第四十夜 返事の作法
# 第四十夜 返事の作法
学院の貸与邸へ戻る頃には、夕方の光が白い壁を淡く染めていた。
朝に見た時より、少し柔らかい色に見える。
同じ建物でも、光の向きが変われば違って見える。
リシアは、そんなことを考えながら門をくぐった。
今日一日で、ずいぶん多くのものを見た気がする。
編入試験。
共同基礎講義。
食堂の席。
研究院棟の資料室。
古い索引。
聖王国基礎史。
聖女隠匿事件。
聖女像寄進要求事件。
そして、ミリア・セルヴィンからの読み合わせの誘い。
どれも別々の出来事のはずなのに、リシアの中では一つの線の上に並び始めている。
席を選ぶ。
資料を置く。
噂を置く。
名を付ける。
返事をする。
たぶん、全部同じだ。
どこへ置くかで、意味が変わる。
玄関広間へ入ると、クラウディアがすでに待っていた。
待っていた、というより、必要な時刻にそこへ存在していたという方が正しい。
手には薄い端末。
顔はいつも通り。
つまり、何かを知っている顔だ。
「おかえりなさいませ」
「ただいま戻りました」
リシアが答えると、クラウディアは一度だけ全員を見た。
リシア。
アリシア。
ステファニア。
セラ。
アイン。
全員の表情と歩き方を確認したのだろう。
「身体的異常はありませんね」
「講義で疲れただけです」
リシアは正直に答えた。
「それは異常ではありません」
「でしょうね」
アリシアが楽しそうに言う。
「クラウディア。報告は入っておりますか」
「はい」
やはり。
リシアは小さく息を吐いた。
クラウディアには、報告が入っている。
どこからかは、聞かない方がよい気がする。
「聖王国基礎史、マリナ・オルセイン教官。講義内容は記録済みです。聖女像を巡る所有権論争への言及も確認しました」
クラウディアは淡々と言った。
「ミリア・セルヴィン様からの読み合わせ提案も、周辺証言として把握しています」
「周辺証言」
リシアは思わず繰り返した。
誘いが、もう証言になっている。
学院は怖い。
いえ、クラウディアが怖いのかもしれない。
「まず着替えと休息を」
クラウディアは端末を閉じる。
「その後、軽い茶と夕食前の確認会を用意しています」
「確認会、ですか」
「はい。返事の方針を決める必要があります」
リシアは、胸の中で小さく頷いた。
やはり、あの誘いはそのまま流してよいものではない。
受けるかどうか。
どこで受けるか。
誰を入れるか。
何を目的にするか。
それを決める必要がある。
「分かりました」
リシアが答えると、アリシアは満足そうに微笑んだ。
「では、今日の復習ですわね」
「お姉様」
「はい」
「復習という言葉が、少し怖くなってきました」
「よい傾向ですわ」
よいのだろうか。
リシアには少し分からなかった。
◇
着替えを済ませ、簡単に身体を休めた後、リシアたちは一階の小談話室に集まった。
大きな部屋ではない。
窓際に丸卓があり、人数分の椅子が置かれている。
壁には学院から貸与された標準的な地図と、聖王国学院の簡略配置図。
卓の上には茶器と軽い菓子。
そして、クラウディアが用意した薄い資料束が置かれていた。
それを見ただけで、リシアは少し背筋を伸ばした。
お茶会ではない。
これは会議だ。
「まず確認します」
クラウディアが資料束の一枚目を卓へ置いた。
「ミリア・セルヴィン様の発言は、講義終了直後、講義室出口付近。周辺には学院生が複数。内容は、講義資料の読み合わせの提案。ジークフリート殿下の周囲に宗教史に詳しい人物がいるという付帯情報」
文字にされると、急に冷たく見える。
あの場では、柔らかい誘いに聞こえた。
だが資料になると、構造が見える。
誰が。
どこで。
誰の名を使って。
何を提案したか。
「この誘いを、どう扱うべきか」
クラウディアが言う。
「リシア様」
「はい」
「まず、ご自身で考えを」
いきなり振られた。
リシアは少しだけ息を止め、それから整えた。
これは試験ではない。
ただし、答え方は見られている。
「受けるか断るかだけなら、受けない方が安全だと思います」
リシアはゆっくり言った。
「ですが、断れば、こちらがジークフリート殿下の周囲との接触を避けた形になります。ステファニア様の立場を考えると、それも望ましくありません」
