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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第三十六夜 白い教室の国境

第三十六夜 白い教室の国境


 午後の講義は、共同基礎講義と呼ばれていた。


 名前だけを聞けば、何の変哲もない授業に思える。


 各国から集まった学生が、学院で共通して必要になる作法、基礎法、歴史、魔法理論、危険区域の扱いを学ぶ。


 そう説明されていた。


 けれど、リシアはもう、その説明だけで安心しない。


 基礎。


 共通。


 共同。


 そういう言葉ほど、誰にとっての基礎なのか、何を共通とするのか、誰と誰が共同するのかを見なければならない。


 昨日なら、そこまで考えなかった。


 けれど昨日の夜、アリシアは言った。


 派閥とは、小さな国ですわ。


 そして今朝、アインの試験を見て、リシアはもう一つ学んだ。


 測る側の物差しも、また測られている。


 ならば、教室も同じだ。


 教える側が何を置き、学生たちがどこへ座り、誰と誰が目を合わせ、誰と誰が目を逸らすのか。


 それも、ただの授業ではない。


 午後の教室は、学院本館南棟の二階にあった。


 白い石の階段を上がり、長い廊下を進む。


 窓の外には中庭が見えた。


 噴水。


 手入れされた低木。


 白い石畳。


 すべてが整っている。


 整いすぎているほどに。


「ここです」


 案内役の学院職員が扉の前で足を止めた。


 扉の上には、古い聖王国文字と現代語の両方で、共同講義室、と刻まれている。


 職員が扉を開けた。


 中は、思ったより広かった。


 半円形の教室。


 中央に教壇。


 その周囲を囲むように、緩やかな段差を持つ席が並んでいる。


 席は長机ではない。


 二人掛け、三人掛け、四人掛けの小卓が、円の一部を形作るように配置されている。


 座る場所によって、誰の横にいるかだけでなく、誰の正面にいるか、誰から見えるかも変わる。


 リシアは、入口で一度だけ足を止めた。


 自由席だった。


 それは、かえって難しい。


 決められた席なら、席順を読むだけでよい。


 自由席なら、選んだ者の意思が出る。


 誰の隣に座るのか。


 誰の近くを避けるのか。


 誰から見える場所を選ぶのか。


 それは、無言の名乗りになる。


「リシア」


 アリシアが、隣で小さく呼んだ。


「はい、お姉様」


「自由席は、最も喋りますわ」


 やはり、そうなのだ。


 リシアは教室を見た。


 すでに学生たちは座り始めている。


 中央寄りの前列には、聖王国の神殿関係者らしい白い縁取りの制服を着た学生たち。


 右側には、騎士家の子息や令嬢がまとまっている。


 左側には、研究院推薦と思われる学生たち。


 後方には、商会や周辺諸国の子女が少しずつ固まっていた。


 そして、教室の中央に近い見やすい席に、ジークフリートがいた。


 その隣ではないが、近い位置にミリア・セルヴィンが座っている。


 彼女はリシアたちに気づくと、明るく手を振った。


「リシア様、ステファニア様。こちら、お席が空いております」


 声は明るい。


 親切に聞こえる。


 実際、席は空いている。


 ジークフリートの近く。


 中央寄り。


 目立つが、悪い席ではない。


 だが、そこに座れば、ステファニアはミリアの用意した位置に入ることになる。


 ジークフリートの近くにいるが、隣ではない。


 見えるが、同じ輪ではない。


 昨日の席順と似ている。


 リシアは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 怒り。


 けれど、渡してはいけない。


 顔に出してはいけない。


 使う場所を選ぶものだ。


 リシアは息を整えた。


 そして、ステファニアを見た。


 ステファニアは、いつも通りの微笑みを浮かべていた。


 その微笑みは綺麗だった。


 綺麗すぎて、少し痛い。


「お心遣いありがとうございます」


 ステファニアが言おうとした時、リシアは一歩前に出た。


「ありがとうございます、ミリア様」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。


「ですが、今日は私がステファニア様に教えていただきたいことが多くございます。こちらで失礼いたします」


 リシアは、中央から少し外れた前列の三人掛けを示した。


 教壇から見える。


 ジークフリートからも見える。


 神殿側からも、騎士家側からも、研究院側からも見える。


 けれど、誰かの輪の中には入らない。


 独立した席だった。


 アリシアが、ほんの少しだけ目を細めた。


 満足そうだった。


 ステファニアがリシアを見る。


 ほんの一瞬、驚いたように。


