表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

48/72

第四十一夜 読み合わせの席

第四十一夜 読み合わせの席


 翌日の午後、学院本館の小閲覧室に、白い卓が用意されていた。


 大きな部屋ではない。


 壁際に資料棚が並び、窓は中庭へ向いている。


 閲覧台は四つ。


 そのうち一つだけが、事前予約の札を置かれていた。


 学院内連絡路を通して予約された、講義資料読み合わせの席。


 名目はそれだけだ。


 聖王国基礎史の講義資料を読み合わせる。


 資料の扱いについて理解を深める。


 必要があれば、研究院推薦生の意見を聞く。


 文字にすれば、とても穏当だった。


 だが、リシアはもう知っている。


 穏当な名目ほど、置き方を間違えると厄介になる。


「リシア様」


 隣で、ステファニアが小さく声をかけた。


「はい」


「緊張されていますか」


「少し」


 リシアは正直に答えた。


「昨日よりは、ましです」


「それは何よりです」


 ステファニアは柔らかく微笑んだ。


 その微笑みを見て、リシアは少しだけ胸の奥が痛んだ。


 昨日、ステファニアは言った。


 ジークフリートに触れるべき時は、自分からではなく殿下からあるべきです。


 今日は、そのジークフリートは来ない。


 来ないことは、返書で知らされていた。


 だから驚くことではない。


 それでも、来ないという事実は、こうして席を用意された場に改めて置かれる。


 欠席もまた、置かれるものなのだ。


 リシアは、そこから目を逸らさないようにした。


 小閲覧室には、リシア、アリシア、ステファニア、セラ、ユリアが先に入っていた。


 アインは壁際にいる。


 同席者として席に着くのではなく、護衛兼随行者として少し離れて立っている。


 そこにいる。


 だが、場の主役にはならない。


 昨日の講義室と同じ位置取りだった。


 ユリアは資料束を前に、少し緊張した顔で座っている。


「すみません。研究院の資料ではないので、私が説明できる範囲は限られます」


「ユリア様は、資料の置き方と記録媒体の扱いについて見てくだされば十分です」


 リシアが言うと、ユリアは小さく頷いた。


「分かりました。宗教史の解釈には踏み込みません」


 その言い方が、いかにもユリアらしい。


 何が自分の範囲で、何がそうでないかを最初に線引きする。


 リシアは、その線引きが今日の場では大切になる気がした。


「よい姿勢ですわ」


 アリシアが言う。


「分からないことを分からないと置ける方は、資料を壊しにくいものです」


「壊す、ですか」


「ええ。読んだ気になることは、時々、破ることより厄介ですもの」


 ユリアは少し考え込み、それから真面目に頷いた。


「覚えておきます」


 その時、小閲覧室の扉が軽く叩かれた。


 セラが一歩、視線だけを扉へ向ける。


「どうぞ」


 リシアが答えると、扉が開いた。


 入ってきたのは、ミリア・セルヴィンだった。


 今日は昨日より少し控えめな色のリボンをつけている。


 表情は柔らかい。


 ただ、前ほど軽く近づいてはこない。


「お招きありがとうございます。リシア様、アリシア様、ステファニア様」


 順番は正しい。


 リシアは会釈を返した。


「こちらこそ、お声がけありがとうございました」


 ミリアは席へ進む前に、後ろを振り返る。


「こちらが、エリオット・ヴァルナー様です」


 その名に続いて、少年が入ってきた。


 年は、リシアたちより少し上だろうか。


 淡い灰色の髪。


 神殿系の学生が身につける白い飾り紐。


 姿勢はまっすぐで、目元は穏やかだった。


 だが、その穏やかさは柔らかいだけではない。


 資料室で見た棚のように、何がどこにあるかを自分の中で整理している人の目だった。


「エリオット・ヴァルナーです」


 少年は深くなりすぎない礼をした。


「聖務資料整理院の補助生として、宗教史資料の分類と閲覧規定を学んでいます。本日は、資料の扱いについて助言を求められました」


 リシアは、少しだけ息を整えた。


 宗教史に詳しい人、ではない。


 宗教史資料の分類と閲覧規定を学ぶ人。


 こちらが返書で求めた条件に、きちんと合わせてきている。


 偶然ではない。


 ミリアが一人で選んだのか。


 それとも、誰かが選んだのか。


 まだ分からない。


「リシア・ファーランドです。本日はありがとうございます」


 リシアは丁寧に名乗った。


「アリシア・ファーランドです」


「ステファニア・レーヴェンハイトと申します」


「セラ・グレイヴェルです」


 セラの名乗りは短い。


 エリオットはそれぞれに礼を返し、アインの方へも一度視線を向けた。


「アイン・ベルンです」


 アインはそれだけ言った。


 エリオットは、その短さに少しだけ目を瞬いたが、すぐに会釈した。


「よろしくお願いいたします」


 全員が席に着く。


 アインだけは壁際。


 セラは通路側。


 リシアは、自分の前に置かれた資料束を見た。


 いよいよ、読み合わせが始まる。


     ◇


 資料は、マリナ・オルセイン教官の講義で使われた分類表から始まった。


 祈祷文書。


 法令文書。


 災害記録。


 技術記録。


 証言記録。


 伝承。


 昨日見たものと同じだ。


 だが、閲覧室の卓で改めて見ると、講義室で聞いた時より冷静に見える。


「まず、確認したいのですが」


 リシアは資料へ目を向けたまま言った。


「同じ出来事が複数の分類に置かれることは、聖王国では珍しくないのですか」


 エリオットは少しだけ考えた。


 すぐ答えない。


 それは好感が持てた。


「珍しくはありません」


 エリオットは答えた。


「ただし、好ましいとも限りません。同じ出来事が複数分類に残る場合、後世の閲覧者は、どの記録を主記録と見るかで判断を変えます」


「主記録」


「はい。祈祷文書を主と見れば、出来事は信仰の文脈に置かれます。法令文書を主と見れば、権利と義務の問題になります。災害記録を主と見れば、再発防止のための知識になります」


