第五十一夜 見えない留守
第五十一夜 見えない留守
翌朝、食堂の席はいつも通りに見えた。
温かいスープ。
焼き立ての薄いパン。
果物を刻んだ小皿。
セラの前には、最初から少し多めの皿が置かれている。
医療区画の担当者が、もう諦めたように調整した量だった。
だが、リシアは気づいていた。
いつもなら、何気ない顔で湯を足しに来るリジェナがいない。
茶器の位置を静かに整えてくれるリジェスカもいない。
代わりに別の調整体が、同じように丁寧な所作で給仕をしている。
同じように。
けれど、同じではない。
リシアはパンを手に取ったまま、少しだけ指を止めた。
「気になりますか」
向かいのアリシアが、穏やかに言った。
「……はい」
ごまかしても、たぶん意味はない。
リシアは小さく頷いた。
「昨日まで見えていた方がいないと、思ったより気になります」
「それが留守ですわ」
アリシアは、紅茶の水面を見つめる。
「人がいなくなるということは、空席だけが残るのではありません。その人がしていた小さな仕事の形が、あちこちに残ります」
リシアは、テーブルを見た。
茶器の角度。
皿の並べ方。
セラの前に置かれる追加分の距離。
確かに、少し違う。
違うと分かるほど、リジェナとリジェスカは日常の中にいた。
「見えない留守を、見える騒ぎにしてはいけません」
アリシアが続けた。
「それも礼ですか」
ステファニアが問う。
「礼であり、戦いでもありますわ」
アリシアは微笑んだ。
「誰がいないかを、誰に見せるか。誰に見せないか。そこを誤ると、留守そのものが情報になります」
リシアは息を吸った。
リジェナとリジェスカがいない。
それを、リシアたちが気にしている。
その顔を誰かに見られたら。
それだけで、何かが漏れる。
「学院では、いつも通りに」
ステファニアが言った。
「はい」
リシアは頷く。
「いつも通りに」
「セラ」
アインが口を開いた。
「はい」
「追加の皿を見て驚くな」
「もう驚いていません」
セラは真面目な顔で答えた。
その前には、すでに二皿目が置かれている。
「食べる量が増えています」
クラウディアが端末を見ながら言った。
「健康上の問題はありません。むしろ自己修復反応の安定に寄与しています」
「では、問題ありませんね」
セラは安心したように頷く。
ステファニアが少しだけ遠い目をした。
「非常に良好、という言葉が聞こえた気がします」
「聞こえましたわね」
アリシアが楽しそうに言う。
リシアは、思わず笑いそうになった。
笑える。
それがありがたかった。
留守はある。
危険もある。
けれど、朝食は朝食として続いている。
そういう日常を崩さないことも、たぶん必要なのだ。
◇
学院の講義は、東方戦火の影を濃くしていた。
ラウル教官は黒板に大きく三つの言葉を書いた。
避難民。
徴発。
記録。
「戦争は、剣を持つ者だけで回るものではない」
教官の声は、いつもより低かった。
「食糧を運ぶ者、傷病者を診る者、避難民を受け入れる者、物資の流れを記録する者。その全てが狂えば、前線で勝っても後方が潰れる」
リシアは、羽根ペンを動かした。
避難民。
徴発。
記録。
昨日の派遣判断が、頭の中で重なる。
見る。
数える。
道を探す。
守るべき人間を間違えない。
アインの言葉は、戦場だけの話ではなかった。
「では、質問です」
ラウル教官が教室を見渡す。
「戦時に最も危険な記録とは何か」
何人かの学生が顔を上げた。
武器の保管場所。
兵数。
作戦計画。
そんな答えが小声で漏れる。
教官は頷いた。
「どれも危険だ。だが、今日は別の答えを求めたい」
視線が、リシアたちの方へ向いた。
あまり目立ちたくはない。
けれど、指名されたわけではない。
リシアは少し考えた。
すると、隣でステファニアが静かに手を上げた。
「レーヴェンハイト」
「はい」
ステファニアは立つ。
「本来なら残るべきなのに、残っていない記録です」
教室が静かになった。
ラウル教官が、わずかに目を細める。
「理由は」
「残らないこと自体が意図を示す場合があります。誰かが消したのか。誰かが残せなかったのか。そもそも残す立場の者がいなかったのか。それを誤ると、後から判断する者は、敵味方も責任も間違えます」
リシアは、ステファニアの横顔を見た。
聖女像寄進要求事件。
返事の作法。
小茶会の席次。
そして、今朝の留守。
全部が繋がっている。
「よい答えだ」
ラウル教官は言った。
「記録とは、書かれたものだけではない。空白も記録だ。特に戦時はな」
ステファニアが着席する。
その時、ジークフリートがこちらを見ていた。
いや、ステファニアを見ていた。
リシアの首飾りは、視線の動きを拾った。
注視。
けれど、リシアはすぐに判断しなかった。
