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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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幕間五 聖女像寄進要求事件

幕間五 聖女像寄進要求事件


 その年、ファーランドでは一人の当主が病に倒れたことになっている。


 公的な記録には、そう残された。


 老いと病。


 急な譲位。


 若き新当主の就任。


 それだけを読めば、長い家の歴史にいくらでもある継承の一つに過ぎない。


 けれど、ファーランドの秘録には別の名がある。


 聖女像寄進要求事件。


 その名が示す通り、この事件は病ではなく、祈りから始まった。


     ◇


 その当主は、悪人ではなかった。


 少なくとも、自分ではそう信じていた。


 若い頃に妻を失い、流行り病で幼い子を二人亡くし、領内の飢饉では祈ることしかできなかった。何かを守ろうとしても、手からこぼれるものばかりだった。


 その時、当主を支えたのがメシア教だった。


 祈りは、死んだ者を戻さない。


 けれど、残された者が息をする理由にはなる。


 当主はそれを知ってしまった。


 だから信じた。


 深く、静かに、疑うことを忘れるほどに。


 ファーランド大公家には、古くから触れてはならない場所がある。


 星の間。


 初代ガルフ・ファーランド公の時代から受け継がれた、城の奥深くにある秘匿区画。


 その存在は、当主だけが断片を知る。


 だが、何のための場所かは、すでに曖昧になっていた。


 開けてはならない。


 探してはならない。


 時が来るまで、触れてはならない。


 そうした言葉ばかりが、代を重ねるうちに硬い殻となって残っていた。


 当主は、その殻を罪だと思った。


 隠している。


 聖なるものを、正しき祈りから遠ざけている。


 そう思った。


 思ってしまった。


     ◇


 星の間へ続く道は、当時、今ほど複雑ではなかった。


 もちろん誰でも辿り着ける場所ではない。


 城の奥、石壁の裏、古い礼拝堂のさらに下。


 重い扉と、代々の当主が受け継いだ鍵と、いくつかの古い合図があれば開く。


 当主は、そこへメシア教の司祭を招いた。


 随行したのは、修道士が二名、護衛が二名。


 そして、若き嫡子。


 嫡子は反対した。


 父が何を見せようとしているのか、正確には知らなかった。だが、初代以来の禁域へ外の者を入れることだけは、してはならないと分かっていた。


「父上。今なら、まだ引き返せます」


「なぜだ」


 当主は穏やかに答えた。


「我らは罪を清めるのだ。恐れることはない」


「罪ではありません」


「隠すことは罪だ」


 そこで、嫡子は黙った。


 父の声には怒りがなかった。


 怒りがないから、怖かった。


 扉が開く。


 星の間の光が、石の廊下へ淡く漏れた。


 天井と壁は、夜空のような深い藍色をしていた。無数の微光が遠い星のように瞬いている。そこに立つ者の足音さえ、吸い込まれていくような静けさがあった。


 部屋の奥に、白い姿があった。


 アリシア・ファーランドは、立ったまま眠っていた。


 両手は静かに重ねられ、顔はわずかに伏せられている。


 それは祈る者の姿にも、祈られる者の姿にも見えた。


 白い衣は石の質感を帯びながらも、不思議と硬さを感じさせなかった。薄い布が風もないのに今にも揺れそうで、閉じられた目は、次の瞬間にも開きそうだった。


 その傍らに、侍女がいた。


 メイ。


 彼女は膝をつき、主へ祈るような姿勢のまま、同じ白い眠りに包まれていた。


 司祭が息を呑んだ。


 修道士たちも、言葉を失った。


 当主は、それを感動だと思った。


 若き嫡子だけが、違うものを聞いた。


 何かが、家の奥で軋む音だった。


「これは」


 司祭の声は震えていた。


 恐怖ではない。


 歓喜に近い震えだった。


「これほどの御姿を、なぜ、これまで」


「我が家に伝わる古き眠りです」


 当主は、誇らしげに言った。


「だが、私は思うのです。これほど清らかな御姿を、城の奥に隠したままでよいのかと」


 嫡子は父を見た。


 その横顔を、初めて知らない人間のように思った。


 司祭はゆっくりと膝をついた。


 手を組み、頭を垂れる。


 それは丁寧な祈りだった。


 丁寧すぎるほどに。


「ファーランド公」


 やがて司祭は立ち上がった。


 その表情は穏やかだった。


「この御姿は、貴家のみで抱えてよいものではありません」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 司祭は続ける。


