幕間七 帝都支店の夜
# 幕間七 帝都支店の夜
グランカーン帝国の帝都では、夜でも灯りが落ちない。
石畳の大通りには街灯が並び、官庁街の塔には赤い警戒灯が淡く瞬いている。
軍用馬車が走り、伝令が行き交い、酒場の奥では戦況を語る声が低く漏れる。
東方の戦火は、まだ帝都の城壁を焦がしてはいない。
それでも、空気はすでに戦時のものだった。
ベルン商会帝都支店は、その大通りから二本外れた商業区にある。
表向きは、香辛料、薬材、工芸品を扱う中規模商会。
店先には乾燥香草の束が吊るされ、奥の棚には異国風の瓶詰めや布地が並ぶ。
帝都の者から見れば、少し高級で、少し変わった品を扱う地方商人。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも、表向きは。
閉店後の帳場で、支店長のエルンスト・ヴァイドは帳簿を閉じた。
五十を少し過ぎた男である。
灰色の髪を後ろでまとめ、商人らしい柔らかな笑みを身につけている。
帝都では、その笑みが役に立つ。
役人相手にも。
兵士相手にも。
値切りを覚えた貴族家の使用人相手にも。
そして、何も知らないふりをする時にも。
「支店長」
帳場の奥から、若い店員が顔を出した。
名をニルスという。
帝都生まれの人間で、表向きは雇われの帳簿係。
裏では、ベルン商会帝都支店の連絡員だった。
「裏口に、例の修理工が」
エルンストは頷いた。
「通しなさい」
店の裏口から入ってきたのは、油に汚れた作業着の男だった。
年齢は四十前後。
目元に疲労があり、左手の指先に小さな火傷の痕がある。
帝都の下町にいる機械工としては、珍しくない姿だ。
ただし、その男が持っていた工具箱には、普通なら気づかないほど浅い刻印があった。
円の中に、斜めに走る二本の線。
その片方だけが、わずかに途切れている。
エルンストはそれを見た。
見たが、見なかった顔をした。
「遅くまでご苦労様です」
「こちらこそ。奥の圧搾機が不調と聞きまして」
修理工は、帝都訛りの強い声で答えた。
ニルスが裏の作業場へ案内する。
エルンストは帳場の灯りを一つ落とし、表の扉に内鍵をかけた。
作業場には、古い薬材圧搾機がある。
実際に壊れていた。
それがよかった。
嘘だけの用件は、見破られやすい。
修理工は圧搾機の外板を外し、内部の歯車を見た。
「噛み合わせがずれていますね」
「直りますか」
「部品があれば」
「部品なら、いくつか」
ニルスが棚から小箱を下ろす。
その中には、交換用の歯車と、薄い金属板と、一本の細い棒が入っていた。
修理工は細い棒を見た。
手を止める。
ほんの一呼吸。
それだけだった。
だが、エルンストには十分だった。
細い棒には、ベルカ標準文字で、ごく小さく一語だけ刻まれている。
ベルン。
皇都の名。
今の時代では、ただの古い地名として扱われることもある。
だが、知っている者には違う。
修理工は歯車を手に取り、声を落とした。
「この部品は、どちらから」
「西からです」
エルンストは答えた。
「かなり遠い西から」
修理工の喉が、わずかに動いた。
「……遠い西」
「ええ。古い縁を辿って、ようやくこちらへ届きました」
沈黙。
修理工は歯車を圧搾機へ組み込みながら、低く言った。
「私は、ただの修理工です」
「もちろん」
「けれど、工場には古い機械が残っています」
「古い機械は、大切にすべきです」
「使える者が少ない」
「それは困りました」
「使える者は、別の場所に集められています」
エルンストは顔を変えなかった。
「修理のために?」
「ええ。修理のために」
修理工は歯車を固定する。
金属が小さく鳴った。
「家族も一緒です。逃げると、古い機械が止まるから」
ニルスの指が、わずかに動いた。
エルンストはその動きを目だけで止める。
ここで感情を出してはいけない。
帝都の壁は、耳を持つ。
