第四十五夜 管制レベル二
第四十五夜 管制レベル二
翌朝、貸与邸の食堂には、いつもより早く全員が揃っていた。
朝食の皿は並んでいる。
湯気の立つスープもある。
焼き立てのパンも、柔らかく火を通した卵も、果物もある。
けれど、食卓の中心には別のものが置かれていた。
小さな黒い箱が五つ。
その横に、首飾りのようなものが三つ。
そして、少し厚みのある黒銀色の半環状の装具が二つ。
リシアは、パンへ伸ばしかけた手を止めた。
「……朝食、ですよね」
「はい」
クラウディアが答える。
いつも通りの平坦な声だった。
「朝食です。ただし、先に装備確認を行います」
「装備」
リシアは、食卓の上を見た。
首飾り。
装具。
黒い箱。
どれも、朝食という言葉からは少し遠い。
アリシアは、楽しそうにそれらを眺めていた。
「まあ。思ったより可愛らしいものもありますのね」
「簡易型です」
クラウディアが言った。
「外部接触者用の装身型拡張視覚端末。見た目は通常の首飾りに寄せています。学院内での装着を想定したものです」
リシアは、首飾りの一つを見た。
細い鎖。
淡い青の小石のような飾り。
貴族令嬢が身に着けていても、不自然ではない。
少し冷たい輝きはあるが、それも魔導具と言われれば通るだろう。
「これが、拡張視覚端末なのですか」
「限定機能型です」
クラウディアは、首飾りの横に指を置いた。
「視界端への簡易通知、方向指示、危険警告、秘匿短文通信。学院生活で露見しにくいよう、機能を絞っています」
「見た目を優先したため、ということですね」
ステファニアが言う。
「はい」
クラウディアは頷いた。
「ただし、有事情報管制レベル二への移行に伴い、外部接触者には装着を推奨します」
有事情報管制レベル。
昨日、クラウディアが説明した言葉だ。
帝国侵攻の第一報。
ベルン商会を通じた現地支援。
破損して擱座した帝国魔導騎装。
村山という、アインの声を変えた名。
それらがまだ胸の中で整理しきれていないうちに、言葉はもう朝の食卓へ降りてきていた。
「レベル二は、戦闘状態ではありません」
クラウディアは続けた。
「ただし、外部戦火と諜報警戒を前提に、情報共有と位置把握の精度を上げます。学院内では過剰な反応を避けるため、表向きは健康管理用の魔導装身具として扱ってください」
「健康管理用」
リシアは首飾りを見た。
確かに、そう言われればそう見えるかもしれない。
見える。
見えるけれど。
「それで、こちらは」
セラが、黒銀色の半環状の装具を見た。
簡易型の首飾りとは明らかに違う。
首の後ろから鎖骨の上に沿う形。
厚みがあり、硬質で、普通の装身具と言うには少し無理がある。
ただ、形は美しい。
外套や襟の高い服で隠せば、目立たないかもしれない。
隠せば、の話だ。
「隠匿型戦術頸装端末です」
クラウディアが答えた。
「戦術ネックバンドの秘匿運用型。視覚拡張、聴覚保護、生体監視、位置共有、秘匿通信、周辺センサー統合に対応します」
「隠匿型」
リシアは思わず呟いた。
「隠せる、というより、隠す前提の大きさに見えます」
「正確です」
クラウディアは即答した。
リシアは少しだけ困った。
正確と言われても、困る。
「襟や外套、ショール、リボンで隠せます。近距離で観察されれば通常の装飾品ではないと分かりますが、学院内で一見して軍用装備と判断される可能性は低いでしょう」
「低い、ですか」
「ゼロではありません」
「でしょうね」
アリシアが、楽しそうに笑った。
「こちらは意匠を変えられますの?」
「性能を落とさない範囲であれば」
クラウディアが答える。
「では、後で相談いたしましょう。隠すなら、隠し方も美しくなければ」
「アリシア様」
「はい」
「今は装飾相談ではありません」
「分かっていますわ」
分かっている顔ではなかった。
少なくともリシアには、そう見えた。
だが、クラウディアはそれ以上追及しない。
たぶん、今は追及しても意味がないと分かっているのだ。
「配布対象を確認します」
クラウディアは食卓の端末を操作した。
「リシア様、アリシア様、ステファニア様には装身型拡張視覚端末。セラ様とアイン様には隠匿型戦術頸装端末」
「私はそちらなのですか」
セラが黒銀色の装具を見た。
嫌がっているようには見えない。
ただ、確認している。
「護衛動作と緊急介入が想定されるためです」
「分かりました」
セラは頷いた。
「動きの邪魔にならなければ問題ありません」
「調整済みです」
「なら、問題ありません」
あまりにも早い。
リシアは、セラを見た。
セラは端末を持ち上げ、首元に当てている。
装具の内側が淡く光り、首の線に合わせて形を変えた。
