第四十六夜 伝言の重さ
第四十六夜 伝言の重さ
午前の講義室は、いつもより少しざわついていた。
声が大きいわけではない。
席を立つ者もいない。
けれど、紙をめくる音が多い。
視線の動きが速い。
学生たちが、互いの顔を確認している。
リシアの視界端にも、小さな印がいくつも浮かんでは消えた。
注視。
接近。
発話準備。
周辺音量上昇。
全部を拾っていたら、きりがない。
リシアは、胸元の首飾りに触れた。
表示を一段階落とす。
クラウディアに教わった通り、必要のない情報を閉じる。
視界が少し静かになった。
完全には消えない。
けれど、歩ける程度には戻る。
教壇には、ラウル・フェルマー教官が立っていた。
本来なら、今日の共同基礎講義は国境通行協定の演習だったらしい。
だが、教官の手元には別の文書がある。
白い封紙。
学院長印。
聖王国の小さな封蝋。
リシアは、それを見た瞬間、昨日の赤い点の地図を思い出した。
戦火は、もう学院の中へ入ってきている。
まだ煙も血も伴わない。
文字として。
通達として。
礼儀正しい紙として。
「講義の前に、学院長府より周知がある」
ラウル教官が言った。
教室が静かになる。
「東方において、グランカーン帝国が隣接小国へ宣戦を布告した。聖王国政府は現在、各国公館と連携し、避難民・留学生・交易路への影響を確認中である」
分かっていた。
昨日、クラウディアから聞いていた。
それでも、学院の教室で聞くと違った。
アークライトの情報ではない。
聖王国の公式周知。
その差が、音の重さを変える。
「現時点で、学院都市への直接的な脅威は確認されていない。講義、演習、各課程は通常通り継続する」
通常通り。
その言葉に、何人かの学生が小さく息を吐いた。
安心。
不満。
緊張。
どれなのか、リシアには分からない。
端末にも表示されない。
ラウル教官は続ける。
「ただし、関係地域出身者、または家門・商会・騎士団が当該地域と関係を持つ者は、学院事務局へ申告すること。必要に応じて通信室の利用、講義欠席、課題提出期限の調整を認める」
教室の後方で、一人の男子学生が顔を伏せた。
別の女生徒が、その学生を見た。
リシアの視界端に、注視の印が出かける。
消した。
見なくていい。
いや、見てはいけない。
今の視線は、本人たちのものだ。
端末で拾ってよいものではない。
「また、根拠のない流言、出身国・家門・信仰に基づく攻撃的発言を禁ずる」
ラウル教官の声が硬くなる。
「戦は遠くに見えるうちは、口の中で軽くなる。だが、軽くなった言葉で傷つく者は、ここにもいる。各自、学院生としての節度を守ること」
教室が、さらに静かになった。
リシアは、少しだけラウル教官を見る目を変えた。
この人は、橋の共同管理を教えた教官だ。
橋の上に、どの荷車をいつ通すか。
誰が警備し、誰が記録し、誰が費用を払うか。
そのような話をしていた。
だが今、同じ人が言葉の通行も管理している。
何を通すか。
何を止めるか。
誰を傷つけないために、どの規則を置くか。
橋も、言葉も、少し似ているのかもしれない。
◇
講義は予定を変えて、緊急時の学院内連絡手順になった。
学院事務局への申告。
家門連絡室の使用規定。
公館経由での書状送付。
学生間での伝言禁止範囲。
公式な伝達と私的な伝言の違い。
リシアは、その最後の言葉で筆を止めた。
公式な伝達。
私的な伝言。
昨日から、何度も見ているものだ。
ミリアが伝える。
ジークフリートは気にしていた。
返答を急がせるつもりはない。
王家筋の連絡確認がある。
どれも、ミリアの口を通っている。
嘘とは限らない。
けれど、誰の言葉なのかが薄くなる。
リシアは、端末の表示をまた少し落とした。
見える情報は増えた。
だが、伝言の重さは、端末では測れない。
「ファーランド公女」
ラウル教官に呼ばれた。