 それから、柔らかく微笑んだ。


「承知しました。リシア様」


 セラは何も言わず、リシアの後ろへつく。


 アリシアとメイも続いた。


 ミリアの笑顔は、崩れなかった。


 けれど、手を振っていた指先が一瞬だけ止まった。


 リシアは、それを見た。


 アリシアも見ている。


 たぶん、メイはもう書いている。


 リシアたちは、三人掛けの席へ向かった。


 厳密には、三人掛けの席に四人で座ることになる。


 リシア、ステファニア、アリシア。


 セラは後ろに立つ。


 メイはアリシアの後方に控える。


 それは、席としては少し変則的だった。


 だが、礼法上おかしいほどではない。


 護衛と侍女が控える形としては通る。


 リシアは座った。


 ステファニアを自分の右に。


 アリシアを左に。


 ステファニアを、誰かの輪の端ではなく、自分たちの輪の中へ置く。


 たったそれだけのことだった。


 けれど、座った瞬間、教室の中でいくつかの視線が動いた。


 ジークフリート。


 ミリア。


 神殿側の学生。


 研究院側の学生。


 騎士家の子息たち。


 リシアは、その視線を受け止めた。


 怖くない、とは言えない。


 けれど、逃げたいほどではなかった。


     ◇


 講義を担当する教官は、まだ若い男性だった。


 名をラウル・フェルマーという。


 柔らかい茶色の髪に、丸い眼鏡。


 見た目だけなら、研究院の若い助手のようにも見える。


 しかし教壇に立つと、声はよく通った。


「本日の共同基礎講義では、学院における共同課題の進め方を扱います」


 教室のざわめきが少し落ち着く。


「学院では、家名、出身国、信仰、専門、魔法系統の異なる学生が同じ課題に取り組みます。これは理想論ではありません。現実です」


 ラウル教官は、教壇の上に小さな箱を置いた。


 箱の中には、色分けされた札が入っている。


「したがって、最初に学ぶべきことは、互いを好きになることではありません」


 教室の一部から、小さな笑いが起きた。


「好き嫌いの前に、条件を確認することです」


 リシアは、少し背筋を伸ばした。


 条件。


 聞き覚えのある言葉に近い。


「今日の課題は、三つの家が一つの橋を共有する場合の交渉です」


 教官が黒板へ簡単な図を描く。


 三つの領地。


 一本の川。


 その川に架かる橋。


 橋の補修費。


 通行権。


 軍の通行可否。


 商人への税率。


 神殿の巡礼路としての扱い。


 小さな図だった。


 だが、書かれていることは多い。


「各班は、三家の代表者として交渉を行います。全員が利益を得る必要はありません。ただし、一家が完全に損をする合意は無効です」


 教室の空気が少し変わった。


 講義ではなく、演習なのだ。


 ラウル教官は箱を持ち上げた。


「班分けは自由です」


 自由。


 まただ。


 リシアはアリシアを見た。


 アリシアは微笑んでいる。


 楽しそうですらあった。


「ただし、同じ国、同じ家、同じ派閥の者だけで組むことは推奨しません。推奨しない、というだけで禁止はしません。選び方も評価対象です」


 教室のあちこちで、学生たちが顔を見合わせる。


 自由席の次は、自由な班分け。


 学院は、何を見ようとしているのか。


 リシアは少し考えた。


 同じ家だけで組めば安全だ。


 けれど、閉じていると見られる。


 離れすぎれば、互いを守れない。


 誰と組むかで、どこへ橋を架けるかが見える。


 リシアは、教室を見回した。


 ミリアがジークフリートへ何かを囁いている。


 ジークフリートは少し考え、周囲の学生と目を合わせた。


 アレーナ王国関係者を中心に班を作るつもりだろう。


 そこへ、ステファニアが入る余地はあるのか。


 ある。


 婚約者なのだから。


 だが、招かれなければ、こちらから入る形になる。


 それは弱い。


 待つのも弱い。


 リシアは、昨夜から数えてきた四つの重さを思い出した。


 到着挨拶の書状。


 回廊の使者。


 席順。


 呼び方。


 そして今。


 班分け。


 ここで待てば、五つ目になる。


 だが、待たなければ。


「ステファニア様」


 リシアは小さく呼んだ。


「はい」


「今日は、私と組んでいただけますか」


 ステファニアが、わずかに目を見開いた。


 それから、すぐに礼を整える。


「もちろんです」


「お姉様」


 リシアはアリシアを見る。


「はい」


「お姉様は、別の班へ」


 アリシアの微笑みが、少し深くなった。


「理由を伺っても?」


「私が、お姉様に頼ってばかりになります」


 言ってから、リシアは少しだけ頬が熱くなった。


 けれど、続ける。


「それに、お姉様が別の場所にいれば、見る場所が増えます」


 アリシアは、しばらくリシアを見ていた。


 そして、柔らかく頷いた。


