第六十夜 十五秒の夜
第六十夜 十五秒の夜
二つ目の扉は、すぐには開かなかった。
水路の奥で、金属を削る細い振動だけが続いている。
刃は小さい。
武器ではない。
人を殺すための道具ではなく、人を閉じ込めるための金具をほどくための道具だった。
リジェスカは、水路の壁に片膝をついたまま、息を殺していた。
足元の水は浅い。
膝下までしかない。
人を流すには足りず、音を隠すにも足りない。
それでも、その水は今、こちらと内側を繋ぐ唯一の道だった。
「二扉、作業継続」
耳元の小さな声が告げる。
降下班一の隊員は、石壁の影に溶けるように立っていた。
顔は見えない。
装着した簡易視覚拡張端末が、周囲の熱、音、魔力の乱れを拾い、淡い線だけを空間に重ねている。
「巡回復帰まで、二十八秒」
「通信遅延、十五秒維持」
「固定警備三名、姿勢維持。異常認識なし」
ローランド級の指揮所から、短い報告が重なった。
リジェスカは、それを聞きながら、二つ目の扉の向こうを見ていた。
見えているわけではない。
けれど、刃の震えで分かる。
内側にいる誰かは、手が震えている。
それでも、止めていない。
止めれば、終わると分かっている手だった。
「……落ち着いて」
声には出さない。
リジェスカは唇だけで呟いた。
その時、金属の噛み合いが一つ外れた。
乾いた音。
水路の中では小さく、けれどリジェスカには大きすぎるほど大きく聞こえた。
「二扉、解放」
扉が、内側からわずかに開いた。
先に出てきたのは、布に包まれた手だった。
細い。
指先の皮膚が荒れている。
爪の間には、黒い油と、古い血の跡が残っていた。
降下班一の隊員が、その手を取る。
引くのではない。
相手の力が残っているかを確かめるように、支える。
次に、肩。
薄い上着。
短く切られた髪。
年若い女だった。
けれど、その目だけは、子供のものではなかった。
水路へ出た瞬間、女は倒れかけた。
リジェスカが受け止める。
軽かった。
軽すぎた。
「対象二、回収」
「状態」
「意識あり。歩行困難。両手損傷、栄養不良、軽度脱水。喉部に圧迫痕」
医療班の声が、すぐに重なる。
リジェスカは女の手を両手で包んだ。
短。
短。
長。
ベルカ式確認符号。
聞こえるか。
女の指が、ほんのわずかに動いた。
長。
短。
肯定。
リジェスカは胸の奥で息を吐いた。
女は声を出そうとして、失敗した。
喉が音を作らない。
それでも、唇が動く。
リジェスカはその動きを読んだ。
しゅ、にん。
主任。
「まだ、奥に一名以上」
リジェスカが報告する。
「対象二、主任の存在を示唆」
「了解」
ヴァレンの声は低かった。
「二扉対象を馬車二へ。三扉継続。降下班一、焦るな。内側の作業者を急がせるな」
「了解」
女は運ばれようとして、リジェスカの袖を掴んだ。
力は弱い。
けれど、離さない。
唇が、もう一度動いた。
こども。
リジェスカは一瞬だけ目を閉じた。
「主任のほか、子供一名の可能性」
指揮所の空気が、変わった。
音は変わらない。
誰も声を荒らげない。
けれど、卓上の光点が一つ増え、医療班の経路が引き直される。
「医療班二、馬車三の準備」
「商会支援班、車軸故障演技を継続。人員追加を不自然に見せるな」
「降下班三、追跡遮断位置を一つ前へ」
「通信遮断班、十五秒を限界にする。次の確認で十秒へ落とす」
指示が滑るように走った。
アインは、その横で黙っていた。
クラウディアも、まだ何も言わない。
出ない。
まだ出ない。
リシアには、その沈黙が分かるようになっていた。
出たくないのではない。
出れば救えるものがある。
けれど、出た瞬間に壊れる作戦もある。
アインは、その境目を見ている。
だから、椅子から立たない。
八咫烏は、まだ夜の外にいない。
◇
診療所では、空気が少し変わっていた。
リジェナは洗濯籠を抱えたまま、奥の廊下で足を止めた。
看護女が一人、いなくなっている。
代わりに、軍服の男が二人増えていた。
腰に下げた短剣は、儀礼用ではない。
入口で立つための者ではなく、誰かを運ぶ時に見張るための者だった。
「奥の三床は動かすな」
一人が言った。
「上からの確認が終わるまで、このままだ」
「保管庫側は?」
「一名出す予定だったが、符号が乱れた。確認を待て」
リジェナは、洗濯籠の重さを少し変えた。
中の布が崩れたように見せる。
廊下の端で、桶が倒れた。
水が広がる。
「すみません」
リジェナは慌てた声を作った。
作った声は、少し震えている。
臨時手伝いの女が、軍人を前にして怯えた声だった。
「すぐ拭きます」
「邪魔だ」
軍服の男が舌打ちした。
その視線が、床へ落ちる。
落ちた。
リジェナは、その一瞬だけを使った。
左手の指先が、床に触れる。
短。
長。
短。
合図ではない。
床下に仕込まれた極小の観測片へ、振動を渡すための符号だった。
診療所、軍人二。
三床、現状維持。
保管庫側、符号乱れ認識。
それだけを送る。
長く送れば気づかれる。
短く送れば、足りない。
リジェナは、布で水を拭きながら、もう一度だけ床を叩いた。
短。
短。
移送、待機。
それで十分だった。
◇
「診療所より更新」
管制官の声が、指揮所に入った。
「軍人二名増。三床は現状維持。保管庫側、符号乱れを認識」
