第四十三夜 窓口の向こう
第四十三夜 窓口の向こう
翌朝、学院本館へ向かう白い回廊は、昨日よりも少しだけ騒がしかった。
騒がしいといっても、声が大きいわけではない。
学生たちは、相変わらず礼儀正しく歩いている。
挨拶もする。
道も譲る。
だが、視線が多い。
昨日までより、ほんの少しだけ長くこちらへ留まる。
リシアは、それを感じながら歩いていた。
噂は、また動いている。
ファーランドの公女たちが神殿系学生と資料を読んだ。
研究院推薦生も同席した。
ジークフリート殿下は来なかった。
ミリア・セルヴィンが橋を架けた。
どれも嘘ではない。
だからこそ厄介だった。
嘘なら、訂正できる。
だが、事実の並べ方で意味が変わったものは、訂正しにくい。
昨日、クラウディアは記録を三層に分けた。
だが学院の廊下に流れる噂は、そんなに丁寧には分かれてくれない。
薄く混ざり、形を変えながら、勝手に歩く。
「リシア様」
隣を歩くステファニアが、小さく声をかけた。
「はい」
「見られていますね」
「はい」
「慣れましたか」
「慣れたくはありません」
正直に答えると、ステファニアが少しだけ笑った。
「それは、正しい感覚だと思います」
その前を、セラが歩いている。
歩幅は普段と変わらない。
ただ、周囲の視線の流れに合わせて、立つ位置をほんの少しずつ変えていた。
左の列から視線が増えれば、半歩そちらへ寄る。
前方の学生が足を止めかければ、自然にリシアの進路を確保する。
護衛としての動きだ。
昨日までなら、リシアはその細かさに気づかなかったかもしれない。
今は見える。
見えるものが増えると、世界は少し疲れる。
だが、見えないまま歩くよりはいい。
アリシアは、少し後ろを歩いていた。
朝の光を受けて、表情は穏やかだ。
穏やかすぎる。
あれは何かを楽しんでいる顔だと、リシアはもう知っている。
アインはさらに後ろ。
今日も目立たない位置にいる。
目立たないはずなのに、学生たちの視線は時々彼へ流れる。
編入試験の噂は、まだ消えていない。
白札の中の赤魔石を音で見抜いた西方の少年。
魔力漏出をほとんど出さない護衛。
ジークフリートに「アイン殿」と呼ばれた人物。
それもまた、付けられた名だ。
リシアは、アインの言葉を思い出す。
付けられた名を、そのまま着るな。
必要なら、脱げ。
必要なら、別の名を置け。
では今、自分たちは何を着せられようとしているのだろう。
◇
本館の受付近くで、ミリア・セルヴィンが待っていた。
昨日と同じ、控えめなリボン。
ただ、表情は昨日より慎重だった。
こちらに気づくと、すぐに礼をする。
「リシア様、アリシア様、ステファニア様」
順番は、今日も正しい。
そして、ミリアはセラとアインにも視線を向けた。
「セラ様、アイン様も、おはようございます」
リシアは内心で少しだけ驚いた。
昨日までなら、そこまで丁寧には拾わなかったかもしれない。
いや、拾えなかったのかもしれない。
学習している。
ミリアは、こちらの反応を見て、踏み方を変えてきている。
「おはようございます、ミリア様」
リシアは会釈を返した。
「昨日は、読み合わせの機会をありがとうございました」
「こちらこそ。エリオット様も、よい機会だったと仰っていました」
ミリアの声は明るい。
だが、どこか探るような間がある。
何を探っているのか。
読み合わせがどう受け止められたか。
エリオットを連れてきたことがどう見られたか。
それとも、ジークフリート不在についてこちらがどう感じているか。
「エリオット様は、資料の扱いにとても誠実な方でした」
リシアは、まず事実を置いた。
「私たちも学ぶところが多かったです」
ミリアの肩から、わずかに力が抜けた。
やはり、そこを気にしていたのだ。
エリオットを紹介したことが失敗だったのかどうか。
ミリア自身も、測っている。
測られているだけではない。
「よかったです」
ミリアは少し笑った。
「神殿系の方は、どうしても堅い印象を持たれがちですから」
「堅いことは、悪いことではありません」
ステファニアが静かに言った。
「ただ、どちらへ堅いのかは、見ておく必要があります」
ミリアが一瞬だけ言葉を止めた。
リシアも止まりかけた。
柔らかい声なのに、かなり鋭い。
