉だった。
八咫烏の剣が下から上へ流れる。
刃へ、エーテルが一瞬だけ通った。
斧槍の柄が切れる。
続けて、帝国機の右手首。
肘の制御線。
膝の補助駆動。
切る。
切る。
切る。
だが、胴は斬らない。
胸部機関も斬らない。
搭乗席へは、一切刃を向けない。
帝国機は、攻撃する力だけを失って路地に膝をついた。
八咫烏はその横をすり抜ける。
止まらない。
倒したのではない。
追えなくしただけだった。
◇
「東側機、行動不能」
管制官が告げた。
「搭乗者、生存。機体反応低下」
「南門側は」
クラウディアが問う。
「診療所搬出班と交差まで三十六秒」
「殿下」
「向かっている」
アインの声は、もう別の位置から返った。
地図の上で、八咫烏の光点が路地を抜ける。
速い。
けれど、直線ではない。
屋根の間、路地の曲がり、広場の縁。
帝都の形を壊さない経路を選んでいる。
リシアは、それに気づいた。
アインは速く行ける。
もっと速く。
屋根を踏み抜き、壁を砕き、道を真っ直ぐ作ることもできる。
けれど、そうしない。
逃げる者の道を壊さない。
暮らす者の家を壊さない。
敵を止めるために、街そのものを敵にしない。
「婚約者の国を焼かせない人ですもの」
アリシアが、静かに言った。
リシアは、はっとした。
その言葉は、ファーランドの墓前で艦隊示威を避けた時と同じ線にあった。
見せる力ではなく、守る力。
アインは今、帝都の中でそれをしている。
◇
診療所東側の小路では、降下班四が三つの担架を運んでいた。
老人。
若い女性。
子供。
老人の呼吸は浅い。
若い女性は意識が戻りかけているが、身体が動かない。
子供は眠っている。
眠らされているのか、眠りに落ちたのか、まだ分からない。
リジェナは、その横を走らずに歩いていた。
走れば目立つ。
歩けば遅い。
その中間を、身体で作る。
臨時手伝いの女ではなく、アークライトの調整体として。
「南門側、魔導騎装接近」
耳元に声が入る。
「交差まで二十八秒」
リジェナは、表情を変えなかった。
「搬出班、速度維持」
「交差します」
「維持」
リジェナは言った。
「殿下が道を変えます」
それは判断というより、信頼だった。
そして、その信頼は間違っていなかった。
小路の向こうで、黒い影が屋根の上を横切った。
◇
南門側の帝国魔導騎装は、重装型だった。
脚は遅い。
だが装甲が厚い。
追うというより、道を塞ぐための機体だ。
診療所搬出班の進路を塞ぎ、後続の兵が包囲する。
それが狙いだった。
アインは、屋根の上からその動きを見た。
八咫烏は屋根に立っている。
瓦を割らない。
重みを障壁で散らし、屋根の上に影だけを置くように立っている。
帝国機は、まだ気づいていない。
視界が低い。
上を見ていない。
戦場を平面でしか見ていない。
「上だ」
アインは呟いた。
声は外へ出さない。
代わりに、八咫烏が落ちた。
飛び降りるのではない。
屋根から地面へ、重さを置き換えるように落ちる。
帝国機の前に、黒い影が降りた。
搭乗者が反応する。
遅い。
機体が盾を上げようとする。
その盾を、八咫烏は斬らなかった。
左手で押さえる。
押さえたまま、右の剣を低く通す。
足首。
膝裏。
腰部補助軸。
重装型は、崩れた。
厚い装甲は無事だった。
胸部も、頭部も、搭乗席も無事だった。
ただ、道を塞ぐ力だけが消えた。
八咫烏は、その巨体を横へ押した。
倒すのではなく、どかす。
搬出班の道を開けるために。
重装型が壁際へ沈む。
小路が開いた。
「搬出班、進め」
アインの声が、初めて地上班へ直接届いた。
「了解」
リジェナの声が返る。
ほんの一瞬、その声に熱が混じった。
だが、すぐに戻る。
「搬出班、前進」
◇
保管庫側の馬車三の中で、村山主任は薄く目を開けていた。
意識は、まだ朦朧としている。
体は熱を持ち、右肩は動かない。