「気づき始めましたね」
クラウディアが言った。
「まだ異常確定ではありません」
ヴァレンが返す。
「ですが、猶予は減りました」
アインは指揮卓の帝都地図を見ていた。
北工廠区。
補給所第三門。
軍指定診療所。
保管庫。
水路。
偽装馬車。
その全てが、細い糸で繋がっている。
糸はまだ切れていない。
だが、張りすぎれば切れる。
「三扉の向こうが主任と子供なら」
アインが言った。
「優先度を上げる」
「はい」
クラウディアが頷く。
「ただし、診療所三床を捨てる判断ではありません」
「分かっている」
アインの声は静かだった。
「診療所はまだ動いていない。保管庫は動き始めている。先に動く方から抜く」
リシアは、その言葉を聞いていた。
冷たく聞こえる。
けれど、冷たいだけではない。
助ける順番を間違えないための言葉だった。
「リシア様」
隣でステファニアが小さく言った。
リシアは頷いた。
何も言わない。
ここで祈ることさえ、声にすれば邪魔になる気がした。
だから、黙って見た。
小さな表示の中で、二つ目の灯が馬車二へ移されていくのを。
◇
三つ目の扉は、内側から二度叩かれた。
短。
短。
リジェスカが、水路の壁に手を当てる。
返す。
長。
聞こえる。
向こうから、また返る。
短。
長。
短。
遅い。
リジェスカは眉を寄せた。
作業が遅い、ではない。
手が遅い。
扉の内側にいる者は、刃を扱える。
だが、力がない。
そして、誰かを庇いながら作業している。
「三扉、内側作業者の動作低下」
リジェスカが告げる。
「負傷または衰弱。複数存在の可能性」
「降下班一、外側補助は可能か」
「可能。ただし火花が出ます」
「不可」
ヴァレンは即答した。
「音と光を出すな。内側作業を維持。医療班、三扉開放直後に二名同時搬出想定」
「了解」
リジェスカは、水路へ身を低くした。
向こうから、薄い金属板が差し出された。
刃ではない。
小さな札だった。
水に濡れないよう油紙で包まれ、その内側に、細かな文字が刻まれている。
リジェスカはそれを受け取る。
視覚拡張端末が、刻印を拾った。
古いベルカ式の略号。
村山。
主任。
子、二。
図、残すな。
リジェスカの喉が、少しだけ詰まった。
子供は一人ではない。
二人。
そして、図面を残すな。
この人たちは、まだ技術者だった。
助けを待つ者である前に、自分たちが帝国に何を渡してしまうかを考えている。
「三扉より札」
リジェスカは報告した。
「村山主任。子供二。図面破棄要請」
指揮所に、短い沈黙が落ちた。
すぐに、クラウディアの声が入る。
「図面は後回し。生存者を優先」
「了解」
「繰り返します。図面は後回し。生存者を優先」
その声には、わずかな硬さがあった。
クラウディアにとっても、村山の名は軽くない。
アインも、それを知っている。
だが、彼は何も言わなかった。
今言うべきことは、もうクラウディアが言った。
リジェスカは、札を懐に入れた。
返符を送る。
長。
短。
長。
生きて出ろ。
しばらく、返事はなかった。
そして。
短。
肯定。
その一つだけが返ってきた。
◇
帝国側の通信室で、下士官が顔を上げた。
「補給所第三門、返答に遅延」
「またか」
上官は書類から目を離さなかった。
「火災対応中だろう」
「十五秒です。先ほどは三十秒でした」
「改善しているなら問題ない」
「ですが、第三門だけではありません。保管庫外周の固定報告も、間隔が揃いすぎています」
上官の手が止まった。
間隔が揃いすぎている。
それは、正常ではない。
人間が退屈しながら送る定時報告には、必ず揺れがある。
早すぎたり、遅すぎたり、言葉が少し変わったりする。
揃いすぎた報告は、誰かが整えている報告だった。
「確認班を出せ」
上官が言った。
「第三門と保管庫外周だ」
「はっ」
「それから」
上官は少し考えた。
「魔導騎装格納区画に待機をかけろ。起動ではない。待機だ」
下士官が一瞬だけ目を見開いた。
「市内で、ですか」
「待機だと言った」
上官の声が低くなる。
「何もなければ叱られるだけで済む。何かあってから起こせば、首では済まん」
「了解しました」
通信室に、新しい符号が走った。
◇
「帝国通信室に動き」
管制官が言った。
「確認班、第三門および保管庫外周へ。魔導騎装格納区画、待機命令」
リシアの背筋が冷えた。
魔導騎装。
その言葉が出た瞬間、指揮所の空気が変わる。
騒がしくはならない。
むしろ、さらに静かになった。
ヴァレンが一歩だけ、指揮卓へ近づく。
「八咫烏、起動前確認」
管制官が復唱する。
「八咫烏、起動前確認」
アインが、ようやく椅子から立った。
その動きは、急いでいなかった。
けれど、その場の全員が見た。
リシアも。
ステファニアも。
セラも。
アリシアだけが、少しだけ扇を閉じた。
ぱちり、と。
小さな音がした。
「まだ出ない」
アインは言った。
「待機だ」
クラウディアが頷く。
「三扉開放まで」
「ああ」
アインは指揮卓の端に手を置いた。
その目は、帝都の地図を見ている。
地図の上で、確認班の光点が動き始めていた。
水路へ向かって。
保管庫へ向かって。
三つ目の扉の向こうでは、まだ刃が動いている。
十五秒の夜が、終わろうとしていた。