ステファニアが静かに聞いている。
「受ける場合は、場所と目的をこちらで整える必要があります。講義資料の読み合わせという名目なら、私的な茶会ではなく、学院内の閲覧室や小講義室がよいと思います」
アリシアが目を細めた。
リシアは続ける。
「参加者も、曖昧にしない方がよいです。ジークフリート殿下の周囲、という言い方ではなく、どなたが参加されるのか。宗教史に詳しい方とはどなたなのか。ユリア様にも声をかけるべきです」
「理由は」
クラウディアが短く問う。
「資料の扱いを、社交ではなく学術側へ寄せるためです」
リシアは、昨日よりもはっきり答えられた。
「ユリア様は研究院推薦生です。記録と資料の扱いに明るい。彼女がいることで、読み合わせの場は単なる社交ではなく、資料を読む場になります」
「よろしい」
クラウディアが頷いた。
よろしい。
それだけなのに、リシアは少しほっとした。
「七割五分ですわね」
アリシアが言った。
「上がりました」
「ええ。とても順調です」
リシアは、喜んでよいのか迷った。
七割五分。
昨日よりは上がっている。
だが、まだ四分の一は足りないらしい。
「足りない部分は、どこでしょうか」
リシアが問うと、アリシアは嬉しそうに扇子を開いた。
「返事の相手ですわ」
「相手」
「ミリア様から誘われたからといって、ミリア様だけへ返事をすればよいとは限りません」
リシアは少し考えた。
ミリアは、ジークフリートの名を出した。
ならば、ジークフリート本人の意向がどこにあるか分からない。
ミリア個人の誘いなのか。
ジークフリートの周囲の誘いなのか。
ジークフリート本人が知っている誘いなのか。
そこを曖昧にしたまま返事をすれば、後で意味を変えられる。
「確認を求めるべき、ということですか」
「そうですわ」
アリシアは頷いた。
「ただし、責める形ではありません。講義資料の読み合わせという建前を大切にしながら、必要な情報を求めるのです」
ステファニアが静かに口を開いた。
「私からも、確認を添えるべきでしょうか」
部屋の空気が少し変わった。
リシアはステファニアを見る。
ステファニアの表情は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥に、硬いものがある。
自分の婚約者の名を、他の令嬢が何度も口にする。
それを礼儀として、政治として、場の構造として見なければならない。
それは、きっと痛い。
痛いはずなのに、ステファニアは痛いとは言わない。
「添えてもよいです」
クラウディアが言った。
「ただし、主文にはしない方がよい」
「理由は」
「婚約者として確認した、と見せると、場の中心がステファニア様とジークフリート殿下の関係に移ります。読み合わせの名目が弱くなる」
ステファニアは頷いた。
「では、私は同行予定者として、資料確認の必要性に同意する程度がよいのですね」
「はい」
クラウディアは即答した。
「十分です」
アリシアが、少しだけ満足げにステファニアを見た。
「本当に、筋がよろしいですわ」
「恐れ入ります」
ステファニアは静かに礼を返した。
褒められている。
それは分かる。
だが、アリシアの褒め方は、時々、優秀な剣を見つけた鍛冶師のように見える。
確保したい、と言っていたのは本心なのだろう。
リシアは、少しだけステファニアを守りたい気持ちになった。
守れるかは、別として。
◇
「では、返答案を作りましょう」
クラウディアが端末を起動する。
卓上に淡い文字が浮かんだ。
ミリア・セルヴィン様。
リシアは、その文字を見た。
返事は、ただの礼状ではない。
置き場所だ。
どの名で返すか。
誰を含めるか。
どこを会場にするか。
何を目的とするか。
すべてが意味を持つ。
「まず、私が書いてみます」
リシアはそう言って、端末へ向かった。
クラウディアは少しだけ目を細めた。
アリシアは何も言わない。
止められない。
なら、やってよいのだろう。
リシアは息を整え、文字を打ち始めた。
先ほどはお声がけをいただき、ありがとうございました。
聖王国基礎史の講義資料について、私どもも理解を深めたいと考えております。
そのため、読み合わせの機会を設けること自体は大変ありがたく存じます。
リシアはそこで一度止まった。
ありがたい。
