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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第六十二夜 黒い朝

第六十二夜 黒い朝


 ローランド級の格納区画は、戦場の音を持たなかった。


 怒号はない。


 駆け回る足音もない。


 ただ、低く整った確認音だけが、黒い空間に重なっている。


 八咫烏は、固定架の上に立っていた。


 黒い装甲。


 光を返さない面。


 胸部を走る淡い線。


 そして、まだ灯っていない戦術主眼。


 アインは、その前で足を止めた。


 整備担当の調整体たちが、無言で一礼する。


「主流路、閉」


「補助流路、待機」


「投下障壁、予備展開」


「外装固定、解除準備」


「操縦系、殿下認証待ち」


 報告が流れる。


 アインはそれを聞きながら、黒い機体を見上げていた。


 八咫烏は、眠っているように見える。


 けれど、眠りではない。


 息を潜めている。


 獲物を待つ獣ではなく、刃を抜く時を待つ武具のように。


 アインは手袋を外した。


 素手で、搭乗口脇の認証板に触れる。


 黒い機体の内部で、何かが応えた。


 低い脈。


 遠い雷のような振動。


 胸部の線が、一段明るくなる。


「八咫烏、操縦系認証完了」


「主流路、封鎖維持」


「補助流路、起動」


「戦術主眼、未点灯」


 アインは搭乗口へ足をかける。


 その直前、耳元にクラウディアの声が入った。


「殿下」


「聞いている」


「帝国魔導騎装二番機、格納区画を出ます」


 アインは答えなかった。


 代わりに、搭乗席へ収まる。


 内部の固定具が、肩、腰、脚を静かに受け止めた。


 視覚拡張端末が接続される。


 世界が変わる。


 格納区画。


 ローランド級の船体。


 外の夜。


 高度。


 気流。


 帝都。


 水路。


 馬車二。


 馬車三。


 診療所。


 魔導騎装格納区画。


 それらが、アインの視界に重なった。


 戦術主眼は、まだ外を見ていない。


 けれど、アインは全てを見ていた。


「クラウ」


「はい」


「診療所三床は」


「軍人二名が奥へ移動。リジェナは待機継続。降下班四を診療所東側へ回します」


「馬車二、三」


「馬車二、発進。馬車三、十秒」


「確認班B」


「降下班三が拘束に移行。殺傷なし」


「帝国機」


「市街地へ出ます」


 アインは、ゆっくり息を吐いた。


「なら、こちらも出る」


 クラウディアの声が、わずかに低くなる。


「八咫烏、発進承認」


 格納区画の全ての音が、一瞬だけ止まった。


 そして、管制官が復唱する。


「八咫烏、発進承認」


「ローランド級下部投下口、開放」


「投下障壁、展開」


「外装固定、解除」


 八咫烏の固定架が外れる。


 黒い機体が、ほんのわずかに沈む。


 次の瞬間、足元の床が割れるように開いた。


 下には、夜があった。


 帝都の灯が、遥か下に見える。


 ローランド級は低衛星軌道の縁にいた。


 高度、およそ二百キロ。


 地上から見上げても、そこに船がいるとは分からない。


 けれど、そこから落ちるものは、確かに地上へ届く。


「八咫烏、投下」


 黒い機体が、夜へ落ちた。


     ◇


 落下は、静かだった。


 音は、機体の外で燃えている。


 障壁が、空気を割り、熱を受け流し、衝撃を薄く伸ばしていく。


 八咫烏の装甲の外側で、薄い光が走った。


 流星の尾ではない。


 燃えているのではない。


 燃えないために、世界との摩擦をずらしている光だった。


 アインの視界に、帝都が拡大していく。


 城壁。


 運河。


 工廠区。


 水路出口。


 逃げる馬車。


 動き出した帝国魔導騎装。


 全てが、線になって繋がる。


「高度百二十」


「九十」


「六十」


 管制官の声が、静かに数を刻む。


