第五十五夜 周囲の言葉
第五十五夜 周囲の言葉
翌朝、貸与邸の食堂は少し静かだった。
静か、というより、誰も余計な言葉を足さなかった。
ステファニアが自分で線を引いた翌朝である。
リシアは、温かい茶を両手で包みながら、その静けさをありがたく思っていた。
励ましすぎない。
気遣いすぎない。
何もなかったことにもしない。
その加減は、思ったより難しい。
セラは、いつも通りよく食べている。
けれど、今日はステファニアの方を何度も見ない。
見ないようにしているのが分かる。
それが、少しだけ可愛らしくもあった。
「セラ」
ステファニアが声をかけた。
「はい」
「気にしてくださっているのは分かりますが、そこまで不自然に見ないようにしなくても大丈夫です」
セラは、包み料理を手にしたまま固まった。
「不自然でしたか」
「とても」
「申し訳ありません」
「謝らなくてよいです。少し面白かったので」
ステファニアが、ほんのわずかに笑った。
リシアは、その笑みを見てほっとした。
心臓が痛いと言っていた。
それでも、笑える。
線を引くというのは、相手を遠ざけるだけではないのかもしれない。
近くにいる人が、どこまで近づいてよいかを知るためのものでもある。
「よい変化ですわ」
アリシアが紅茶を置きながら言った。
「線は壁ではありません。扉の位置を示すものです」
リシアは、その言葉を覚えた。
線は壁ではない。
扉の位置。
「では、踏み越えた場合は」
セラが真面目に問う。
アインが小さく息を吐いた。
「まず一呼吸」
「はい」
「そのあと、相手を見る」
「はい」
「それでも踏み越えてくるなら、止める」
「剣で」
「最後だ」
「最後」
セラは真剣に頷いた。
「順番を覚えます」
リシアは少し笑った。
クラウディアが端末に何かを記録している。
「クラウディア様」
「はい」
「今のも記録するのですか」
「必要です」
「セラの剣を抜く順番がですか」
「はい。重要です」
真顔だった。
セラが少し誇らしげな顔をした。
ステファニアは、今度ははっきり笑った。
◇
学院本館へ向かう道で、リシアたちはジークフリート本人には会わなかった。
代わりに、彼の周囲にいる学生たちの視線をいくつも受けた。
王家筋の学生。
騎士家の子息。
宮廷官僚を父に持つ者。
そして、ジークフリートとミリアの距離を見て、勝手に物語を作ってきた者たち。
昨日までの噂とは、少し違う。
ファーランドの処断ではない。
今朝の視線は、ステファニアへ向いていた。
婚約者が線を引いた。
殿下が黙って読んだ。
ミリアが謝ったらしい。
そんな薄い断片が、もう誰かの口を渡っているのだろう。
リシアの首飾りが、いくつもの注視を拾う。
だが、リシアは表示を深追いしなかった。
見えるものすべてを拾えば、かえって見失う。
「おはようございます」
廊下の角で、オスカー・ベルトランが礼をした。
ジークフリートの小茶会にも同席していた騎士家の学生である。
姿勢は正しい。
ただし、顔には明らかな迷いがあった。
「おはようございます、ベルトラン様」
リシアが返す。
オスカーは一度、ステファニアへ視線を向けた。
「レーヴェンハイト様」
「はい」
「昨日から、殿下の周囲で少々言葉が荒れております」
正直な切り出しだった。
リシアは少し意外に思った。
アリシアの扇子は動かない。
「荒れている、とは」
ステファニアが問う。
「殿下が配慮を示されているにもかかわらず、婚約者側が距離を取りすぎているのではないか、という者がいます」
リシアの胸の奥が、すっと冷えた。
やはり、そうなる。
ジークフリート本人が言葉を選び直しても、周囲は古い物語を続ける。
王子が歩み寄った。
婚約者が受け取らない。
そういう形にしてしまえば、考えることは少なくて済む。
「ベルトラン様は、どうお考えですか」
アリシアが穏やかに問う。
オスカーは少しだけ背筋を伸ばした。
「私は、距離を測り直している段階だと見ています」
「理由は」
「殿下が、これまで距離の測り方を側近任せにしていたためです」
廊下が一瞬、静かになった。
かなり率直だった。
オスカー自身も、それを理解している顔をしている。
「続けなさい」
アリシアが言った。
「はい」
オスカーは、慎重に言葉を選ぶ。
「私は殿下に忠誠を持つ立場です。ですが、忠誠とは、殿下に都合のよい解釈だけを差し出すことではないと思っております」
リシアは、少しだけ目を見開いた。
この人は、思ったより踏み込む。