リシアは立ち上がる。
「はい」
「私的な伝言を、公式な記録として扱ってよい条件は何か」
教室の視線が集まった。
まただ。
最近、よく当てられる気がする。
いや、たぶん気のせいではない。
リシアは一拍置いた。
焦らない。
端末は何も答えない。
答えるのは自分だ。
「条件は、一つではありません」
リシアは言った。
「まず、誰が発した言葉かを確認する必要があります。次に、誰が伝えたのか。さらに、伝えた者にどの程度の権限があるのか」
ラウル教官は黙って聞いている。
「その上で、受け取った側が、伝言として受けたと記録することはできます。ですが、発言者本人の公式意思として扱うには、本人または権限ある者からの確認が必要だと思います」
「では、伝言は軽いか」
問いが返る。
リシアは少し考えた。
「軽くはありません」
教室が静かになる。
「公式意思とは限らなくても、伝言を任せた事実は残ります。誰を通して、誰へ、どのような言葉を届けたか。それは、相手との距離や優先順位を示すことがあるからです」
言ってから、リシアは気づいた。
これは、ジークフリートの話だ。
ステファニアの話だ。
けれど、同時に戦時連絡の話でもある。
教官は、少しだけ目を細めた。
「よい。座りなさい」
「ありがとうございます」
リシアは座った。
手が少し冷えている。
けれど、昨日ほどではない。
ステファニアが、隣で小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
◇
講義後、学生たちはいつもよりゆっくり教室を出た。
誰もが、誰と話すべきかを考えているようだった。
関係地域出身者。
商会関係者。
騎士家。
神殿系。
研究院。
いつもの派閥とは別の線が、教室の中に引かれている。
端末があれば、距離は見える。
だが、その線は見えない。
リシアは、見えない線の方を意識して歩いた。
「リシア様」
廊下へ出たところで、ユリア・ノートンが声をかけてきた。
手には、薄い魔石板を抱えている。
いつもより表情が硬い。
「ユリア様」
「少しだけ、よろしいでしょうか」
「はい」
ユリアは周囲を一度見て、声を落とした。
「研究院棟でも、東方戦線の記録保全について話が出ています。戦場記録、避難民台帳、交易路記録、どれも急ぎ整理が必要になるかもしれないと」
リシアは頷いた。
「二層式記録用魔石板の話ですか」
「はい。まだ試作段階ですが、改竄防止と差分記録には使えます」
ユリアの指が、魔石板の縁を強く握っている。
「でも、戦場の記録に使うには、強度も、複写速度も、配布数も足りません。私は、まだ」
言葉が止まる。
リシアは、少し前の自分を見た気がした。
足りない。
まだ足りない。
けれど、必要とされる。
「ユリア様」
アリシアが静かに言った。
「はい」
「足りないと分かる人は、足りるようにする場所へ行けますわ」
ユリアが顔を上げる。
「全部を今日、完成させる必要はありません。けれど、何が足りないかを記録できる人は必要です」
「……記録、ですか」
「ええ。足りないものの記録です」
ユリアは、魔石板を抱え直した。
少しだけ、肩の力が抜ける。
「ありがとうございます」
「私たちは、研究院棟へすぐには行けません」
リシアが言った。
「ですが、必要な時は声をかけてください。資料の読み合わせでも、分類でも」
ユリアは驚いたようにリシアを見た。
それから、深く礼をする。
「はい。お願いします」
その時、リシアの視界端に、小さな表示が出た。
接近。
右後方。
リシアは、表示を見てから振り返りかけた。
そして、止めた。
振り返るのが早すぎる。
表示に従いすぎている。
一拍待つ。
足音が聞こえた。
それから振り返る。
ミリア・セルヴィンだった。
その後ろに、アレーナ王国の徽章をつけた男子学生が一人いる。
