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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第五十八夜 降下前夜

第五十八夜 降下前夜


 ローランド級特務艦の内部は、静かだった。


 静か、というより、余計な音がなかった。


 艦そのものは、帝都上空にはいない。


 低軌道のさらに外側、観測網の隙間を縫うようにして待機している。


 船体外殻は、ただの黒い岩塊のように偽装されていた。


 だが、その内側では、二十名ほどの情報指揮管制官が、薄い光を放つ卓を囲んでいた。


 簡易作戦指揮所。


 名称は簡易だった。


 実際には、帝都の水路、補給所、診療所、兵舎、工廠、巡回路、通信塔、魔導騎装格納区画の情報が、立体表示として重ねられている。


 誰かが声を荒げることはない。


 それでも、空気は張っていた。


 指揮卓の中央に立つのは、ハイランダーの作戦指揮官だった。


 名は、ヴァレン・シグルド。


 灰色の礼装めいた戦闘服を着ている。


 年齢は見た目では分からない。


 声は低く、よく通った。


「作戦段階を確認する」


 ヴァレンが言うと、管制卓の光が一段落ちた。


 全員の視線が、表示へ集まる。


「第一。地上内通路確保。担当、リジェナ、リジェスカ」


 帝都の地図上に、二つの細い光点が灯る。


 診療所。


 補給所裏水路。


「第二。外周雑音生成。担当、降下班二」


 工廠区の南側に、淡い円が現れる。


「第三。対象識別および搬出。担当、降下班一、医療班」


 診療所と廃棄物搬出口の間に、細い線が引かれる。


「第四。追跡遮断。担当、降下班三、商会支援班」


 水路、馬車道、屋根上の三経路が別々の色で示された。


「第五。魔導騎装出現時の対処」


 表示が一瞬だけ暗くなる。


 そして、艦内の別区画に格納されている黒い機影が、輪郭だけ浮かび上がった。


 八咫烏。


 ヴァレンはその表示を見た。


「殿下直接承認まで発進なし。作戦班は八咫烏を前提に動くな」


「了解」


 管制官たちが同時に答える。


 短い。


 揃っている。


 そこに熱はない。


 だが、熱がないから冷たいわけではなかった。


 全員が、何を救い、何を救えないかを知っている顔をしていた。


     ◇


 貸与邸の地下小会議室にも、同じ情報の一部が投影されていた。


 リシアたちが見られる範囲は制限されている。


 地上部隊の詳細位置。


 降下経路。


 艦の現在座標。


 それらは伏せられている。


 それでも、緊張だけは伝わってきた。


 アインは立ったまま、通信卓を見ている。


 クラウディアは隣で、ローランド級からの管制情報を受けていた。


 アリシアは椅子に座っていた。


 扇子は閉じている。


 リシア、ステファニア、セラは、その少し後ろ。


 部屋の空気は薄い。


 息を吸うたびに、胸の奥が冷える。


「殿下」


 クラウディアが言った。


「作戦指揮所より、段階確認要請」


「繋げ」


 壁面に、ヴァレンの姿が映る。


 膝をつくことはない。


 戦場の通信では、礼よりも時間が優先される。


 それでも、彼の背筋は真っ直ぐだった。


「ヴァレン・シグルド、作戦指揮に入ります」


「許可する」


 アインの声は低い。


「条件を再確認する」


「はい」


「対象の全生存者回収を優先。だが、全回収に固執して作戦班を失うな」


「承知」


「地上協力者を使い潰すな」


「承知」


「リジェナ、リジェスカの判断を軽視するな。二人は内側を見ている」


「最優先参照情報として扱います」


「魔導騎装が出るまで、八咫烏は出さない」


「作戦班にも通達済みです」


「出たら」


 アインの目が、わずかに細くなった。


「俺が行く」


 通信越しに、作戦指揮所の空気が一瞬だけ締まった。


「了解」


 ヴァレンが答える。


 それだけだった。


 けれど、その一語には、余計な確認がなかった。


 来るなら、勝つ。


 そういう前提がある声だった。


     ◇


 作戦指揮所では、カウントダウンが始まっていた。


 ヴァレンは中央卓へ視線を落とす。


「全班、最終同期」


 管制官の声が重なる。


「降下班一、装備確認完了」


「降下班二、雑音生成材確認完了」


「降下班三、追跡遮断具確認完了」


「医療班、携行安定具、輸血代替液、覚醒抑制薬、確認完了」


「商会支援班、偽装馬車三台、屋根上導線二、地下導線一、待機」


「水路班、刃到達確認済み。返り待ち」


「通信遮断班、帝都北部の低級魔導通信網へ干渉準備完了」


 ヴァレンは、一つずつ聞いた。


 急がせない。


 急がせれば、言葉が薄くなる。


 薄い言葉は、戦場で人を殺す。


「作戦開始まで、三百」


 管制官の一人が告げる。


 数字が表示された。


 三百。


 二百九十九。


 二百九十八。


 その数字の下で、地上実行部隊が動き始める。


     ◇


 帝都の夜は、雨の匂いがした。


 降ってはいない。


 だが、空が重い。


 リジェスカは水路の脇にいた。


 水路清掃補助員の服。


 泥のついた手袋。


 腰の道具袋。


 その中には、もう刃はない。


 刃は内側へ渡っている。


 今、待っているのは返りだった。


 水路の奥から、小さな音がした。


 こつ。


 こつ。


 一拍置いて。


 こつ。


 リジェスカは、顔を動かさなかった。


 手元の鉄棒を水へ入れる。


 泥を掻くふりをする。


 水面に、小さな木片が浮いた。


 昨日流したものとは違う。


 内側から返ってきた。


 リジェスカは、清掃具の網で泥を掬うふりをして、それを拾った。


