第四十二夜 戻り道のない記録
第四十二夜 戻り道のない記録
読み合わせの記録は、思ったより重かった。
紙の束として重いわけではない。
ユリアが写した確認事項は数枚だけだ。
聖女像事件の分類名。
主記録の違い。
秘匿区画侵害未遂。
相互参照の欠落。
追加資料の必要。
文字にすれば、それだけ。
けれどリシアは、その薄い資料束を手にした時、なぜか両手で持ちたくなった。
片手で持つには、軽すぎるのに重い。
変な感覚だった。
小閲覧室を出る前、ユリアは何度も資料束の端を揃え直していた。
自分で見つけた相互参照の欠落が、まだ頭から離れていないのだろう。
「ユリア様」
リシアが声をかけると、ユリアははっと顔を上げた。
「はい」
「今日の記録は、貸与邸で整理します。確認が必要になれば、改めてご相談してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
ユリアはすぐに答えた。
それから、少しだけ迷った顔になる。
「ただ、私の専門は記録媒体と分類構造です。宗教史そのものではありません」
「分かっています」
リシアは頷いた。
「だからこそ、必要な時にお願いしたいのです」
ユリアの目が少し和らいだ。
役割を求められること。
それも、できないことまで求められるのではなく、自分の範囲を分かったうえで求められること。
それは、彼女にとって安心になるのだろう。
「承知しました」
ユリアは資料用の鞄を胸元に抱え直した。
「それと、相互参照の欠落については、古い索引の転写ミスである可能性も残ります。断定は、まだしない方がよいと思います」
「はい」
リシアは微笑んだ。
「その言葉も、記録しておきます」
ユリアは一瞬きょとんとした。
それから、少し恥ずかしそうに頷いた。
ミリアは先に小閲覧室を出て、エリオットと廊下の端で短く話していた。
何を話しているのかは聞こえない。
だが、二人の距離は近すぎず、遠すぎない。
ミリアが場を荒らすために彼を呼んだようには見えなかった。
では、誰がこの組み合わせを置いたのか。
リシアは、まだ答えを出さないことにした。
答えは、急いで置くものではない。
◇
貸与邸へ戻ると、クラウディアはすでに小談話室にいた。
いた、というより、またしても必要な場所へ必要な時刻に配置されていた。
卓の上には、薄い端末が二枚。
資料を読むための台。
それに、温かい茶。
完全に準備済みだった。
「お戻りなさいませ」
「ただいま戻りました」
リシアは答え、資料束を卓へ置いた。
置いた瞬間、クラウディアの視線がその上へ落ちる。
「読み合わせ記録ですね」
「はい」
「まず、皆様の体調確認を」
そう言って、クラウディアは端末で全員のバイタルを確認した。
リシア、アリシア、ステファニア、セラ。
最後にアイン。
アインは少しだけ眉を動かした。
「俺もか」
「はい」
「必要か」
「必要です」
即答だった。
アインは何も言わなかった。
言っても無駄だと分かっている顔だった。
「身体的異常なし。精神負荷はやや高めですが、想定範囲内です」
「想定されていたのですね」
リシアが言うと、クラウディアは当然のように頷いた。
「聖女像事件、神殿系学生、相互参照欠落。負荷が低い方がおかしいでしょう」
「それは、そうですが」
淡々と言われると、なぜか疲れが増す。
アリシアは楽しそうに茶器を手に取った。
「クラウディア、今日の記録の扱いは?」
「三層に分けます」
クラウディアはすぐに答えた。
リシアは、三層という言葉に少しだけ身構えた。
ユリアの二層記録用魔石板を聞いたばかりだ。
今度は三層。
記録は、どんどん深くなる。
「第一層は学院内の通常学習記録。聖王国基礎史資料の読み合わせを実施し、分類理解を深めた。ここには問題のない範囲だけを置きます」
クラウディアは指先で端末を操作した。
卓上に文字が浮かぶ。
日時。
場所。
参加者。
扱った資料。
表向きのまとめ。
とても整っている。
整いすぎていて、何も起きなかったように見える。