けれど、耳だけは音を拾っていた。
遠くの機体音。
脈動の音。
帝国機の荒い拍。
そして、その間を滑るように走る、別の音。
低く、抑えられた、奇妙に静かな音。
主任は、かすかに唇を動かした。
「……まさか」
隣で医療班が覗き込む。
「喋らないでください」
主任は聞いていない。
聞いているのは、機体の音だった。
出力を下げている。
わざと安定させていない。
だが、暴れさせてもいない。
脈の頂点だけを拾っている。
そんな動きは、普通の搭乗者にはできない。
機体が壊れる。
腕が遅れる。
足が流れる。
刃が間に合わない。
それを当然のように合わせている。
主任の目尻に、涙が滲んだ。
「本物だ」
声はほとんど音にならなかった。
「本物の、ハイランダーだ」
医療班は、その言葉を記録した。
意味は、あとでクラウディアが聞く。
今は、生かすことが先だった。
◇
ローランド級の指揮所で、クラウディアがその報告を受け取った。
「主任推定対象、発話」
「内容」
「本物だ。本物のハイランダーだ、と」
クラウディアは、目を閉じた。
一拍。
それだけだった。
「記録してください」
「はい」
「医療処置優先。会話は止めなさい」
「了解」
リシアは、クラウディアの横顔を見た。
泣いてはいない。
笑ってもいない。
けれど、その一拍の沈黙が、何かを語っていた。
千五百年前に途切れたものが、今、音だけで繋がったのだ。
◇
帝都の奥では、警鐘が鳴り始めていた。
小さな鐘ではない。
街区全体へ伝える、重い鐘だった。
住民の窓が開く。
兵の足音が増える。
遠くの格納区画で、さらに別の反応が揺れる。
「魔導騎装反応、追加三。起動未完了」
管制官が告げる。
「兵力展開、北工廠区へ集中」
ヴァレンが指揮卓に手を置いた。
「全搬出対象、合流点まで」
「馬車二、合流点通過」
「馬車三、合流点まで四十秒」
「診療所搬出班、合流点まで五十五秒」
まだ、長い。
五十五秒。
たったそれだけ。
けれど、今の帝都では長すぎる。
「殿下」
クラウディアが言った。
「追加三、起動前に潰せますか」
「できる」
アインは即答した。
「だが、それをやると帝都の奥へ入る。逃げ道の壁が薄くなる」
「では」
「ここで待つ」
八咫烏は、南門側の小路から広場へ戻る。
黒い機体が、街路の交点に立った。
東から来る道。
南から来る道。
診療所から合流点へ向かう道。
すべてが見える場所だった。
「追ってくるなら、ここで止める」
アインの声が、指揮所に落ちた。
その声は、怒りではない。
命令だった。
「全班、搬出を優先。俺を見るな。道を見ろ」
リジェナが応答する。
「了解」
リジェスカも続く。
「了解」
ヴァレンが、低く言った。
「全班、殿下の言葉を復唱。見るな。道を見ろ」
管制官たちが、一斉に指示を流す。
地上で、調整体たちが動きを変えた。
八咫烏を見ない。
黒い機体の圧に意識を引かれない。
ただ、運ぶ。
ただ、逃がす。
それが今の戦いだった。
◇
リシアは、指揮卓の前で息を吸った。
怖さは消えない。
むしろ、増えている。
けれど、見方が少し変わっていた。
戦っているのは、八咫烏だけではない。
運ぶ者。
止める者。
待つ者。
見ない者。
全員が、同じ戦いの中にいる。
アリシアが、扇を閉じた。
「よく見ていますわね」
「……見えているだけです」
リシアは答えた。
「まだ、何もできません」
「それでよろしいのです」
アリシアは静かに言った。
「まず、見えるようになりなさい。動くのは、その後です」
リシアは頷いた。
指揮卓の上で、合流点へ向かう灯が三つ、少しずつ近づいていく。
その前に、黒い灯が一つある。
八咫烏。
追手を断つために、動かず立つ黒い灯。
帝都の鐘が鳴っている。
朝は、まだ遠い。
けれど、夜はもう、こちらだけのものではなかった。