昨日、ジークフリートの近くにいた学生だ。
リシアは、胸元の首飾りに触れたくなるのを我慢した。
「リシア様」
ミリアが礼をする。
「少し、お時間をいただけますか」
「内容によります」
答えたのは、ステファニアだった。
柔らかい声。
だが、以前よりはっきりしている。
ミリアは一瞬だけ目を伏せた。
「ジークフリート殿下から、昨日の茶会招待状について補足をお預かりしています」
補足。
リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
訂正ではない。
謝罪でもない。
補足。
言葉の置き方が、また薄い。
「補足ですか」
アリシアが穏やかに問う。
「はい」
ミリアは、後ろの男子学生から小さな封筒を受け取った。
それを両手で差し出す。
「昨日の招待状について、ステファニア様のお立場を軽んじる意図はなかったとのことです。茶会では、ステファニア様にもぜひご同席いただきたい、と」
リシアは、その言葉を聞きながら、視界端の表示を切った。
表情変化。
注視。
緊張。
いらない。
今は、言葉を聞く。
「ミリア様」
ステファニアが言った。
「はい」
「それは、ジークフリート殿下のお言葉ですか」
ミリアが止まった。
ほんの一瞬。
けれど、止まった。
「はい。殿下から、そう伺っております」
「では、その書状は殿下ご本人の署名ですか」
ミリアの手元の封筒へ、視線が集まる。
男子学生がわずかに姿勢を硬くした。
「……殿下の側近である、アルヴィン様の署名です。殿下のご意向を受けて作成されたものです」
リシアは、心の中で静かに数えた。
本人ではない。
側近。
ミリア。
伝言。
補足。
アリシアは何も言わない。
ただ、扇子を閉じたまま持っている。
セラはステファニアの半歩後ろに立っている。
アインは、壁際に見える場所へ立った。
目立たない。
しかし、逃がさない位置。
「ありがとうございます」
ステファニアは封筒を受け取らなかった。
代わりに、リシアを見た。
「リシア様」
「はい」
「受領記録をお願いします。内容確認は、貸与邸で行います」
リシアは頷いた。
「承知しました」
それから、ミリアを見る。
「書状は、学院内連絡路で受領します。ここでは、補足書状が用意されている旨だけ確認しました」
ミリアが目を瞬かせた。
「ここで、お渡ししない方がよろしいのですか」
「はい」
リシアは、できるだけ穏やかに言った。
「茶会招待状に関する補足であれば、最初の招待状と同じ経路で受け取る方が、記録が揃います」
言いながら、リシアは自分でも驚いていた。
この言い方は、クラウディアに似ている。
少しだけ。
アリシアが微笑んだ気配がした。
ミリアは、封筒を持ったまま固まっている。
困っているのだろう。
彼女は橋を渡す役割を担っている。
だが、橋のかけ方を変えられてしまった。
「……承知しました」
ミリアは、ゆっくり頷いた。
「学院内連絡路で、改めてお届けします」
「お願いいたします」
ステファニアが言う。
その声は、穏やかだった。
けれど、もう受け身ではなかった。
ミリアは礼をして下がる。
男子学生も続いた。
去っていく背中を見ながら、リシアは息を吐いた。
少し、疲れた。
端末のせいではない。
たぶん、言葉の重さのせいだ。
◇
貸与邸へ戻ると、補足書状はすでに届いていた。
早い。
学院内連絡路を通した正式受領。
差出人は、アルヴィン・ラーデン。
アレーナ王国第一王子付の側近。
ジークフリート本人の署名はない。
文面は丁寧だった。
昨日の招待状について、表現に不足があったならば遺憾である。
ステファニア・レーヴェンハイト侯爵令嬢を軽んじる意図はない。
茶会には、ぜひご同席いただきたい。
ジークフリート殿下は、王家筋の緊急連絡確認のため、本日中の直接挨拶は難しい。
以上。
