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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第四十九夜 心の置き場所

第四十九夜 心の置き場所


 貸与邸へ戻る頃には、午後の光が少し傾いていた。


 学院本館の白い廊下を抜け、庭を横切り、見慣れ始めた門をくぐる。


 たったそれだけの道のりなのに、リシアにはずいぶん遠くから帰ってきたように感じられた。


 小茶会は終わった。


 終わったはずだった。


 けれど、胸元の首飾りは、まだ静かに表示を残している。


 追加確認事項、三件。


 その文字が、妙に重い。


「三件、ですか」


 リシアが呟くと、隣を歩いていたステファニアが小さく頷いた。


「私にも表示されています」


「同じものが?」


「おそらく」


 ステファニアは視線を少しだけ上げた。


 何かを読むように。


「一つ目は、ジークフリート殿下本人の発言と、書状文面の照合。二つ目は、アルヴィン様による席次と進行の意図。三つ目は、ミリア様の研究院橋渡し発言の扱い」


 すらすらと出てきた。


 リシアは首飾りを見下ろす。


 自分の表示には、そこまで細かく出ていない。


 追加確認事項、三件。


 それだけだ。


「ステファニア様の表示、詳しくありませんか」


「詳しい、のでしょうか」


 本人は本気で分かっていない顔をしている。


 リシアはクラウディアを見た。


 クラウディアは貸与邸の玄関先で待っていた。


 いつもの顔だ。


 つまり、分かっていた顔である。


「お戻りなさいませ」


「ただいま戻りました」


 リシアが答えると、クラウディアは全員を一度見た。


「身体的異常はありません。精神負荷は高めですが、想定範囲です」


「想定範囲」


 セラが繰り返した。


「はい」


「茶会とは、思っていたより体力を使うものなのですね」


「相手によります」


 クラウディアは淡々と答えた。


 リシアは少し笑いそうになった。


 笑うには疲れていた。


「小談話室に準備してあります」


 クラウディアは続けた。


「茶会後の記録整理を行います」


「また会議ですね」


「はい」


 否定はなかった。


 小談話室には、すでに茶器と軽い菓子が置かれていた。


 丸卓の中央には、今日の小茶会に関する記録の写し。


 貸室記録。


 参加者名簿。


 ジークフリートの本人書状。


 ステファニアの返書。


 クラウディアが作成した時系列表。


 それらが、きれいに並んでいる。


 小茶会の余韻というより、証拠品の確認に近い。


 リシアは椅子に座りながら、少しだけ肩を落とした。


「今日のお茶菓子は、普通にいただいてよいものですか」


「はい」


 クラウディアが答える。


「毒物、薬物、情報的罠の検出はありません」


「情報的罠」


 リシアは思わず繰り返した。


「菓子にもあるのですか」


「場合によります」


 聞くのではなかった。


 セラはすでに菓子を一つ手に取っている。


「美味しいです」


 強い。


 やはりセラは強い。


 クラウディアが端末に触れると、卓上に淡い文字が浮かんだ。


 一つ目。


 ジークフリート本人発言と書状文面の照合。


「まず、ここからです」


 クラウディアが言った。


「ジークフリート殿下の発言は、本人書状の内容とおおむね一致しています。ステファニア様への詫び、婚約者としての同席願い、東方戦火に伴う王家筋確認の説明。矛盾はありません」