ぴたり、と収まる。
黒銀色の端末は、セラの襟元に隠れると、思ったより目立たなかった。
近くで見れば、分かる。
だが、少し離れれば、硬質な首飾りか、襟飾りの一部に見えた。
「違和感は」
クラウディアが問う。
「少し冷たいです」
「三十秒で体温に合わせます」
「分かりました」
それだけで終わった。
セラは、もうスープへ視線を戻している。
さすがだった。
食事の優先順位が揺らがない。
アインは、自分の端末を手に取った。
見た。
それだけで、クラウディアが一歩だけ近づく。
「殿下の端末は、通常の隠匿型ではありません」
「だろうな」
「戦術主眼連動機能を封印した状態で渡します。学院内での使用は、秘匿通信、位置共有、周辺警戒のみです」
「封印で足りるのか」
「足りません」
「おい」
「ですので、殿下が意図的に開けない前提です」
アインはしばらくクラウディアを見た。
「俺の善意頼みか」
「殿下の自制頼みです」
「言い方を変えただけだな」
「はい」
短いやり取りだった。
リシアは少しだけ笑いそうになったが、我慢した。
アインは端末を首元に装着する。
黒銀の端末は、彼の服の襟にすぐ隠れた。
隠れたはずなのに、どこか雰囲気が変わる。
見えない装備を身に着けた人の気配。
いや、違う。
もともと見えないものをたくさん持っている人に、また一つ見えないものが増えた気配。
「リシア様」
クラウディアに呼ばれ、リシアは背筋を伸ばした。
「はい」
「装身型を」
差し出された首飾りは、見た目だけなら本当に可愛らしい。
青い小石のような装飾。
細い鎖。
首元に触れる部分だけ、ほんの少し硬い。
リシアはそれを受け取った。
冷たい。
けれど、不快ではない。
首にかけると、飾りの奥で小さな光が一度だけ瞬いた。
次の瞬間、視界の端に薄い文字が浮いた。
装身型拡張視覚端末、同期開始。
リシアは目を瞬かせた。
文字が消える。
また、薄く現れる。
今度は、もっと小さい。
視界の右下。
邪魔にならない位置。
それでも、確かにある。
「見えますか」
「見えます」
「強すぎますか」
「少し、驚きました」
「驚きは正常です。酔いは」
「まだありません」
「では続行します」
続行。
リシアはその言葉に少しだけ身構えた。
視界の端に、今度は細い線が出る。
食堂の扉。
窓。
クラウディア。
アイン。
セラ。
名前が出るわけではない。
ただ、淡い輪郭と小さな印が、そこに何があるかを示す。
視界が増えた。
世界が一枚、薄く重なった。
「……これは」
「簡易空間認識補助です」
クラウディアが説明する。
「慣れるまでは最低表示にします。危険警告と秘匿通信だけを優先し、周辺情報は必要時のみ展開してください」
「必要時のみ」
「はい。常時見続けると疲れます」
リシアは小さく頷いた。
すでに少し疲れそうだった。
だが、同時に分かる。
これは便利だ。
扉の位置。
人の距離。
視線の向きまでは出ていないが、立ち位置が分かるだけで、場の見え方が変わる。
噂の流れを読むこととは違う。
けれど、場を読む助けにはなる。
「ステファニア様」
クラウディアが次に呼ぶ。
ステファニアは首飾りを受け取り、何の迷いもなく装着した。
一拍。
それだけだった。
ステファニアの魔力が、首元で静かに渦を巻いた。
リシアにも分かった。
昨日までなら見えなかったかもしれない。
今は、端末越しに薄い光の揺らぎとして見える。
首飾りの装飾が、一瞬だけ淡く白く光った。
クラウディアの目が、わずかに細くなる。
「ステファニア様」
「はい」
「何をしましたか」
「何もしていません」
「何もしていない反応ではありません」
「端末が挨拶をしてきたので、返しました」
食堂が静かになった。
リシアは、アインを見た。
アインは額に手を当てている。
アリシアは、とても楽しそうだった。
クラウディアは、ほんの少しだけ目を閉じた。
「端末は、挨拶をしません」
「ですが、接続確認のようなものが来ましたので」
「それは認証要求です」
「はい。ですから返しました」
「返さないでください」
「返さない方がよかったのですか」
「段階があります」
「理解しました。次からは、段階を確認します」
クラウディアは、ゆっくり息を吐いた。
昨日の鍵スフィアの時と同じ顔だ。
頭痛がしているのだろう。
リシアは、少しだけ申し訳なくなった。
ステファニアは悪気がない。
本当にない。
ただ、理解してしまうのだ。
そして、理解したものへ自然に手を伸ばしてしまう。
「表示は」
クラウディアが問う。
「安定しています」
ステファニアは答えた。
「ただ、簡易型では表示できない情報がいくつかありますね」