「第二層はファーランド側共有記録。聖女像事件の複数分類、秘匿区画侵害未遂、相互参照欠落を記録します。これはガリウス大公、関係重臣、必要に応じてウィリアム侯爵とカリウス子爵へ共有可能な範囲です」
ステファニアが静かに頷いた。
セラも姿勢を正す。
自分たちの父の名が出たからだろう。
「第三層はアークライト側解析記録。相互参照欠落を、意図的な情報導線の可能性として扱います」
リシアは息を止めた。
意図的な情報導線。
その言葉は、薄い紙の束に急に刃を入れるようだった。
「やはり、意図的だと思いますか」
ユリアはここにはいない。
だからリシアが問う。
クラウディアはすぐには答えなかった。
端末に、読み合わせで写した索引構造を投影する。
聖務院側。
法令側。
家門記録側。
それぞれから伸びる細い線。
聖務院側から法令側へ。
聖務院側から家門側へ。
法令側から聖務院側へ。
しかし、家門側から聖務院側へ戻る線がない。
ユリアが見つけた欠落。
「単純な劣化、転写ミス、記録統合時の欠落。その可能性は残ります」
クラウディアは言った。
「ですが、欠落している場所が都合よすぎます」
「都合がよい」
「はい。聖務院側からは家門側の記録へ辿れる。つまり、聖務院側が必要とした場合、家門側の存在を把握できる」
クラウディアは、欠けた線を指した。
「一方で、家門側からは聖務院側へ自然には戻れない。家門側の記録を守る者は、外側がどの名で何を主張しているかを、索引からは追いにくい」
「不利です」
ステファニアが言った。
「家門側にとって」
「表面上は」
クラウディアが答える。
表面上は。
リシアは、その言い方に引っかかった。
「違う可能性があるのですか」
「戻り道を消すことは、防御にもなります」
アインが言った。
壁際にいたはずなのに、その声は自然に会話の中心へ入ってくる。
「相手から来る道だけを残し、こちらから相手へ辿る道を消す。外から踏み込む者は痕跡を残す。内側の者は、知らなければ外へ触れない」
リシアは、ゆっくりと理解した。
戻れない索引。
それは不便だ。
だが、不便だからこそ守れるものがある。
外側から来た者は、家門側の記録に触れる。
その時点で、触れた事実が残る。
内側の者は、外側の分類へ簡単には辿れない。
興味本位で、外の祈りや外の権利主張へ近づくことを防ぐ。
「罠、ですか」
リシアの声は小さかった。
アリシアが茶を一口飲んだ。
とても優雅に。
答えない。
答えないことが、答えのように見える。
リシアは、少しだけ胃が痛くなった。
「罠というより、境界です」
クラウディアが言った。
「踏み越えた者が、踏み越えたと分かる境界」
「それを作ったのは」
リシアは途中で言葉を止めた。
言わなくても分かる。
少なくとも、疑うべき相手はそこにいる。
アリシア・ファーランド。
千五百年前に眠りについた姫。
待つことを選んだ姫。
そして、待っている間に後世の当主まで試すような仕掛けを残したかもしれない人。
「お姉様」
「はい」
「これは、お姉様が」
言いかけたところで、アリシアが微笑んだ。
「リシア」
「はい」
「証拠のないことは、断定してはなりませんわ」
とても正しい。
とても正しいのに、ずるい。
リシアは、思わず黙った。
アインが小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、分からない。
「ただ」
アリシアは扇子を開いた。
「もし、わたくしがその場におりましたら、同じようなことは考えたでしょうね」
やっぱり。
リシアは、心の中でそう思った。
声には出さなかった。
出したら、負ける気がした。
◇
「では、第三層の記録には、どう書くべきでしょうか」
ステファニアが問う。
彼女はアリシアの含みを受け止めながらも、すぐ実務へ戻った。
その切り替えの速さに、リシアは少し感心した。
そして、少し安心した。
ステファニアは傷ついていないわけではない。
けれど、今は自分の役割を見失っていない。
「候補は三つです」
クラウディアが端末へ文字を出す。
一つ目。
単純欠落。
二つ目。
聖務院側による一方向管理。
三つ目。
家門側による境界化。
「どれも確定ではありません。現時点では併記します」