「その工場は、どのあたりに」
「北工廠区の外れです」
修理工は、圧搾機の油を拭き取った。
「ただし、工場の名はありません。表向きは予備部品保管庫。門番は軍所属。夜間の搬入が多い」
「古い機械の持ち主は」
「二人」
短い答えだった。
「一人は設計を見る。もう一人は音を聞く」
エルンストは、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。
設計を見る者。
音を聞く者。
村山技研の主任設計士と、チーフエンジニア。
名を口にする必要はない。
口にしてはならない。
「健康状態は」
「生きています」
修理工は言った。
「ただ、長くはよくない。家族を押さえられている。作るものを選べない」
「最近、特別な機械を作りましたか」
修理工の手が止まった。
今度は、さっきより長い沈黙だった。
「作らされました」
「どのような」
「帝国の騎士様が乗る、立派な玩具です」
その言い方には、わずかな毒があった。
「ただし、骨だけは古い」
「骨」
「軽く、強く、しなやかに曲がる。折れる前に逃がす。分かる者なら、骨を見れば誰の仕事か分かる」
エルンストは、ゆっくり息を吸った。
「壊れやすかったと聞いています」
「壊れるように作ったのでしょう」
修理工は淡々と言った。
「壊れて、残るように」
「残る」
「骨と心臓だけは、見れば分かる形で」
エルンストは目を伏せた。
村山フレーム。
エーテルタンデムパルス機関。
救難信号。
彼らは、気づかれるために作ったのだ。
誰に。
決まっている。
その名を、この帝都で口にしてはならない。
けれど、修理工は小さく言った。
「ベルン商会という名を聞いた時、老人が笑いました」
エルンストは顔を上げた。
「老人?」
「設計を見る方です」
修理工は、圧搾機の外板を戻し始める。
「笑って、こう言いました。ならば、戻られたのかもしれん、と」
ニルスが息を止めた。
エルンストは、何も言わなかった。
何も言えなかった。
「誰が、とは聞いていません」
修理工は続ける。
「聞けば、答えを持っていることになる」
「賢明です」
「その老人は、もう一人に言いました。音を、昔のままにしておけ、と」
「音」
「心臓の音です。出力を上げれば帝国の連中は喜ぶ。だが、分かる者には、違う音が聞こえるようにした」
修理工は最後のねじを締めた。
「私はただの修理工です。詳しいことは知りません」
「ええ」
エルンストは頷く。
「あなたは、圧搾機を直しに来ただけです」
「そうです」
圧搾機が動いた。
低く、規則正しい音。
修理工は耳を澄ませる。
そして、小さく頷いた。
「直りました」
「助かりました」
エルンストは代金袋を差し出した。
修理工は受け取らない。
「部品代だけで結構です」
「職人の手間を軽んじる商会ではありません」
修理工は少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
「では、いただきます」
彼は代金袋を工具箱へ入れた。
その時、ニルスが棚から香草の小袋を取った。
「奥様へ」
修理工の目が、一瞬だけ揺れた。
「よく眠れる香草です」
「……ありがたい」
「表の品です」
ニルスは言った。
「それ以上ではありません」
修理工は深く頭を下げた。
そして、裏口から夜へ消えた。
◇
修理工が去ってから、エルンストは地下室へ降りた。
ベルン商会帝都支店の地下は、表向きは保存庫である。
薬材は湿気を嫌う。
香辛料は熱を嫌う。
高価な工芸品は盗難を嫌う。
だから、地下に保管庫がある。
その説明は、すべて本当だった。
ただし、地下室の奥の壁は、もう一枚ある。
ニルスが灯りを三度、短く絞った。
壁の一部が静かに開く。
奥に、小さな通信室があった。
アークライトの技術をそのまま置くことはできない。
それは危険すぎる。