「よろしいですわ」


 その声は、とても満足そうだった。


「では、わたくしは研究院側へ橋を架けてまいります」


 橋。


 課題に合わせた言い方だった。


 アリシアは立ち上がり、研究院推薦と思われる学生たちの方へ向かった。


 メイがその後に続く。


 リシアは、少しだけ心細くなった。


 だが、隣にはステファニアがいる。


 後ろにはセラがいる。


 それで十分だ。


「もう一人、必要ですね」


 ステファニアが静かに言った。


「はい」


 三家の代表者。


 最低三人は必要だ。


 リシアは教室を見回した。


 誰を選ぶか。


 ファーランドとレーヴェンハイトだけで固めるのは避けたい。


 だが、明らかに敵意のある相手を入れるほど無謀でもない。


 その時、左後方の席で、一人の少女がまだ班を作れずにいるのが見えた。


 薄い灰色の髪。


 学院の制服は標準だが、袖口に研究院の小さな印がある。


 周囲の学生に何度か視線を向けているが、自分から声をかけるのをためらっている。


「あの方は」


 リシアが囁くと、ステファニアの視線が一瞬だけ動いた。


 ほんの一瞬。


 情報を読みすぎないよう、慎重に。


「ユリア・ノートン様。聖王国研究院の推薦生です。貴族ではありませんが、魔石加工理論で高い評価を受けているようです」


「組めますか」


「こちらから声をかければ」


 リシアは頷いた。


 そして立ち上がる。


 教室の視線が少し動いた。


 気にしない。


 気にしないふりではなく、気にした上で、進む。


「ユリア様」


 呼びかけると、灰色の髪の少女が驚いたように顔を上げた。


「は、はい」


「もしまだ班がお決まりでなければ、私たちとご一緒いただけませんか」


 教室のざわめきが、少しだけ薄くなった。


 ファーランド公女が、研究院推薦生へ声をかけた。


 それは、目立つ。


 分かっている。


 だからこそ、声をかけた。


 証人を増やす。


 橋を架ける。


 そして、自分の輪を自分で作る。


 ユリアは一瞬、リシアとステファニアを見比べた。


 それから慌てて立ち上がる。


「よ、よろしいのですか」


「はい。むしろ、お願いしたいのです」


「私で、よろしければ」


 ユリアは小さく礼をした。


 リシアは微笑んだ。


「ありがとうございます」


 席へ戻る途中、ジークフリートの視線がこちらへ向いた。


 ミリアも見ている。


 リシアは、その視線を感じながら座った。


 五つ目は、積ませなかった。


 そう思った。


     ◇


 演習は、予想より難しかった。


 リシアたちに与えられた役割は、川の下流側にある小領主家。


 橋が壊れれば商人が減り、税収が落ちる。


 しかし上流側の軍が頻繁に通れば、道が荒れて補修費が増える。


 神殿の巡礼路として扱えば通行量は増えるが、税を取りにくくなる。


 ユリアは最初こそ緊張していたが、資料を読むと少しずつ言葉が増えた。


「補修費を単純に三分割すると、下流側が不利です」


 彼女は小さな声で言った。


「橋の利用量が違います。軍の通行は上流側が多く、商人の通行は中流側が多い。下流側は巡礼者の宿場で得る利益が主です。なので、費用負担は利用種別で分けるべきです」


 リシアは頷いた。


「では、軍の通行による補修費は上流側へ」


「商人税の一部は中流側から橋の維持費へ」


 ステファニアが続ける。


「巡礼路については、神殿へ免税を認める代わりに、宿場整備への名義支援を求める形でしょうか」


「名義支援」


 リシアは繰り返した。


「神殿が認めた巡礼宿場、という形にすれば商人以外の利用者が増えます。直接税を取らずとも、宿泊、食料、馬車の交換で利益が出ます」


 ステファニアは紙の端に簡単な図を書いた。


 視界に情報が重なっているのだろう。


 だが、今の彼女はそれを読みに行きすぎていない。


 必要なところだけを選んでいる。


 クラウディアが言っていた。


 知る能力より、選ぶ能力。


 ステファニアは、選ぼうとしていた。


 ユリアがその図を見て、少し目を輝かせる。


「それなら、橋の中央に荷重測定用の魔石板を埋め込めます。軍用車両と商用馬車の通行量を記録できますから、後の負担比率も揉めにくくなります」


「魔石板で記録を」


 リシアは思わず感心した。


「はい。完全な証拠にはなりませんが、交渉材料にはなります」


 証拠。


 記録。


 証人。


 リシアは、昨日からの言葉がまた繋がるのを感じた。


 剣ではなく、資料と税と魔石板で戦う。


 これもまた、戦いなのだ。


「では、私たちの案はこうしましょう」


 リシアは紙の中央に線を引いた。


「橋は共有財産とする。ただし、維持費は通行種別と利用量に応じて負担を変える。神殿には通行免税を認める代わりに、宿場と橋の安全維持へ名義支援を求める。記録用の魔石板を設置し、負担比率の見直しを年一回行う」