「殿下の周囲には、殿下の善意を正しい結果として扱いたがる者が多い。善意があれば相手は受け取るべきだ、と」
オスカーの声は低い。
「しかし、受け取るかどうかは相手の権利です」
ステファニアは、静かに彼を見ていた。
「その考えを、殿下へ伝えましたか」
「まだです」
オスカーは正直に答えた。
「伝え方を誤れば、殿下への諫言ではなく、周囲への攻撃になります」
「では、なぜ私たちへ」
「先に、誤った言葉が届く可能性があるためです」
オスカーは深く頭を下げた。
「私は止めきれないかもしれません。ですが、少なくとも、全員が同じ考えではないことをお伝えしたかった」
その言葉は、不器用だった。
だが、誠実だった。
リシアは、そう感じた。
「ありがとうございます」
ステファニアが言った。
「ただし、ベルトラン様」
「はい」
「私たちに先に伝えたことは、殿下の周囲に戻せば、あなた自身の立場を難しくします」
「承知しています」
「では、記録に残す形で、殿下へも同じ趣旨をお伝えください」
オスカーは顔を上げた。
「記録に」
「はい。口頭では、後から意味が変わります」
ステファニアの声は静かだった。
「あなたが何を憂慮し、何を攻撃するつもりがないのか。それを残した方がよいと思います」
オスカーはしばらく黙った。
それから、深く礼をした。
「ご助言、感謝いたします」
彼は去っていった。
その背を見送りながら、リシアは息を吐いた。
「また、一つ増えましたね」
「ええ」
アリシアが言う。
「周囲の言葉ですわ」
◇
午前の講義後、問題は実際に起きた。
廊下ではなく、食堂へ向かう階段の踊り場だった。
数人の学生が集まっている。
中心にいたのは、王都貴族家の令嬢だった。
名はイレーネ・バルシュ。
リシアは、直接話したことはほとんどない。
ただ、ジークフリート周辺の顔合わせで何度か見かけたことがある。
彼女は、リシアたちを見ると、礼をした。
形は正しい。
だが、目の奥に、奇妙な熱があった。
「レーヴェンハイト様」
イレーネが言った。
「少し、よろしいでしょうか」
ステファニアは足を止める。
「短くであれば」
「ジークフリート殿下は、あなたを大切に思っていらっしゃいます」
最初の一文で、リシアは嫌な予感がした。
大きすぎる言葉だ。
そして、本人の言葉ではない。
「殿下は、あなたを支えようとなさっている。それなのに、あまりに距離を置きすぎては、殿下がお気の毒です」
空気が固まる。
セラの足が、半歩だけ動いた。
アインの視線が、すっと横へ流れる。
セラは止まった。
一呼吸。
ちゃんと一呼吸した。
リシアは、そこに一瞬だけ感心しそうになったが、今はそれどころではなかった。
「バルシュ様」
ステファニアは、静かに言った。
「そのお言葉は、ジークフリート殿下から託されたものですか」
イレーネが一瞬、詰まった。
「いえ、ですが」
「では、あなたのお考えですね」
「私は、殿下をお慕いする者として」
「お慕いすることと、殿下の言葉を代弁することは別です」
ステファニアの声は、柔らかい。
だが、リシアには分かった。
昨日、ミリアへ線を引いた時より、さらに明確だ。
「私は、殿下ご本人の言葉であれば受け取ります。殿下が誰かへ託した言葉であれば、その方から託されたと確認して受け取ります」
ステファニアは、イレーネをまっすぐ見た。
「ですが、あなたの解釈を、殿下の思いとして受け取ることはできません」
踊り場が静まり返った。
周囲の学生たちが息を潜めている。
イレーネの頬が赤くなった。
「私は、ただ」
「はい。お気持ちは分かりました」
ステファニアは遮らなかった。
ただ、受け取る場所を変えた。
「ですが、そのお気持ちは、私ではなく殿下へお伝えください。殿下を支えたいと思うのであれば、殿下がどのような言葉を周囲へ望んでいるのか、まずご本人に確認なさるべきです」
リシアは、胸の奥で静かに息を吸った。
強い。
怒鳴っていない。
責め立てていない。
けれど、相手の言葉を、相手のものとして返している。
「失礼いたします」
ステファニアは礼をした。
リシアも続く。
アリシアは、ほんの少しだけ微笑んでいた。
その微笑みが一番怖かった。
◇
食堂に着いてから、リシアはようやく息を吐いた。
「ステファニア様」
「はい」
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
昨日と同じ答えだった。
