第六夜 進まない草原
「ベルカ……」
リシアは、その名を呟いた。
古い伝承に残る、滅びた帝国の名。
神話の中で語られる、白き神の国。
そして、今この少年が名乗った名。
問いかけようとした時、ステファニアがふと草原の端へ目を向けた。
先ほど、濃紺の女が入ってきた場所だ。
そこにはもう、白い部屋へ続く裂け目はない。
ただ、草原がどこまでも続いているように見える。
「……出口は、どちらに?」
ステファニアはそう言って、一歩踏み出した。
踏み出した、はずだった。
だが、景色が変わらない。
草は足元で揺れている。
風も吹いている。
彼女の足も、確かに前へ出ている。
なのに、寝台との距離が少しも変わっていなかった。
「ステファニア様?」
ステファニアは眉を寄せ、今度は少し早足になる。
それでも、進まない。
草を踏む感触はある。
足は動いている。
だが身体は、見えない何かに押し戻されているように、その場から離れなかった。
「……これは」
「患者が勝手に出ないようにしてる」
アインが言った。
その声は、特に悪びれたものではなかった。
「ここは病室だ。治療中の人間が歩き回ったら困る」
ステファニアの表情が硬くなる。
「閉じ込めている、ということですか」
「必要ならそうなる」
アインは否定しなかった。
「助けた相手が、起きた瞬間に走って倒れる。傷口を開く。魔力枯渇で意識を落とす。そういうのを防ぐための仕組みだ」
クラウディアが一歩前に出る。
「環境投影病室には、患者保護用の移動制限が設定されています」
「移動制限……」
「一定範囲を超えようとすると、感覚上は歩いているまま、実際の位置は保たれます。転倒防止のため、負荷は最低限に調整しています」
「歩いているのに、進まない?」
「はい」
リシアは、草原を見渡した。
どこまでも続くように見える景色。
だが、本当はどこにも続いていない。
優しい風。
あたたかな光。
小鳥の囀り。
その全部が、患者を落ち着かせるためのもので。
同時に、患者を外へ出さないためのものでもある。
リシアは、背筋にかすかな冷たさを覚えた。
「それは、魔法なのですか」
「分類上は、環境制御と慣性補正です」
クラウディアは淡々と答えた。
リシアには、やはり何一つ分からなかった。
ステファニアが草を見下ろす。
「つまり、景色そのものが動いているのですか」
「近いです」
クラウディアが少しだけ目を向ける。
「患者の移動量を投影側で相殺しています。理解が早いですね」
「理解できているかは、少々疑問ですわ」
ステファニアは、ため息をついた。
「では、一度通常表示へ戻します」
クラウディアは手元の薄い板に指を滑らせた。
次の瞬間、草原が消えた。
空も、風も、草の匂いも、小鳥の囀りも、まるで幕を下ろされたように途切れる。
そこにあったのは、白い壁。
白い天井。
白と銀で整えられた、無機質で清潔な部屋だった。
リシアは息を呑む。
草原は、本当にそこにはなかったのだ。
クラウディアがもう一度端末に触れる。
壁の一部が、音もなく開いた。
そこから白い寝台が滑り出してくる。
ステファニアが思わず一歩下がった。
「寝台が、壁から……?」
「予備ベッドです」
クラウディアは平然と言った。
「お二人とも、まだ魔力枯渇の影響が残っています。無理に立っていらっしゃるより、こちらで横になっていた方がよろしいでしょう」
その声音は事務的だった。
けれど、急かす響きはない。
「セラ様は現在、別室の医療ポッドで治療中です。容体に変化があれば、すぐにお知らせします」
リシアは頷いた。
「ありがとうございます」
「また、お手洗いが必要な場合はこちらをお使いください」
クラウディアが壁際を示す。
すると、壁の一部に細い線が走り、小さな扉が現れた。
「中は個室です。鍵は内側からかかります。水と洗浄機能はこちらで自動管理されていますので、分からない場合は無理に触らず、呼び出してください」
リシアとステファニアは、同時にその扉を見つめた。
壁から扉が出た。
寝台も出た。
もう何が出ても驚かないと思いたかったが、無理だった。
「お着替えはこちらにご用意しています」
別の収納が開き、柔らかそうな布地の服が畳まれて並んでいた。