「よかった、で終わらないのですね」


 リシアが言うと、アリシアが微笑んだ。


「終わりませんわ」


 でしょうね。


 リシアは心の中で頷いた。


「問題は、矛盾がないことではありません」


 クラウディアが続ける。


「本人発言が、書状で整えられた範囲をほぼ出なかったことです」


 ステファニアが静かに目を伏せた。


 リシアにも分かった。


 今日のジークフリートは、確かに詫びた。


 ステファニアを婚約者として扱った。


 名を呼び、席を用意し、言葉を整えた。


 けれど、その多くは、書状に書かれていた範囲だった。


 書状で整えられた正しさを、本人が口にした。


 それは必要なことだ。


 だが、それ以上ではない。


「つまり」


 リシアは言葉を探した。


「間違いを直そうとはしているけれど、何が痛かったのかまでは、まだ見えていない」


 ステファニアの指が、膝の上でわずかに動いた。


 アリシアが扇子を開く。


「八割ですわ」


「下がりました」


「内容が重くなりましたもの」


 今日二度目である。


 リシアは少しだけ息を吐いた。


「でも、そういうことですわね」


 アリシアは続けた。


「謝罪は、形だけでも意味があります。けれど、相手の痛みを見ていない謝罪は、次に同じ種類の傷を作ります」


 ステファニアは何も言わなかった。


 リシアは、彼女の横顔を見る。


 美しい横顔だった。


 整っていて、静かで、感情をこぼさない。


 だからこそ、周囲は誤解するのかもしれない。


 痛くないのだと。


 傷ついていないのだと。


「二つ目です」


 クラウディアが表示を切り替えた。


 アルヴィン・ラーデンによる席次と進行。


 卓上に、小応接室の配置図が浮かぶ。


 誰がどこに座ったか。


 誰の後ろに誰が立ったか。


 誰が茶を注いだか。


 誰の視線がどの順番で動いたか。


 リシアは少しだけ頭が痛くなった。


 視線まで記録されている。


 いや、クラウディアなら記録する。


 当然のように。


「席次は礼法上、問題ありません」


 クラウディアが言った。


「ステファニア様は婚約者としてジークフリート殿下の右隣。リシア様はファーランド公女として左。アリシア様はリシア様の隣。ユリア様は記録役として小卓近く。アイン様、セラ様は随行者として会話可能な位置。整っています」