 アインは、出力を上げなかった。


 むしろ下げる。


 八咫烏の内部で、主流路はまだ開かない。


 補助流路だけが低く脈を打つ。


 安定させすぎない。


 暴れさせもしない。


 脈の頂点だけを拾うために、あえて余白を残す。


「高度三十」


 帝都が、近い。


「十」


 アインは、操縦桿を握り直した。


「五」


 黒い機体が、地面へ吸い込まれる。


 その直前、八咫烏の障壁が地表すれすれで開いた。


 落下が、横へ変わる。


 空気が裂けた。


 帝都の屋根の上を、黒い影が走る。


 地面に触れていない。


 けれど、地面を削るほど低い。


 倉庫の屋根瓦が震え、窓硝子が鳴り、遅れて風が通り抜ける。


 人々が顔を上げた時には、もう影は過ぎていた。


     ◇


 帝国魔導騎装二番機は、北工廠区の広場へ出たところだった。


 装甲は鈍い灰色。


 肩が大きく、脚が太い。


 市街地で動かすには明らかに重すぎる機体だった。


 それでも、内部の脈動だけは強い。


 力を跳ね上げるための乱れた拍が、機体を前へ押し出している。


「何だ、警報は」


 搭乗者が、外部スピーカー越しに怒鳴った。


「火事か。賊か。どちらにせよ、こんな時間に俺を起こすな」


 広場の端で、確認班Bが拘束されかけている。


 降下班三は、まだ姿を晒していない。


 だが、帝国機のセンサーは、馬車三の動きを拾った。


「あの馬車か」


 機体の頭部が、ぎこちなく動く。


 視線が馬車へ向く。


 その動きは、遅かった。


 目付けが、できていない。


 アインは、低空を走る八咫烏の中で、その動きを見ていた。


 戦術主眼は、まだ灯っていない。


 合成視界だけで十分だった。


「馬車三、進路変更」


 クラウディアの声。


「不要」


 アインは答えた。


「こちらで切る」


 黒い影が、広場へ入った。


 帝国機の搭乗者が、ようやくそれに気づく。


「何だ、これは」


 外部スピーカーに、乱れた声が乗った。


「真っ黒な鳥か? ふざけた玩具を」


 最後まで言わせなかった。


 八咫烏の戦術主眼が、そこで初めて灯る。


 黒い頭部に、細い光が開いた。


 帝国機の搭乗者が、それを見る。


 見てしまう。


 視線が引かれた。


 機体の肩が、わずかに上がる。


 防御反応。


 遅い。


 アインは、コクピットの中で小さく呟いた。


「目付けもできない騎士に、何の意味がある」


 八咫烏の右腕が動く。


 実体剣が抜かれた。


 刃には、何も宿っていない。


 ただの黒い剣。


 そう見えた。


 斬る瞬間までは。


 八咫烏の内部で、脈が跳ねた。


 頂点。


 アインはそこだけを拾う。


 刃へ、エーテルが一瞬だけ通った。


 光ではない。


 火花でもない。


 ただ、刃の輪郭が一瞬だけ、世界から浮いた。


 帝国機の膝関節が、断たれた。


 続いて、肩部出力管。


 さらに、腰の制御束。


 三つ。


 全てが、一呼吸の中で終わった。


 帝国魔導騎装は、倒れなかった。


 倒れる前に、八咫烏が左手で胸部を押さえたからだ。


 巨体を受け止める。


 支える。


 そして、静かに膝をつかせる。


 広場の石畳に、重い音が響いた。


 破壊ではない。


 解体でもない。


 戦う機能だけを奪われた魔導騎装が、まるで叱られた子供のように膝をついていた。


     ◇


 ローランド級の指揮所では、誰も声を上げなかった。


 けれど、リシアは自分の手が震えていることに気づいた。


 速すぎた。


 美しすぎた。


 そして、怖すぎた。


 あれは力ではない。


 力だけなら、もっと大きな破壊になっていた。


 あれは、力をどこへ置くかを知っている者の動きだった。


「帝国魔導騎装二番機、行動不能」


 管制官が告げる。


「搭乗者、生存。機体反応、停止」


「馬車三」


 クラウディアが問う。


「発進。水路出口より離脱」


「馬車二」


「第二経路へ進入」


「確認班B」