 木片は、濡れていた。


 表面に、薄い傷がある。


 短。


 長。


 長。


 開く。


 さらに、裏に細い刻み。


 三。


 人ではなく、扉の数。


 リジェスカは木片を袖の内側へ落とした。


 返りあり。


 内側から、三つ開けられる。


     ◇


 診療所では、リジェナが洗濯籠を抱えていた。


 今日は奥へ入れない。


 看護女が変わっていた。


 昨日の女ではない。


 新しい看護女は、目が細く、動きが硬い。


 監視役に近い。


 リジェナは、それを見ただけで判断した。


 移送が近い。


 灯の一つが動く。


 誰かを連れ出す前に、余計な目を増やしたのだ。


「今日はここまででいい」


 看護女が言った。


「奥の布は」


「こちらでやる」


「はい」


 リジェナは下がる。


 抵抗しない。


 抵抗すれば、臨時手伝いではなくなる。


 扉の向こうから、かすかな咳が聞こえた。


 老人のものではない。


 若い女。


 苦しそうだが、意識はある。


 リジェナは籠の持ち手を握った。


 指先が、短く、長く、短く動きかける。


 止める。


 今は合図を送る場面ではない。


 ただ記録する。


 看護女変更。


 奥への出入り制限。


 移送準備可能性、高。


     ◇


 作戦指揮所に、二つの情報がほぼ同時に入った。


「水路班より返りあり。三扉開放可能」


「診療所班より、監視看護女変更。奥への出入り制限。移送準備可能性、高」


 管制官の声が重なる。


 別の管制官が即座に表示を更新した。


 水路経路の一部が緑に変わる。


 診療所奥の表示が黄色から橙へ変わる。


「対象移送想定、前倒し」


「帝都北部巡回、通常より二割増」


「補給所第三門に灯り。夜間搬出準備の可能性」


 ヴァレンは静かに聞いていた。


 顔色は変わらない。


「降下班一、経路を水路優先へ変更」


「了解。水路優先」


「医療班、診療所奥の三床を最優先確認。老人は搬送困難を想定。若い女、子供、別枠技能者の識別を急げ」


「了解」


「降下班二、雑音生成を十二区画南へ移動。補給所第三門の視線をそちらへ振れ」


「了解」


「降下班三、屋根上経路を一つ捨てる。水路出口へ二名回せ」


「了解」


 指示が出るたびに、管制官が別の班へ繋ぐ。


 同じ部屋の中で、二十の声が重なった。


 しかし、混ざらない。


 それぞれの声は、担当する班へだけ届く。


「降下班一、経路変更。水路優先。合図は三扉」


「医療班、老人搬送困難想定。担架を軽量型へ変更」


「通信遮断班、補給所第三門の低級通信を三十秒遅延させろ」


「商会支援班、偽装馬車二を水路出口へ寄せる。表向きは壊れた車軸の修理」


「降下班二、十二区画南で小火。燃やしすぎるな」


 ヴァレンは全体を見ていた。


 ハイランダーである彼が地上へ降りれば、たぶんもっと早い。


 だが、早さだけで救えるものではない。


 強すぎる手は、狭い器を割る。


 今回の器は、帝都の水路と、診療所の寝台と、拘束された家族たちだった。


 だから彼は、ここにいる。


 剣ではなく、指揮卓の前に。


「作戦開始まで、百二十」


 数字が進む。


 百十九。


 百十八。


 百十七。


     ◇


 貸与邸の地下小会議室では、リシアが拳を握っていた。


 見えている情報は制限されている。


 それでも、数字は見える。


 作戦開始までの残り時間。


 百を切った。


 セラは立ったまま、じっと表示を見ている。


 ステファニアは、膝の上で両手を重ねていた。


 祈りではない。


 震えを抑えるためでもない。


 自分の手が何をしているかを、確かめているように見えた。


「怖いです」


 リシアは、小さく言った。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 アインが答えた。


「怖くていい」


 リシアは彼を見る。


「怖くない作戦は、だいたい嘘だ」


 アインの視線は表示から動かない。


「怖いまま、手順を守る。怖いまま、余計なことをしない。怖いまま、必要な時に動く」


 それは、誰に言っているのだろう。


 リシアにか。


 セラにか。


 それとも、自分自身にか。


 アリシアが静かに言った。


「アイン様」


「分かっている」


 アインは短く返した。


 八咫烏は、まだ出ない。


 けれど、もう眠ってはいない。


     ◇


 作戦指揮所で、ヴァレンが右手を上げた。


 全ての声が、一瞬だけ低くなる。


「最終確認」


 管制官たちが順に答える。


「降下班一、準備完了」


「降下班二、準備完了」


「降下班三、準備完了」


「医療班、準備完了」


「商会支援班、地上待機」


「水路班、返り確認済み」


「通信遮断班、干渉待機」


「八咫烏、搭載区画にて待機。発進承認なし」


 ヴァレンは頷いた。


「作戦開始まで、十」


 数字が大きく表示される。


 十。


 九。


 八。


 ローランド級の底部で、降下筒が静かに開いた。


 七。


 六。


 黒い小型降下殻が、光を飲むように並ぶ。


 五。


 四。


 地上では、ベルン商会の偽装馬車が車軸を外したふりをして止まった。


 三。


 水路では、リジェスカが鉄棒を握り直した。


 二。


 診療所では、リジェナが洗濯籠を抱え直した。


 一。


 ヴァレンの声が落ちた。


「作戦開始」


 降下殻が、音もなくローランド級から離れた。


 夜の帝都へ向けて、黒い点が落ちていく。


 まだ誰も、空を見上げていなかった。


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