第六十一夜 刃の向こう
第六十一夜 刃の向こう
三つ目の扉の向こうで、刃が止まった。
リジェスカは、水路の壁に手を当てたまま、息を止める。
止まった理由は、二つある。
開いたか。
あるいは、動かせなくなったか。
そのどちらであるかを、外からはまだ判断できない。
「三扉、作業音停止」
降下班一の隊員が、低く報告する。
「熱源、扉内側に三。小型二、成人一。成人熱源低下」
「主任でしょうか」
管制官の声が、ローランド級の指揮所に落ちた。
「断定するな」
ヴァレンが返す。
「生存者三として扱え。医療班、三名同時搬出」
「了解。馬車三、隠し区画解放準備」
「商会支援班、馬車二はまだ動かすな。重さの変化を見せるな」
「了解」
指示が重なる。
リジェスカは、水路の暗がりを見ていた。
浅い水が、足元で小さく揺れている。
そこへ、内側から指が出た。
壁を探るように、細い指が動く。
大人の指ではない。
子供の手だった。
リジェスカはその手を掴まなかった。
強く握れば折れる。
水に濡れた布を差し出し、手のひらの下へ滑り込ませる。
短。
長。
聞こえるか。
子供の指が震えた。
短。
肯定ではない。
ただの反射かもしれない。
それでも、生きている。
「三扉、小型一接触。意識判定不明、生存」
リジェスカは言った。
その直後、扉の向こうから低い音がした。
金具が落ちる音。
そして、扉が動いた。
開く、というより、内側から倒れ込むように隙間が広がる。
最初に出てきたのは、子供だった。
薄い布に包まれている。
年は、十にも届いていないように見えた。
髪は白に近く、耳は布で押さえられている。
リジェスカはその体を受け止める。
軽い。
軽すぎる。
「小型一、回収」
「医療班」
「受けます」
背後から医療班が滑り込む。
子供を受け取る手は速いが、乱暴ではなかった。
首、呼吸、脈。
布を開く範囲は最小限。
水路の暗がりで、必要な確認だけが進む。
「呼吸浅い。脈弱。薬剤反応あり。低体温」
「馬車三へ」
「了解」
二人目の子供が続いた。
こちらは意識があった。
瞳だけが、やけに大きく見える。
恐怖で固まった目ではない。
ずっと、恐怖の中で固まっていた目だった。
リジェスカは、その子に手を伸ばした。
子供は一瞬、身をすくめた。
リジェスカは動きを止める。
そして、自分の手の甲を上に向けた。
握らなくていい。
触れるだけでいい。
子供は、しばらくその手を見ていた。
それから、指先を置いた。
短。
短。
リジェスカが返す。
長。
長。
大丈夫。
そういう意味の符号ではない。
けれど、今はそれでよかった。
「小型二、回収。意識あり」
「状態」
「怯え。衰弱。外傷少。薬剤反応あり」
「馬車三へ」
二人目が運ばれる。
残るのは、成人一。
三つ目の扉の奥に、影が倒れていた。
リジェスカは踏み込もうとして、降下班一の隊員に肩を押さえられた。
「こちらが入ります」
「主任なら、符号を読めます」
「だからこそ、外に出してください。あなたは顔を見られています」
リジェスカは、一瞬だけ唇を噛んだ。
正しい。
この場で感情を前に出せば、助けられるものを減らす。
降下班一の隊員が、扉の隙間から内側へ滑り込む。
音がない。
水を踏む音さえ、ほとんどしない。
やがて、成人の影が動いた。
隊員に支えられて、男が出てくる。
長い耳。
痩せた頬。
髪の色は抜け、顔には深い疲労が刻まれていた。
けれど、目は死んでいない。
男は水路へ出た瞬間、リジェスカではなく、隊員の腰に下げられた小型端末を見た。
次に、壁。
水の流れ。
出口。
逃げ道を見ているのではない。
構造を見ている。
技術者の目だった。
「成人一、回収」
「状態」
「意識あり。歩行不可。右肩脱臼疑い。発熱。魔力循環乱れ」
医療班が近づく。
男はそれを片手で止めようとした。
力はない。
それでも止めようとした。
唇が動く。
ず。
めん。
リジェスカは首を振った。
「生存者優先です」
男の目が、リジェスカを見る。
リジェスカは、迷わず続けた。
「クラウディア様の命令です。図面は後回し。生きて出ろ、と」
男の表情が、そこで初めて崩れた。
泣いたのではない。
笑ったのでもない。
