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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第五十夜 派遣判断

第五十夜 派遣判断


 帝都支店で起きた出来事を、リシアたちが知ることはない。


 帝都の夜。


 ベルン商会帝都支店の地下室。


 修理工の工具箱に刻まれた小さな印。


 低階層暗号通信。


 それらは、すべてリシアたちの見えない場所で動いていた。


 けれど、届いたものはある。


 細い糸のような通信が、アークライトへ届き、クラウディアの端末に光を灯した。


 そして今、貸与邸の小談話室には、その光から取り出された情報が置かれている。


 リシアは、卓上の表示を見つめていた。


 技研関係者。


 所在候補。


 家族単位拘束。


 北工廠区外縁。


 予備部品保管庫名義。


 言葉は短い。


 短いからこそ、余白が大きい。


 その余白の中に、人がいる。


 家族がいる。


 戻れない場所に押し込められ、作りたくないものを作らされている者たちがいる。


「確認します」


 クラウディアが言った。


 いつも通り、声は淡々としている。


 だからこそ、部屋の中にある緊張が余計にはっきりした。


「帝都支店からの通信は低階層暗号です。情報量は限定的ですが、発信経路、符丁、現地員署名は正規。虚偽または誘導の可能性は低いと判断します」


「低い、であって、ないわけではない」


 アインが言った。


「はい」


 クラウディアは頷いた。


「帝国側がベルン商会の裏機能を疑い、偽情報を流した可能性はゼロではありません。ただし、今回の情報には鹵獲機の解析結果と一致する要素が含まれます」


 村山フレーム。


 エーテルタンデムパルス機関。


 意図的に壊れやすくされた機体。


 リシアは、その言葉を頭の中で並べた。


 まだ見たことのない機械。


 けれど、その機械が誰かの助けてという声だったのだと考えると、胸が重くなる。


「派遣候補はリジェナ、リジェスカ」


 クラウディアは続けた。


「表向きの身分は、商会医療補助員と帳簿整理員。帝都支店への追加人員として入れます」


 リジェナ。


 リジェスカ。


 医療区画で昼食を運んできた二人。


 リシアたちの前で、包み料理の食べ方を見せてくれた二人。


 低階層情報の範囲を選びながら、静かに話してくれた二人。


 その二人が、帝国の帝都へ行く。


 リシアは、まだその事実をうまく飲み込めなかった。


「本人たちは」


 アインが問う。


「すでに準備に入っています」


「早いな」


「呼び出し時点で、任務内容を推測していました」


 クラウディアは当然のように答えた。


 リシアは思わず目を閉じたくなった。


 やはり、アークライトの人たちは時々、普通の顔で普通ではない。


「危険度は」


 アインが問う。


「高」


 短い答え。


 リシアの指が、膝の上で固まる。


「帝都は人間主義傾向が強く、非人間種、旧ベルカ系技術、外来商会への警戒が高まっています。加えて、戦時体制へ移行中です」


「任務内容は」


「第一段階。技研関係者と家族の所在確認。健康状態の把握。拘束形態の確認。脱出経路候補の洗い出し。救出は行いません」


 救出は行わない。


 その一文に、リシアは少しだけ息を吸った。


 助けに行くのではない。


 助けるために、まず見に行く。


 それは分かる。


 分かるのに、ひどく冷たく聞こえる。


「リシア」


 アインがこちらを見た。


「はい」


「今のが、引っかかったか」


 リシアは一瞬迷った。


 だが、隠しても意味はない。


「はい」


「どこが」


「救出は行わない、というところです」


 言ってしまうと、胸の奥が少し痛んだ。


「助けられるかもしれない人がいると分かっていて、確認だけで戻るのは、冷たいことのように聞こえました」


 部屋が静かになる。


 クラウディアは何も言わない。


 アリシアも。


 ステファニアも、セラも、リシアを見ていた。


 アインは怒らなかった。


 ただ、少しだけ目を伏せる。


「冷たい」


 短く繰り返した。


「はい」


「そうだな」


 リシアは顔を上げた。


 否定されると思っていたわけではない。


 けれど、肯定されるとも思っていなかった。


「助けたいだけで動くと、助けられるものも助けられない」


 アインは言った。


「人質がいる。家族がいる。工廠区には軍がいる。帝国側が罠を張っているかもしれない。場所も人数も健康状態も分からないまま踏み込めば、助ける前に殺される」


 言葉は短い。


 だが、一つ一つが重かった。


「だから、まず見る。数える。道を探す。鍵を探す。守るべき人間が誰かを間違えない」


 アインはリシアを見た。


「冷たい手順だ。だが、温かい気持ちだけでは人は助からない」


 リシアは、何も言えなかった。


 ステファニアが静かに口を開く。


「その冷たさを、誰が引き受けるか、ということですね」


 アインは頷いた。


「そうだ」


「今回は、リジェナ様とリジェスカ様が」


「最初はな」


 最初は。


 リシアはその言葉を聞き逃さなかった。


「殿下は」


 ステファニアが問う。


「どこまで出られるおつもりですか」


 アインは、少しだけ黙った。


 クラウディアが視線を向ける。


 アリシアの扇子が、閉じたまま動かない。


「救出段階になれば出る」


 リシアは息を止めた。


「ただし、今ではない」


「学院は」


 リシアが問う。


「表の顔は保つ」


 アインは答えた。


「ここを崩すと、お前たちの足場が壊れる。ステファニアの件も、聖王国側の窓口も、ユリアの研究も、全部途中だ」


