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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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幕間十 刃を流す

幕間十 刃を流す


 帝都の水路は、朝より夜の方がよく喋る。


 昼間は荷車の音、工廠の槌音、兵士の怒鳴り声に潰されてしまう小さな水音が、夜になると石壁の間で細く伸びる。


 どこかで水が落ちる。


 どこかで溜まる。


 どこかで詰まる。


 そして、どこかで、人が捨てたものを運ぶ。


 リジェスカは、北工廠区第三補給所の裏にある排水口の前で膝をついていた。


 手には、長い鉄棒。


 先端には鉤。


 服は、廃材搬出記録の臨時書記ではない。


 今日は、水路清掃の補助員である。


 手袋を替えるのは、もう二度目だった。


 水路清掃の補助員は、誰からも好かれない。


 臭い。


 汚い。


 近づきたくない。


 だからこそ、使える。


「詰まってるのは奥だ」


 隣の清掃人が言った。


 帝都支店が手配した本物の清掃人だった。


 裏の事情は知らない。


 知らないが、金を受け取り、仕事をする。


 それで十分だった。


「昨日から流れが悪い。工廠の連中は何でも流しやがる」


「番号札のない廃材も、ですか」


 リジェスカが何気なく言う。


 清掃人は笑った。


「番号札なんぞ、水路の中じゃ役に立たん」


「そうですね」


 リジェスカは、鉄棒を排水口へ差し込んだ。


 水が冷たい。


 泥が重い。


 奥で何かが引っかかる。


 ただのゴミではない。


 格子。


 新しい鉄。


 外側から外すには音が出る。


 内側からなら、静かに外せる可能性がある。


 問題は、内側へ何を渡すかだった。


 刃。


 武器ではない。


 小さな切削具。


 針より少し太く、爪より短い。


 硬い。


 よく切れる。


 拘束具の革紐、薄い固定帯、格子の補助留めを切るための道具。


 殺すための刃ではなく、開けるための刃だった。


 リジェスカは、腰の道具袋から小さな木片を取り出した。


 ただの詰まり取り用の楔に見える。


 中は空洞。


 その中に、刃が入っている。


 水に沈みすぎず、浮きすぎず、流れに乗るよう重さを調整してある。


 これを流す。


 ただし、誰に届くか分からないまま流してはいけない。


 先に合図がいる。


     ◇


 同じ頃、リジェナは診療所の奥の洗い場にいた。


 今日も洗濯場の臨時手伝いである。


 昨日と違うのは、洗った布を戻す側に回されたことだった。


 汚れた布を受け取るより、洗った布を返す方が奥へ近づける。


 そして、奥へ近づくほど危険になる。


 リジェナは清潔な上掛けを畳み、籠に入れる。


 白い布。


 白く見えるように洗われた布。


 だが、完全には落ちないものがある。


 薬の匂い。


 古い汗。


 長く閉じ込められた人間の体温。


 奥の扉の前で、看護女が鍵を出した。


「中を見るなよ」


「はい」


 リジェナは素直に頷いた。


 見るなと言われた時、見ようとする者は素人である。


 見ないで把握する。


 それが仕事だった。


 扉が開く。


 空気が変わった。


 熱がある。


 薬が濃い。


 そして、水が足りない。


 リジェナは籠を抱えて中へ入った。


 目線は低く。


 寝台の高さ。


 床の汚れ。


 足の位置。


 看護女の動き。


 老人は、昨日と同じ寝台にいた。


 耳は布で隠されている。


 顔色は悪い。


 だが、目は開いていた。


 リジェナは上掛けを一枚、若い女の寝台へ置く。


 次に、子供の寝台へ。


 最後に老人の寝台へ。


 布を広げる。


 指先が、ほんの一瞬だけ老人の手に触れた。


 乾いている。


 熱い。


 老人の目が、リジェナを見た。


 リジェナは何も言わない。


 ただ、上掛けの端を整えるふりをして、老人の手の甲へ指先を触れた。


 音ではない。


 触れている時間の長さだった。


 すぐ離せば短。


 一拍置いて離せば長。


 古いベルカの確認符号は、声を出せない場所で使うためのものだった。


 短。


 短。


 長。


 ベルカ式の古い確認符号。


 あなたは聞けるか。


 老人の瞳が、ほんのわずかに揺れた。


 返事はない。


 看護女がこちらを見ている。


 リジェナは顔を上げず、布の皺を伸ばした。


 その時、老人の指が動いた。


 寝台の端に、指先を置く。


 叩くのではない。


 置き、離す。


 その間隔を変えている。


 短。


 長。


 短。


 聞こえる。


 リジェナは、胸の奥で息を止めた。


 表には出さない。


 出せば終わる。


「終わったら早く出なさい」


 看護女が言った。


「はい」


 リジェナは籠を抱える。


 その時、老人の唇が少しだけ動いた。


 声にはならない。


 けれど、形は読めた。


 ベルン。


 リジェナは、何も答えなかった。


 ただ、退室する直前に籠の縁を一度だけ鳴らした。


 長。


 短。


 長。


 肯定。


 扉が閉まった。


 鍵がかかる。


 その瞬間、リジェナはようやく呼吸を戻した。


 接触成功。


 ただし、相手は弱っている。


 長い会話はできない。


 道具を渡すなら、今夜か明日。


 遅れれば、灯の一つが移る。


     ◇


 リジェスカは、水路の前で待っていた。


 待つことも仕事のうちである。