「正しき祀りが必要です。正しき祭壇、正しき祈り、正しき守り手。隠されていた聖なるものを、正しい場所へ戻すだけです」


 声は柔らかい。


 責める響きもない。


 だからこそ、その言葉は逃げ場がなかった。


「どうか、御教えのもとへ寄進を」


 若き嫡子は、背筋が冷えるのを感じた。


 寄進。


 その言葉が、星の間の静けさを裂いた。


 父は、うつむいた。


 悩んでいる。


 拒むためではない。


 受け入れるために、言葉を探している。


 嫡子には、それが分かった。


     ◇


 その夜、ファーランド城の古い会議室に灯りがともった。


 集められたのは、家宰、老臣、近衛隊長、書記官、星の間の古い鍵を管理する家の代表。


 そして、若き嫡子だった。


 扉が閉ざされると、会議室は重い沈黙に沈んだ。


 最初に口を開いたのは老臣だった。


「若様。事実でございますか」


「父上は、星の間をメシア教の司祭へ見せた」


 誰も声を上げなかった。


 声を上げる余裕すらなかった。


「司祭は、寄進を求めた」


 近衛隊長が拳を握る音がした。


「当主は」


 老臣が問う。


「父上は、拒まなかった」


 会議室の空気が、さらに沈んだ。


 星の間の正体を、彼らは完全には知らない。


 眠る姫の名も、侍女の名も、古い記録の断片でしか知らない者が多かった。


 だが、それで十分だった。


 初代以来、ファーランドが守るべきもの。


 時が来るまで触れてはならないもの。


 外へ出してはならないもの。


 それだけは、家の骨として残っていた。


「父上は信仰に救われた」


 若き嫡子は言った。


「それを否定するつもりはない」


 誰も頷かなかった。


 ただ、聞いていた。


「だが、祈りに救われたことと、ファーランドの誓いを明け渡すことは違う」


 老臣が目を閉じた。


「当主は、家の上に立ちます」


 低い声だった。


「ですが、誓いの上には立てませぬ」


 その言葉で、場は決まった。


 これは謀反ではない。


 父を討つ話でもない。


 初代へ帰る話だった。


 ファーランドが、何を守るために続いてきたのか。


 それを問う夜だった。


     ◇


 若き嫡子は、父の私室へ向かった。


 扉の前には近衛が立っていた。


 彼らは嫡子を見ると、静かに道を開けた。


 父は窓辺にいた。


 卓上には、メシア教の聖印と、古い家伝書が並んでいた。


「来たか」


 当主は振り返った。


 穏やかな顔だった。


「司祭殿は、明朝には正式な書状を用意してくださるそうだ。寄進の形式は慎重に整える必要がある。ファーランドの名誉を損なわぬよう」


「父上」


「分かっている。お前が反対していることは」


 当主は微笑んだ。


「だが、これは救いだ。あの御姿を、暗い城の奥に閉じ込めておく方が間違っている。正しい祈りのもとで、正しく守られるべきだ」


「初代が何を守ったか、お忘れですか」


「忘れてなどおらぬ」


 父の声が、少しだけ強くなった。


「だからこそだ。初代が守ったものならば、なおさら、正しき祀りを受けるべきではないか」


「いいえ」


 若き嫡子は、父を見た。


 父ではなく、当主を見た。


「あれは、ファーランドが守ると誓ったものです」


「祈りもまた、守りだ」


「祈りの名で、外へ渡すことは守りではありません」


「お前は若い」


 当主は寂しげに言った。


「人は、祈りなしでは立てぬ時がある」


「知っています」


 若き嫡子の声は揺れなかった。


「ですが、祈りに救われた者が、祈りを理由に家を売ってよいわけではありません」


 当主の顔色が変わった。


 怒りではない。


 傷ついた顔だった。


「売る、だと」


「はい」


「私は聖なるものを、正しい場所へ」


「父上」


 嫡子は静かに遮った。


「善意の顔をした愚かさは、悪意より家を滅ぼします」


 沈黙が落ちた。


 父は、息子を見た。


 息子は、父を見た。


 その間にあったのは、親子の情だけではなかった。


 代々の当主が受け継いできたもの。


 初代が残し、ガルフが託し、名も知らぬ先祖たちが守ってきたもの。


 それが、二人の間に立っていた。


「撤回してください」


 若き嫡子は言った。


「今なら、まだ戻れます」


 当主は首を振った。


「戻るべきは、我らではない」


 父は本気だった。


 本気で、そう信じていた。


 だから若き嫡子は、最後の迷いを捨てた。


     ◇


 その夜、当主は病に倒れたことになった。


 公には、急な発作だった。


 数日を待たず、家督は若き嫡子へ譲られた。


 記録上は、そうなっている。


 秘録には、もう少し短い言葉が残されている。


 幽閉。


 毒杯。


 譲位。


 それだけだった。


 新当主が最初に下した命令は、短かった。


 メシア教関係者を、国境まで送り届けよ。


 傷つけるな。


 辱めるな。


 ただし、二度と星の間の名を口にするな。


 司祭は、最後まで怒鳴らなかった。


 ただ、静かに言った。


「ファーランドは、聖なる御姿を隠すのですね」


 新当主は答えた。


「ファーランドは、誓いを守る」


「それは、あなた方の誓いでしょう」


「そうだ」


 新当主は頷いた。


「だから、我らが守る」


 司祭は目を伏せた。


 その顔に悪意はなかった。


 だが、悪意がないことは、無害であることを意味しない。


 彼らは去った。