「整っているけれど」


 リシアは言った。


「整えた人が見える」


「はい」


 クラウディアは頷いた。


「アルヴィン・ラーデン様は有能です。少なくとも、礼法上の欠けを埋める能力はあります」


「それは、良いことではありませんか」


 セラが問う。


「良いことです」


 クラウディアは答えた。


「ただし、側近が整えることで殿下本人の不足が見えにくくなる場合があります」


 アインが壁際で短く言った。


「盾だな」


「はい」


 クラウディアが即答する。


「ただし、悪い盾とは限りません。主の未熟を補い、相手への失礼を減らす盾です」


「だが、盾の後ろに立ったままだと、本人は撃たれない」


 アインは言った。


「撃たれないと、どこが危ないか覚えない」


 部屋が静かになった。


 リシアは、その言葉をゆっくり受け取った。


 ジークフリートは今日、アインの言葉を聞いていた。


 耳が痛い、と言った。


 痛いなら、まだ聞こえている。


 あれは、やはり助言だった。


 かなり痛い助言だったけれど。


「三つ目」


 クラウディアが表示を変える。


 ミリア・セルヴィンの研究院橋渡し発言。


 リシアは自然に背筋を伸ばした。


「これは、私も気になりました」


「理由は」


 クラウディアが問う。


 試験のようだ。


 だが、もう慣れ始めている自分がいる。


「ミリア様が、ジークフリート殿下の言葉にとても速く反応しました」


 リシアは言った。


「それ自体は悪くありません。けれど、ユリア様の研究を、ジークフリート殿下の周囲が橋渡しするものとして置きかけました」


 クラウディアは黙って聞いている。


「あのまま進むと、ユリア様の研究が、ジークフリート殿下の助力で研究院へ繋がったものになる可能性があります」


「続けて」


「ですから、ユリア様本人が研究院へ相談する形に戻しました」


 リシアは一度、ステファニアを見る。


「ステファニア様が、ユリア様の研究はユリア様のものだと言ってくださったので、場の中心が戻りました」


 ステファニアは静かに首を振った。


「リシア様が先に戻してくださったからです」


「いえ」


「そこは譲らなくてよいですわ」


 アリシアが笑った。


「二人とも正しいです」


 セラが言った。


 全員の視線がセラへ向く。


 セラは菓子を持ったまま、真面目な顔をしていた。


「リシア様が道を戻して、ステファニア様がそこに杭を打ちました」


 沈黙。


 アリシアが、扇子の奥で目を細めた。


「今のは、かなりよろしいですわね」


「ありがとうございます」


 セラは素直に頷いた。


 リシアは、少しだけ笑った。


 セラは時々、最短距離で本質を踏む。


 それを本人が自覚しているかは、分からない。


「評価としては」


 クラウディアがまとめる。


「ミリア・セルヴィン様は、ジークフリート殿下への近さを示す動きがまだ残っています。ただし、こちらからの置き直しには即座に反発せず、引きました」


「悪意は」


 ステファニアが問う。


「断定できません」


 クラウディアは答えた。


「役割意識、好意、習慣、周囲から与えられた立ち位置。複数要因が混ざっている可能性があります」


「そうですか」


 ステファニアは静かに頷いた。


 その声に、少しだけ疲れがあった。


 リシアは、手元の茶器を見た。


 ここで「大丈夫ですか」と聞いてはいけない。


 そう学んだ。


「ステファニア様」


「はい」


「今夜、少し歩きませんか」


 ステファニアが瞬きをする。


「歩く、ですか」


「はい。記録を見直した後で、庭を少しだけ。何かを決めるためではなく」


 リシアは少し考えた。


「頭の中の席を、一度片付けるために」


 ステファニアは、ゆっくり微笑んだ。


「お願いいたします」


 アリシアが満足そうに頷く。


「九割ですわ」


「そこは九割なのですね」


「ええ。人は記録だけで生きるものではありませんもの」


 リシアは、その言葉を少し意外に思った。


 アリシアが言うと、重みが違う。


 千五百年分、違う。


 クラウディアが端末を閉じた。


「以上三件。茶会後整理として記録します」


「学院側へ出すものは」


 アインが問う。


「ありません。学院内正式貸室の使用記録と、表向きの親睦記録で十分です」


「内側は」


「アークライト側解析記録、ファーランド側共有記録、ステファニア様個人記録に分けます」


 ステファニアが少し顔を上げた。


「私の、個人記録ですか」


「はい」


 クラウディアは当然のように答える。


「今回の件は、政治記録であると同時に、ステファニア様ご自身が後で読み返すための記録でもあります。外へ出す記録と、自分の痛みを見失わないための記録は分けるべきです」


 部屋が静かになった。


 ステファニアは、しばらく何も言わなかった。


 それから、小さく息を吸う。


「……お願いします」


「承知しました」


 クラウディアは淡々と頷いた。


 けれど、その淡々とした声が、今は少し優しく聞こえた。


 リシアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 その時だった。


 クラウディアの端末が、短く光った。


 音はない。


 ただ、光だけ。


 それだけで、空気が変わった。


 アインが顔を上げる。


 アリシアの扇子が止まる。


「クラウ」


 アインが短く呼んだ。


「はい」


 クラウディアは端末を確認した。


 目の動きが、ほんの少しだけ速くなる。


 リシアには、それだけで普通の連絡ではないと分かった。


「ベルン商会帝都支店から、低階層暗号通信です」


 帝都。


 リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 グランカーン帝国。


 戦火。


 村山フレーム。


 遠い戦場の裏側にあると思っていたものが、細い糸となってこの部屋へ伸びてきたような感覚があった。


「内容は」


 アインが問う。


「現地協力者より、技研関係者の所在候補を確認。家族単位での拘束情報あり。確認者は、商会帝都支店所属の現地員」


 クラウディアはそこで一度、言葉を切った。


「追加で、リジェナ、リジェスカ両名の派遣準備を提案しています」


 リジェナ。


 リジェスカ。


 リシアの中で、医療区画の昼食の記憶が浮かぶ。


 器を運び、茶を淹れ、静かに情報を置いた二人。


 あの二人が、帝国へ。


「危険なのですか」


 リシアは思わず聞いていた。


 クラウディアは、こちらを見る。


「はい」


 迷いのない答えだった。


「ですが、適任です」


 リシアは言葉を失った。


 危険。


 適任。


 その二つが、同じ高さで置かれる。


 それがアークライトなのだと、分かっていたはずなのに。


 アインは目を伏せた。


 ほんの短い沈黙。


「準備だけ進めろ」


 短く言った。


「実行判断は俺がする」


「承知しました」


 クラウディアが答える。


 アリシアは何も言わなかった。


 ただ、扇子を閉じる。


 小さな音だった。


 その音が、リシアには奇妙にはっきり聞こえた。


 茶会の記録整理は終わった。


 けれど、世界は待ってくれない。


 学院の白い壁の外では、戦火が動いている。


 そして、アークライトの名を知る者たちが、千五百年の向こう側から、まだ声を上げようとしている。


 リシアは、卓上の記録と、クラウディアの端末を見比べた。


 心の置き場所。


 茶会でアリシアが言った言葉が、胸の中で戻ってくる。


 人の心も。


 記録も。


 戦火も。


 置き場所を間違えれば、意味が変わる。


 ならば、次に何をどこへ置くのか。


 リシアは、まだ答えを持っていなかった。


 ただ、目を逸らさないことだけは、もう決めていた。


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