第四十七夜 署名のある返事
第四十七夜 署名のある返事
翌朝、貸与邸の食堂には、いつもより少しだけ早い時間から人が集まっていた。
窓の外は白い。
学院の朝は、戦火の報を受けても変わらない顔をしている。
鐘は鳴り、廊下は磨かれ、庭師は生け垣の形を整え、食堂には温かい茶と軽い朝食が並ぶ。
けれど、同じではない。
リシアはそれを、胸元の首飾りで知っていた。
装身型拡張視覚端末。
見た目は、少し上品な首飾りにすぎない。
だが、意識を向けると、視界の端に淡い表示が浮かぶ。
有時情報管制レベル二。
学院内公開情報、確認済み。
周辺通信、通常範囲。
貸与邸内、異常なし。
文字は静かだった。
静かすぎて、かえって落ち着かない。
「眉間に力が入っていますわ」
アリシアが向かいの席から言った。
「入ります」
リシアは素直に答えた。
「朝食の席で、警戒表示を見ながらスープをいただく経験はありませんでしたので」
「すぐ慣れますわ」
「慣れるのですか」
「慣れます」
アリシアは当然のように頷いた。
たぶん、この人は本当に慣れている。
リシアは匙を手にしたまま、少しだけ遠い気持ちになった。
ステファニアは隣で静かに茶器を置く。
首元には、リシアと同じ形の端末がある。
ただ、ステファニアの場合、その視線の動きが少し違った。
見えているものを読む、というより、そこにある情報と自然に会話しているように見える。
辞書を引きながら歩く自分と、道そのものに案内されて歩くステファニア。
その差を、リシアは最近ようやく理解し始めていた。
「ステファニア様」
「はい」
「表示は、煩わしくありませんか」
「いいえ」
ステファニアは少し考えてから答えた。
「むしろ、静かです」
「静か」
「はい。必要なことだけが、こちらを向いている感じがします」
リシアは、思わずクラウディアを見た。
食堂の端で端末を確認していたクラウディアが、わずかに目を細める。
また何か、予定より早い反応なのだろう。
聞かない。
今は聞かない方がいい。
そう思ったところで、玄関側の通知音が鳴った。
柔らかく、短い音。
学院内連絡路から、正式書状が届いたことを知らせる音だった。
クラウディアが顔を上げる。
「到着しました」
食堂の空気が、少しだけ締まった。
セラがパンを半分に割ったまま止まる。
アインは壁際で茶を飲んでいたが、視線だけをクラウディアへ向けた。
「差出人は」
ステファニアが問う。
「ジークフリート・オーラム・アレーナ殿下。本人署名あり」
本人署名。
その言葉だけで、昨日の伝言とは重さが変わった。
クラウディアが端末を卓上へ置く。
淡い光が立ち上がり、書状の写しが表示された。
文面は整っていた。
昨夜の補足書状について、第一王子付側近アルヴィン・ラーデンの名で届けさせたこと。
本人からの署名が遅れたことへの詫び。
東方戦火に関わる王家筋の緊急確認が重なっていたこと。
ステファニアを軽んじる意図はないこと。
小茶会は学院内の親睦を目的とするものであり、ステファニアには婚約者として同席を願うこと。
そして、リシア、アリシア、アインへも改めて招待の意を示すこと。
すべて、丁寧だった。
丁寧すぎるほどに。
「……整っていますね」
リシアは呟いた。
「ええ」
ステファニアが言った。
「整っています」
その声は穏やかだった。
けれど、喜びではなかった。
リシアは、それが分かるようになっていた。
遅れて届いた礼は、無礼を消すことはできない。
ただ、無礼をどう扱うかの材料になる。
「どう記録しますか」
クラウディアが問う。
ステファニアは、少しだけ目を伏せた。
それから顔を上げる。
「第一王子本人署名の書状あり。昨日の補足書状について、本人署名遅延の詫びと理由説明あり。小茶会の性質は学院内親睦。私の立場は婚約者として明記」
そこで一度、言葉を切った。
「ただし、最初の招待状における扱いの不足そのものについては、理由説明に留まり、訂正ではありません」
食堂が静かになった。
リシアは、息を飲みそうになった。
ステファニアは怒鳴らない。
責めない。
けれど、見落とさない。
その静かさが、昨日までよりずっと鋭かった。
アリシアが扇子を開いた。
「九割八分ですわ」
「残り二分は」
ステファニアが、淡々と問う。
「訂正ではありません、の後に、今後の基準として保管、と添えることですわね」
アリシアは微笑んだ。
「今回を責めるのではなく、次からの基準にする。相手が本当に礼を整える気なら助けになりますし、そうでないなら、次に逃げ場が狭くなります」
「承知しました」
ステファニアは頷いた。
リシアは、自分の茶が少し冷めていることに気づいた。
会話は静かだ。
だが、これはもう戦い方なのだ。
剣も魔法も使っていない。