「見ようとしないでください」
「見てはいません」
「気づかないでください」
「それは少し難しいです」
クラウディアが、また目を閉じた。
アリシアが扇子で口元を隠す。
「クラウディア」
「はい」
「ステファニア様には、少し早めに上位端末の訓練を入れた方がよさそうですわね」
「本来なら段階を踏みます」
「踏む前に階段の上にいらっしゃるのですもの」
「否定できません」
否定できないらしい。
ステファニアは少し困った顔をした。
「申し訳ありません」
「謝罪は不要です」
クラウディアは即答した。
「ただし、今後は勝手に返事をしないでください。端末、鍵スフィア、索引、古い規格、その他未知の情報構造すべてに対してです」
「はい」
「よろしい」
言葉は厳しい。
だが、リシアには分かる。
クラウディアは怒っているのではない。
困っている。
そして、たぶん少しだけ評価している。
とても面倒な評価の仕方だった。
◇
朝食後、クラウディアは有事情報管制レベルの説明を改めて行った。
食堂の壁に、簡単な一覧が投影される。
レベル一。
通常警戒。
携帯端末と最低限の秘匿通信。
レベル二。
外部戦火、諜報警戒。
外部接触者への装身型端末推奨。
レベル三。
敵性接触可能性。
視覚拡張端末の装着義務。
位置情報と行動ログの共有。
レベル四。
直接戦闘予測。
フルスペック型端末の装着義務。
護衛配置固定。
レベル五。
戦闘管制下。
端末なしでの単独行動禁止。
リシアは、一つずつ読んだ。
レベル二。
今はまだ、そこだ。
まだ、学院の白い廊下を歩ける。
講義にも出る。
食堂にも行く。
茶会の返事も考える。
けれど、それは通常ではない。
通常の形をした、少しだけ違う日々。
「レベル三以上では、端末装着が義務になります」
クラウディアが言った。
「学院内で目立たないよう、装身型または隠匿型を使います。戦術ネックバンドの露出型は、原則として学院外または戦闘区域でのみ使用します」
「学院側に知られた場合は」
リシアが問う。
「健康管理用魔導具です」
クラウディアは即答した。
「それで通りますか」
「学院には健康管理用魔導具の使用例があります。貴族家の病弱な子女や、魔力循環に問題のある学生が使うことは珍しくありません」
リシアは、少しだけ自分の胸元を見た。
確かに、病弱な子女。
療養明けのアリシア。
重傷から回復したセラ。
魔力循環の問題を抱えていたリシア。
説明はいくらでも立つ。
「ただし、過信しないでください」
クラウディアの声が硬くなる。
「端末は判断を補助します。判断を代行するものではありません」
「はい」
「表示された情報だけが真実とは限りません。表示されない情報が重要な場合もあります」
リシアは頷いた。
記録と同じだ。
残っているものだけが真実ではない。
消えているものも、意味を持つ。
「リシア様」
「はい」
「あなたは、表示を信じすぎないように」
「分かりました」
「ステファニア様」
「はい」
「あなたは、表示の奥を読もうとしすぎないように」
「努力します」
「努力では足りません」
昨日、アインに言った言葉と同じだった。
リシアは思わずアインを見た。
アインは、少しだけ口元を緩めていた。
ステファニアは真面目に頷く。
「では、制限します」
「自分で制限を作らないでください。こちらで設定します」
「分かりました」
クラウディアが端末を操作する。
ステファニアの首飾りが小さく光った。
ステファニアは一瞬だけ目を瞬かせる。
「表示が減りました」
「減らしました」
「少し不便です」
「それが目的です」
「不便にすることがですか」
「過剰に便利なものは、危険です」
ステファニアは少し考えた。
「理解しました。理解したので、少し残念です」
「残念で済ませてください」
やはり、少しだけいつもの空気が戻った。
だが、食堂の壁には、まだ有事情報管制レベルの一覧が残っている。
笑える会話の背後に、戦火がある。
リシアは、それを忘れないようにした。
◇
学院本館へ向かう白い回廊で、リシアは端末の意味を初めて実感した。
視界の端に、小さな印が出る。
左前方、接近。
危険ではない。
ただ、人が近づいている。
次の瞬間、角を曲がってミリア・セルヴィンが現れた。
リシアは驚きそうになったが、何とか表情を保つ。
便利だ。
便利すぎる。
心の準備ができてしまう。
その分、自然な驚きが遅れる。
気をつけなければ。
「おはようございます」
ミリアが礼をした。
「リシア様、アリシア様、ステファニア様。セラ様、アイン様も」
今日も順番は正しい。
リシアは会釈を返した。