リシアは読み終え、静かに紙を置いた。
「遺憾」
セラが小さく言った。
珍しく、言葉を拾った。
「便利な言葉ですね」
リシアは思わずセラを見た。
セラの顔は真面目だった。
本当に便利だと思っているのかもしれない。
アリシアが扇子で口元を隠した。
「便利ですわね。謝ってはいませんもの」
「謝罪ではないのですか」
セラが問う。
「謝罪に見える形をした、残念表明ですわ」
「なるほど」
セラは頷いた。
「便利ですが、あまり強くありませんね」
「ええ」
アリシアは楽しそうに目を細めた。
「強くありません」
ステファニアは、書状を見ていた。
その表情は静かだ。
だが、昨日より少しだけ、距離がある。
傷ついた人の距離ではない。
測る人の距離だ。
「ステファニア様」
リシアは声をかけた。
「はい」
「どう記録しますか」
ステファニアは少し考えた。
「昨日の招待状について、補足書状あり。差出人は第一王子付側近。本人署名なし。軽んじる意図はないとの記載あり。ただし、主招待対象の修正ではなく、同席希望の補足に留まる」
すらすらと出てきた。
リシアは少し驚いた。
アリシアが満足そうに頷く。
「よろしいですわ」
「ありがとうございます」
ステファニアは礼をした。
「返答は」
アインが初めて口を開いた。
短い問いだった。
ステファニアは、アリシアではなくリシアを見た。
「リシア様。どう思われますか」
リシアは、一瞬戸惑った。
自分に聞くのか。
だが、ステファニアは本気だった。
アリシアも、クラウディアも、何も言わない。
考えろ、ということだ。
リシアは書状を見る。
招待状。
補足書状。
本人署名なし。
茶会。
戦火。
王家筋の緊急連絡。
それらを分ける。
そして、必要なところだけ繋ぐ。
「受けてもよいと思います」
リシアは言った。
ステファニアが黙って聞いている。
「ただし、条件を整えるべきです。茶会は学院内の親睦の場として受ける。返書では、ステファニア様が婚約者として同席するのか、友好国関係者として同席するのかを確認する」
言ってから、少しだけ怖くなる。
踏み込みすぎただろうか。
だが、アリシアは止めない。
なら、続ける。
「もし婚約者として招くなら、最初の招待状の扱いが不足していた理由を、本人の言葉で確認したいです。友好国関係者として招くなら、ステファニア様を婚約者として扱わない理由を確認します」
食堂が静かになった。
リシアは、少し息を吸った。
「どちらにしても、曖昧なまま茶会へ行くと、また噂が勝手に歩きます」
ステファニアは、しばらくリシアを見た。
それから、柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
「いえ」
「私も、そのように思います」
胸の奥が、少し温かくなる。
アリシアが扇子を開いた。
「九割五分、よろしいですわ」
「残り五分は」
リシアが恐る恐る問う。
「本人の言葉で確認したい、では少し柔らかいですわね」
アリシアは微笑む。
「本人の署名ある書状で確認したい、にしましょう」
リシアは、思わず背筋を伸ばした。
「なるほど」
「口頭で言わせるより、紙に残した方が後で逃げにくいですもの」
楽しそうだった。
本当に楽しそうだった。
リシアは、アリシアが味方でよかったと心から思った。
敵に回したくない。
絶対に。
「では、返書を作りましょう」
クラウディアが言った。
いつの間にか、端末と記録板を用意している。
「学院内連絡路で、正式に」
「はい」
リシアは頷いた。
伝言は軽くない。
だが、伝言だけでは足りない。
重さを持たせるには、置く場所が必要だ。
紙。
署名。
経路。
受領記録。
それらが、言葉に骨を与える。
リシアは筆を取った。
胸元の首飾りは静かだった。
今は表示はいらない。
見えないものを書く時間だった。




