第五十九夜 三つの扉
第五十九夜 三つの扉
黒い降下殻は、夜の空から落ちてきた。
落ちる、というより、滑り込むようだった。
帝都の上空には、雲が低く垂れている。
その雲のさらに上から、光を消した小さな影がいくつも降りる。
音はない。
炎もない。
尾を引く光もない。
ただ、夜が少しだけ濃くなったように見えるだけだった。
地上の誰も、空を見上げていない。
工廠区の南では、酒場の裏手から小さな煙が上がり始めていた。
油を吸った布が、ゆっくり焦げる。
火は大きくならない。
大きくしてはいけない。
だが、夜番の兵士が「火だ」と叫ぶには十分だった。
降下班二の雑音生成である。
「十二区画南、小火確認」
ローランド級の簡易作戦指揮所で、管制官が告げた。
「周辺巡回二組、南へ移動」
「補給所第三門、視線一枚剥がれました」
ヴァレン・シグルドは頷いた。
「剥がしすぎるな」
「了解」
別の管制官が即座に降下班二へ繋ぐ。
「小火維持。延焼禁止。巡回二組で止めろ。三組目は呼ぶな」
声は低い。
地上では、酒場の裏手で酔った職人が水桶をひっくり返したふりをしていた。
もちろん、職人ではない。
調整体の降下班員である。
彼は怒鳴られ、謝り、煙を消す。
兵士たちは舌打ちしながら近づく。
その間に、北工廠区第三補給所の裏では、別の影が動いた。
◇
リジェスカは、水路の縁にしゃがんでいた。
水路清掃補助員の服のまま。
泥に汚れた手袋。
鉄棒。
そこへ、降下班一の二名が近づく。
近づくと言っても、足音はほとんどない。
帝都の清掃人が見れば、ただの夜間補修員に見える格好だった。
一人は小柄な男。
もう一人は、背の低い女。
どちらも調整体である。
「三扉」
小柄な男が、ごく低く言った。
「返りあり」
リジェスカは答える。
それだけで、互いの確認は済んだ。
余計な名乗りはない。
名乗れば、名前が残る。
名前が残れば、誰かが拾う。
「水量」
「低い。人は流せません。道具と合図のみ」
「格子」
「内側から三つ開く」
「監視」
「補給所第三門は一枚剥がれました。奥はまだ二枚」
背の低い女が、水路脇の石を三つ触った。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
その間隔を確認している。
内側から返ってきた木片の刻みと、実際の排水口の位置を重ねる。
「こちらからは開けない」
リジェスカが言う。
「音が出ます」
「了解」
小柄な男は、腰の袋から薄い布を取り出した。
濡れた石に貼る。
布は水を吸い、色を変える。
流路確認用の簡易標識。
帝都の者には、湿り気で色の変わる補修布にしか見えない。
「水路班、標識設置」
管制官の声が、ローランド級で響く。
「降下班一、水路出口到達」
「医療班、待機位置へ移動中」
「商会支援班、偽装馬車二、水路出口まで三十」
ヴァレンは表示を見る。
三つの扉が、薄い青に変わった。
まだ開いていない。
だが、開けられる。
◇
診療所では、リジェナが洗濯籠を抱えたまま廊下の端にいた。
奥へは入れない。
だが、近くにはいられる。
新しい看護女は、奥の扉の前に立っている。
兵士が一人増えていた。
移送準備は、やはり近い。
リジェナは、籠の中の布を畳み直す。
その布の下に、小さな薬包が三つある。
覚醒を抑える薬ではない。
逆である。
衰弱した者が、短時間だけ意識を保つための補助薬。
使いすぎれば身体を削る。
だが、今夜は必要になるかもしれない。
廊下の奥で、医師らしき男が現れた。
白衣。
しかし袖口に軍の印。
医師というより、管理者に近い。
「移送対象は一名でいい」
男が言った。
「上の命令だ。動ける者を出す」
看護女が頷く。
「奥の女ですか」
「いや、保管庫側から一名来る。ここの三床は予備だ」
リジェナは、布を畳む手を止めなかった。
保管庫側。
診療所の三床以外。
別枠の技能者。
灯の一つは、ここではない。
リジェナは籠を持ち上げた。
退くふりをして、廊下の角へ下がる。
そこで籠の底を、一度だけ床に当てた。
重い音。
一回。
少し間を置いて、二回。
さらに間を置いて、一回。
診療所ではない。
保管庫側。
それが、リジェスカへではなく、外の管制へ渡す合図だった。
廊下の端に吊られた古い燭台の影が、わずかに揺れる。
そこには、降下班三の小型観測具が貼りついていた。
「診療所班より合図。移送対象は診療所三床ではなく保管庫側」
管制官が言った。
表示が変わる。
診療所奥の三床は橙のまま。
北工廠区外縁施設の保管庫側に、赤い点が灯る。
「降下班一、分岐」
ヴァレンが言った。
「水路班二名は保管庫側へ。医療班一組は診療所三床維持。対象を捨てるな」
「了解」
管制官がすぐに伝える。
「降下班一、水路二名を保管庫側へ。医療班一組、診療所三床継続。対象未確定、全灯保持」
◇
ベルン商会の偽装馬車は、予定通り車軸を外したふりをしていた。
御者は、帝都支店の雇員だった。
裏の事情は半分しか知らない。
だが、半分で足りる。
彼に必要なのは、馬車を止めること。
怒鳴られること。
直しているふりをすること。
そして、合図が来たら動くことだった。
「こんなところで止めるな」
兵士が怒鳴る。
「すみません、車軸が」
「押せ」
「押すと折れます」
「折れてから言え」
御者は困った顔をした。
実に上手い困り顔だった。
リシアが見れば、本当に困っていると思っただろう。