けれど、ステファニアの表情は穏やかだった。
責めてはいない。
ただ、見ます、と置いた。
「……そうですね」
ミリアは小さく頷いた。
「私も、そう思います」
嘘ではなさそうだった。
少なくとも、今の声は。
「ところで」
ミリアは少し声を落とした。
「昨日の読み合わせについて、少し噂が出ています」
「どのような」
リシアが問うと、ミリアは一瞬だけ周囲を見た。
そして、言葉を選ぶ。
「ファーランド大公家が、神殿側と直接資料確認を始めた、と」
リシアは、心の中で息を吐いた。
やはり、そうなる。
読み合わせは、講義資料のため。
場所は小閲覧室。
参加者も事前確認済み。
それでも、外から見れば「神殿側と直接資料確認を始めた」になる。
完全な嘘ではない。
しかし、意味が違う。
「その噂は、どこからでしょう」
ステファニアが問う。
「分かりません。ただ、神殿側の学生だけでなく、騎士家の方々にも広がり始めています」
騎士家。
リシアは、そこに少し引っかかった。
神殿側なら分かる。
研究院側でも分かる。
だが騎士家へ流れるのは、少し違う。
誰かが、神殿との接触を政治的な動きとして見せたいのだろうか。
「お知らせくださり、ありがとうございます」
リシアは言った。
「こちらでも確認します」
ミリアは頷いた。
「それと、ジーク様は」
言いかけて、彼女は止まった。
少しだけ、言葉を飲み込んだ顔だった。
リシアは見た。
ステファニアも見ている。
アリシアは、たぶんもっと見ている。
「ジークフリート殿下は」
ミリアは言い直した。
「昨日の読み合わせのことをご存じです。ですが、予定が合わなかったことを気にされていました」
気にしている。
それは、便利な言葉だ。
謝罪ではない。
説明でもない。
ただ、気にしている。
リシアは、その言葉をそのまま受け取らないようにした。
「お気遣い、痛み入ります」
ステファニアが答えた。
声は穏やかだ。
柔らかい。
だが、それ以上は何も受け取らない。
ミリアは少しだけ目を伏せた。
「お伝えします」
何を。
誰に。
リシアは問わなかった。
問えば、今この場でジークフリートの名をさらに置くことになる。
それは、ミリアの望む場かもしれない。
あるいは、ミリア自身が抜け出せない場かもしれない。
まだ分からない。
未確定。
その言葉を、胸の中へ置く。
◇
午前の講義は、戦史概論だった。
戦術ではなく、戦争がどのように記録され、後世でどのように語られるかを扱う講義らしい。
教室へ入ると、騎士家の学生が多かった。
当然と言えば当然だ。
ファーランド公国でも、騎士家の子弟は戦史を学ぶ。
勝った戦の理由。
負けた戦の理由。
補給。
地形。
士気。
命令系統。
そういうものを学ぶ。
だが、聖王国学院の戦史概論は、少し違っていた。
教壇に立った年配の男性教官は、最初にこう言った。
「本日の講義では、戦場そのものではなく、戦場がどのように名付けられるかを扱う」
リシアは、思わずアリシアを見た。
アリシアは微笑んでいる。
まただ。
名付け。
記録。
置き場所。
学院は、同じ主題を別の形で何度も差し出してくる。
偶然なのか。
それとも、そういう場所なのか。
「戦勝記念史では、ある戦いは栄光の防衛戦と呼ばれる」
教官の声は低く、よく通った。
「敗れた側の記録では、同じ戦いが撤退戦となる。周辺住民の記録では、焼失の日となる。補給担当者の記録では、第三倉庫損耗事件となる」
教室に小さな笑いが起きた。
第三倉庫損耗事件。
たしかに、戦場の名としてはあまり勇ましくない。
だが、補給担当者にとっては、それが戦いの本質だったのかもしれない。
「笑ってよい。だが覚えておけ。時に戦いは、英雄の剣より倉庫の扉で決まる」
笑いが少し引いた。
リシアは、自然に背筋を伸ばした。
この教官も、軽くない。
「では、問いだ」
教官は黒板に三つの名を書いた。
北境防衛戦。
黒河撤退戦。
灰の収穫祭。
「これはすべて、同じ戦いの名だ。どの名が正しいか」
学生たちが少しざわついた。
騎士家の学生が、すぐ手を挙げる。
「防衛側の目的が達成されたなら、北境防衛戦が正しいのでは」
「撤退した側にとっては」
別の学生が言う。
「黒河撤退戦です」