「サイズは仮合わせです。締め付けが強い、あるいは肌に合わない場合はすぐに交換します」
クラウディアは二人を見た。
「我々が退室した後、お着替えになった方がよろしいでしょう。現在のお召し物はこちらの箱へお入れください」
足元に、浅い白い箱が現れる。
「明日までに補修とクリーニングを完了させます。破損が大きい箇所も、可能な限り元の意匠に合わせます」
「補修まで……?」
「はい。紋章や刺繍は記録を取り、勝手に変更しないようにします」
リシアは少しだけ目を見開いた。
そこまで気にされるとは思っていなかった。
「最後に、こちらを」
クラウディアは、薄い板を二つ差し出した。
手のひらより少し大きい、黒く滑らかな板だった。
「携帯端末です」
「けいたい、たんまつ……?」
「この部屋の環境設定、照明、音量、風景の変更、呼び出しに使えます」
クラウディアは端末の画面を軽く叩いた。
そこには、いくつかの絵が並んでいた。
草原。
森。
湖畔。
夜空。
暖炉のある部屋。
「絵を押すと、病室の風景が変わります。気分が悪くなった場合は、こちらの赤い印を押してください。医療班が来ます」
「呼び鈴、のようなものですか」
「近いです」
「他にも、最低限の案内を入れてあります。読める範囲だけで構いません」
クラウディアはそれ以上、詳しく説明しなかった。
端末の片隅には、小さく文字が並んでいる。
施設案内。
医療区画。
居住区画。
食事。
アークライト概要。
その文字の意味を、リシアはまだ知らない。
「ご不明な点があれば、端末から呼び出してください。声で呼んでいただいても構いません。常時監視は医療項目に限りますので、着替えやお手洗いの際に映像を記録することはありません」
その一言に、リシアとステファニアは同時に固まった。
「……ぷらいばしい?」
「ぷらいばしー、とは……?」
二人がほとんど同時に聞き返す。
クラウディアは一拍置いた。
「私的な領域、という意味です」
「してきな……」
「たとえば、着替えやお手洗い、身体を拭く時間などです。こちらから見ることも、記録することもありません」
説明は丁寧だった。
丁寧だったが、丁寧だからこそ二人は別の意味で固まった。
「見られる可能性が、あるのですか」
ステファニアの声が低くなる。
「技術的にはあります。運用上はありません」
「……技術的には」
リシアは、端末を持つ手に少しだけ力を込めた。
「ご安心ください。患者の尊厳を損なう行為は禁止されています」
クラウディアは淡々と言った。
「違反した者は処罰されます」
その言い方があまりに事務的で、逆に妙な説得力があった。
「技術的には、という言い方が気になりますわ」
「正確に説明する必要がありますので」
「そうですか。では、正確に不安になりました」
「その反応は正常です」
「正常なのですか」
「はい。知らない設備を信用しすぎる方が危険です」
ステファニアは一瞬、言葉に詰まった。
「ですので、不快なこと、不安なことがあれば端末で呼んでください。説明します」
クラウディアは軽く頭を下げた。
「説明できないことは、説明できないと申し上げます」
「それは……誠実なのか、不誠実なのか、判断に困りますわね」
「必要な範囲で誠実です」
アインが小さく笑った。
「クラウはだいたいこうだ。慣れるしかない」
「慣れる必要があるのですか」
「多分」
リシアとステファニアは、同時に彼を見た。
多分。
この少年は、今、多分と言った。
「では、我々は一度退室します」
クラウディアが軽く頭を下げる。
「着替えが終わりましたら、端末でお知らせください。食事はその後にお持ちします」
アインも立ち上がる。
「じゃあ、また後で」
白い壁に扉が開く。
アインとクラウディアが出ていくと、扉は音もなく閉じた。
白い部屋に、リシアとステファニアだけが残される。
手元には、黒い板。
足元には、衣服を入れる箱。
壁には、どこにもないはずの扉。
ステファニアが、小さく息を吐いた。
「……リシア様」
「はい」
「ここは、本当に病室なのでしょうか」
リシアは端末を見下ろした。
「少なくとも、わたくしたちの知る病室ではありませんね」