それでも、誰がどこに立つかを決める戦い。
「返事は受ける形でよいでしょうか」
リシアが言った。
自分でも、思ったより落ち着いた声だった。
アリシアがこちらを見る。
「理由は」
「本人署名が来ました。婚約者として明記もされました。こちらが求めた最低限は満たされています」
リシアは書状を見る。
「断れば、ステファニア様が詫びを受け取らなかったという名を付けられます。受けるなら、今回の訂正ではなく今後の基準として記録したうえで、こちらの条件を整えて出席する方がよいと思います」
「条件とは」
クラウディアが問う。
「場所は学院内。参加者は事前記録。話題は親睦であっても、東方戦火について不確定情報を語らない。ステファニア様の立場は、書状通り婚約者として扱う」
言ってから、リシアは少し考えた。
「それから、ユリア様にも声をかけたいです」
ステファニアが瞬きをした。
「ユリア様を、ですか」
「はい。茶会の中心にするわけではありません。けれど、学院内の記録や資料の扱いに詳しい人が同席していると、場が噂だけに寄りにくくなります」
リシアは少しだけ迷った。
それから、正直に言う。
「それに、ユリア様を神殿系やジークフリート殿下の側だけに見せたままにしたくありません」
アインが小さく息を吐いた。
笑ったのか、感心したのかは分からない。
「いい」
短い言葉だった。
リシアは背筋を伸ばした。
アインの「いい」は、アリシアの九割より少し心臓に悪い。
「では、その方針で」
クラウディアが端末へ記録する。
「小茶会への参加を受諾。ただし、学院内の正式な貸室を使用。参加者名簿、話題範囲、記録担当者を事前確認。ユリア・ノートン様へ同席打診」
「記録担当者」
セラが首を傾げた。
「誰がするのですか」
クラウディアは即答した。
「表向きは学院の貸室管理記録。内側では私が」
「内側」
「はい」
クラウディアは当然のように頷いた。
リシアは、聞かなかったことにした。
聞けば、たぶん説明される。
説明されたら、戻れなくなる。
「それと」
クラウディアが、少しだけ声の調子を変えた。
「東方戦線に関する情報について、追加の制限を入れます」
食堂の空気が、別の方向へ張った。
茶会。
礼。
婚約者としての扱い。
それらの下に、戦火がある。
忘れていたわけではない。
けれど、日常の形をしたものの中へ、戦の影は簡単に紛れ込む。
「追加情報ですか」
ステファニアが問う。
「はい。東方隣接小国の一つ、リュシオン伯国の国境防衛線が一部後退しました。詳細は未確認ですが、帝国魔導騎装の投入が確認されています」
リシアは、胸元の端末が静かに表示を更新するのを見た。
公開不可。
共有範囲限定。
発言注意。
文字が淡く光り、すぐに薄くなる。
「茶会でその話題が出る可能性は」
アインが問う。
「高いです」
クラウディアは答えた。
「東方戦火を理由にした遅延説明が本人書状に含まれています。相手が意図していなくとも、話題の入口にはなります」
「話すな、ではなく」
アリシアが言った。
「何を話さないかを決めておく必要がありますわね」
「はい」
クラウディアが頷く。
「確認済みの学院公式周知内容まで。未確認の戦況、帝国魔導騎装の性能、アークライト側の独自情報には触れない。推測を求められた場合は、学院の公式発表を待つ、と返してください」
リシアは頷いた。
ステファニアも。
セラは真剣な顔で聞いている。
アリシアだけが、少し楽しそうだった。
それが怖い。
「お姉様」
「はい」
「楽しそうに見えます」
「見えるだけですわ」
「そうでしょうか」
「ええ」
アリシアは扇子で口元を隠した。
「少なくとも、殿方がようやく署名を覚えた程度で楽しむほど、わたくしは安くありません」
ステファニアが、ほんの少しだけ目を伏せた。
肩が揺れた。
笑ったのだと、リシアは気づいた。
よかった。
ほんの少しでも笑えたなら、それはよかった。
クラウディアが端末を閉じる。
「では、返書を整えます」
「私も書きます」
ステファニアが言った。
「今回は、私の名でも」
アリシアが頷く。
「よろしいですわ」
ステファニアは筆を取った。
その横顔は、昨日より少しだけ硬く、少しだけ強かった。
リシアは、自分の首飾りに触れる。
表示は消えている。
けれど、見えない情報はまだ残っている。
署名のある返事。
婚約者としての明記。
東方の戦火。
茶会。
ユリア。
ジークフリート。
それぞれが、別々の線のようでいて、少しずつ同じ場所へ向かっている。
リシアは筆を持ったステファニアの隣に座った。
今度は、自分がそばにいる番だと思った。
言葉は、また置かれる。
置かれた言葉は、戻ってくる。
その時に、誰の足元へ転がるのか。
リシアは、それを見届けるつもりだった。




