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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第五十三夜 枝の影

第五十三夜 枝の影


 翌朝、学院の廊下には、まだ形にならない噂が流れていた。


 ファーランドで何かあったらしい。


 伯爵家が一つ、処分されたらしい。


 帝国と関係があるらしい。


 公都ラーンで貴族の馬車が止められたらしい。


 どれも、断片だった。


 断片であることが、かえって人の足を止める。


 確かなことが少ないほど、人は足りないところに好きな色を塗る。


 リシアは白い回廊を歩きながら、その気配を肌で感じていた。


 胸元の首飾りは、視線の動きを拾っている。


 左から一つ。


 右奥から二つ。


 前方の学生が、一度こちらを見て、すぐに目を逸らす。


 注視。


 再注視。


 会話停止。


 表示は静かに増えていく。


 けれど、リシアはそれを答えにしなかった。


 見えたものを、すぐ武器にしない。


 昨日の自分なら、もう少し顔に出ていたかもしれない。


 昨日の夜、父の言葉を読んだ直後なら、きっと。


 国の内側の枝は、こちらで切る。


 切った枝の痛みを忘れぬこと。


 その文は、まだ胸の奥にある。


 痛みはある。


 けれど、歩く足は止めない。


「リシア」


 隣を歩くアリシアが、小さく呼んだ。


「はい」


「視線を数えすぎですわ」


 リシアは、思わずまばたきをした。


「顔に出ていましたか」


「少し」


「気をつけます」


「気をつけすぎても出ますわ」


 アリシアは扇子を閉じたまま、穏やかに前を向いている。


「噂は、止めるものではありません」


「止めるものではない」


「ええ。止めようとすると、止めた場所が目立ちます。大切なのは、どこへ流し、どこで薄め、どこから先へ行かせないかです」


 リシアは、廊下の先を見た。


 そこには、何人かの学生が立っている。


 こちらを見ていた者たちが、急に何でもない顔で話を再開した。


 分かりやすい。


 だからこそ、責める気にはなれなかった。


 自分もきっと、同じ立場なら見ただろう。


「ファーランド公女としての顔を保ちなさい」


 アリシアが言う。


「はい」


「ただし、何も感じていない顔ではなく」


 リシアは横を見る。


「難しいです」


「難しいから訓練ですわ」


 楽しそうな声だった。


 リシアは少しだけ息を吐いた。


 隣では、ステファニアが静かに歩いている。


 表情は整っていた。


 だが、指先がわずかに硬い。


 アレーナ王国内の一部勢力。


 昨日、クラウディアがそう言った。


 ジークフリート本人の関与は確認されていない。


 その一文が、安心ではなく保留として残っている。


「ステファニア様」


 リシアは小さく声をかけた。


「はい」


「大丈夫ですか」


 ステファニアは、一瞬だけ微笑んだ。


「大丈夫ではありません」


 リシアは言葉に詰まった。


「ですが、歩けます」


 その言い方が、ひどくステファニアらしかった。


「では、隣を歩きます」


「ありがとうございます」


 セラが後ろから言った。


「わたしも歩きます」


「セラは護衛でしょう」


 アインが言う。


「はい。歩く護衛です」


「それはそうだな」


 アインは少しだけ口元を緩めた。


 ほんのわずかなやり取り。


 それでも、廊下の空気が少しだけ軽くなった。


     ◇


 午前の講義は、予定通り行われた。


 予定通り、ということが、今日は妙に重かった。


 ラウル教官は、噂に触れなかった。


 黒板には、戦時における公文書の分類が書かれている。


 公開記録。


 限定共有記録。


 機密記録。


 封印記録。


「記録を伏せることは、常に悪ではない」


 教官は言った。


「だが、伏せた理由まで失われると、後世は必ず誤る。なぜ伏せたのか。誰が伏せたのか。いつ開くべきなのか。それを残さなければ、機密は守りではなく毒になる」


 リシアは、羽根ペンを動かした。


 機密は、守りにも毒にもなる。


 昨日の処断記録が頭をよぎる。


 表向き。


 ファーランド大公家内部記録。


 ベルン商会秘匿記録。


 アークライト解析記録。


 三層に分ける。


 それは、伏せるためだけではない。


 いつか誤らないためでもある。


「では」


 ラウル教官が教室を見渡す。


「ある貴族家が国家反逆罪で処断された。ただし、詳細は機密である。この場合、学院内で学生が注意すべきことは何か」


 教室の空気が固まった。


 噂に触れなかったのではない。


 講義の形にして、触れたのだ。


 リシアは、ペン先を止めた。


 何人かの視線が、こちらへ向く。


 首飾りが拾う。


 注視。


 注視。


 注視。


 リシアは、それをただ流した。


 手を上げたのは、ユリアだった。


「ノートン」


「はい」


 ユリアは立ち上がる。


「未確認情報を記録に混ぜないことです。噂は噂として分け、確認済みの公的発表とは同列に扱わない。特に、関係者の家族や領民について、処断対象と同一視するような記述を避けるべきです」