 リシアは頷いた。


 昨日の講義と矛盾しない。


 むしろ、少し整理されている。


「では、誰が主記録を決めるのですか」


 ステファニアが問う。


 エリオットの視線が、ゆっくりステファニアへ向いた。


「時代によります。聖務院が決める場合もあります。領主家の記録体系が優先される場合もあります。裁定機関が後から指定する場合もあります」


「争いになりますね」


「なります」


 エリオットは正直に認めた。


「だからこそ、分類は慎重でなければなりません」


 その言い方に、リシアは少し意外さを覚えた。


 もっと神殿側の正しさを押し出されるかと思っていた。


 しかし、エリオットは今のところ、資料の扱いとして話している。


 信仰ではなく、分類の実務だ。


「では、昨日の講義で扱われた聖女像の件についても」


 リシアは言葉を選んだ。


 踏み込みすぎてはいけない。


 だが、避けすぎても、この場を設けた意味がない。


「宗教史側と領主側で、主記録にしたいものが違った、という理解でよろしいでしょうか」


 小閲覧室の空気が、少しだけ重くなった。


 ミリアが、無意識に指を組んだ。


 ユリアは資料へ目を落とし、黙っている。


 アリシアは扇子を開いている。


 顔は穏やかだ。


 とても穏やかだ。


 リシアは、見ないふりをした。


 見てはいる。


 だが、今はそこへ視線を置かない。


 エリオットは、少し長く沈黙した。


 それから答える。


「初等講義で扱われた範囲なら、その理解でよいと思います」


「初等講義で扱われた範囲なら」


 ステファニアが、静かに繰り返した。


「ええ」


 エリオットは頷いた。


「あの事件については、扱いに制限があります。私も詳細記録を閲覧したことはありません」


「それでも、資料の分類はご存じなのですね」


「分類番号と閲覧規定だけは学びます」


 エリオットは資料の端に指を置いた。


「宗教史側では聖遺物関連争議。法令側では寄進要求と領主権限の衝突。家門記録側では秘匿区画侵害未遂。聖務院の古い索引では、聖女隠匿事件」


 秘匿区画侵害未遂。


 その言葉が出た瞬間、リシアは胸の中で何かが冷たくなるのを感じた。


 隠匿ではない。


 侵害未遂。


 その分類が、どこかに残っている。


 領主側ではなく、法令側でもなく、家門記録側として。


 昨日の講義では聞かなかった言葉だ。


「随分と、名が多いのですね」


 アリシアが言った。


 声は柔らかい。


 エリオットは丁寧に頷いた。


「古い事件ほど、名が増えます。関わった人々が、それぞれ違うものを守ろうとしたからです」


「違うもの」


「信仰を守ろうとした者。家を守ろうとした者。法を守ろうとした者。自分の立場を守ろうとした者」


 そこで、エリオットは少しだけ言葉を止めた。


「あるいは、誰かを守ろうとした者」


 リシアは、息を止めかけた。


 誰かを守ろうとした者。


 それは、誰のことだろう。


 若き嫡子か。


 家臣団か。


 それとも、眠っていたアリシアか。


 いや、もしかすると。


 眠っていたアリシア自身かもしれない。


 リシアは、その考えに触れかけて、そっと手を引いた。


 まだ、ここではない。


     ◇


 読み合わせは、思っていたより静かに進んだ。


 エリオットは、信仰の言葉を使う。


 だが、その言葉は刃のようではなかった。


 むしろ、刃を鞘に収めるための言葉に近い。


「聖なるもの、という言い方は危ういのです」


 エリオットは、資料の一節を指しながら言った。


「聖なるものは守るべきだ、という考え自体は自然です。けれど、それを誰が守るのか、どこで守るのか、どう守るのかを決めないまま口にすると、守るという名で奪うことがあります」