ただ、長く張っていた糸が、一瞬だけ緩んだ顔だった。
唇が、もう一度動いた。
く。
ら。
う。
リジェスカは頷いた。
「はい。クラウディア様です」
男は目を閉じた。
そのまま倒れかける。
医療班が支えた。
「主任推定対象、意識低下。搬出」
「馬車三へ」
「了解」
◇
ローランド級の指揮所に、短い報告が続いた。
「対象三、小型一、回収」
「対象四、小型二、回収」
「対象五、主任推定、回収。意識低下」
リシアは、指揮卓の表示を見つめていた。
灯が増える。
それは助かった人数を示している。
けれど、増えた灯はそのまま、守らなければならないものの数でもあった。
馬車二。
馬車三。
診療所三床。
水路。
確認班。
魔導騎装格納区画。
光点が多すぎて、息が詰まる。
「リシア」
アリシアの声がした。
リシアは顔を上げる。
「見えるものが増えた時ほど、一番近いものだけを掴んではいけませんわ」
「……はい」
「全てを見るのではありません」
アリシアは扇を閉じたまま、地図を見ている。
「何が動き、何が動いていないかを見るのです」
動いているもの。
確認班。
馬車三。
水路出口の医療班。
魔導騎装格納区画の待機符号。
動いていないもの。
診療所三床。
馬車二。
アイン。
八咫烏。
リシアは、ようやく少しだけ息を吸えた。
アインが出ない理由も、まだそこにある。
動いていないものを、動かす時を選んでいる。
◇
帝都の確認班は、二手に分かれていた。
一方は補給所第三門。
もう一方は保管庫外周。
どちらも足が速い。
火災対応で乱れた通りを避け、裏道を使って進んでくる。
降下班三の管制官が、静かに告げた。
「確認班A、第三門まで一分十秒」
「確認班B、保管庫外周まで五十二秒」
「降下班三、接触可能位置へ」
ヴァレンが言った。
「殺すな。倒すな。遅らせろ」
「了解」
地上で、二つの影が動いた。
確認班Bの前方、細い路地で荷車が倒れた。
積んでいた麻袋が裂け、乾いた穀物が石畳に散る。
「何をしている!」
帝国兵が怒鳴った。
荷車の持ち主に見える男が、慌てて頭を下げる。
「す、すみません。車輪が」
「どけ!」
兵が蹴りつけようとした瞬間、横の家から女が飛び出した。
「待ってください、それは今朝の配給分で」
「邪魔だ!」
声が重なる。
人が集まる。
集まりすぎないように。
騒ぎすぎないように。
けれど、通るには面倒な程度に。
降下班三の仕事は、そういう仕事だった。
剣を抜かせず、血を流させず、足だけを遅らせる。
「確認班B、遅延二十秒」
「足りない」
ヴァレンは即答した。
「三十秒まで伸ばせ」
「了解」
別の路地で、犬が吠えた。
実際には犬ではない。
小型音響具が、壊れた門扉の影で短く鳴っただけだった。
確認班の一人が振り向く。
その一歩だけで、隊列が詰まった。
「遅延二十八秒」
「よし」
◇
診療所の奥で、リジェナは軍服の男たちの会話を聞いていた。
「保管庫側の確認が入った」
「移送は中止か」
「まだだ。上は逆に急がせるかもしれん」
「奥の三人は?」
「使える状態ではない。だが、連れていけと言われれば連れていく」
リジェナは、布を畳む手を止めなかった。
三床。
老人。
若い女性。
子供。
まだ動いていない。
けれど、命令が変われば動かされる。
その前に抜くか。
あるいは、動かされる瞬間を狙うか。
リジェナは、洗濯籠の底に指を滑らせた。
短。
短。
長。
診療所、移送急変可能。
そして、一拍置いて。
長。
長。
三床、まだ手を出すな。
自分で送っておきながら、胸が痛んだ。
すぐそばにいる。
手を伸ばせば届く距離にいる。
それでも、今手を出せば、診療所全体が閉じる。
リジェナは、洗濯籠を持ち上げた。
無理はするな。
アインの言葉が、胸の奥に残っている。
無理をしないというのは、何もしないことではない。
今、最も痛い手を止めることだった。
◇
「診療所より更新」
管制官が言った。
「移送急変可能。三床、まだ手を出すな」
リシアは息を詰めた。
まだ手を出すな。
その言葉を送ったのは、リジェナだ。
すぐそばにいて。
見えていて。
手を伸ばせば届く場所にいて。
それでも、今ではないと判断した。
