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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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幕間九 水路の灯

幕間九 水路の灯


 帝都の朝は、白く濁っていた。


 霧ではない。


 工廠区から流れてくる煤と、川面から上がる湿気と、人の息が混じったものだ。


 石畳はまだ乾ききっておらず、馬車の車輪が通るたびに薄い泥が跳ねる。


 その泥を避けるようにして、リジェナは洗濯籠を抱えて歩いていた。


 くすんだ青の外套は、今は着ていない。


 代わりに、帝都の洗濯場で働く女たちと同じ粗い布の上着を着ている。


 髪は布で覆い、頬には少しだけ赤みを足した。


 薬材商の医療補助員リーナではない。


 今日は、軍指定診療所へ出入りする洗濯場の臨時手伝いである。


 手袋を替えた。


 それが、昨夜アークライトへ送った符丁の意味だった。


 リジェナは、籠の中身を一度だけ指先で確かめた。


 汚れた包帯。


 寝台用の布。


 診療所の職員用上着。


 そして、布の縫い目に隠した細い記録片。


 洗濯物はよく喋る。


 血の色。


 薬の匂い。


 汗の塩分。


 洗われる頻度。


 誰がどの寝台を使い、誰がどれだけ動けるのか。


 帳簿に残らないものほど、布には残る。


 診療所の裏口には、兵士が二人いた。


 軍指定とはいえ、表向きは工廠区労働者と兵士の治療施設である。


 重病人を隠す場所には見えない。


 見えないようにしている。


「洗濯場か」


 兵士が声をかけた。


「はい。西洗濯場からです」


 リジェナは、少しだけ息を弾ませて答えた。


 重い籠を運んできた女の呼吸。


 疲れすぎず、元気すぎず。


 兵士は籠の中を棒で突いた。


 布が乱れる。


 リジェナは眉を下げた。


「あの、薬液が漏れると手が荒れますので」


「なら早く持っていけ」


「はい」


 門が開く。


 リジェナは頭を下げ、裏口を通った。


 中は薬の匂いがした。


 消毒液。


 軟膏。


 古い血。


 熱を持った人間の息。


 そのすべてが、薄く混じっている。


 廊下を進みながら、リジェナは視線を上げない。


 下働きは、必要以上に周囲を見ない。


 けれど、見ないことと、把握しないことは違う。


 床の傷。


 壁際の車輪跡。


 薬品棚の鍵。


 奥の扉だけ新しい蝶番。


 廊下の曲がり角で、看護女が一人、籠を受け取りに来た。


「遅いわ」


「すみません。門で止められて」


「全部、奥の洗い場へ」


「はい」


 奥。


 リジェナは、返事だけをして歩き出した。


 奥へ行ける。


 それだけで、今日の収穫は半分あった。


     ◇


 同じ頃、リジェスカは北工廠区第三補給所の脇にいた。


 帳簿整理員レスカではない。


 今日は、廃材搬出記録を照合する臨時書記である。


 灰色の上着。


 革紐でまとめた髪。


 手には、木板に挟んだ搬出表。


 廃材置き場には、鉄屑と割れた木箱と、使い潰された魔石管が積まれていた。


 匂いは悪い。


 油。


 焦げた金属。


 腐りかけた革。


 そして、隠したいものを廃材に紛れさせる者の匂い。


「次」


 補給所の係官が、面倒そうに言った。


「第三荷車。破損フレーム材、固定具、空薬瓶。数量照合」


 リジェスカは読み上げる。


 荷車の御者が、焦れた顔で足を鳴らした。


「早くしてくれ。今日は西門が詰まってる」


「数量が合わなければ、戻されます」


「廃材だぞ」


「廃材にも番号があります」


 リジェスカは表情を変えずに答えた。


 係官が鼻で笑う。


「帳簿屋は細かいな」


「帳簿が細かいのです」


「言うじゃないか」


 軽口に見せかけて、相手は試している。


 新顔の臨時書記。


 どこまで黙るか。


 どこで怯むか。


 リジェスカは、少しだけ肩をすくめた。


 帝都の下働きが見せる程度の疲れ。


 それ以上は足さない。


「固定具、八。空薬瓶、十二。破損フレーム材、五」


 読み上げながら、荷車を見る。


 破損フレーム材。


 帝国機の標準材ではない。


 混じっている。


 古い癖のある曲げ。


 軽量化のために抜かれた内側の処理。


 表面だけを見れば粗悪な破片だ。


 けれど、リジェスカは知っている。


 村山フレームに似ていた。


 似せているのではない。


 作った者が、同じ設計思想を持っている。


 リジェスカは、記録板に五と書いた。


 そして、その横に、目には見えないほど小さな点を打つ。


 五ではない。


