第五十七夜 旗の立つ場所
第五十七夜 旗の立つ場所
帝都支店からの報告を読んだ翌朝、貸与邸の食堂には、いつもより少し重い静けさがあった。
帝都の水路。
診療所の奥。
銀髪の老人。
村山系フレーム材。
移送の兆候。
そのどれもが、リシアの頭の中でまだ形を結びきらずに残っている。
けれど、学院の朝は来る。
講義はあり、出席は必要で、昼食の時間も決まっている。
遠い帝都で誰かが水を求めていても、ここでは学生が廊下を歩き、教官が黒板に文字を書き、貴族の子女たちは今日の噂を交わす。
その断絶が、リシアには少し苦しかった。
「リシア」
アインが声をかけた。
「はい」
「全部を同じ手で掴もうとするな」
リシアは、手元の茶器を見た。
無意識に、強く握っていたらしい。
「帝都で起きていることも、学院で起きることも、繋がってはいる。だが、同じ場所ではない」
アインは淡々と言う。
「今ここで、お前が帝都の扉を蹴破ることはできない」
「はい」
「なら、ここでできることをやれ」
リシアは息を吸った。
できること。
見て、覚えて、記録する。
アリシアが昨日、セラへ言ったことでもある。
「学院側も、今日から少し騒がしくなりますわ」
アリシアが、湯気の立つ紅茶へ視線を落とした。
まるで天気の話をするような声だった。
「なぜ分かるのですか」
ステファニアが問う。
「ジークフリート殿下が、ご自分の名で動く者の言葉を自分が受け取る、と仰ったからです」
「それは、良い変化では」
「ええ。良い変化です」
アリシアは微笑む。
「ですが、旗を立てていた者たちにとっては、足場が揺れる言葉ですわ」
旗。
リシアは、その言葉に引っかかった。
「旗とは」
「本人の意思より先に掲げられるものです」
アリシアは扇子を開かず、指先だけで柄を撫でた。
「ジークフリート殿下のため。王家のため。婚約者のため。学院の秩序のため。そういう名で掲げられた旗は、掲げた本人の都合を隠してくれます」
ステファニアの表情が、少し硬くなった。
「では、昨日の言葉で、そうした旗が下ろされるのではないですか」
「素直な者は下ろします」
アリシアの目が、楽しげに細くなる。
「下ろせない者は、旗を大きくします」
セラが真顔で言った。
「大きくなった旗は、切りやすいですか」
「セラ」
ステファニアがたしなめる。
アインは茶を飲みながら答えた。
「風を受けやすくなる」
「なるほど」
セラは納得した顔をした。
それはたぶん、納得してよい種類の話ではなかった。
◇
学院本館へ向かう途中で、リシアはアリシアの言葉を理解した。
視線の質が、また変わっていた。
昨日までの視線は、探るものだった。
今日は、分かれている。
ジークフリートの言葉を受けて口を慎む者。
逆に、何かを言いたくて仕方がない者。
ステファニアへ同情を向ける者。
ジークフリートへ同情を向ける者。
そして、その両方を材料として数えている者。
リシアの首飾りが、注視の密度を淡く示す。
彼女は表示を絞った。
すべて拾えば、また見失う。
「リシア様」
セラが隣で小さく言った。
「はい」
「今日は、いつもより人が固まっています」
言われて、リシアは廊下の奥を見た。
確かに、数人ずつの小さな輪ができている。
王都貴族家の令嬢たち。
騎士家の子息たち。
神殿系の学生。
普段ならそれぞれ別に動くはずの顔ぶれが、半歩だけ近い。
会話は聞こえない。
けれど、こちらを見た瞬間に話が止まる。
それだけで十分だった。
「旗が立ち始めましたわね」
アリシアが言った。
声は明るい。
怖いほどに。
◇
午前の講義が終わる頃、最初の旗が形を持った。
授業後の廊下で、ミリア・セルヴィンが待っていた。
今日は一人ではない。
隣に、神殿系の学生エリオット・ヴァルナーがいる。
さらに少し後ろには、王都貴族家の子息と令嬢が二人。
礼は正しい。
だが、人数が正しくない。
リシアはすぐにそう感じた。
「レーヴェンハイト様」
ミリアが言った。
声はいつもより硬い。
「少し、お時間をいただけますか」
ステファニアは足を止める。