 教官が頷いた。


「よい」


 ユリアは続ける。


「また、伏せられている詳細を無理に推測して広めることは、処断理由を歪める危険があります。詳細が伏せられた理由そのものを尊重すべきです」


 リシアは、ユリアの背を見た。


 細い背中。


 けれど、その言葉はまっすぐだった。


「その通りだ」


 ラウル教官は言った。


「記録を扱う者は、空白を嫌う。だが、嫌ったからといって勝手に埋めてよいわけではない」


 その言葉は、教室全体へ向けられていた。


 同時に、噂へ向けられていた。


 止めるのではない。


 流路を整える。


 アリシアの言葉が、ここでも形を変えていた。


     ◇


 講義後、アルヴィン・ラーデンが廊下で待っていた。


 ジークフリートの側近である。


 いつも通り姿勢は整っている。


 だが、今日はその整い方が少し硬かった。


「リシア様。アリシア様。ステファニア様」


 アルヴィンは深く礼をした。


「少し、お時間をいただけますか」


 リシアは、アリシアを見た。


 アリシアは扇子を開かず、ただ頷く。


「学院内の廊下では、長い話はできません」


 リシアは言った。


「短くであれば」


「承知しています」


 アルヴィンは顔を上げた。


「本日の噂について、ジークフリート殿下より、無用な詮索を控えるよう周囲へ伝える準備をしております」


 ステファニアの表情は変わらない。


 けれど、リシアはその横顔を見ていた。


「準備」


 アリシアが静かに言った。


「はい」


「まだ伝えてはいないのですね」


 アルヴィンのまばたきが、一度だけ遅れた。


「文言を確認中です」


「それは賢明ですわ」


 アリシアは穏やかに微笑んだ。


 褒めている。


 たぶん、本当に。


 だが、その微笑みには針がある。


「言葉を足しすぎれば、知らないことまで知っているように見えます。言葉を減らしすぎれば、無関心に見えます。難しいところですわね」


「はい」


 アルヴィンは素直に頷いた。


「そのため、確認に参りました。どの範囲まで触れるべきか」


 リシアは、その問いを受け止めた。


 以前なら、丁寧だと思ったかもしれない。


 今は、少し違う。


 確認に来た。


 それは正しい。


 だが、誰のための確認か。


 ジークフリートの失礼を避けるためか。


 ステファニアを傷つけないためか。


 ファーランドへの配慮か。


 それとも、全部か。


「アルヴィン様」


 答えたのはステファニアだった。


「はい」


「ファーランド公国内の処断について、私たちが学院で語ることはありません」


「承知しました」


「ですので、ジークフリート殿下が周囲へ伝える必要があるのは、詳細ではありません」


 ステファニアは、静かに続けた。


「未確認の噂で、関係のない者を傷つけないこと。学院内で出身国や家門を理由に誰かを攻撃しないこと。それだけでよろしいかと」


 アルヴィンは、少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます」


「いいえ」


 ステファニアの声は柔らかい。


 けれど、そこには線が引かれていた。


 あなたが守るべきものは、私たちの秘密ではない。


 学院の秩序だ。


 そう聞こえた。


「それと」


 アリシアが言った。


「はい」


「ジークフリート殿下ご本人の言葉であることを、お忘れなく」


 アルヴィンの肩が、ほんの少しだけ動いた。


「……承知しました」


「あなたの文面が整っていることは分かりますわ。けれど、整いすぎた盾は、時に中の人を見えなくします」


 廊下が静かになった。


 アルヴィンは反論しなかった。


 ただ、深く礼をした。


「肝に銘じます」


 その姿に、リシアは少しだけ見直した。


 痛いところを突かれて、なお姿勢を崩さない。


 有能な盾。


 確かに、その通りだ。


 だからこそ、盾の後ろにいる人が何を見ているかが重要になる。


     ◇


 昼休みの中庭で、ジークフリートは一人ではなかった。


 ミリアが少し離れたところにいる。


 アルヴィンはさらに後ろ。


 そして、数人の学生が距離を置いて様子を窺っていた。


 ジークフリートは、こちらを見ると立ち上がった。


「リシア殿」


 呼び方は、以前より慎重だった。


「アリシア殿、ステファニア」


 ステファニア。


 婚約者としての呼び方。


 だが、その一語のあとに、彼は少しだけ言葉を探した。