 ミリアが少し驚いた顔をした。


「エリオット様、それは神殿の方が仰ってよいのですか」


「神殿にいるからこそ、言うべきだと思います」


 エリオットは穏やかに答えた。


「祈りは、人を支えます。ですが、支えるための手が、相手の喉にかかることもある。だから規定があります」


 リシアは、エリオットを見た。


 この人は、メシア教徒なのだろう。


 少なくとも、神殿側の教育を受けている。


 だが、だからといって、単純にこちらの敵ではない。


 アインが言った通りだ。


 全部を敵にすると、見誤る。


「では、寄進要求は」


 ステファニアが言った。


「祈りの形を取った要求でもある、ということでしょうか」


 エリオットは、ステファニアを見た。


「場合によります」


「便利な答えです」


 ステファニアの声は穏やかだった。


 だが、少しだけ鋭い。


 エリオットは、怒らなかった。


「はい。ですが、便利でない答えを出すには、資料が足りません」


 その返しに、ステファニアは少しだけ目を細めた。


 不快ではなさそうだった。


「誠実ですね」


「そうありたいとは思っています」


 エリオットはそう答えた。


 リシアは、二人のやり取りを見ながら思った。


 これは、悪い読み合わせではない。


 少なくとも、今のところは。


 だが、悪くないからこそ難しい。


 相手が乱暴なら、拒めばよい。


 相手が誠実なら、こちらも誠実でなければならない。


 誠実でありながら、油断してはいけない。


 難しすぎる。


 学院は、本当に休ませてくれない。


     ◇


 ユリアは、途中で一枚の記録様式を指した。


「この分類表、同一事件に対して索引番号が複数振られていますね」


 エリオットが頷く。


「はい。古い事件ではよくあります」


「ですが、相互参照が途中で切れています」


 ユリアの声が、研究の時のものへ変わった。


「聖務院側の索引から法令側へは繋がっていますが、家門記録側から聖務院側への戻りがありません」


 リシアにはすぐ分からなかった。


 だが、エリオットの表情が変わった。


 わずかに、真剣になる。


「よく見つけましたね」


「記録媒体の癖です。片方向だけ残ると、後で読む人は戻れなくなります」


 ユリアは資料を指でなぞる。


「これでは、聖務院側から事件を追う人は家門側の分類を見つけられますが、家門側から事件を追う人は聖務院側の分類へ自然には辿れません」


「意図的でしょうか」


 リシアが問うと、ユリアは首を傾げた。


「断定はできません。古い索引ですし、単純な欠落かもしれません」


「欠落でなければ」


 ステファニアが言う。


「どちらかの側からだけ、もう一方を見えるようにした」


 小閲覧室が静かになった。


 エリオットは資料を見つめている。


 ミリアは少し困った顔になった。


 おそらく、ここまで踏み込むつもりではなかったのだろう。


 アリシアは、扇子の向こうで微笑んでいる。


 楽しそうだ。


 とても楽しそうだ。


 リシアは、少しだけ胃のあたりが重くなった。


「この場では、断定しない方がよろしいですわ」


 アリシアが言った。


「そうですね」


 リシアはすぐに頷いた。


 置き場所を間違えない。


 今ここで、意図的な欠落だと決めつければ、読み合わせの場が告発の場になる。


 それは違う。


 まだ違う。


「では、記録上の注意点として残しましょう」


 リシアは言った。


「相互参照に欠落がある。理由は未確定。追加資料が必要」


 ユリアが頷いた。


「その書き方なら適切です」


 エリオットも、少し遅れて頷く。


「私も同意します」


 ミリアはほっとしたように息を吐いた。


 その反応を、リシアは見た。


 ミリアは、今日この場を荒らしたいわけではない。


 少なくとも、今は。