「用件を先に伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
ミリアは一度だけ息を吸った。
「ジークフリート殿下の周囲で、言葉の扱いについて誤解が広がっております。そのため、学院内で小さな意見交換の場を設けられないかと」
リシアは、胸の中で警戒を一段上げた。
意見交換。
柔らかい言葉だ。
柔らかい言葉ほど、置く場所を間違えると危ない。
「どなたのご提案ですか」
ステファニアが問う。
「私です」
ミリアはすぐに答えた。
そこは、以前より明確だった。
「殿下からのご依頼ではありません」
「では、殿下は」
「まだお伝えしていません」
アリシアの扇子が、ぱちりと閉じた。
開いていなかったはずなのに、いつの間にか開いていたらしい。
リシアは少しだけ肩を強張らせた。
「セルヴィン様」
アリシアの声は優しかった。
「なぜ、殿下へお伝えする前に、こちらへ?」
ミリアは目を伏せた。
「殿下へ先にお伝えすると、殿下はご自身の責任として処理なさろうとすると思いました」
「よいことではありませんの?」
「よいことです。ですが」
ミリアは言葉を選んでいる。
選びながら、苦しんでいる。
「殿下がすべてを引き受ける形になれば、周囲はまた、殿下に甘えると思います」
リシアは、少し意外に思った。
ミリアは続ける。
「殿下の周囲で、殿下の名を使って語った者たちが、自分の言葉として扱われる場が必要です」
それは、以前のミリアなら言わなかったかもしれない言葉だった。
彼女もまた、変わろうとしている。
ただし。
だからといって、危険が消えるわけではない。
「その場に、私を置く理由は何ですか」
ステファニアが問う。
ミリアは顔を上げた。
「あなたが、もっとも言葉を受けた方だからです」
「つまり、受けた側として出席せよ、ということですか」
ミリアが一瞬、言葉に詰まる。
エリオットが静かに口を開いた。
「それは危ういですね」
ミリアが彼を見る。
「ヴァルナー様」
「被害を受けた側を場に置くことで、場の正当性を補強する形になります」
エリオットは淡々と言った。
「意図が善意であっても、構造としては危険です」
アリシアが満足そうに微笑んだ。
「よくお分かりですこと」
エリオットは軽く頭を下げた。
「資料を扱う者として」
ミリアの顔が青ざめた。
「私は」
「分かっています」
ステファニアが言った。
「あなたが、私を盾にしようとしたのではないことは」
ミリアの表情が少し揺れる。
「ですが、盾になってしまう配置でした」
「はい」
ミリアは小さく頷いた。
リシアはそのやり取りを見ながら、胸の奥に不思議な痛みを覚えた。
責められているのではない。
間違いを、間違いとして置かれている。
その方が、時にずっと痛い。
「場を設けるなら」
アリシアが言った。
「まず発言者ごとに、自分の発言を自分の名で書き出すところからですわ」
「書き出す」
ミリアが繰り返す。
「ええ。誰のため、という旗はいりません。殿下のため、王家のため、婚約者のため、学院のため。そのような旗を下ろして、私はこう考えた、と書くのです」
アリシアは、にこりと笑った。
「その紙を読める者だけが、場へ出ればよろしい」
廊下が静かになった。
後ろにいた王都貴族家の令嬢が、わずかに目を逸らす。
旗を下ろす。
それは、思ったより難しいことなのだと、リシアはその反応で理解した。
「分かりました」
ミリアが言った。
「まず、私自身の言葉を書きます」
「それがよいと思います」
ステファニアが答えた。
「そのうえで、必要なら読みます。ただし、私がその場に出るかどうかは別です」
「はい」
ミリアは深く礼をした。
「ありがとうございます」
彼女たちは去っていった。
アリシアは、その背を見送りながら言った。
「あの方は、まだ戻れますわね」
リシアは少しだけほっとした。
しかし、アリシアの次の言葉で、その安堵は小さく固まった。
「問題は、戻る気のない旗です」
◇
昼食の時間、戻る気のない旗は別の場所で立っていた。
食堂の窓際。
