第五十四夜 問いの作法
第五十四夜 問いの作法
翌日の昼前、学院本館の連絡係が貸与邸へ一通の書状を届けた。
差出人は、ジークフリート・アレーナ。
宛名は、ステファニア・レーヴェンハイト。
封は正しい。
文面も、学院内連絡路を通した正式なものだった。
ただし、リシアはその書状を見た瞬間、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
昨日の言葉が、もう形になって届いた。
必要な時には、聞いてよいかを先に尋ねる。
それは前進かもしれない。
けれど、尋ねられる側には、また別の重さが乗る。
「読みます」
ステファニアが言った。
声は落ち着いている。
だが、指先は封の端を少しだけ慎重に扱っていた。
アリシアは、その様子を黙って見ている。
アインも、クラウディアも、口を挟まない。
ステファニアは封を開き、中の紙を広げた。
しばらく、目だけが文面を追う。
「……ファーランド公国内の件について、詳細を問う意図はない、とあります」
ステファニアは静かに言った。
「ただし、学院内で噂が続く場合、婚約者としてどのような距離で支えるべきか、私の考えを聞きたい、と」
リシアは、思わず息を止めた。
支える。
きれいな言葉だ。
けれど、その言葉が正しい場所へ置かれているのか、まだ分からない。
「最後に」
ステファニアは、少しだけ間を置いた。
「この問いそのものが負担であるなら、返答は不要、と書かれています」
部屋が静かになった。
リシアは、ステファニアの顔を見た。
ステファニアは文面から目を離さない。
表情は整っている。
けれど、整いすぎていた。
「返答不要、ですか」
リシアは小さく言った。
「はい」
ステファニアは頷く。
「配慮はあります」
アリシアが扇子を閉じたまま言った。
「けれど、問いの置き方がまだ少し重いですわね」
「重い」
「ええ。返答不要と書けば、負担を減らしたように見えます。ですが、受け取った側は、返答しないことにも意味が生じる」
リシアは、はっとした。
返す。
返さない。
どちらにも意味がつく。
返答不要という配慮は、時に、返答しない選択まで記録にしてしまう。
「では、どうすればよかったのでしょう」
リシアが問う。
アリシアは少しだけ目を細める。
「問いの範囲を、もっと小さくすることですわ」
「小さく」
「例えば、学院内で噂を聞いた場合、私の周囲へは未確認情報を広めないよう伝えます。それで不都合があればお知らせください。これでよろしいのです」
ステファニアが、紙を見たまま静かに頷いた。
「支える、という言葉が大きすぎるのですね」
「そうですわ」
アリシアは穏やかに答えた。
「大きな言葉は、相手に大きな返事を求めます」
クラウディアが端末に短く記録を取った。
「問いの粒度」
ぽつりと言う。
リシアは、その言葉を覚えた。
問いにも、大きさがある。
大きすぎる問いは、相手を押す。
小さすぎる問いは、意図を隠す。
では、ちょうどよい大きさとは何か。
それを、今、学んでいるのだ。
「ステファニア」
アインが口を開いた。
「はい」
「返したいか」
問いは短かった。
ジークフリートの書状より、ずっと短い。
けれど、ステファニアはすぐに答えなかった。
考える時間がある。
急かされていない。
その沈黙ごと、問いの中に含まれているようだった。
「返したい、とは少し違います」
やがてステファニアは言った。
「ですが、返すべきだと思います」
「理由は」
「私自身の線を、相手に任せたくありません」
リシアは、胸の奥が静かに動くのを感じた。
私自身の線。
それは、昨日までのステファニアより、少しだけ前に出た言葉だった。
「では、返しましょう」
アリシアが言った。
「ただし、支えるという言葉には乗らないこと」
「はい」
「あなたが支えられる人形ではないと、丁寧に示しなさい」
ステファニアは、そこで初めて少しだけ笑った。
「難しいご指示です」