けれど、少し違う。
「ですが、言えました」
「はい」
リシアは頷いた。
「とても、言えていました」
セラが真面目な顔で言う。
「わたしも一呼吸できました」
「ええ。見事でした」
ステファニアが言うと、セラは少しだけ誇らしげになった。
アインが席につきながら言った。
「今のは、周囲が踏み越えた」
「はい」
ステファニアが頷く。
「殿下ご本人ではありません」
「だが、放置すれば本人の責任になる」
リシアは、その言葉に重さを感じた。
周囲の言葉。
誰かが勝手に言ったこと。
けれど、それが繰り返されれば、中心にいる者の責任になる。
「記録します」
ステファニアが言った。
「バルシュ様の発言として。殿下の発言とは分けます」
「それがよいですわ」
アリシアが頷く。
「ただし、ジークフリート殿下にも伝わる形にすること」
「はい」
「本人が知らなかった、と言えるうちに知らせるのです」
リシアは、アリシアを見た。
知らなかった、と言えるうち。
それは、少しだけ優しい。
そして、非常に冷たい。
猶予を与える言葉だからだ。
猶予が過ぎれば、知らなかったでは済まなくなる。
◇
貸与邸へ戻ると、クラウディアはすでに概要を把握していた。
「踊り場での接触ですね」
「なぜ、もう」
リシアは思わず言った。
「学院内公共区域の安全記録に残っています」
クラウディアは当然のように答える。
「学院側記録への干渉はしていません。閲覧可能範囲の確認のみです」
「確認が早すぎます」
「必要でしたので」
またその言葉だった。
アインが、もう突っ込む気もない顔をしている。
「分類します」
クラウディアは端末を操作した。
「発言者、イレーネ・バルシュ。ジークフリート王子からの伝言ではなく、本人の解釈。内容は、ジークフリート王子の善意を根拠に、ステファニア様へ距離の縮小を求めるもの」
「距離の縮小」
ステファニアが小さく繰り返した。
「はい」
クラウディアは続ける。
「問題点は三つ。伝言の所有者不明化。善意を根拠とする受容圧。周囲発言による本人責任化の予兆」
リシアは、記録板の文字を見た。
怖いほど整理されている。
だが、確かにそうだ。
「殿下へは」
ステファニアが問う。
「学院内連絡路で、事実のみを通知するのが妥当です」
クラウディアが答える。
「抗議ではなく、確認。発言者、発言場所、発言内容、こちらの応答。加えて、ジークフリート王子本人の意向によるものではないと理解している、と添える」
「逃げ道を残すのですね」
リシアが言った。
「はい」
アリシアが微笑む。
「逃げ道ではなく、戻り道ですわ」
戻り道。
アインの言葉と繋がる。
線を引けるなら、まだ戻れる。
踏み越えれば戻れない。
ならば、今は戻り道を示す段階なのだ。
「書きます」
ステファニアが言った。
昨日より、少し早かった。
もう、誰かに線を任せない。
それが、彼女の中に根を張り始めている。
リシアは、その横で静かに頷いた。
◇
その夜、ジークフリートから返信が届いた。
今度は早かった。
文面は短い。
イレーネ・バルシュの発言は、自分が託したものではない。
自分の周囲の言葉として、責任を持って注意する。
ステファニアへ、不要な負担を重ねたことを詫びる。
そして最後に、一文。
今後、私の名を用いて語る者があれば、私へ直接確認してほしい。
リシアは、その一文を見て、少しだけ息を吐いた。
遅い。
でも、今回は早かった。
「改善傾向」
クラウディアが言った。
「ただし、継続観察」
「それ、しばらく定型句になりそうですわね」
アリシアが楽しそうに言う。
「妥当な評価です」
クラウディアは真顔だった。
ステファニアは、返信を静かに畳んだ。
「はい」
声は疲れていた。
けれど、昨日よりも少しだけ軽かった。
「今日は、戻り道が示されました」
リシアは言った。
ステファニアがこちらを見る。
「戻るかどうかは、まだ分かりません」
「はい」
「でも、道が見えることは、悪いことではありません」
「そうですね」
ステファニアは、小さく微笑んだ。
窓の外では、学院の夜が静かに降りている。
遠くで、帝国の戦火はまだ消えない。
帝都の細い糸も、まだ張られたままだ。
けれど、この白い学院の中でも、別の細い糸が張り直されつつある。
誰の言葉か。
誰が運ぶのか。
誰が意味を足したのか。
周囲の言葉は、人を傷つける。
だが、正しく持ち主へ返せば、戻り道にもなる。
リシアは、そのことを今日の記録に書いた。