 護衛に囲まれ、国境まで丁重に送り届けられた。


 その日から、メシア教側の記録には別の名が残ることになる。


 聖女隠匿事件。


 ファーランドが聖なる御姿を独占し、正しき祀りを拒んだ事件。


 同じ出来事を、ファーランドはこう呼んだ。


 聖女像寄進要求事件。


 メシア教が祈りの名で、初代以来の誓いを奪おうとした事件。


 どちらも、自分たちを正しいと思っていた。


 だからこそ、傷は深く残った。


     ◇


 すべてが終わった後、新当主は星の間へ向かった。


 そこへ至る道には、すでに新たな封鎖が始まっていた。


 通路は組み替えられ、記録は分散され、鍵は複数の家へ分けられることになる。


 当主だから探してよいのではない。


 時期が来るまで、当主であっても探すな。


 それが、新たな命令だった。


 命令は正しく残された。


 だが、正しく残された言葉も、時の中では形を変える。


 探すな。


 触れるな。


 開けるな。


 星の間は禁域である。


 世代を重ねるうちに、命令は短くなった。


 短くなるたびに、本来の役目は削れていった。


 それでも、その夜の新当主にとっては、それが必要だった。


 彼は星の間の扉の前で、片膝をついた。


 扉は開けなかった。


 開ける資格が、自分にあるとは思えなかった。


「初代公」


 声は低かった。


「眠る姫君」


 彼は頭を垂れた。


「父を裁いたことは、詫びませぬ」


 冷たい石の廊下に、言葉が落ちる。


「詫びるべきは、父をそこまで迷わせた家の緩みです」


 しばらく、何も聞こえなかった。


 やがて、老臣が一歩進み出た。


 その手には、小さな封書があった。


「これは」


「星の間の封鎖準備中に、古い収蔵箱より見つかりました」


 新当主は封書を受け取った。


 紙は古い。


 だが、保存状態は異様なほどよかった。


 封はすでに切られていた。中には、短い一文だけがある。


 外より祈り来る時、内の誓いを問え。


 署名はない。


 けれど、筆跡は古い記録に残るアリシア・ファーランドのものと一致した。


 新当主は、長くそれを見ていた。


 偶然か。


 予見か。


 あるいは、眠る前からここまでを想定した布石か。


 答えはなかった。


 ただ、扉の向こうで眠る白い姿が、急に遠いものに思えた。


 祈られるための聖女ではない。


 祈りの名で近づくものを、千年の先から見返す者。


 もしこれが眠る前から置かれていたものなら。


 それは、あまりにも静かな拒絶だった。


     ◇


 年月は流れた。


 事件を知る者は減り、名だけが残った。


 ファーランド側には、メシア教は祈りの名で誓いを奪おうとする、という警戒が残った。


 メシア教側には、ファーランドは聖女を隠し、正しき祀りを拒んだ、という記録が残った。


 どちらも、忘れなかった。


 ただし、同じものを覚えていたわけではない。


 その違いが、後の時代に火種となる。


 聖女像寄進要求事件。


 聖女隠匿事件。


 同じ夜を、二つの名が呼び続けた。


     ◇


 この記録をリシアたちが実際に手に取ったのは、白い鐘の講義の直後ではなかった。


 ミリア・セルヴィンへの返事を書き、その返事がまた別の名を連れて戻ってきた、少し後のことである。


「……同じ事件、なのですか」


 リシアが、低く呟いた。


 机の上には、二種類の記録が並べられている。


 ファーランド側の秘録。


 そして、メシア教側の写し。


 どちらも古い。


 けれど、同じ出来事を示していることだけは分かった。


 クラウディアは、淡々と頁を閉じた。


「記録上は、そう判断してよいでしょう」


 ステファニアは黙っていた。


 セラも、口を開かなかった。


 メディナでさえ、少しだけ目を細めている。


 その場で、ただ一人、表情を変えなかった者がいた。


 アリシアだった。


 彼女は茶器を手にしたまま、資料へ視線を落としていた。


「アリシア様」


 クラウディアが、珍しく言葉を選ぶように呼んだ。


「まさか、当時からそこまで想定していらしたのですか」


「あら」


 アリシアは、ゆっくりと顔を上げた。


 微笑んでいる。


 いつも通り、穏やかに。


「眠る前に、邪魔になりそうな芽は少し整えておいただけですわ」


「整えて」


 クラウディアの声が、ほんのわずか平坦さを失った。


「ええ」


 アリシアは、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「思ったより、効果がありましたのね」


 その場の空気が、静かに凍った。


 クラウディアでさえ、すぐには言葉を返さなかった。


 アリシアだけが、いつもの穏やかな顔で茶器を置く。


「ファーランドは、殿下がお戻りになる場所ですもの」


 それは怒りではなかった。


 少なくとも、声だけを聞けば。


「余計な手は、早いうちに退けておくべきでしょう?」


 リシアは、何も言えなかった。


 ただ、思った。


 千五百年待つと決めた人は、待っていただけではなかったのだ、と。


 待つ場所を守るために、自分の眠りさえ使った。


 そして今、その結果を見て、少し意外そうに笑っている。


 アリシア・ファーランド。


 白い衣の姫。


 待つことを選んだ人。


 その穏やかな微笑みの奥にあるものを、リシアはこの時、少しだけ理解した気がした。


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