ジークフリート本人から少し離れた席に、騎士家の子息たちが集まっている。
中心にいるのは、オスカーではない。
背の高い、金茶の髪の青年だった。
名は、ラディム・クライン。
王都近衛に縁を持つ騎士家の嫡男だと、首飾りの簡易表示が教えてくれる。
ラディムは、リシアたちが食堂へ入ると、わざとらしく声を落とした。
落としたのに、聞こえる。
そういう声だった。
「殿下が寛大であられるからといって、周囲まで頭を下げ続ける必要はあるまい」
リシアの足が止まりかけた。
セラの視線が、すっと動く。
一呼吸。
ちゃんと一呼吸。
ステファニアは歩みを止めなかった。
アリシアも止まらない。
リシアも続いた。
ラディムの声は、さらに続く。
「婚約者とは、隣に立つ者だ。殿下を教導する者ではない」
周囲の数人が、曖昧に笑った。
その笑いが、食堂の空気に薄く広がる。
ジークフリートが顔を上げた。
距離がある。
聞こえただろうか。
聞こえなかったのか。
聞こえたとして、すぐに動けるのか。
リシアは迷った。
その時、オスカーが立ち上がった。
「クライン」
声は大きくない。
だが、よく通った。
「その言葉は、誰の名で言っている」
食堂が静まった。
ラディムが顔を上げる。
「何だ、ベルトラン」
「殿下の名か。騎士家の名か。それとも、お前個人の名か」
リシアは息を呑んだ。
オスカーが、前へ出た。
昨日、ステファニアから記録に残る形で伝えるよう助言された彼が。
今日は、食堂の中で言葉を止めている。
「大げさな」
ラディムは笑った。
「皆、同じことを思っている」
「皆とは誰だ」
オスカーの問いは短い。
「殿下の周囲にいる者なら」
「私は違う」
静かな否定だった。
ラディムの顔がわずかに強張った。
「殿下は昨日、自分の名で動く者の言葉は自分が受け取ると仰った」
オスカーは言った。
「ならば、殿下の名を使うな。騎士家の名を使うな。言うなら、ラディム・クライン個人の言葉として言え」
食堂の空気が、さらに冷えた。
ジークフリートが立ち上がる。
アルヴィンが、その一歩後ろで動いた。
だが、最初に口を開いたのはステファニアだった。
「ベルトラン様」
オスカーがこちらを見る。
「はい」
「ありがとうございます」
ステファニアは静かに礼をした。
「ですが、その言葉は、あなたご自身の線として記録いたします」
オスカーは一瞬、驚いた顔をした。
すぐに、深く頭を下げる。
「承知しました」
それは、オスカーへの救いでもあった。
彼の言葉を、ジークフリートの言葉にしない。
騎士家全体の言葉にもしない。
オスカー・ベルトランの言葉として置く。
ラディムが舌打ちしかけた。
だが、その前にジークフリートが近づいてきた。
「クライン」
声は硬い。
「今の言葉は、私が託したものではない」
「殿下、私は」
「私のためと言うなら、まず私の言葉を聞け」
ラディムが黙った。
ジークフリートの顔には、怒りよりも苦さがあった。
彼は、ステファニアへ向き直る。
「また負担をかけた」
「殿下」
ステファニアは首を横に振った。
「今の言葉は、クライン様のものとして記録します」
「それでも、私の周囲で起きた」
「はい」
「受け取る」
短い言葉だった。
だが、昨日よりも少しだけ早かった。
リシアはそれを見て、思った。
戻り道を歩くことは、きっとこういうことなのだ。
一度言えば終わりではない。
何度も、周囲が立てる旗を自分の手で下ろさなければならない。
そのたびに、人は疲れる。
それでも、下ろさなければ旗は勝手に大きくなる。
◇
午後の講義が終わる頃には、食堂での出来事はもう学院中に広がっていた。
ただし、形は一つではない。
オスカーがジークフリート側の騎士家を批判した。
ジークフリートがクラインを叱責した。
ステファニアがベルトランを取り込んだ。
リシアたちが王子周辺を分断している。
話は、語る者の都合で形を変える。
リシアは、首飾りの表示を見ながら、少しめまいを覚えた。
速い。
噂の流れが、以前より速い。
それはたぶん、言葉の所有者を問われ始めたからだ。