「第四候補はありませんの?」
アリシアが楽しそうに言った。
クラウディアは一瞬だけ黙った。
本当に一瞬だけ。
だが、リシアには見えた。
クラウディアが少しだけ、言いたくなさそうな顔をした。
「あります」
「何でしょう」
「双方が異なる意図で同じ欠落を利用した可能性です」
部屋が静かになった。
双方。
聖務院側と家門側。
外と内。
それぞれが、自分に都合よく欠落を使った。
欠けているから隠せる。
欠けているから踏ませられる。
欠けているから、後世で名を争える。
欠けているから、問いを残せる。
「厄介ですね」
リシアは正直に言った。
「ええ」
クラウディアも正直に頷いた。
「だから、断定してはいけません」
アリシアが扇子の向こうで微笑む。
「断定しないことは、時に一番強い札になりますわ」
「保留ですか」
「いいえ」
アリシアは首を横に振った。
「保留と未確定は違います。保留は何もしないこと。未確定は、決めるための場所を空けておくことです」
リシアは、その言葉を胸に置いた。
保留。
未確定。
似ている。
けれど違う。
昨日、ミリアへの返事をすぐには決めなかった。
だが、あれは何もしなかったわけではない。
返事を置くために必要な情報を求めた。
それは、未確定を扱ったということなのかもしれない。
「では、記録には未確定と書きます」
リシアが言うと、クラウディアが頷いた。
「よろしいです」
よろしい。
その言葉に、少しだけ嬉しくなる。
最近、クラウディアの「よろしい」に妙な達成感を覚えるようになってきた。
それはそれで危険な気もする。
◇
次に、エリオット・ヴァルナーについての整理へ移った。
クラウディアが、彼の名を端末に表示する。
聖王国学院。
神殿系学生。
聖務資料整理院補助生。
宗教史資料の分類と閲覧規定を学ぶ。
資料が問いを返すことを知っている。
その横に、評価欄が空白で置かれていた。
「敵ではありません」
ステファニアが最初に言った。
「味方でもありません」
アインが続ける。
「窓口」
リシアが言うと、クラウディアが頷いた。
評価欄に、窓口候補、と記録される。
「窓口候補」
リシアはその言葉を見た。
窓口。
開ける場所。
外を見る場所。
ただし、開けたままにすれば、風も入る。
時には、望まないものも入る。
「今後、どう接するべきでしょうか」
「まずは資料経由です」
クラウディアが答えた。
「私的な交流に寄せる必要はありません。宗教史資料の分類、閲覧規定、相互参照欠落。この三点について、必要があれば助言を求める」
「ミリア様は」
リシアが問うと、クラウディアは少しだけ端末を操作した。
ミリア・セルヴィン。
セルヴィン男爵家令嬢。
ジークフリート周辺。
読み合わせの提案者。
エリオットを紹介。
「ジーク様」呼び。
その項目が並ぶ。
「ミリア様については、目的が未確定です」
「未確定」
「はい。ジークフリート殿下の周囲にいる令嬢として接近しているのか。神殿系学生との接点を作る役割を持っているのか。単に社交上、使える人脈を紹介したのか。現時点では断定できません」
「本人に悪意があるとは限りませんね」
リシアが言うと、クラウディアは頷いた。
「悪意がなくても、役割を持たされることはあります」
その言葉に、リシアは黙った。
役割を持たされる。
それは自分たちにも言える。
ファーランド公女。
療養明けの姉。
婚約者。
護衛。
西方沿岸諸邦の少年。
付けられた名が、役割になる。
役割は、時に本人の意志より先に歩く。
「ミリア様も、付けられた名を着ているのかもしれません」
リシアが言うと、アインがこちらを見た。
「そうだな」
短い返事。
けれど、否定ではない。
「では、脱げるかどうかも見なければなりませんね」
アリシアが言った。
リシアはアリシアを見る。
「脱がせるのですか」
「まさか」
アリシアは微笑んだ。
「脱ぎたい方へ、畳んだ衣を置いて差し上げるだけですわ」
怖い。
優しいようで怖い。
リシアはまた少しだけ胃が痛くなった。
◇
最後に、読み合わせ記録の送付範囲を決めることになった。
第一層は、学院通常記録として提出しない。