 ならば、この場で彼女を追い詰める必要はない。


     ◇


 読み合わせが終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。


 資料束の端には、リシアたちの確認事項が並んでいる。


 聖女像事件の分類名。


 主記録の違い。


 秘匿区画侵害未遂という家門側分類。


 索引の相互参照欠落。


 追加資料の必要。


 それらは、どれも結論ではない。


 だが、結論へ向かうための足場だった。


「本日はありがとうございました」


 リシアが言うと、エリオットは丁寧に礼を返した。


「こちらこそ。非常に勉強になりました」


「神殿側の方に、そう言っていただけるとは思いませんでした」


 言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。


 だが、エリオットは穏やかに首を振る。


「そう思われることも、神殿側が受け止めるべきことです」


 その答えは、やはり誠実だった。


「ただ、一つだけ」


 エリオットは少し迷うように言葉を切った。


「聖女隠匿事件という名は、神殿側でも絶対ではありません。少なくとも、資料整理院ではそう扱います」


 リシアは続きを待った。


「隠した者が悪で、求めた者が善。そう決めてしまえば、資料はそこで閉じます」


 エリオットの視線が、資料束へ落ちる。


「ですが、閉じてしまった資料は、もう問いを返してくれません」


 その言葉に、ユリアが小さく反応した。


 資料を読む者として、響くものがあったのだろう。


「ですから」


 エリオットは顔を上げた。


「もし、あの事件を調べるなら、名ではなく、誰が何を守ろうとしたのかを見るべきだと思います」


 誰が何を守ろうとしたのか。


 リシアは、その言葉を胸の中に置いた。


 守ろうとした者。


 奪おうとした者。


 祈ろうとした者。


 試そうとした者。


 眠っていた者。


 全部が、同じ事件の中にいる。


「ありがとうございます」


 リシアは静かに答えた。


「覚えておきます」


 エリオットは頷き、ミリアと共に小閲覧室を出ていった。


 扉が閉まる。


 しばらく、誰も話さなかった。


 静けさの中で、アリシアが扇子を閉じる。


「悪い方ではありませんわね」


 リシアは、少しだけ驚いた。


「そう思われますか」


「ええ」


 アリシアは微笑む。


「だからこそ、油断してはなりません」


 やはり、そう来る。


 リシアは小さく息を吐いた。


「誠実な方でも、ですか」


「誠実な方ほど、自分の正しさを疑うのが遅れることがあります」


 アリシアの声は静かだった。


「ですが、あの方は少なくとも、資料が問いを返すことを知っています。それは大切です」


 ステファニアが頷いた。


「敵と見るには早い。味方と見るにも早い。そういうことでしょうか」


「その通りですわ」


 アリシアは満足そうに言った。


 アインが壁際から口を開く。


「窓口だな」


 短い言葉だった。


 窓口。


 敵でも味方でもなく、まずは開けられる場所。


 リシアは、エリオット・ヴァルナーの名をもう一度胸の中で繰り返した。


 神殿系学生。


 聖務資料整理院の補助生。


 資料が問いを返すことを知る者。


 今はまだ、そこまで。


「では」


 リシアは資料束を整えた。


「この読み合わせの記録も、置き場所を決めなければなりませんね」


 アリシアが嬉しそうに笑った。


「ええ」


 その笑顔を見て、リシアは少しだけ身構えた。


「とてもよい復習ですわ」


 また復習。


 リシアは、やはり学院が休ませてくれない場所なのだと、深く理解した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