「簡単なことばかりでは退屈でしょう」
「退屈はしておりません」
「なら、なおよろしいですわ」
リシアは、思わず笑ってしまった。
部屋の空気が、ほんの少し緩む。
◇
返書は、三人で考えることになった。
宛名は、ジークフリート・アレーナ。
差出人は、ステファニア・レーヴェンハイト。
リシアは横に座り、アリシアは少し離れた席で扇子を手にしている。
クラウディアは壁際で記録を管理し、アインは窓辺の椅子に座っていた。
セラは扉の近くで控えている。
ただし、控えていると言っても、手には焼き菓子の皿がある。
緊張と日常が、妙な形で同じ部屋にあった。
「まず、感謝です」
ステファニアが言う。
「お気遣いへの礼」
リシアが頷く。
「ただし、深く感謝しすぎると、助けを受け取った形になります」
「そうですわね」
アリシアが言った。
「礼は浅く、しかし雑にしない」
「難しいです」
「礼とは難しいものです」
ステファニアは羽根ペンを持った。
最初の一文を書く。
ご配慮、感謝いたします。
少し考え、そこで止めた。
「短いでしょうか」
「よいと思います」
リシアは言った。
「余計な温度がありません」
「余計な温度」
ステファニアが小さく繰り返す。
アリシアが楽しそうに目を細めた。
「リシアも、ずいぶん言うようになりましたわね」
「今のは褒められていますか」
「ええ。たぶん」
「たぶん」
リシアは少し困った。
けれど、悪い気はしなかった。
「次に、噂への対応」
ステファニアは続ける。
「未確認の噂で、関係のない方々が傷つけられないようご配慮いただければ十分です」
「よいですわ」
アリシアが言う。
「十分、という言葉が効いています」
「それ以上は求めない、という線ですね」
「ええ」
ステファニアはまた書いた。
リシアは、その筆運びを見ていた。
昨日までは、ステファニアが傷ついていることを守るための記録が多かった。
今日は違う。
傷ついている自分が、どこまでを許し、どこから先を渡さないかを書いている。
それは、とても静かな強さだった。
「最後に、支える、への返答です」
部屋の空気が少しだけ締まる。
ステファニアは、しばらく羽根ペンを置いたまま考えた。
そして、ゆっくりと言った。
「私は、支えられる立場としてのみ、この件に向き合うつもりはありません」
誰も、すぐには口を挟まなかった。
「ファーランド公国の友人として、レーヴェンハイト侯爵家の者として、また貴方の婚約者として、私は私の立場で記録し、判断いたします」
リシアは、息を吸った。
貴方の婚約者として。
まだ、その言葉を外してはいない。
けれど、ただの飾りとして置いてもいない。
「よいですわ」
アリシアが静かに言った。
「ただし、少し強いです」
「強すぎますか」
「いいえ。必要な強さです」
アリシアは扇子を開いた。
「最後に、返答を求めない形で閉じなさい。これ以上の問いを、今日のうちに続けさせないためです」
「承知しました」
ステファニアは、最後の一文を書いた。
この件について、ただちに追加のご返答を求めるものではありません。
リシアは、その文を見て頷いた。
返答不要を、返した。
けれど、今度は逃げではない。
これ以上、今すぐ踏み込まないでほしいという線だった。
「完成です」
ステファニアが言った。
声は少し疲れている。
だが、どこか晴れてもいた。
◇
書状は学院内連絡路で送られた。
記録が残る。
誰が出し、誰が受け取り、いつ封が開かれたか。
それが残ることに、リシアはもう慣れ始めていた。
慣れることが怖いと思った時期もある。
今は少し違う。
残すことは、身を守ることでもある。
ただし、何を残すかを選ばなければならない。
午後の講義へ向かう途中、ミリアが廊下で待っていた。
「ステファニア様」
「はい」
ステファニアが足を止める。
ミリアは少し迷ったように指を重ね、それから深く礼をした。
「先ほど、ジークフリート殿下が書状を受け取られました」