必要になれば提示できる形で保存するだけ。
第二層は、ファーランド側へ要約を送る。
第三層は、アークライト側で解析。
そこで、ステファニアが手を挙げた。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
クラウディアが応じる。
「第二層の要約に、私の名前を入れてください」
リシアはステファニアを見た。
ステファニアの表情は静かだった。
「読み合わせに同席し、家門記録側分類について確認した者として。私の名を入れてください」
「理由は」
クラウディアが問う。
「私が、この件を避けていないと示すためです」
部屋の空気が変わった。
リシアは、ステファニアの横顔を見た。
ジークフリートは来なかった。
エリオットは来た。
ミリアは橋を架けた。
神殿側の資料が出た。
ファーランド家の秘事に近いものが、読み合わせの卓へ置かれた。
その場に、ステファニアもいた。
婚約者としてではなく。
レーヴェンハイト侯爵令嬢として。
ファーランド系譜に繋がる者として。
それを、記録へ置きたいのだ。
「よろしいのですか」
リシアが聞くと、ステファニアは頷いた。
「はい。逃げた形にしたくありません」
逃げた形。
その言葉が、静かに刺さった。
リシアは返事を探した。
頑張ってください、では違う。
無理をしないでください、でも足りない。
だから、昨日言ったことをもう一度、少しだけ形を変えて置く。
「では、私の名も入れてください」
リシアは言った。
「リシア様」
「同じ場で確認しました。ステファニア様だけの記録にはしません」
ステファニアが、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに微笑む。
「ありがとうございます」
アリシアが、満足そうに頷いた。
「九割ですわね」
「今日もそこだけですか」
「ええ。そこだけなら」
リシアは小さく息を吐いた。
だが、悪くない気分だった。
九割。
そこだけなら。
それでも、今は十分だ。
「では、第二層要約には、リシア様とステファニア様の確認記録として残します」
クラウディアが記録を修正した。
その文字が卓上に浮かぶ。
リシア・ファーランド。
ステファニア・レーヴェンハイト。
同席確認。
資料分類確認。
追加資料必要。
それは、薄い文字だった。
けれど、確かに置かれた。
◇
確認会が終わる頃、窓の外は夕暮れに近づいていた。
白い学院の壁が、淡い金色に染まっている。
セラは、最後まで真面目に話を聞いていた。
だが、クラウディアが「本日の確認は以上です」と告げた瞬間、少しだけ目が食堂の方へ向いた。
リシアは笑いそうになった。
「セラ」
ステファニアが言う。
「はい」
「夕食の前に、今日の警戒配置を確認します」
「承知しました」
セラはすぐ護衛の顔に戻った。
本当に切り替えが早い。
その素直さが、今はありがたかった。
重い話ばかりの後で、セラの現実感は部屋の空気を少し戻してくれる。
アインは窓際に立ち、外を見ていた。
夕方の鐘が鳴る。
白い鐘の音。
美しく、清らかで、何かを囲う音。
リシアは、その響きを聞きながら思った。
戻り道のない記録。
戻れるように見えて、戻れない索引。
それは不便だ。
怖い。
だが、ただの欠落ではないかもしれない。
誰かが何かを守るために、戻れない道を作った。
誰かが何かを奪うために、その道を利用した。
あるいは、その両方。
今はまだ、未確定。
けれど、未確定は何もしないことではない。
決めるための場所を空けておくこと。
リシアは、今日の記録の置き場所を胸の中で確かめた。
聖女隠匿事件。
聖女像寄進要求事件。
秘匿区画侵害未遂。
戻り道のない索引。
エリオット・ヴァルナー。
ミリア・セルヴィン。
そして、ステファニアの名。
それらは、まだ結論ではない。
だが、もう無関係でもない。
夕方の鐘が、最後の一音を残して消える。
その音が消えた後も、リシアの胸には、薄い響きが残っていた。
記録は、置いた場所から動き出す。
ならば、戻り道のない記録にも、いつか出口を見つけなければならない。