 五の中に、一つ、別のものがある。


 そういう印だった。


     ◇


 診療所の奥の洗い場は、思ったより狭かった。


 壁際に大きな桶が三つ。


 湯を沸かす炉。


 薬液の瓶。


 窓は高く、鉄格子が嵌められている。


 リジェナは洗濯物を分けながら、桶の水面を見る。


 水は濁っていた。


 血と膿と薬液。


 そして、熱病ではない人間の汗。


 看護女が奥の扉へ消える。


 鍵の音がした。


 リジェナは手を止めない。


 布を浸し、絞り、薬液へ移す。


 その間に、奥の扉の向こうから声が聞こえた。


「水を」


 低い声だった。


 男。


 年齢は高い。


 喉が乾いている。


 水分制限、または十分に与えられていない。


「後で」


 看護女の声。


 慣れた返答。


 リジェナの手が、ほんの少しだけ止まりかけた。


 止めない。


 ここで止めれば、洗濯女ではなくなる。


 奥の扉が開いた。


 看護女が、汚れた上掛けを一枚投げる。


「それも洗って」


「はい」


 リジェナは受け取った。


 上掛けの端に、細い銀髪が絡んでいた。


 人間の髪ではない。


 ハイエルフ系。


 長命種の髪は、細く、軽く、光の返し方が違う。


 リジェナはそれを指先で外し、汚れを払う仕草の中で袖へ隠した。


 奥の扉が閉まる直前、わずかな隙間ができた。


 寝台が三つ見えた。


 一つには老人。


 一つには若い女。


 一つには子供。


 老人の耳は布で隠されていた。


 隠しているつもりなのだろう。


 だが、輪郭は見えた。


 長い。


 リジェナは視線を落とした。


 診療所の灯は三つ。


 そう送ることが決まった。


 技研関係者本人。


 家族。


 別枠の技能者。


 だが、ここで名前までは出せない。


 名前を出せば、通信が奪われた時に対象が死ぬ。


 リジェナは洗濯物を絞った。


 水が赤く濁る。


 怒りは、まだ使わない。


 今使えば、管が割れる。


     ◇


 リジェスカは廃材置き場の奥へ進んだ。


 照合を名目にすれば、歩ける範囲は広がる。


 ただし、広げすぎれば目立つ。


 だから一歩ずつ。


 荷車一台ごとに、少しだけ。


 彼女は破損した魔石管を手に取った。


 内側に煤がついている。


 燃焼ではない。


 過負荷の痕。


 意図的に脈動させたエーテルの荒れ。


 帝国式の三角波運用。


 けれど、そこに別の癖が混じっている。


 脈動を暴れさせるだけではない。


 一瞬だけ、整えようとしている。


 誰かが、わざと壊れやすくした。


 ただ壊したのではない。


 見つけてほしい壊れ方をさせた。


 リジェスカは、魔石管を戻した。


 その時、補給所の奥から怒鳴り声がした。


「移送日を早めるだと」


 男の声。


 係官ではない。


 軍の中級将校。


「命令です。東方戦線へ回す分を優先するとのことで」


「あいつらを動かせば、作業が止まる」


「上は、動かせる者だけでよいと」


 リジェスカは、書き板へ視線を落とした。


 泥は動く。


 監視側が動いている。


 対象の選別が始まる。


 作業が止まる。


 つまり、拘束対象はまだ何かを作らされている。


 リジェスカは、空薬瓶の数を数えるふりをした。


 十二。


 実数は十四。


 二本は帳簿に載っていない。


 薬剤管理の外で使われている。


 眠らせるためか。


 動かすためか。


 壊さないためか。


 どれも、あり得る。


「おい、そこの書記」


 声が飛んだ。


 リジェスカは顔を上げた。


「はい」


「何を見ている」


 将校だった。


 目が鋭い。


 若いが、粗雑ではない。


 こういう相手は面倒だった。


「空薬瓶の数です」


「廃材だ。数えてどうする」


「合わないと、私が怒られます」


 リジェスカは、ほんの少しだけ不満そうに言った。


 臨時書記の不満。


 仕事を増やされた者の声。


 将校はしばらく見ていた。


 それから鼻を鳴らす。


「早く終わらせろ」


「はい」


 リジェスカは頭を下げた。


 視線を外す。


 背中を見せる。


 怖がっているように見せる。


 だが、心拍は変えない。


 怖がり方にも、型がある。


     ◇


 夕刻、リジェナとリジェスカは別々に帝都支店へ戻った。


 同時に戻らない。


 同じ道を使わない。


 先に戻ったのはリジェスカだった。


 表の帳簿棚で一冊を開き、廃材搬出記録の数字を写す。


 少し遅れて、リジェナが裏口から入る。


 洗濯場の女として、疲れた顔で。


 エルンストは表の客と話している。


 ニルスが木箱を運ぶふりをして、二人に目だけで合図した。


 閉店後。


 地下通信室。