見えたものを、すぐ武器にしない。
アリシアの言葉を思い出す。
ジークフリートの視線には、驚きがあった。
少しの誇らしさも。
そして、遅れて気づいたような痛みも。
それをどう扱うかは、まだ決めてはいけない。
◇
講義後、ミリアが廊下で追いついてきた。
「ステファニア様」
呼び方は、正しい。
ステファニアが足を止める。
「はい」
「先ほどの答え、とても勉強になりました」
ミリアは深く礼をした。
言葉は素直だった。
少なくとも、表面上は。
「ありがとうございます」
ステファニアは柔らかく答える。
「ただ、教官の問いに答えただけです」
「それでも、私には出なかった答えです」
ミリアは少しだけ目を伏せる。
「残らないこと自体が意図を示す。そう考えたことがありませんでした」
リシアは、その言葉を聞きながら、ミリアの顔を見た。
これは、何だろう。
謝罪ではない。
探りでもない。
けれど、近づこうとしている。
慎重に。
自分がどの位置から話すべきかを、まだ測りながら。
「ミリア様」
ステファニアが言った。
「はい」
「分からないことがある時、分からないと言えるのは大切なことです」
ミリアが顔を上げる。
ステファニアは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「私も、分からないことばかりですから」
「……ありがとうございます」
ミリアはもう一度礼をした。
その姿を見て、リシアは少しだけ息を吐く。
関係は、まだ壊れていない。
ただし、元に戻ったわけでもない。
まっすぐ進めばよいというほど、簡単ではない。
その時、アリシアの扇子が小さく開いた。
「ミリア様」
「はい」
「今日のステファニアの答えを、どなたかへ伝えるなら、言葉を足しすぎない方がよろしいですわ」
ミリアが一瞬固まった。
リシアも、内心で少し固まった。
これは優しい忠告なのか。
牽制なのか。
おそらく、両方だ。
「……承知しました」
ミリアは静かに答えた。
「私の感想と、ステファニア様の言葉は分けて扱います」
「ええ。それがよろしいですわ」
アリシアは穏やかに微笑む。
ミリアは礼をして去っていった。
その背を見送りながら、リシアは思った。
アリシアは、本当に少しの言葉で場の線を引く。
誰を傷つけるかではなく、どこから先に踏み込ませないか。
それが、あまりにも自然だった。
◇
貸与邸へ戻ると、クラウディアが小談話室で待っていた。
端末の上には、短い文字列だけが表示されている。
帝都入り確認。
支店接続完了。
現地職務開始。
再接触予兆あり。
リシアは、その四行を見た。
たった四行。
それだけで、胸の奥が少し温かくなる。
リジェナとリジェスカは、無事に帝都へ入った。
少なくとも、今は。
「詳細は」
アインが問う。
「低階層通信のため限定的です」
クラウディアが答える。
「ただし、支店長エルンストからの署名は正規。第一段階は予定通り開始されています」
「無理は」
アインが短く言った。
「していない、と読むべき通信量です」
「ならいい」
アインは椅子に座る。
その横顔は、いつも通りに見えた。
けれど、リシアには少しだけ分かるようになっていた。
いつも通りに見せている顔。
それもまた、見えない留守と同じだ。
揺れを見せない。
見せないことで、前にいる者を揺らさない。
「リシア」
アインがこちらを見た。
「はい」
「今日、何かあったか」
リシアは一瞬だけ迷い、それから講義でのことを話した。
戦時に危険な記録。
ステファニアの答え。
ジークフリートの視線。
ミリアの感想。
アリシアの忠告。
アインは最後まで黙って聞いた。
「いい流れだ」
短く言った。
「そうなのですか」
「壊すだけなら簡単だ。戻すだけなら弱い。今は、別の形に作り直している」
リシアは、その言葉を胸の中で受け取った。
別の形。
ジークフリートとの関係も。
ミリアとの距離も。
ステファニア自身の記録も。
そして、リジェナとリジェスカがいない朝食の席も。
すべて、以前と同じには戻らない。
けれど、それは終わりではない。
「見えない留守は、見える騒ぎにしない」
リシアは小さく呟いた。
アリシアが満足そうに目を細める。
「覚えがよろしいですわ」
「忘れないようにします」
「忘れても構いません」
「え」
「忘れた時に、また記録を見ればよいのです」
リシアは、少しだけ笑った。
今日の記録を残そう。
リジェナとリジェスカの名前は出さずに。
けれど、二人の留守が教えてくれたことは、失わないように。
窓の外で、夕暮れが学院の屋根を染めていた。
遠い帝都でも、同じ夕暮れがあるのだろうか。
リシアには分からない。
ただ、細い糸がまだ切れていないことだけは分かる。
それで、今は十分だった。




