第五夜 草原の病室
第五夜 草原の病室
風が、頬を撫でた。
やわらかな風だった。
青草の匂いがする。
遠くで、草が波のように揺れている。
陽光はあたたかく、空はどこまでも高い。
小鳥の囀りが聞こえた。
高く、澄んだ声。
春先の森で耳にするような、軽やかな音だった。
蝶が一匹、白い花の上を舞う。
風が、もう一度リシアの頬を撫でた。
まぶたが、ゆっくりと開いた。
最初に見えたのは、青い空だった。
次に、揺れる草。
それから、自分が白い寝台の上に横たわっていることに気づく。
草原の中に、寝台がひとつ。
あまりにも不自然だった。
「……ここは」
声を出そうとして、喉が掠れた。
リシアは身体を起こそうとした。
その瞬間、頭の奥が鈍く揺れる。
「っ……」
重い。
頭が、鉛を詰められたように重い。
左手で額を押さえる。
指先に触れた肌は、熱くも冷たくもなかった。
ただ、身体の芯が空になったような怠さが残っている。
魔力枯渇。
その言葉が、ぼんやりと頭をよぎった。
「急に起きない方がいい」
声がした。
リシアは息を呑み、顔を上げる。
白髪の少年が、寝台のすぐそばに立っていた。
赤い瞳。
細い身体。
森で、襲撃者たちを一瞬で沈黙させた少年。
起き上がった時には、誰もいなかったはずだ。
なのに彼は、最初からそこにいたような顔で立っている。
いつの間に。
そう思ったが、問いは別の言葉になった。
「セラは……!」
リシアは寝台から降りようとした。
だが足に力が入らない。
少年が片手を上げる。
「生きてる」
短い言葉だった。
「ステファニア様は」
「そっちも生きてる。今は処置が終わって、歩けるか確認中」
「本当に……?」
「ああ」
リシアの肩から、力が抜けた。
だが、すぐに顔を上げる。
「あの、あなたは……」
「君たちが野盗と思しき奴らに襲われているところを、助けさせてもらった」
少年は、淡々と言った。
「残念ながら、三人以外は助からなかった」
リシアの息が止まる。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
壊れた馬車。
倒れた護衛。
最後まで立っていた騎士。
それでも、言葉にされると胸が痛んだ。
「遺体は」
「現地で保全している。君の希望があれば、運ぶ手伝いもする」
「……ありがとうございます」
リシアは、膝の上で手を握った。
泣くのは、まだ違う。
悼むのも、まだ早い。
まずは、生きている者のことを確かめなければならない。
「二人は、どうなっているのですか。詳しく、教えてください」
少年は頷いた。
「ステファニアは右足の刺し傷と右腕の裂傷。失血と魔力枯渇はあるが、命に別状はない。後遺症も残らない」
「後遺症が……残らない?」
「処置した」
あまりに短い答えだった。
「セラは重い。右肩口から胸まで斬られて、一度心臓も止まった」
「心臓が……」
「戻した。今は医療ポッドの中で治療中だ。二日ほど管理すれば、目を覚ます」
「二日……?」
リシアは言葉を失った。
あの傷で。
あの血の量で。
一度、心臓が止まったとまで言われて。
二日。
少年は、それを当たり前のように言った。
リシアは周囲を見る。
草原。
空。
風。
蝶。
小鳥の囀り。
だが、どこかがおかしい。
風は吹いているのに、寝台の薄い布はほとんど揺れていない。
草は波打っているのに、土の匂いが薄い。
蝶は舞っているのに、羽音が聞こえない。
小鳥の声はするのに、どこにも鳥の姿が見えない。
「ここは……どこなのですか」
「病室」
「……病室?」
「落ち着くように、草原を映してる。音と匂いと風も少し足してる」
「映して……足して……?」
「本物じゃない。けど、寝起きにはいいらしい」
その時、草原の端に縦の線が入った。
リシアは息を呑む。
空と草原が、まるで布を裂くように左右へ開く。
その向こうには、白と銀で作られた、見たこともない部屋があった。
無機質で、けれど恐ろしく清潔な空間。
壁には光る板が並び、床は磨かれた石より滑らかだった。
そこから、濃紺の軍服の女が入ってくる。
その隣に、ステファニアがいた。
ステファニアは、部屋へ一歩踏み入れたところで足を止めた。
「……え?」
彼女の背後には、確かに白い部屋があった。
見たこともない内装の、無機質で綺麗な部屋だった。
だが、一歩入った先は草原だった。
足元には草。
頭上には空。
頬には風。
ステファニアは一度、背後を振り返る。
それから前を見る。
「……どういう、ことですの?」
「環境投影です」
濃紺の女が答えた。
「患者の精神負荷を下げるための病室設定です」
「かんきょう……?」
ステファニアは小さく眉を寄せた。
理解しようとして、理解できない顔だった。
濃紺の女は、リシアへ向き直る。
「治療が終わりましたので、ステファニア様をお連れしました。歩行に問題はありませんが、魔力枯渇の影響が残っています。無理はなさらないように」
「リシア様!」
その言葉を待ちきれなかったように、ステファニアが駆け寄ってきた。
リシアが名前を呼ぶより早く、彼女は寝台の上のリシアを抱き締める。
「よかった……本当に、よかった」
「ステファニア様」
リシアも、震える腕を回した。
生きている。
温かい。
呼吸がある。
声がある。
それだけで、胸がいっぱいになった。
しばらくして、ステファニアが身体を離した。
それでも、リシアの手は握ったままだった。
リシアは改めて、白髪の少年と濃紺の軍服の女を見る。
「助けていただき、ありがとうございました」
寝台の上で、深く頭を下げる。
「わたくしは、ファーランド公国公女、リシア・ファーランドと申します」
ステファニアも姿勢を正した。
「ステファニア・レーヴェンハイトと申します。ご助力、心より感謝いたします」
少年は少し困ったように瞬きをした。
「アイン」
短い名乗りだった。
「アイン・ジ・アークライト・ベルカ」
リシアの呼吸が、止まった。
ベルカ。
その名を、彼女は知っていた。