「そうですか」
「中身は伺っておりません」
先に言った。
それは、たぶんミリアなりの配慮だった。
「ただ、殿下は、しばらく黙って読まれていました」
ステファニアは、表情を変えなかった。
「そうですか」
「それだけ、お伝えしたくて」
リシアは、ミリアを見た。
伝言だ。
けれど、以前の伝言とは少し違う。
中身を持っていない。
解釈も足していない。
ただ、読んだという事実と、その時の様子だけ。
それは、危うさもあるが、以前よりずっと小さい。
「ありがとうございます」
ステファニアは言った。
「ですが、ミリア様」
「はい」
「今後、殿下のご様子を私へ伝える際は、殿下が伝えることを望まれた場合に限ってください」
ミリアの目が、少しだけ見開かれた。
リシアも、息を止めた。
ステファニアの声は柔らかい。
けれど、明確だった。
「お気遣いはありがたく思います。ですが、殿下の沈黙まで私が受け取ることになると、私の側で意味を考え続けることになります」
ミリアは、ゆっくりと目を伏せた。
「……申し訳ありません」
「責めているのではありません」
ステファニアは言った。
「線を引いています」
その言葉に、リシアの胸が静かに震えた。
線を引いています。
今のステファニアは、それを自分で言えた。
ミリアは深く礼をした。
「承知しました。今後は、殿下ご本人のご意向がある場合のみ、お伝えします」
「お願いいたします」
ミリアはもう一度礼をして、廊下の向こうへ去った。
その背中は、少し小さく見えた。
だが、悪意で小さくなったのではない。
自分のしてきたことの重さを、少しだけ受け取った背中だった。
「ステファニア様」
リシアが声をかける。
「はい」
「今の、とてもよかったです」
ステファニアは、少しだけ目を伏せた。
「心臓が痛いです」
「分かります」
「でも、言わなければ、また同じことになります」
「はい」
セラが横から真面目な顔で言った。
「必要なら、わたしが代わりに言います」
「セラが言うと、少し強くなりすぎます」
「気をつけます」
アインが小さく笑った。
「セラは、まず剣を抜く前に一呼吸だな」
「抜いていません」
「抜きそうな顔をする時がある」
「ありますか」
「ある」
セラは少し考えた。
「では、一呼吸します」
リシアは、今度こそ笑った。
緊張は消えない。
けれど、笑える隙間はある。
それだけで、歩ける。
◇
その夜、貸与邸の小談話室で、ステファニアの返書とミリアへの応答が記録された。
クラウディアは、記録板に短い見出しを付けた。
問いの粒度。
伝言の所有者。
線を引く言葉。
リシアは、その三つを見た。
「伝言の所有者」
ぽつりと繰り返す。
「誰の言葉か、誰が運ぶか、誰が意味を足すか」
クラウディアが言った。
「そこが曖昧になると、相手は言葉だけでなく沈黙まで背負わされます」
ステファニアは静かに頷いた。
「今日、分かりました」
アリシアが満足そうに扇子を閉じる。
「よい一日でしたわ」
「よい一日だったのでしょうか」
ステファニアが少し困ったように言う。
「ええ。痛いところに、ちゃんと線を引けましたもの」
アインが窓の外を見たまま言った。
「線を引けるなら、まだ戻れる」
その言葉に、部屋が少し静かになった。
「戻れない時は」
リシアは、思わず聞いていた。
アインは少しだけ考えた。
「線を引いても踏み越える時だ」
短い答えだった。
リシアは、その言葉を記録に残したいと思った。
だが、すぐには書かなかった。
これは、まだ自分の中に置いておく言葉だと思ったからだ。
窓の外には、学院の夜が広がっている。
遠くでは、帝国の戦火が続いている。
ファーランドでは、切られた枝の跡に、新しい管理線が引かれている。
そして、この白い学院の中でも、目に見えない線が一つ引かれた。
問いには作法がある。
伝言には所有者がある。
沈黙にも、重さがある。
リシアはその三つを、今日の記録の端に小さく書き添えた。