リシアは、胸の前で手を握った。
「強いですね」
ステファニアが、小さく言った。
「はい」
リシアは答えた。
強い。
リジェナも、リジェスカも。
そして、その強さを使い潰さないようにしているアインも。
指揮卓の向こうで、アインがわずかに目を細めた。
「診療所は、まだ待つ」
アインが言った。
「保管庫側は?」
「対象一、二、三、四、五、馬車二および三へ搬入中」
「確認班B、保管庫外周まで二十四秒」
「馬車三、発進まで?」
「四十秒」
「間に合わないな」
アインの声は、静かだった。
ヴァレンが頷く。
「確認班をもう一度遅らせます」
「血を流すな」
「承知」
「それと」
アインは、地図の一角を見た。
魔導騎装格納区画。
そこにあった光点が、一つ、色を変えた。
待機から、起動準備へ。
「クラウ」
「はい」
「八咫烏、起動」
指揮所の空気が、さらに一段沈んだ。
クラウディアの声が、すぐに走る。
「八咫烏、起動。発進承認は未発行。繰り返します。起動のみ」
「八咫烏、起動」
管制官が復唱する。
ローランド級の別区画で、何かが目を覚ました。
リシアには見えない。
けれど、分かった。
巨大なものが、まだ眠ったまま、片目だけを開けたような感覚だった。
◇
ローランド級下部格納区画。
黒い魔導騎装が、固定架に立っていた。
八咫烏。
黒い装甲は、光をほとんど返さない。
胸部の線だけが淡く走り、内部のエーテル流路が低く脈を打ち始める。
整備担当の調整体が、無言で確認を進めた。
「主流路、閉」
「補助流路、待機」
「外装固定、解除準備」
「投下障壁、予備展開」
「操縦系、殿下専用認証待ち」
黒い頭部の視覚器が、まだ灯らない。
外から見れば、眠っているように見えた。
けれど、眠っているものの中に、刃が通った。
いつでも抜ける。
そういう静けさだった。
◇
帝国の魔導騎装格納区画では、別の音がしていた。
重い扉が開く音。
油の切れた駆動部が軋む音。
怒鳴り声。
足音。
「二番機、起動準備!」
「市内だぞ、誰が許可を」
「上からだ! 待機命令から起動準備に変わった!」
「燃料流路、安定していない」
「脈を浅くしろ。跳ねさせるな」
「浅くしたら出力が足りん」
「市内で暴れさせる方が問題だろうが!」
声がぶつかる。
格納庫の奥で、帝国式魔導騎装の目が灯った。
単眼ではない。
細い横長の光が、装甲の奥で開く。
その光は、人を見るためというより、敵を探すためのものだった。
機体の内部で、エーテルが不安定に揺れる。
鋭く跳ねる、危うい脈動。
力を瞬間的に引き上げるための、乱れた拍動だった。
格納区画の床が、わずかに震えた。
◇
「帝国魔導騎装、二番機起動準備」
管制官の声が、指揮所に響いた。
「エーテル反応、不安定。三角波兆候あり」
クラウディアの目が細くなる。
「市街地で、あれを使うつもりですか」
その声は平坦だった。
けれど、リシアには分かった。
怒っている。
アインも、同じものを見ていた。
指揮卓の端に置かれた手が、少しだけ動く。
「馬車二、三の退避は」
「馬車二、発進準備完了。馬車三、二十秒」
「確認班B」
「足止め中。限界まで十五秒」
「診療所」
「変化なし。ただし軍人二、奥へ移動準備」
数字が並ぶ。
十五秒。
二十秒。
まだ足りない。
たった五秒。
その五秒で、人が死ぬことがある。
アインは、目を閉じなかった。
「ヴァレン」
「はい」
「確認班Bを止めろ。血は流すな。だが、もう遅らせる段階ではない」
「了解」
ヴァレンの声が、少しだけ低くなった。
「降下班三、確認班Bを拘束。殺傷禁止。記憶処理準備」
「了解」
「クラウ」
「はい」
「八咫烏、搭乗準備」
リシアの心臓が跳ねた。
発進ではない。
けれど、もう起動だけではない。
アインが、指揮卓から手を離す。
アリシアが扇を開いた。
ゆっくりと。
白い指が、扇の骨をなぞる。
「行かれますのね」
「まだだ」
アインは言った。
「だが、待つ場所を変える」
そう言って、彼は歩き出した。
ローランド級の通路へ。
八咫烏が眠る格納区画へ。
リシアは、その背を見送った。
十五秒の夜は、終わった。
次に来るのは、黒い朝だった。