だが、ただ受けるわけではない。
続ける。
つきましては、資料の性質を踏まえ、学院内の閲覧室または小講義室をお借りし、参加者と扱う資料を事前に確認したうえで実施できれば幸いです。
また、記録媒体と資料分類について見識をお持ちのユリア・ノートン様にも、可能であれば同席をお願いしたく存じます。
ジークフリート殿下のご予定、および宗教史に詳しい方のお名前につきましても、差し支えない範囲でお知らせください。
そこまで書いて、リシアは手を止めた。
強いだろうか。
弱いだろうか。
分からない。
「読み上げてください」
クラウディアが言った。
リシアは文面を声に出した。
読み上げると、文字だけで見ていた時とは違う響きになる。
丁寧だ。
だが、かなり条件を出している。
ミリアが軽い誘いのつもりだったなら、少し重く感じるかもしれない。
ジークフリート側が本気で読み合わせをするつもりなら、応じられるはずだ。
応じられないなら、何か別の目的がある。
「八割です」
クラウディアが言った。
「上がりました」
リシアは少し嬉しくなった。
アリシアは扇子で口元を隠している。
「クラウディア、甘くありませんこと?」
「成長評価を含めています」
「なるほど」
リシアは、喜んでよいのかまた迷った。
成長評価込みの八割。
つまり実点はもう少し低い。
けれど、昨日よりは確実にましなのだろう。
「修正点は」
リシアが聞くと、クラウディアは文面の一部を光らせた。
「『ジークフリート殿下のご予定』は、少し踏み込みすぎです。ミリア様が殿下本人の代理でない場合、相手に逃げ道を与えつつ、こちらの確認意図を満たす必要があります」
「では」
「『ジークフリート殿下がご同席されるご予定であるか』に変更してください」
リシアは頷き、修正する。
ご予定を聞くのではなく、同席する予定かを確認する。
似ているが、意味が違う。
予定を聞くと、相手の時間を管理しようとしているように見える。
同席予定の確認なら、会の性質を確認している。
言葉は細い。
だが、その細さで意味が変わる。
「もう一点」
アリシアが言った。
「『宗教史に詳しい方』ではなく、『宗教史資料の扱いに詳しい方』に」
「違いは」
「詳しい人だけでは、語りたがりが来ますわ」
アリシアは微笑んだ。
「資料の扱いに詳しい方なら、話題を資料へ縛れます」
リシアは、ゆっくり頷いた。
語りたがり。
たしかに、信仰や歴史について自分の考えを語りたい人はいるだろう。
それを呼ぶと、場の中心が資料から信条へ移る。
危ない。
「修正します」
リシアは文面を書き換えた。
宗教史資料の扱いに詳しい方。
たった数文字で、来るべき相手が変わる。
返事とは、怖い。
それを思う自分に、リシアは少し苦笑した。
今日だけで、怖いものが増えすぎている。
◇
文面が整った後、ステファニアが自分の端末へ写しを受け取った。
「私からは、別に添え状を出します」
「どう書きますか」
リシアが問うと、ステファニアは少し考えた。
「ミリア様のお声がけに感謝し、講義資料の読み合わせは私にとっても有益であること。リシア様の返書にある通り、資料と参加者を事前に確認する形が望ましいこと。その二点だけにします」
「ジークフリート殿下には触れないのですか」
「触れません」
ステファニアは静かに言った。
「触れるべき時は、私からではなく殿下からあるべきです」
部屋が静かになった。
リシアは、ステファニアの横顔を見た。
きれいな横顔だった。
感情を表に出していない。
けれど、何も感じていないわけではない。
「ステファニア様」
「はい」
「無理はなさらないでください」
言ってから、少し後悔した。
あまりにも普通の言葉だ。
そして、ステファニアは普通の言葉で自分の無理を隠せる人だ。
案の定、ステファニアは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です」
大丈夫。
その言葉は、判断材料として扱ってはいけない。
セラの父カリウスが、セラにそう言っていた。
リシアは、それを思い出した。
「大丈夫かどうかは、あとで判断します」
リシアは言い直した。
「今は、そばにいます」
ステファニアが、少しだけ目を見開いた。
それから、ほんの少し笑った。
