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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第五十二夜 切られる枝

第五十二夜 切られる枝


 その報せは、夕食後に届いた。


 貸与邸の小談話室。


 窓の外では、学院の白い壁が夜の色に沈み始めている。


 リシアは、その部屋に入った瞬間、空気がいつもと違うことに気づいた。


 クラウディアが立っている。


 アインが座っている。


 アリシアは扇子を閉じたまま、静かに卓上を見ている。


 ステファニアとセラも、すでに呼ばれていた。


 卓の中央には、封書が一通。


 ファーランド大公家の封蝋が押されている。


 けれど、その横には、もう一つ、薄い表示板が置かれていた。


 ベルン商会の秘匿通信記録。


 そして、アークライト側の照合済み印。


「お座りください」


 クラウディアが言った。


 声はいつも通り淡々としている。


 だからこそ、リシアの背筋が少し伸びた。


「ファーランド公国からの正式連絡です」


「お父様からですか」


「はい。ガリウス大公名義です」


 クラウディアは封書を開いた。


 紙ではなく、薄い記録板が一枚入っている。


 大公家が重要な政務連絡に使う形式だ。


 リシアは、それだけで内容が軽くないことを理解した。


「読み上げます」


 クラウディアが言った。


「ファーランド公国内における、グランカーン帝国との内通疑義について。調査対象ヴァルゼン伯爵家、同寄子二家、及び関連商会三組の通信記録、資金移動、接触経路を確認。ヴァルゼン伯爵家当主マルセル・ヴァルゼンを国家反逆罪により拘束。証拠照合の後、爵位剥奪、領地召し上げ、家財没収、当主処刑を決定」


 リシアの手が、膝の上で固まった。


 処刑。


 その言葉は、食卓や講義室では聞かない重さを持っていた。


「家族および主要家臣については、関与度に応じて財産権を剥奪。直系成人男子三名は国外追放。婦女子および未成年者については、王都外縁修道院経由で国外退去。下級使用人および領民については処罰対象外。領地管理は大公家直轄へ一時移行」


 リシアは、息を止めていたことに気づいた。


 ヴァルゼン伯爵家。


 名前は知っている。


 公都ラーンの祝祭で、家紋を見たことがある。


 父の後ろに立ち、笑顔で礼をしていた当主の顔も、ぼんやり覚えている。


 その人が、国を売った。


 そして、切られる。


「お父様は」


 声が少しかすれた。


「もう、決めたのですね」


「はい」


 クラウディアは短く答えた。


「判決は下っています。処断は、明朝までに執行予定です」


 明朝。


 あまりに早い。


 そう思った瞬間、アリシアが口を開いた。


「早いのではありませんわ」


 リシアは顔を上げた。


「遅らせなかっただけです」


「遅らせない」


「反逆の証拠が揃っているのに、当主を長く生かせば、周囲が動きます。証拠を消す者、助命を願う者、利用しようとする者。処断そのものが乱れます」


 アリシアの声は穏やかだった。


 けれど、その穏やかさの奥に、古い貴族家の冷たさがあった。


「お父様、いえ、ガリウス大公は正しく切りましたわ」


 リシアは、胸の奥が少し痛むのを感じた。


 正しい。


 正しいのだろう。


 だが、痛い。


「内通の内容は」


 アインが問う。


「主に三点」


 クラウディアが表示板へ指を置く。


 文字列が静かに浮かび上がった。


「一つ。リシア様一行の護衛配置変更に関する情報」


 リシアの背筋が冷えた。


「二つ。襲撃後の大公家側初動と、捜索範囲の断片」


 あの草原。


 壊れた馬車。


 セラの血。


 透明な棺。


 記憶が一瞬だけ、喉元まで上がってくる。


「三つ。ロシナンテ出航日と学院到着予定に関する推測情報」


「推測情報」


 ステファニアが静かに聞き返した。


「確定情報ではありません。ヴァルゼン伯爵家は、ベルン商会公都支店の動きを完全には掴めていませんでした。ただし、港湾管理に近い商会を経由して、出航準備の兆候を外部へ流しています」