誰の言葉かと問われたくない者ほど、急いで別の名前へ混ぜようとする。
「リシア」
アインが隣で言った。
「流れを止めようとするな」
「はい」
「分岐点を見ろ」
「分岐点」
「どこで意味が変わったかだ」
リシアは表示を絞る。
発言者。
場所。
最初に足された意味。
誰の名前が使われたか。
誰が沈黙したか。
少しずつ、見え方が変わる。
噂の海ではない。
細い糸の束だ。
帝都の水路と同じように、学院の言葉にも流路がある。
「見えました」
リシアは小さく言った。
アインが頷く。
「なら、記録しろ」
「はい」
◇
貸与邸へ戻ると、クラウディアはすでに食堂での出来事を整理していた。
「本日の学院側事象」
端末上に、三つの見出しが並ぶ。
自主的意見交換提案。
騎士家内発言衝突。
周囲発言の拡散速度上昇。
「セルヴィン様の提案は、改善傾向と危険構造が同居しています」
クラウディアが言った。
「自分の言葉として提案した点は改善。被害を受けた側を場の正当性に使いかけた点は危険」
ミリアの顔が、リシアの頭に浮かぶ。
戻れそうな人。
けれど、間違える人。
「クライン様は」
ステファニアが問う。
「戻る意思は現時点で確認不能。旗の拡大傾向あり」
クラウディアは淡々と答える。
「本人の発言を、殿下のため、騎士家のため、皆の意見、という複数の旗で覆っています」
「ベルトラン様は」
「個人名で線を引いた点は評価。ただし、今後クライン側から騎士家内対立として利用される可能性があります」
リシアは、胸が重くなった。
誰かが正しいことを言っても、それがまた別の旗にされる。
言葉は、本当に面倒だ。
「面倒ですわね」
アリシアが楽しそうに言った。
リシアは思わず見た。
「楽しそうです」
「楽しいですわ」
アリシアは悪びれない。
「旗は、立てた者の癖が出ますもの」
「癖」
「ええ。誰が何を隠したいのか。誰の名を借りたいのか。誰を盾にしたいのか。旗を見れば分かります」
アリシアは扇子を広げた。
「そして、大きくなった旗ほど、畳む時に音がします」
リシアは、少しだけ背筋が冷えた。
アリシアは、もう先を見ている。
リシアには、その先に何があるのかまでは分からない。
けれど、何か大きな場へ向かっていることだけは分かった。
その時、低い通知音が鳴った。
クラウディアの端末である。
室内の空気が一瞬で変わった。
学院の話から、帝都へ。
クラウディアが通信を開く。
短い文面だった。
水門の鍵、形を確認。
灯の一つ、明日移る。
泥、靴を履いた。
流すものは、人ではなく刃。
リシアは、言葉の意味を理解できなかった。
けれど、最後の一文だけは、胸に刺さった。
人ではなく刃。
「クラウ」
アインが呼んだ。
「はい」
「訳せ」
クラウディアは短く頷いた。
「脱出路に必要な鍵の形状、または解除手段を確認。三対象群のうち一つが明日移送される可能性。監視側は移送準備を開始。水路で流すべきものは人員ではなく、内側から格子または拘束具を切るための工具、もしくは小型刃物」
セラの拳が握られた。
ステファニアが息を呑む。
リシアは、自分の指先が冷たくなるのを感じた。
「明日」
アインが呟く。
「はい」
クラウディアの声は平坦だった。
「猶予が短縮されました」
アインは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして開く。
「ローランド級の待機位置を上げろ」
「承知しました」
「八咫烏は」
「搭載済み。起動前点検中です」
「待機を一段上げる」
「はい」
リシアは、そのやり取りを聞きながら、学院で見た旗のことを思い出していた。
本人より先に立つ旗。
人の名を借りる旗。
けれど、帝都ではもう、旗など立てている時間はない。
水路に流すのは、人ではなく刃。
誰かが、自分の内側から扉を開けるための刃。
リシアは記録板を開いた。
今日、学院では旗が立った。
帝都では、刃を流す準備が始まった。
その二つは、別々の出来事ではない。
どちらも、誰かが自分の名前で立つための準備なのだと、リシアは思った。