 扉が閉まる。


 ようやく、二人は顔を合わせた。


「診療所」


 リジェスカが短く言う。


「三床確認。老人、若い女性、子供。老人はハイエルフ系。水分不足、栄養不足、薬剤管理の疑い」


 リジェナは袖から銀髪を取り出し、透明な小袋へ入れた。


「髪を採取。本人確認には使えますが、通信では送れません」


「補給所」


 リジェスカが記録板を開く。


「村山系フレーム材と推定される破片あり。帝国式三角波運用の過負荷痕。ただし、意図的に見つけさせる壊れ方が混じっています」


「移送は」


「早まる可能性。東方戦線へ回す、動かせる者だけでよい、という会話を確認」


 エルンストの顔が硬くなった。


「どの程度、時間があると見ますか」


「不明」


 リジェスカは即答した。


「ただし、今夜ではない。明日以降、数日以内」


「脱出路は」


 リジェナが問う。


「廃棄物搬出口は候補。ですが格子が新しい。外から外すには音が出ます。内側からなら可能性はありますが、まだ誰が内側に入れるか不明」


「水路は」


「使える。ただし水量が低い。人を流すには足りない。荷を流すなら可能」


「人ではなく、鍵を流す」


 リジェナが言った。


 リジェスカが頷く。


「同意します」


 エルンストは二人を見る。


「鍵とは」


「実物の鍵とは限りません」


 リジェスカが答える。


「内側の人間が、格子を開けるために必要なもの。工具。薬。合図。あるいは、誰を先に動かすべきかという情報」


「救出はまだ」


「まだです」


 リジェナの声は柔らかかった。


「今押せば、管が割れます」


 通信文の形が決まった。


 水は滞り、管の内側に熱あり。


 診療所の灯は三つ。


 古い格子はまだ外れず。


 泥は動く。


 無理に押せば、管が割れる。


 庭師二名、手袋を替えた。


 ニルスが暗号板へ入力する。


 エルンストが、送信前に一度だけ二人を見た。


「本当に、これでよろしいですか」


「はい」


 リジェナが答える。


「殿下なら、押さない意味を理解されます」


「押したいでしょうに」


「はい」


 リジェスカが静かに言った。


「だからこそ、今押せば割れると送ります」


 エルンストは深く息を吐いた。


「承知しました」


 低階層通信が走る。


 深くはない。


 速くもない。


 けれど、細い糸は確かに繋がっている。


     ◇


 深夜。


 帝都支店の屋根裏で、リジェナは短い休息を取っていた。


 眠るのではない。


 身体を横たえ、呼吸を落とし、筋肉の疲労を抜く。


 リジェスカは向かいの梁にもたれて、記録を組み直していた。


「リジェナ」


「はい」


「老人の声」


「聞こえました」


「誰か分かりますか」


「確定はできません」


「では、可能性」


 リジェナは目を開けた。


 屋根裏は暗い。


 外では帝都の夜警が遠くを歩いている。


「村山技研の主任設計士、またはその直系に近い技能者」


「理由は」


「声の年齢と、髪質。診療所側の扱い。水を後回しにされても騒がない抑制。あの場で生き延びるために、怒りを使わない人でした」


 リジェスカは記録板を閉じた。


「チーフエンジニアは補給所側かもしれません」


「はい」


「別枠の技能者」


「おそらく、帝国が技研とは別に確保している者たちです。使える者だけを東方へ、という会話と合います」


「家族は」


「人質です」


 短い言葉だった。


 二人とも、それ以上は言わなかった。


 言葉にしても、怒りが増えるだけだからだ。


 怒りは必要だ。


 だが、今使うものではない。


 リジェナは、袖の中に隠した小袋を思い出した。


 細い銀髪。


 乾いた声。


 水を求めた老人。


 そこにいる。


 生きている。


 それだけで、今夜の意味はあった。


「明日」


 リジェスカが言った。


「私は廃棄物搬出口へ近づきます」


「私は洗濯物の戻しで奥の扉にもう一度」


「危険度が上がります」


「はい」


「無理は」


「しません」


 リジェナは微笑んだ。


「最も難しい命令ですから」


 リジェスカも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 屋根裏の下では、商会の建物が静かに眠っている。


 そのさらに外側で、帝都が眠ったふりをしている。


 誰も知らない。


 洗濯場の女と廃材書記が、明日もう一歩だけ内側へ入ることを。


 誰も知らない。


 細い糸の先で、灯が三つ点いたことを。


 リジェナは目を閉じた。


 眠りは浅く、短い。


 それでよかった。


 朝になれば、また手袋を替える。


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