 全部見ている。


 リシアはそう思った。


 アインは、帝都の人質だけを見ているのではない。


 学院の席も、茶会の記録も、ステファニアの痛みも、全部同時に置いている。


 その上で、動く順番を決めている。


「俺が動く時は、表向きに不在の理由を作る」


 アインは続けた。


「クラウ」


「候補は三つあります」


 クラウディアがすぐに答えた。


 早い。


 最初から用意していたのだろう。


「一つ、編入試験第二段階の個別訓練。二つ、ヴェルニア沿岸諸邦からの商会連絡対応。三つ、体調調整を理由にした貸与邸待機」


「三つ目は弱い」


 アインが言う。


「はい。長期には使えません」


「一つ目と二つ目を組み合わせる」


「承知しました」


 会話が速い。


 リシアは、追いつくので精一杯だった。


 だが、少しだけ分かる。


 アインが出る可能性まで、もう布石は打たれ始めている。


「八咫烏は」


 アリシアが初めて口を開いた。


 その名が出た瞬間、空気が変わった。


 八咫烏。


 リシアはその名を、まだ完全には知らない。


 けれど、ただの機体名ではないことは分かる。


 アインが、ほんの少しだけ目を細めた。


「ローランド級に載せる」


「低軌道待機ですか」


 クラウディアが問う。


「必要になったらな」


「降下経路は」


「現地確認後だ」


 短い会話。


 だが、リシアの胸元の端末が、表示を一瞬だけ変えた。


 閲覧制限。


 詳細非表示。


 その二語だけが浮かび、すぐ消える。


 見せられない情報。


 見てはいけない情報。


 けれど、言葉の輪郭だけで、何か恐ろしく大きなものが動こうとしていることは分かった。


「リシア」


 アリシアが呼んだ。


「はい」


「今は、知らなくてよいことですわ」


「……はい」


「ですが、覚えておきなさい」


 アリシアの声は穏やかだった。


「アイン様が後ろにいるということは、何もしないという意味ではありません」


 リシアは、静かに頷いた。


 学院の門の前で、アインは言った。


 ここからは、お前たちの場所だ。


 俺は後ろにいる。


 その言葉を、リシアは守られているという意味で受け取っていた。


 間違いではない。


 けれど、足りなかった。


 後ろにいる者は、見えていない場所で動く。


 前に立つ者を押し出さないために。


 前に立つ者の足元を崩さないために。


 そして、必要な時には、後ろから戦場へ出る。


「派遣を許可する」


 アインが言った。


 クラウディアが頷く。


「リジェナ、リジェスカ両名を、ベルン商会帝都支店へ派遣。任務範囲は第一段階まで。救出行動は禁止。現地支店の安全維持を優先。拘束対象の健康状態、人数、家族構成、移動可能性、警備配置、脱出路候補を確認」


「追加」


 アインが言う。


「無理はするな」


 クラウディアの指が、端末の上で止まった。


 ほんの一瞬。


「その文言を入れますか」


「入れろ」


「承知しました」


 リシアは、その短いやり取りを見ていた。


 無理はするな。


 命令としては曖昧だ。


 けれど、だからこそ重い。


 任務を果たせ。


 ただし、戻れ。


 そう聞こえた。


「殿下」


 セラが口を開いた。


 珍しく、少し迷った声だった。


「はい」


「その、リジェナ様とリジェスカ様は、戦えるのですか」


「戦える」


 アインは答えた。


「だが、戦うために行かせるわけじゃない」


「はい」


「戦う必要が出たら、任務は失敗に近い」


 セラは、真剣な顔で頷いた。


 騎士として、その意味を受け取ったのだろう。


 リシアも受け取った。


 戦える者が戦わずに済ませる。


 それが、今回は正しい。


「ステファニア」


 アリシアが言った。


「はい」


「今日の記録に、今の件は入れません」


 ステファニアは一瞬だけ目を伏せた。


「承知しています」


「けれど、あなた個人の記録には、別の形で残してよいですわ」


「別の形」


「世界には、見えている礼の外で動く仕事がある。そういう記録です」


 ステファニアは静かに頷いた。


「はい」


 リシアは、胸の奥でその言葉を繰り返した。


 見えている礼の外で動く仕事。


 それは、今日のすべてに繋がっている。


 茶会。


 書状。


 席次。


 個人記録。


 帝都支店。


 派遣判断。


 表と裏。


 どちらかだけでは、世界は動かない。


 クラウディアが端末を閉じた。


「派遣命令を送信します」


「送れ」


 アインが言った。


 淡い光が一度だけ走る。


 それだけだった。


 命令は、言葉として置かれた。


 だが、その先には人が動く。


 リジェナとリジェスカが、白い医療区画を出て、帝都の夜へ向かう。


 リシアは、まだその姿を想像できなかった。


 けれど、祈るような気持ちだけはあった。


 無事に戻ってほしい。


 その単純な願いを、口にしてよいのか迷った。


 すると、アインがぽつりと言った。


「戻ってこい」


 誰に向けた言葉なのか。


 この場にはいない二人へか。


 それとも、これから帝都へ伸びていく細い糸へか。


 分からない。


 けれど、リシアはその言葉を聞いて、少しだけ息がしやすくなった。


 冷たい手順の中にも、願いは置ける。


 そう思えたからだ。


 窓の外では、学院の白い壁が夕方の光を受けていた。


 その向こうで、戦火はまだ遠い。


 遠いはずだった。


 だが、細い糸はもう繋がっている。


 リシアは、その糸から目を逸らさないと、改めて心に決めた。


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