実際、少しは困っていた。
兵士の機嫌が悪すぎる。
そこへ、降下班三の一人が通りかかった。
荷運び人の格好をしている。
「手を貸しましょうか」
「助かります」
二人は車輪に手をかける。
その下で、馬車の底板が静かに開いた。
中は空洞。
人を二人、横にして入れられる。
さらに奥に、薬品と布と簡易拘束解除具。
医療班用の隠し区画である。
「商会支援班、馬車二準備完了」
作戦指揮所に報告が入る。
「馬車一は」
「東路で待機。屋根上導線用」
「馬車三は」
「予備。支店裏口」
ヴァレンは頷く。
「馬車二を水路出口へ固定。馬車一は動かすな。逃げ道を先に見せると追われる」
「了解」
◇
北工廠区外縁の保管庫側では、灯りが増えていた。
表向きは予備部品保管庫。
だが、窓が少ない。
出入り口が二重。
外壁の補修跡が新しい。
人を入れるためではなく、出さないための建物だった。
降下班一の二名は、屋根の影からそれを見ていた。
一人が指先で合図する。
巡回二。
固定警備三。
内側不明。
別の一人が、袖の中で管制具を操作する。
「保管庫外周、巡回二、固定三。内側不明」
「通信遮断班」
ヴァレンが言う。
「第三門の低級通信を遅延。今」
「了解。遅延開始」
帝都北部の低級魔導通信網に、ほんの小さな遅れが生じた。
三十秒。
たった三十秒。
だが、報告が上へ届くには十分に遅い。
固定警備の一人が腰の通信具を叩いた。
反応が悪い。
彼は眉をひそめ、もう一度叩く。
その瞬間、降下班一が動いた。
音はなかった。
一人が背後へ回る。
もう一人が膝裏を取る。
警備兵は倒れる前に支えられた。
口を塞がれ、首筋に針。
眠る。
殺さない。
倒さない。
そこに立っていたように見せかける。
支えた身体を壁際へ移し、荷袋を背負わせる。
酔った兵士が休んでいるように見える。
次の一人。
そして、三人目。
「固定三、無力化。殺傷なし」
管制官が読み上げた。
「巡回二、十二区画南の小火へ視線。戻りまで六十」
ヴァレンは短く言った。
「入れ」
◇
リジェスカは、水路の石を三つ触れた。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
内側から返ってきた三扉。
そのうち一つが、今、使われる。
排水口の奥で、金属が擦れる音がした。
小さい。
だが、確かに開いている。
内側の誰かが、渡した刃を使っている。
リジェスカは、鉄棒を水へ入れた。
外から引かない。
押さない。
ただ、重みを受ける。
格子が、わずかにずれた。
水が流れる。
黒い隙間が開く。
そこから、細い手が出た。
リジェスカはその手を掴んだ。
冷たい。
軽い。
子供ではない。
痩せた大人の手だ。
「引きます」
リジェスカは囁いた。
返事はない。
だが、手が握り返した。
降下班一の小柄な男が、横から支える。
背の低い女が布を広げる。
水路から、一人目が出た。
若い男だった。
髪は短く切られている。
耳は布で巻かれていた。
目だけが、ぎらぎらと生きていた。
彼は息を吸い、咳き込みかける。
背の低い女が口元を押さえた。
「声を出さない」
男は頷く。
その指が、濡れた石を叩いた。
短。
短。
長。
リジェスカは目を細める。
聞けるか。
彼もベルカ式符号を使える。
リジェスカは、男の手首へ指を置いた。
長。
短。
長。
肯定。
男の目が、大きく揺れた。
ベルン。
声にはならない唇の形。
同じだった。
「対象一、回収」
管制官の声が作戦指揮所に響いた。
「状態、衰弱。意識あり。ベルカ式確認符号に応答」
ヴァレンの目が、ほんのわずかに動いた。
「医療班へ渡せ」
「了解」
◇
貸与邸の地下小会議室では、リシアが息を止めていた。
見えているのは、名前のない表示だけだった。
対象一。
回収。
意識あり。
ベルカ式確認符号に応答。
それだけで、部屋の空気が変わった。
アインは何も言わない。
クラウディアも表情を変えない。
けれど、アリシアが目を伏せた。
ほんの一瞬。
祈りに似た沈黙だった。
「一人」
ステファニアが小さく言った。
「一人、出られたのですね」
「はい」
クラウディアが答える。
「ただし、作戦は継続中です」
その言葉が、喜ぶことを止めた。
まだ終わっていない。
一人出たということは、帝国側も気づく可能性が上がる。
扉が開いたということは、開いた跡が残る。
リシアは拳を握った。
「怖いまま、手順を守る」
さっきのアインの言葉を、胸の中で繰り返した。
◇
保管庫の内側で、警報はまだ鳴っていなかった。
だが、時間は減っている。
巡回二組が戻るまで、残り四十秒。
降下班一は、二つ目の扉へ向かう。
水路側の格子は一つ開いた。
残り二つ。
診療所三床。
保管庫側の対象不明。
移送準備中の灯。
全てを一度に救うことはできない。
だが、順番を間違えれば、誰かが死ぬ。
ヴァレンは指揮卓の前で、地図を見ていた。
「降下班一、二扉へ」
「医療班、対象一を馬車二へ。安定処置開始」
「降下班二、小火を畳め。巡回を戻しすぎるな」
「通信遮断班、遅延を十五秒に落とせ。長すぎると怪しまれる」
「商会支援班、馬車二はまだ動かすな。重さを変えるな」
指示が重なる。
動きが加速していく。
まだ、八咫烏は出ない。
まだ、帝都は気づいていない。
だが、夜の水路はもう静かではなかった。
二つ目の扉の向こうで、誰かが刃を使っている。