だから、この部屋にあるのは、現代技術の顔をした旧ベルカ式の残り香だった。
魔石通信器。
暗号板。
紙の帳簿。
すべて、帝都の目に触れても説明できる形に偽装されている。
エルンストは椅子に座り、暗号板を開いた。
「送りますか」
ニルスが問う。
「送る」
エルンストは答えた。
「低階層でよい。深く潜らせるな」
「低階層ですと、情報量が限られます」
「十分だ」
深い暗号層を使えば、アークライト側へより多くの情報を送れる。
だが、深いほど痕跡も特殊になる。
今はまだ、その段階ではない。
帝都の中で、ベルン商会はただの商会でなければならない。
エルンストは短く文面を組んだ。
技研関係者の所在候補を確認。
北工廠区外縁、予備部品保管庫名義。
家族単位での拘束情報あり。
主任設計士一名、音響系技術者一名、生存可能性高。
帝国魔導騎装に救難意図あり。
現地協力者接触済み。
潜入調査要員の派遣を要請。
リジェナ、リジェスカ両名を推奨。
ニルスが文面を確認する。
「なぜ、この二名を」
「医療と記録、情報収集に強い。表向きの身分を作りやすい。帝都の人間主義の中でも、必要な場所へ入り込める」
エルンストは一度、言葉を止めた。
「それに、あの二人は人の顔を覚える。声を覚える。痛みの出方を覚える」
「救出対象の確認に向いている」
「そうだ」
ニルスは頷いた。
通信器が淡く光る。
短い暗号文が、細い糸のように帝都の夜を抜けていく。
送り先は、遠い。
遠いが、届く。
ベルン商会の名は、そのために置かれている。
商会。
帳簿。
香草。
部品。
修理工。
どれも表の顔だ。
だが、その下に別の道がある。
エルンストは通信器の光が消えるのを見届けた。
「支店長」
ニルスが低く言う。
「もし、帝国側に気づかれたら」
「気づかれないようにする」
「それでも」
「その時は、店を焼く」
エルンストは淡々と言った。
ニルスは黙った。
「帳簿は?」
「第二保管庫へ移しています」
「表の雇員は」
「明日の朝、仕入れ先回りの名目で半数を外へ出せます」
「よろしい」
エルンストは椅子から立ち上がった。
帝都の夜は、まだ明るい。
だが、明るい場所ほど影は濃くなる。
◇
同じ頃、遠く離れたアークライトの医療区画では、リジェナが小さくくしゃみをした。
「風邪ですか」
リジェスカが書類から顔を上げる。
「いいえ。誰かが噂をしているのかもしれません」
「その発想は地上寄りです」
「最近、地上の方々と話すことが増えましたから」
リジェナは笑った。
白い医療区画。
清潔な床。
整えられた薬品棚。
静かに並ぶ診療端末。
そこにいる二人は、いつも通りの灰白色の服を着ていた。
看護担当。
患者対応。
記録整理。
情報分析。
その顔は、どれも本物だ。
だが、それだけではない。
壁際の端末が、淡く光った。
リジェスカが目を向ける。
「クラウディア様から、呼び出しです」
「内容は」
「低階層暗号通信の確認。帝都支店。技研関係者。派遣準備」
リジェナの笑みが、すっと消えた。
柔らかな看護担当の顔から、別の顔へ変わる。
リジェスカも、書類を閉じた。
「行きますか」
「行きます」
答えは同時だった。
二人は互いを見た。
それから、いつものように小さく頷く。
「患者担当の引き継ぎを」
「五分で」
「装備確認」
「十七分」
「現地身分」
「商会医療補助員と、帳簿整理員が妥当です」
「では、その顔で」
「はい」
二人は歩き出した。
廊下の先に、医療区画の白い光が続いている。
そのさらに向こうには、帝都の夜がある。
リジェナは、少しだけ目を細めた。
昼食を運ぶ手も。
茶器を置く指も。
傷を押さえる掌も。
必要なら、別の仕事をする。
それが、彼女たちの役目だった。
ベルン商会帝都支店からの細い糸は、アークライトへ届いた。
次は、その糸を辿る者が要る。
リジェナとリジェスカは、白い廊下を静かに進んでいった。




