表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/76

幕間八 細い糸の先

幕間八 細い糸の先


 帝都に入る馬車は、朝靄の中を進んでいた。


 荷台には薬材の木箱が積まれている。


 乾燥香草。


 軟膏の材料。


 染料に見せかけた消毒液の原料。


 どれも、ベルン商会帝都支店が扱う品として不自然ではない。


 不自然ではない、ということが大切だった。


 リジェナは、荷台の端に腰を下ろしていた。


 灰白色の医療服ではない。


 帝都の下働きにも馴染む、くすんだ青の外套。


 髪はまとめ、顔立ちの印象が少し変わるよう薄い化粧を施している。


 隣には、リジェスカが座っていた。


 こちらは帳簿係らしい地味な服装だ。


 膝の上には革鞄がある。


 中身は帳簿、羽根ペン、封蝋、薬品目録。


 そして、それらに見せかけた記録具と暗号板だった。


「門です」


 御者台から、帝都訛りの声がした。


 ベルン商会の運び手である。


 表向きは、支店へ薬材を届ける雇われ御者。


 裏のことは知らない。


 知らないからこそ、使える。


 帝都の外門は高かった。


 石壁の上には兵士が立ち、槍の穂先が朝の光を受けて鈍く光っている。


 門の脇には、検問の列ができていた。


 荷馬車。


 行商人。


 地方から戻った小貴族の従者。


 布を被せた荷車に座る老人。


 皆、同じように書類を出し、同じように待たされている。


 戦時の帝都は、出入りに時間がかかる。


 リジェナは、その列を見ながら微笑んでいた。


 看護担当の時と同じ、柔らかな顔で。


 だが、瞳は違う。


 一人ずつ、呼吸を拾う。


 足運びを見る。


 兵士の声の高さを聞く。


 誰が慣れていて、誰が苛立っていて、誰が余計なものを見ようとしているのか。


 視界の端には、装身型端末の簡易表示が淡く浮かんでいた。


 首元には、小さな金属の飾り。


 帝都の者には安物の護符か、健康管理用の魔導具に見える。


 実際には、秘匿運用型の拡張視覚端末である。


 フルスペックではない。


 帝都の検問で目立つものは持ち込めない。


 見えすぎるものは、時に危険になる。


「次」


 兵士が声を上げた。


 御者が書類を差し出す。


「ベルン商会帝都支店。薬材搬入。追加人員二名」


 兵士は書類を見た。


 それから、荷台を覗く。


 視線がリジェナへ向いた。


「医療補助員か」


「はい」


 リジェナは穏やかに答えた。


「支店内で扱う薬材の整理と、雇員の健康確認を任されております」


「商会に医療補助員とは贅沢だな」


「薬材を扱いますので。かぶれや吸入事故が多いのです」


 兵士は、つまらなさそうに鼻を鳴らした。


 次にリジェスカを見る。


「そっちは」


「帳簿整理員です」


 リジェスカが答えた。


「戦時価格改定に伴い、支店帳簿の再照合を行います」


「商人は戦時でも金勘定か」


「戦時だからこそ、です」


 少しだけ、間が空いた。


 兵士が眉を寄せる。


 リジェスカは表情を変えなかった。


「軍指定品の薬材については、数量の誤差が罰則対象になります。帳簿が乱れると、困るのは商会だけではありません」


 兵士は舌打ちした。


「通れ」


 槍が横へ動く。


 馬車が、帝都の門をくぐった。


 その瞬間、リジェナの端末に小さな印が灯る。


 市内通信遮蔽、弱。


 軍用監視、低密度。


 旧式魔導検知、散発。


 リジェナは、それを見て、見なかったことにした。


 顔に出す必要はない。


 ここから先は、帝都の内側である。


     ◇


 ベルン商会帝都支店は、朝の開店準備を始めていた。


 店先では若い雇員が香草の束を吊るし、棚の埃を払っている。


 奥では、ニルスが帳簿を抱えて歩き回っていた。


 その姿は、どこから見ても忙しい帳簿係だった。


 忙しい帳簿係に見えるよう、忙しくしている。


 馬車が裏口へ入ると、エルンスト・ヴァイドが迎えに出た。


 柔らかな商人の笑み。


 人当たりのよい声。


 けれど、目だけは二人を一度で測っていた。


「遠路、ご苦労様です」


「お世話になります」