「今朝から、いくつか噂が流れている」


「そのようです」


 リシアは答えた。


「詳細を問うつもりはない」


 ジークフリートは、まっすぐ言った。


「ファーランド公国内のことだ。私が踏み込むべきではない」


 リシアは頷いた。


「ありがとうございます」


「ただ、学院内で無用な詮索が広がるなら、止める」


 その言葉に、リシアは少しだけ目を細めた。


 止める。


 アリシアの扇子が、小さく動いた。


 ジークフリートは、それに気づいたのかもしれない。


 少し言い直す。


「いや。止める、では足りないな。未確認の噂で誰かを傷つけないよう、私の周囲には伝える」


 アリシアの扇子が止まった。


 リシアは、少しだけ息を吐いた。


 今の言い直しは、たぶんアルヴィンの文面ではない。


 ジークフリート本人が、いま選んだ言葉だ。


「助かります」


 ステファニアが言った。


 ジークフリートは、彼女を見る。


「ステファニア」


「はい」


「私は、君に何を聞かないべきかを、まだよく分かっていない」


 ステファニアの目が、わずかに揺れた。


「だから、今日は聞かない。だが、必要な時には、聞いてよいかを先に尋ねる」


 リシアは、胸の奥で何かが小さく動くのを感じた。


 それは完璧な言葉ではない。


 遅い。


 きっと、遅い。


 けれど、本人の言葉だった。


 ステファニアは、静かに礼をした。


「ありがとうございます」


 ジークフリートの表情に、安堵が浮かぶ。


 すぐに消えた。


 ミリアが、その様子を黙って見ていた。


 アルヴィンも。


 リシアの首飾りは、いくつもの視線を拾っている。


 けれど、今はもう数えなかった。


 流れを止めるのではなく、整える。


 誰かが、ほんの少し言葉を選び直した。


 それだけで、噂の流れは変わる。


     ◇


 貸与邸へ戻ると、クラウディアが短い報告を持っていた。


「ファーランド公国より追加連絡」


 アインが顔を上げる。


「処断は」


「完了」


 短い言葉だった。


 リシアは、胸の奥が少しだけ沈むのを感じた。


 終わった。


 国の内側の枝が、本当に切られた。


「領地管理は」


「大公家直轄へ移行開始。下級使用人と領民への処罰なし。未成年者および下級使用人の名誉回復経路については、アリシア様の提案を受けて別紙化」


 アリシアが頷く。


「よろしいですわ」


「中継商会二つは」


 アインが問う。


「泳がせています」


「聞くまでもなかったな」


「はい」


 クラウディアは真顔で答えた。


 アインはまた額を押さえた。


 リシアは、今度は少し笑ってしまった。


 笑ってから、すぐに胸が痛んだ。


 でも、その二つは同時にあってよいのだと思った。


 嫌だと思うことと、必要だと認めることは両立する。


 笑えることと、痛むことも、きっと両立する。


「今日の学院は」


 クラウディアが問う。


 リシアは、ジークフリートの言葉を話した。


 止める、ではなく、未確認の噂で誰かを傷つけないよう伝える。


 何を聞かないべきか分からないから、必要な時には聞いてよいかを先に尋ねる。


 クラウディアは黙って聞いていた。


「改善傾向」


 短く言った。


「ただし、継続観察」


「厳しいですわね」


 アリシアが楽しそうに言う。


「一度の言い直しで評価を確定するべきではありません」


「それはそうですわ」


「ですが、本人の言葉が出た点は記録価値があります」


 ステファニアが、小さく頷いた。


「はい。私も、そう思います」


 リシアは、その横顔を見た。


 まだ痛みはある。


 けれど、完全に閉じてはいない。


 関係は、壊れるかもしれない。


 作り直せるかもしれない。


 まだ、どちらでもない。


 だから、記録する。


 足さず。


 消さず。


 その日の夜、リシアは自分の記録に一行を書いた。


 切られた枝の影は、残る。


 けれど、その影の中でも、人は言葉を選び直すことができる。


 書き終えて、リシアは羽根ペンを置いた。


 窓の外には、学院の夜があった。


 遠いファーランドでは、もう別の朝が始まっているのかもしれない。


 リシアは、その朝を想像した。


 痛みのある朝。


 それでも、国が続く朝。


 その国の公女として、明日も歩く。


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