「おはようございます、ミリア様」
ミリアの視線が、一瞬だけリシアの首元へ落ちた。
本当に一瞬。
だが、リシアの視界端に、小さな表示が出た。
注視。
リシアは内心で息を止めた。
見られた。
首飾りを。
いや、もしかすると単に新しい装身具に気づいただけかもしれない。
だが、端末はその視線を拾った。
拾ってしまった。
「素敵な首飾りですね」
ミリアが言った。
声は自然だった。
「ありがとうございます」
リシアは答える。
「療養後の体調管理を兼ねた魔導装身具です。まだ慣れていませんけれど」
嘘ではない。
完全な説明でもない。
ミリアは微笑んだ。
「そうでしたか。学院では珍しくありませんものね」
通った。
少なくとも、表面上は。
ミリアの視線が、次にステファニアの首元へ移る。
そして、アリシアへ。
アリシアは、首飾りの石を指先で軽く触れた。
「お揃いですの。可愛らしいでしょう」
「ええ、とても」
ミリアは笑った。
その笑みは、昨日より少しだけ慎重だった。
「ところで、昨日の茶会の件ですが」
来た。
リシアは、視界の端に余計な表示が出ないよう、意識して呼吸を整えた。
茶会。
招待状。
ステファニアの添え書き。
まだ返事はしていない。
「ジークフリート殿下から、返答を急がせるつもりはないと伺っております」
ミリアは言った。
ジークフリート殿下。
今日は、最初から正しい呼び方だった。
だが、その言葉の中身は、また伝言だ。
リシアは、静かにミリアを見た。
「お気遣い、ありがとうございます」
答えたのはステファニアだった。
声は柔らかい。
けれど、昨日までより少しだけ芯があった。
「返答については、こちらで確認の上、学院内連絡路を通じてお返しいたします」
「はい」
ミリアが頷く。
その表情に、ほんの少し安堵が見えた。
リシアの視界端に、また小さな表示。
表情変化。
余計だ。
リシアは思った。
余計だけれど、見えてしまう。
見えたものを、全部判断に使ってはいけない。
クラウディアの言葉を思い出す。
端末は判断を補助する。
判断を代行するものではない。
「ミリア様」
アリシアが口を開いた。
「はい」
「ジークフリート殿下は、今朝はお忙しいのかしら」
穏やかな声だった。
だが、リシアは知っている。
これは穏やかな問いではない。
ミリアは一瞬だけ迷った。
「本日は、王家筋の連絡確認があると伺っております」
「まあ」
アリシアは微笑む。
「それは大切ですわね」
それだけだった。
それだけで十分だった。
帝国侵攻の第一報。
王家筋の連絡確認。
ジークフリートが何を知り、何を優先するか。
その観測点が、また一つ置かれた。
ミリアはそれを理解しているのか。
していないのか。
リシアには分からない。
端末にも、それは表示されない。
表示されないことの方が、たぶん重要だった。
「では、私たちは講義へ向かいます」
リシアは言った。
「はい。また後ほど」
ミリアが礼をする。
一行は白い回廊を進んだ。
少し歩いてから、アリシアが小さく言う。
「見えすぎるでしょう」
リシアは驚いて横を見る。
「分かるのですか」
「顔に出ていますわ」
「……気をつけます」
「いいえ。最初はそれでよいのです。見えるものが増えた時、人は必ず見すぎます」
アリシアは前を向いたまま続ける。
「大切なのは、見えたものをすぐ武器にしないこと。すぐ答えにしないこと」
「記録と同じですね」
「ええ」
リシアは、胸元の首飾りに触れた。
冷たさはもうない。
体温に馴染んでいる。
そのことが、少し怖かった。
慣れてしまう。
見えることに。
知らされることに。
それが当たり前になることに。
「リシア様」
ステファニアが隣から声をかけた。
「はい」
「表示は、少し不便なくらいがよいのかもしれません」
リシアは、ステファニアを見た。
その顔は真面目だった。
本当に、少し残念そうでもあった。
「ステファニア様は、便利な方がお好きですか」
「はい」
即答だった。
リシアは思わず笑ってしまった。
ステファニアも、少しだけ笑う。
その笑みを見て、リシアは安心した。
昨日の薄い礼は、まだ消えていない。
帝国の戦火も、まだ遠くにある。
けれど、ステファニアは今、歩いている。
見られる側ではなく、見る側として。
記録される側ではなく、記録する側として。
白い回廊の先で、講義開始を告げる鐘が鳴った。
リシアの視界端に、小さな文字が浮かぶ。
予定時刻まで、残り七分。
便利だ。
やはり、便利だ。
リシアは少しだけ苦笑して、その表示を消した。
全部を見なくても、歩ける。
全部を知らなくても、選べる。
その練習が、今日から始まるのだ。