 リジェナが頭を下げる。


「医療補助員として参りました、リーナと申します」


 リジェスカも続いた。


「帳簿整理員のレスカです」


 偽名は短い。


 帝都では、覚えやすい名の方が便利だった。


 エルンストは頷く。


「支店長のエルンストです。表の雇員には、あなた方を西方支店からの追加人員として説明します」


「承知しました」


「まずは荷を下ろしましょう。話はその後で」


 その言葉通り、二人は荷下ろしを手伝った。


 木箱を運び、帳簿に数を記し、棚へ並べる。


 表の仕事を先にする。


 それが、裏の仕事を隠す一番よい方法だった。


 店が開く。


 客が入る。


 香草を買う老婦人。


 軟膏を求める兵士の従卒。


 値切る料理人。


 ただの商会の朝が始まった。


 そのただの朝の中で、リジェナは何人もの顔を覚えた。


 リジェスカは、何冊もの帳簿の余白を見た。


 店の動線。


 雇員の癖。


 裏口の開閉頻度。


 隣家の窓の位置。


 昼前になって、ようやくエルンストが二人を地下へ案内した。


 保存庫。


 薬材棚。


 香辛料の木箱。


 湿度を嫌う品々。


 その奥に、もう一枚の壁。


 灯りが三度、短く絞られる。


 壁が静かに開いた。


「ようこそ」


 エルンストの声が変わる。


 商人の柔らかさは残っている。


 だが、笑みの奥にあった曖昧さが消えていた。


「ベルン商会帝都支店の裏側へ」


 通信室は小さい。


 机が一つ。


 暗号板。


 紙の帳簿。


 魔石通信器。


 どれも現代の品に見えるよう偽装されている。


 リジェスカは、室内を一度だけ見渡した。


「深層通信は使っていませんね」


「使えば、帝都の鼻が動きます」


 エルンストは答えた。


「こちらでは低階層で十分です。深く潜るのは、燃やす時だけでよい」


「燃やす」


 リジェナが静かに繰り返す。


「万一の場合、この店は焼きます」


 エルンストは淡々と言った。


「表の雇員は逃がす。帳簿は分散済み。支店長である私は、最後に残ります」


「最後に残る必要はありません」


 リジェナが言った。


 声は柔らかい。


 けれど、そこに看護担当の甘さはなかった。


「今回の派遣命令には、現地支店の安全維持が含まれています」


 エルンストは少しだけ目を細めた。


「つまり、私も対象ですか」


「はい」


「商会員まで守るとは、贅沢な任務ですな」


「無駄に死なれると、任務の継続性が落ちます」


 リジェナは微笑んだ。


 エルンストは一瞬だけ黙る。


 そして、小さく笑った。


「なるほど。温かい言葉を、冷たい理屈で包むのがアークライト流ですか」


「命令文は冷たく、運用は柔らかく、です」


「よい商売です」


 場の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だが、すぐに戻る。


 リジェスカが革鞄から薄い帳簿を取り出した。


「確認します。今回の第一段階任務は、所在確認、健康状態、拘束形態、脱出路候補の把握まで。救出行動は禁止」


「承知しています」


 エルンストが頷く。


「北工廠区外縁の予備部品保管庫名義施設。周辺地図はこちらです」


 机の上に、帝都北部の地図が広げられる。


 工廠区。


 兵舎。


 資材倉庫。


 軍指定の診療所。


 水路。


 廃棄物搬出口。


 リジェナは診療所に指を置いた。


「ここに薬材を納めていますか」


「月に二度。ただし、戦時体制移行後は週一に増えています」


「次は」


「明後日」


「では、私はそこに入ります」


 即答だった。


 リジェスカが別の場所を指す。


「帳簿経路はこちらですね。予備部品保管庫は軍直轄ですが、消耗品の一部は民間業者を通している」


「はい。帳簿上は、保管庫ではなく北工廠区第三補給所の名で処理されています」


「ならば、私は帳簿照合の名目で補給所側へ入れます」


 エルンストは二人を見た。


「早いですな」


「遅い方です」


 リジェスカが答えた。


「本来なら、現地到着前にもう少し精度を上げたかった」


「申し訳ない。こちらの通信は細くて」


「細い糸でも、繋がっていれば十分です」