「はい。ありがとうございます、リシア様」
アリシアが満足そうに頷く。
「今のは九割ですわ」
「そこだけですか」
「そこだけなら」
リシアは、少しむっとした。
けれど、嬉しくもあった。
ステファニアの隣にいる。
それだけは、間違えたくない。
◇
返書は、クラウディアが正式な書式へ整えた。
リシアの名で一通。
ステファニアの添え状が一通。
どちらも柔らかく、礼を失わず、それでいて必要な確認を曖昧にしない。
送付先は、ミリア・セルヴィン。
ただし学院内連絡路を使い、記録が残る形で送る。
「手渡しではないのですね」
リシアが問うと、クラウディアは頷いた。
「手渡しは柔らかいですが、記録が残りにくい。今回は誘いの性質を確認する段階です。学院内連絡路が適切です」
「また記録ですか」
「はい」
クラウディアは当然のように答えた。
「記録は武器ではありません。ですが、武器になる前に置いておくものです」
リシアは、その言葉を胸の中で転がした。
記録は武器ではない。
武器になる前に置いておくもの。
今日の聖王国基礎史と、ユリアの魔石板と、アリシアの噂の置き場所が、また一つ重なった。
「送ります」
クラウディアが端末に触れた。
淡い光が一度だけ走る。
返事は、もうリシアたちの手を離れた。
言葉が、置かれた。
あとは、それがどのように返ってくるかを見るだけだ。
「これで、今日の確認会は終わりですか」
セラが真面目に聞いた。
「主題は終わりました」
クラウディアが答える。
「では、夕食ですか」
セラの声が、少しだけ明るくなった。
リシアは思わず笑った。
今日一日、学院の席と噂と資料と名付けに揺さぶられ続けた。
けれど、セラは最後に夕食へ戻ってくる。
それが、少しだけ救いだった。
「夕食です」
クラウディアが言う。
「ただし、セラ様の食事量については、昨日の海上での消費記録を踏まえ、こちらで調整済みです」
「承知しました」
セラは素直に頷いた。
「足りますか」
ステファニアが静かに問う。
セラは一拍置いた。
「足りると思います」
「思います」
「足ります」
言い直した。
部屋の空気が少し緩む。
アインが、壁際で小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
リシアは、その横顔を見た。
今日、アインは言った。
付けられた名を、そのまま着るな。
必要なら、脱げ。
必要なら、別の名を置け。
リシアはまだ、その意味をすべて理解しているわけではない。
だが、少なくとも分かることがある。
明日以降、自分たちにはもっと多くの名が付けられる。
療養明けの公女。
戻ってきた姉。
婚約者。
護衛。
魔石板の才女の友人。
西方の少年の一行。
聖女像の名に反応した者。
その中には、着てよいものもある。
脱ぐべきものもある。
別の名へ置き換えるべきものもある。
リシアは、卓の上に残る返書の写しを見た。
今日、自分は初めて、返事をただの返事としてではなく、置くものとして書いた。
うまくできたかは、まだ分からない。
けれど、置いた。
その事実だけは、胸の中に残った。
◇
夕食の少し前。
学院内連絡路から、返信の到着を知らせる淡い音が鳴った。
思ったより早い。
クラウディアが端末を開く。
リシアたちの視線が自然に集まった。
「ミリア・セルヴィン様からです」
クラウディアは内容を確認し、短く言った。
「ジークフリート殿下は、読み合わせへの同席予定なし。宗教史資料の扱いに詳しい方として、神殿系学生一名の同席を希望。氏名は、エリオット・ヴァルナー」
新しい名前。
リシアは、その名を胸の中で繰り返した。
エリオット・ヴァルナー。
神殿系学生。
ジークフリートは来ない。
ならば、この誘いは誰のためのものなのか。
ミリアのためか。
神殿系学生のためか。
それとも、ジークフリートがいない形で、ステファニアたちを別の輪に近づけるためか。
「面白くなってまいりましたわね」
アリシアが、実に楽しそうに言った。
リシアは、少しだけ天井を見たくなった。
やはり、誰かの胃が痛くなるやつだ。
たぶん今回は、私たちの。
そう思いながら、リシアは端末に表示された新しい名前を見つめた。
返事は、返ってきた。
次は、その返事をどこへ置くかを考えなければならない。