「農村の被害記録なら、灰の収穫祭でしょう」
教官は頷いた。
「全部正しい。だが、全部を同じ重さで扱うと、何も決められない」
その言葉に、リシアは昨日の記録整理を思い出した。
単純欠落。
一方向管理。
境界化。
双方利用。
全部を併記した。
けれど、いつかは何かを決めなければならない時が来る。
未確定は、何もしないことではない。
決めるための場所を空けておくこと。
アリシアの言葉が戻ってくる。
「ファーランド公女」
突然、教官がこちらを見た。
リシアは一瞬だけ止まった。
そして立ち上がる。
「はい」
「君なら、どの名を主記録に置く」
教室の視線が集まった。
また、置かれる。
リシアは、息を整えた。
急いではいけない。
答えは、ただ正しいものを選ぶだけではない。
誰のために、どこへ置くか。
「目的によります」
リシアは答えた。
「軍の教範に残すなら、北境防衛戦または黒河撤退戦。どちらを主とするかは、どちらの軍の判断を検証するかで変わります」
教官は黙って聞いている。
「領内の復興記録なら、灰の収穫祭を主記録にします。戦場としての勝敗より、住民被害と復興が主題になるためです」
自分の声が、思ったより落ち着いている。
リシアは続けた。
「ただし、公国の公的記録として残すなら、主記録は一つにしても、他二つへの参照を切るべきではありません。戻れない記録にすると、後世が同じ戦いを別のものとして扱う危険があります」
教室が静かになった。
ステファニアの気配が、隣でわずかに動く。
アリシアが、たぶん微笑んでいる。
教官はしばらくリシアを見た。
それから、低く言った。
「よい」
リシアは、胸の奥でほっとした。
「座りなさい」
「ありがとうございます」
座る。
座った瞬間、自分の手が少し冷えていることに気づいた。
セラが横目でこちらを見た。
大丈夫か、という視線だ。
リシアは小さく頷いた。
大丈夫。
いや、大丈夫かどうかは後で判断する。
今は、続ける。
◇
講義が進むにつれて、リシアは周囲の空気が変わっていくのを感じた。
騎士家の学生たちは、戦場の名付けについて思った以上に真剣だった。
彼らにとって、戦場の名は家の名誉に直結する。
先祖が守ったのか。
逃げたのか。
焼いたのか。
救ったのか。
名一つで、家の記憶は変わる。
だから、先ほどのリシアの答えも、単なる授業の回答では済まない。
主記録を一つにしても、参照を切るべきではない。
戻れない記録にするべきではない。
その言葉は、騎士家の学生たちにも届いたようだった。
講義後、数人がこちらをちらりと見た。
敵意ではない。
興味。
あるいは、評価。
リシアは、その視線を受け止める。
怖い。
けれど、悪くない。
見られることが、すべて傷になるわけではない。
どう見られるかを、自分で少しずつ置けるなら。
「リシア様」
講義室を出たところで、ステファニアが声をかけた。
「先ほどの回答、とてもよかったと思います」
「ありがとうございます」
リシアは少しだけ頬が熱くなった。
「ただ、急に当てられるのは心臓に悪いですね」
「ええ。私も少し驚きました」
ステファニアはそう言ってから、わずかに視線を動かした。
廊下の向こうに、ジークフリートがいた。
数人の学生に囲まれている。
こちらに気づいている。
目が合った。
ジークフリートは、礼儀正しく会釈した。
ステファニアも会釈を返す。
それだけ。
近づかない。
声をかけない。
その距離が、また廊下に置かれた。
リシアは、胸の中で小さく数えた。
不在。
気にしているという伝言。
会釈。
声なし。
それらは、ひとつひとつなら小さい。
だが、積み重なれば形になる。
アリシアは何も言わない。
ただ、扇子を閉じた。
その音が、小さく響いた。
「リシア様」
ステファニアが、前を向いたまま言った。
「はい」
「今日は、戻りましょう」
「はい」
リシアは頷いた。
今は、ここではない。
怒りも、問いも、答えも。
置く場所を選ぶ。
ジークフリートの会釈を背に、リシアたちは白い廊下を歩き出した。
その背後で、また噂が動き出す気配がした。
だが今度は、リシアもただ流されるだけではない。
戻り道のない記録に、出口を作る方法を、少しだけ学び始めているのだから。