 リジェナが言った。


 その言葉に、エルンストは一度だけ目を伏せた。


「アークライト側から、他に伝言は」


「任務命令は受け取っています」


 リジェスカが言う。


「ただ、一文だけ追加がありました」


「追加?」


「無理はするな」


 通信室が静かになった。


 エルンストは、ゆっくり息を吐く。


「それは、命令ですか」


「はい」


 リジェナは答えた。


「命令です」


「難しい命令だ」


「最も難しい命令です」


 リジェスカが静かに言った。


「だから、最初に共有します。現地支店も同じです。無理はしないでください」


 エルンストは地図に視線を落とした。


「では、商人らしくやりましょう」


「はい」


「大きく儲けようとしない。小さく損を積み、最後に帳尻を合わせる」


「よい方針です」


 リジェナは微笑んだ。


     ◇


 その日の午後、リジェナは店の奥で傷薬を調合した。


 表向きには、支店雇員のための健康確認である。


 実際、雇員の手荒れや腰痛を診る必要はあった。


 表の仕事は本物でなければならない。


 偽りだけでは、長く立てない。


「レスカさん」


 若い雇員が帳簿を抱えて地下へ向かう。


「この仕入れ控え、支店長に確認を」


「受け取ります」


 リジェスカは自然に応じた。


 帝都支店に来て半日。


 二人はもう、店の中に馴染み始めている。


 馴染みすぎないように。


 目立たないように。


 しかし、必要な時に呼ばれる程度には役に立つように。


 それが潜入の基本だった。


 夕方近く、裏口に一人の男が来た。


 油に汚れた作業着。


 工具箱。


 左手の指先に小さな火傷の痕。


 幕間七で訪れた修理工である。


 リジェナは棚の陰から、その歩き方を見た。


 疲労。


 睡眠不足。


 左膝の古い痛み。


 そして、強い警戒。


 エルンストが表の顔で迎える。


「また圧搾機ですか」


「今度は、水回りを」


 修理工は答えた。


 声は普通だった。


 だが、普通であろうとする努力が少しだけ混じっている。


 リジェスカが帳簿を閉じた。


 リジェナは手を洗い、清潔な布を畳む。


 ここから先は、急いではいけない。


 相手が話す前に、こちらが答えを持っている顔をしてはいけない。


 修理工は奥へ通された。


 エルンストが言う。


「こちらは新しく入った医療補助員です。薬材棚の点検を手伝っています」


「リーナと申します」


 リジェナは名を伏せ、頭を下げた。


「こちらは帳簿整理員のレスカです」


「よろしくお願いします」


 リジェスカが礼をする。


 修理工は二人を見た。


 一瞬だけ、目が止まる。


 ただの追加人員を見る目ではなかった。


 期待。


 恐れ。


 それから、言葉にしてはいけない何か。


「……水回りを見ます」


 彼はそう言って、作業場へ入った。


 水桶の下に膝をつき、配管を叩く。


 音が鳴る。


 一度。


 二度。


 間を置いて、三度。


 リジェスカの視界端に、簡易暗号の候補が浮かぶ。


 だが、確定はしない。


 帝都の音は多い。


 思い込みは、死ぬ。


 修理工は、低い声で言った。


「水が滞っています」


「どのあたりで」


 エルンストが問う。


「北側です。流れが細い」


 北側。


 細い。


 リジェナは、手元の布を畳み続けた。


「詰まりは取れますか」


「取れます。ただ、中の状態を見てからです」


 修理工は言った。


「無理に押すと、管が割れる」


 リジェナは、布を置いた。


 アインの言葉が、通信室の中で聞いた命令が、胸の奥で静かに重なる。


 無理はするな。


 無理に押すと、管が割れる。


 同じことを言っている。


「では」


 リジェナは穏やかに言った。


「まず、中の状態を見ましょう」


 修理工の手が、一瞬だけ止まった。


 それから、ほんのわずかに頷いた。


 第一段階が、始まった。


 帝都の夜は、まだ遠くない。


 けれど、細い糸の先にいる人々の輪郭が、ようやく見え始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