 清掃人は悪態をつきながら、別の排水口を突いている。


 兵士は退屈そうに壁へ寄りかかっている。


 誰も、汚水の流れを長く見ようとはしない。


 リジェスカだけが、見ないふりをして流れを読んでいた。


 水量は低い。


 人は流せない。


 箱も無理。


 木片ならいける。


 ただし、途中で沈めば終わり。


 格子の手前で止まれば、清掃人に拾われる。


 格子の向こうへ届いても、内側の者が拾えなければ意味がない。


 合図が必要だった。


 診療所側からの返りがなければ、流さない。


 その時、廃材置き場の方から小さな物音がした。


 木箱が倒れる音。


 一度。


 二度。


 少し間を置いて、三度。


 リジェナからの合図だった。


 接触成功。


 相手は聞ける。


 リジェスカは、鉄棒を引き上げた。


「奥の詰まり、少し動きました」


 清掃人へそう言う。


「なら流せ」


「はい」


 リジェスカは、道具袋から木片を取り出す。


 水に落とす。


 小さな音。


 木片は一度沈みかけ、すぐに浮いた。


 流れに乗る。


 速すぎない。


 遅すぎない。


 リジェスカは、目で追わない。


 追ってはいけない。


 だが、耳で聞く。


 水音。


 格子に当たる音。


 止まる音。


 そして。


 こつ。


 内側から、何かが触れた。


 次の瞬間、木片の音が消えた。


 拾われた。


 リジェスカは、泥のついた手袋を見下ろした。


 手袋の内側で、指先がわずかに熱を持っている。


 成功。


 ただし、これで危険は増えた。


 刃を渡したということは、内側の者が動けるということだ。


 動ける者は、見つかる。


     ◇


 夕刻前、帝都支店へ戻ったリジェナは、地下通信室で短く報告した。


「接触成功」


 エルンストの顔から、商人の笑みが消えた。


「相手は」


「老人。ベルカ式確認符号に応答。ベルンの名を読唇で確認」


「村山技研の」


「確定はできません」


 リジェナは即座に止めた。


「ただし、可能性は高い」


 リジェスカも報告する。


「刃は内側へ到達。水路経由。拾得音を確認」


 ニルスが息を呑んだ。


 すぐに口を押さえる。


 若い。


 それでも、声を出さなかっただけ十分だった。


「移送は」


 エルンストが問う。


「明日、灯の一つが動く可能性が高い」


 リジェスカが答える。


「補給所側の搬出表に、明朝分の臨時護送枠が追加されていました。名目は東方戦線向け特殊部材の技術監督」


「人を部材扱いですか」


 ニルスが低く言った。


 エルンストが目だけで制する。


 怒るのは後でよい。


 今は、書く。


「どの灯が動く」


「不明」


 リジェナは答えた。


「ただし、老人ではない可能性が高い。水分不足と衰弱が強く、移送対象としては不安定です」


「若い女性か、子供か、別枠の技能者」


 リジェスカが続ける。


「補給所側の会話では、動かせる者だけでよい、と言っていました。診療所の三床以外にも、保管庫側に動ける対象がいる可能性があります」


「救出に移るべきですか」


 ニルスが思わず言った。


 リジェナは首を横に振る。


「まだです」


「ですが、明日移るなら」


「だから、まだです」


 声は柔らかい。


 けれど、切るように明確だった。


「今動けば、明日移る一つ以外を失う可能性が高い。刃は内側へ入りました。次は、内側から何が返るかを待ちます」


 エルンストが深く頷いた。


「通信文は」


 リジェスカが書いた。


 水門の鍵、形を確認。


 灯の一つ、明日移る。


 泥、靴を履いた。


 流すものは、人ではなく刃。


 刃、水を渡る。


 耳ある者、ベルンを読む。


 返りを待つ。


 リジェナが読み、最後の二行を指で押さえた。


「ここは削りましょう」


「接触成功を送らないのですか」


 ニルスが問う。


「送ります。ただし、接触対象が読めるほどの情報は入れません」


 リジェナは文面を直す。


 刃、水を渡る。


 返りを待つ。


 それで十分だった。


 エルンストは送信前に確認した。


「殿下は、これで分かりますか」


「はい」


 リジェスカが答えた。


「分かりすぎるくらいに」


     ◇


 通信が走った後、帝都支店はいつも通り閉店作業をした。


 棚を拭く。


 帳簿を閉じる。


 香草を布で覆う。


 表の仕事は、明日も続く。


 続くように見せなければならない。


 リジェナは裏口の鍵を確認しながら、ふと空を見上げた。


 帝都の空は狭い。


 屋根と煙と壁に切り取られている。


 その向こうに、アークライトがある。


 ローランド級が動き、八咫烏が眠りから起こされつつある。


 それを知っているのは、ここでは彼女たちだけだ。


「リジェナ」


 リジェスカが声をかけた。


「はい」


「明日は、もっと狭くなります」


「ええ」


「無理は」


「しません」


 二人は同じ言葉を、何度も確認する。


 それは臆病だからではない。


 最も難しい命令だからだ。


 屋根の向こうで、遠く鐘が鳴った。


 帝都の夜が降りる。


 水路の中では、小さな刃が、もう誰かの手に渡っている。


 リジェナは、目を閉じた。


 水を求めた老人の唇が、頭に残っている。


 ベルン。


 あの老人は、その名を読んだ。


 ならば、まだ諦めていない。


 こちらも、諦めない。


 ただし、まだ押さない。


 刃は渡った。


 次は、内側から返る番だった。


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