「拘束完了。殺傷なし。記憶処理準備中」


 ヴァレンが頷いた。


「降下班一、保管庫内の残存資料確認は二十秒以内。無理なら放棄」


「了解」


「降下班四、診療所東側配置完了」


「リジェナ」


 クラウディアが言った。


「はい」


 リジェナの声が、細く入る。


 診療所の雑音が混じっている。


「三床を抜きます。合図を待ちなさい」


「了解」


 リシアは、息を吸った。


 まだ終わっていない。


 魔導騎装を一機止めても、まだ診療所が残っている。


 老人。


 若い女性。


 子供。


 そこへ、ようやく手が届く。


     ◇


 帝都北工廠区の広場で、帝国機の搭乗者は何が起きたのか理解できていなかった。


 警告音が鳴っている。


 膝が動かない。


 右肩の出力が死んでいる。


 腰の制御も反応しない。


 それなのに、胸部機関は無事だった。


 自分も生きている。


 死んでいない。


 殺されていない。


 ただ、戦う能力だけを奪われた。


「何だ」


 搭乗者は、喉の奥から声を漏らした。


 外部スピーカーは壊れていない。


 だから、その声は広場に漏れた。


「何なんだ、お前は」


 八咫烏は、答えなかった。


 黒い機体は、ただ立っている。


 戦術主眼の光だけが、帝国機を見ていた。


 その視線は、責めるものではない。


 怒鳴るものでもない。


 ただ、見ている。


 見られているだけで、搭乗者は動けなかった。


     ◇


 診療所では、リジェナが水を拭き終えた布を籠へ戻した。


 軍服の男二人が、奥の三床へ向かう。


 その背中を見ながら、リジェナは一歩だけ下がった。


 廊下の東側。


 窓。


 外には何も見えない。


 けれど、そこに降下班四がいる。


 リジェナは、籠の布を一枚落とした。


 偶然のように。


 白い布が、床に広がる。


 その端が、窓から差し込む薄い光を受けた。


 合図。


 奥の軍人の一人が振り返った。


「何をしている」


「すみません」


 リジェナは、また怯えた声を作った。


「すぐに」


 その時、窓の外で、黒い影が動いた。


 音はなかった。


 硝子が割れる音もない。


 窓枠そのものが、外側から外された。


 降下班四が、診療所へ入る。


 軍服の男が短剣へ手を伸ばす。


 遅い。


 リジェナは、もう動いていた。


 洗濯籠を男の足元へ滑らせる。


 男が踏む。


 体勢が崩れる。


 降下班四の隊員が、その首筋へ針を当てた。


 もう一人も、声を出す前に床へ沈む。


 殺していない。


 眠らせただけだった。


「診療所奥、制圧」


 リジェナが言った。


 声は震えていない。


「三床、搬出開始」


     ◇


 八咫烏は、広場の中央で動かなかった。


 動かないことが、壁になっていた。


 帝国兵は、近づけない。


 確認班も、声を出せない。


 広場の向こうで、馬車二と馬車三が離れていく。


 水路の闇から、降下班一が消えていく。


 診療所の東側から、老人が運び出される。


 若い女性。


 子供。


 灯が、また増える。


 リシアは指揮所で、その灯を見ていた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 増えるたびに、胸が苦しくなる。


 助かった。


 まだ助かっていない。


 その二つが、同時に来る。


「診療所三床、搬出」


 管制官が告げた。


「全対象、移動中」


 クラウディアが、目を伏せた。


 ほんの一瞬だけ。


「殿下」


 彼女は通信を開く。


「全対象、移動中です」


「了解」


 アインの声は、広場から返った。


「では、次は追手だ」


 黒い機体が、ゆっくりと顔を上げた。


 帝都の奥で、別の魔導騎装反応が目を覚まし始めていた。


 黒い朝は、まだ始まったばかりだった。


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