「帝国へ」


「はい。グランカーン帝国系の連絡線へ」


 クラウディアは淡々と言った。


「同時に、アレーナ王国内の一部勢力へも断片が流れています」


 ステファニアの顔が、わずかに強張った。


 アレーナ王国。


 ジークフリートの国。


 カスパール第二王子の影が、またそこにある。


「直通ではないのですね」


 ステファニアが言った。


「はい。中継商会を二つ挟んでいます。表向きは海路保険と積荷照会です」


 クラウディアは、そこで一度だけ視線を上げた。


「ですが、全て記録済みです」


 その言い方が、あまりにも平坦だった。


 リシアは思わずクラウディアを見た。


「クラウディア様」


「はい」


「いつから、把握していたのですか」


 部屋が静かになった。


 クラウディアは、少しだけ首を傾げた。


 質問の意味を確認するように。


「初回襲撃後からです」


 リシアは、言葉を失った。


 初回襲撃。


 つまり、リシアたちがアークライトへ運ばれた直後。


 まだ何も分からず、白い病室で目を覚ました頃には、クラウディアはもう、内通経路を追い始めていたのだ。


「……みんな」


 セラが小さく呟いた。


「知っていたのですか」


「全員ではありません」


 クラウディアは答える。


「アイン殿下、アリシア様、メディナ、マキナ、ベルン商会準備班の一部。ファーランド側ではガリウス大公、大公妃、ウィリアム侯爵、カリウス子爵へ段階的に共有済みです」


「ほとんど上の方は知っていたのですね」


 セラの声には、少しだけ呆れが混じっていた。


「必要でしたので」


 クラウディアは当然のように言った。


 リシアは、思わずアインを見た。


 アインは片手で額を押さえている。


「クラウ」


「はい」


「段階的共有の速度が速すぎる」


「遅いよりは安全です」


「そういう話ではなく」


「ですが、結果として大公側の処断判断は迅速でした」


「そうだな」


 アインは、諦めたように息を吐いた。


 アリシアが扇子で口元を隠す。


 笑っているのかもしれない。


「クラウディアは、昔からそうですわ」


「昔からなのですか」


 リシアが思わず聞く。


「ええ。必要になる前に、必要なものを全部揃えてしまいますの」


「恐ろしいですね」


「便利ですわ」


「便利で済ませてよいのでしょうか」


「済ませるしかありませんわ」


 アリシアは楽しそうに言った。


 リシアは、少しだけ笑いそうになった。


 笑ってよい話ではない。


 だが、笑わなければ息が詰まりそうでもあった。


「なぜ、すぐに私たちへ言わなかったのですか」


 リシアは改めて問う。


 責めたいわけではない。


 ただ、知りたかった。


「理由は二つあります」


 クラウディアが答える。


「一つ。処断はファーランド公国の主権に属する事項です。アークライトが先に口を出せば、同盟国ではなく支配者になります」


 リシアは頷いた。


 それは、分かる。


「二つ。リシア様、あなたが知った場合、顔に出る可能性がありました」


「……はい」


 否定できない。


 今でさえ、手が冷えている。


「内通者がこちらの反応を見て、経路を切る可能性がありました。ですから、あなた方には、処断可能段階に至るまで秘匿しました」


 クラウディアの声に、申し訳なさはない。


 必要なことをした、というだけの声だった。


「クラウディア様」


 ステファニアが口を開く。


「はい」


「ヴァルゼン伯爵家の処断記録は、どの層に置かれますか」


 リシアは、はっとした。


 処断そのものではなく、記録。


 ステファニアはもう、そこを見ている。


「表向きは、国家反逆罪による爵位剥奪と領地召し上げ。詳細な内通経路は機密。ファーランド大公家内部記録、ベルン商会秘匿記録、アークライト解析記録の三層に分けます」


「学院側には」


「出しません」


「アレーナ王国側が関わる可能性は」


「現時点では、王国全体ではなく一部勢力との接触兆候に留まります」


 クラウディアの視線が、ほんの少しだけステファニアへ向いた。


「ジークフリート王子個人の関与は、現時点で確認されていません」


 ステファニアは静かに息を吐いた。


「承知しました」


 リシアは、その横顔を見た。


 安心ではない。


 痛みが少しだけ先送りになった顔だった。


「お父様は」


 リシアは、もう一度封書を見た。


「私に何を求めているのでしょう」


 クラウディアは記録板の続きを表示した。


 そこには、父の字があった。


 リシアへ。


 短い文だった。


 お前が今すべきことは、学院で学ぶことだ。


 国の内側の枝は、こちらで切る。


 切った枝の痛みを忘れぬこと。


 だが、その痛みを理由に、目の前の学びを止めぬこと。


 ファーランド大公としてではなく、父として命じる。


 帰る時まで、前を見よ。


 リシアは、その文を何度も読んだ。


 国の内側の枝は、こちらで切る。


 切った枝の痛みを忘れぬこと。


 父らしい言葉だと思った。


 優しくはない。


 けれど、リシアを子供扱いしていない。


「お父様は」


 リシアは小さく言った。


「私に、見ていなくても背負えと言っているのですね」


「そうですわね」


 アリシアが頷いた。


「あなたが公女である以上、見ていない場所で切られた枝も、あなたの国の枝です」


 リシアは目を伏せた。


 ヴァルゼン伯爵家。


 処刑される当主。


 国外へ出される家族。


 処罰されない領民。


 直轄へ移る領地。


 全部、言葉だ。


 けれど、その言葉の中に人がいる。


 昨日の講義で学んだばかりだった。


 記録は、書かれたものだけではない。


 空白も記録だ。


 処断も、きっと記録になる。


「リシア」


 アインが声をかけた。


「はい」


「嫌だと思っていい」


 リシアは顔を上げた。


「嫌だと思うことと、必要だと認めることは、両立する」


 アインは静かに言った。


「切る側が痛みを感じなくなったら、それはただの処分だ。国を守る処断ではない」


 リシアは、胸の奥でその言葉を受け取った。


 嫌だと思っていい。


 それだけで、少し息ができた。


「はい」


 リシアは答えた。


「嫌です」


 声は、少し震えた。


「でも、必要なのだと思います」


「それでいい」


 アインは頷いた。


 セラが静かに口を開く。


「リシア様」


「はい」


「わたしは、切られなかった枝を守ります」


 セラの言葉は、いつも通りまっすぐだった。


「領民や、関わっていない人たちです」


 リシアは、セラを見た。


 その目に迷いはない。


「ありがとうございます」


「はい」


 ステファニアも続いた。


「私は、記録を見ます。どの記録が残り、どの記録が伏せられ、どの記録が後に人を傷つけるか」


「ステファニア様」


「友人としてではなく、レーヴェンハイトの者としても必要です」


 その声は、静かだが強かった。


 アリシアが満足そうに扇子を閉じる。


「よいですわね」


 何がよいのか、リシアには少し分かる気がした。


 ただ悲しむだけではない。


 ただ怒るだけでもない。


 誰が何を背負うかを、その場で決めている。


 それが、国の仕事なのだ。


「クラウディア」


 アリシアが言った。


「はい」


「ガリウス大公へ返信を。処断承知。記録三層化に異議なし。ただし、未成年者および下級使用人の扱いについては、後日の名誉回復経路を残すこと」


「承知しました」


「それと」


 アリシアは少しだけ目を細めた。


「ヴァルゼン伯爵家へ接触していた中継商会二つ。消さずに泳がせなさい」


 リシアは息を止めた。


 クラウディアは、何の驚きもなく頷いた。


「すでに泳がせています」


 部屋が静かになった。


 アインが、ゆっくりとクラウディアを見る。


「クラウ」


「はい」


「やっぱり、みんな知ってたな」


「必要でしたので」


 クラウディアは、まったく同じ声で答えた。


 アリシアが、今度こそ小さく笑った。


 リシアは、困ったように息を吐くしかなかった。


 恐ろしい。


 けれど、頼もしい。


 その二つが、同じ場所にある。


 ファーランドの内側で、一本の枝が切られる。


 その痛みは、夜の向こうで起きる。


 リシアはその場にいない。


 けれど、知らないことにはしない。


 小談話室の灯りの下で、リシアは父の言葉をもう一度読んだ。


 帰る時まで、前を見よ。


 その文字は、厳しく、温かかった。


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