 言い終えてから、リシアは少し驚いた。


 自分で、案をまとめた。


 ステファニアが微笑む。


「よろしいかと」


 セラが後ろから言った。


「軍用車両の通行時間を制限すべきです」


 三人が振り返る。


 セラは真顔だった。


「商人と巡礼者が多い時間に軍用車両を通すと混乱します。護衛配置も難しくなります」


 リシアは瞬きをした。


「確かに」


 ステファニアが頷く。


「通行種別だけでなく、時間帯の管理も必要ですね」


 ユリアが急いで紙へ書き込む。


「時間帯で魔石板の記録を分ければ、事故率も追えます」


 セラは少しだけ満足そうだった。


「橋は、守りにくい場所です」


「経験者の言葉は重いですね」


 リシアが言うと、セラは真面目に頷いた。


「はい」


 冗談のつもりだったのに、まっすぐ返された。


 ステファニアが小さく笑った。


 リシアも笑った。


 ユリアも、少し遅れて笑った。


 その時、教室の別の場所から、明るい声が聞こえた。


「ジーク様、それならアレーナ側が橋の警備を引き受ければよろしいのでは?」


 ミリアの声だった。


 リシアはそちらを見た。


 ジークフリートの班は、アレーナ王国関係者と聖王国神殿側の学生で組まれているようだった。


 ステファニアはいない。


 当然のように、いない。


 リシアの胸に、また小さな熱が生まれた。


 だが、今は違った。


 その熱は、さっきより扱いやすい。


 リシアは紙へ視線を戻した。


 怒りは使う場所を選ぶもの。


 今は、案を仕上げる場所だ。


     ◇


 発表は、各班ごとに短く行われた。


 ジークフリートの班は、橋を王国側の管理下に置き、警備と維持を一括で請け負う案を出した。


 分かりやすい。


 強い。


 安全にも見える。


 ただし、橋を使う他の家は王国側の許可を得なければならなくなる。


 ラウル教官はそれを指摘した。


「管理権を一者へ集中させる場合、他家の不信をどう抑えますか」


 ジークフリートは落ち着いて答えた。


「神殿の監査を入れます。巡礼路としての公共性を保ち、商人税も明文化することで、恣意的な運用を避けます」


 悪い案ではない。


 リシアにもそう分かった。


 王族としての考え方だ。


 中央に力を置き、周囲へ保証を配る。


 次に、アリシアの班が発表した。


 アリシアは研究院推薦生と商会の子息を組ませ、橋の管理権を三家ではなく、期間限定の共同組合へ委託する案を出した。


 補修、徴税、巡礼路整備、軍用通行の許可を別々の帳簿へ分ける。


 各帳簿には三家から一名ずつ確認者を置く。


 さらに、神殿は祈祷と巡礼者保護の名義支援を行うが、徴税権には触れない。


 美しい案だった。


 そして、怖い案でもあった。


 誰か一人が橋を握ることを防ぎながら、誰も完全には逃げられない。


 ラウル教官が感心したように頷いた。


「利害の分離が明確です。帳簿の数が増える分、運用負荷は高いですが、揉めた時の切り分けは容易でしょう」


 アリシアは優雅に礼をした。


「ありがとうございます」


 最後に、リシアたちの班が呼ばれた。


 リシアは立ち上がった。


 少し緊張している。


 だが、逃げたいほどではない。


「私たちの案は、橋を共有財産とし、維持費を通行種別と利用量で分担するものです」


 声は震えなかった。


「軍用車両、商用馬車、巡礼者、一般通行を分けて記録し、橋の中央に荷重測定用の魔石板を設置します。負担比率は年一回見直し、軍用車両の通行時間を制限することで、商人と巡礼者の安全を保ちます」


 ユリアが、魔石板の簡単な図を示す。


 ステファニアが、神殿の名義支援と宿場整備の利点を補足する。


 セラは発表者ではない。


 だが、軍用車両の時間制限について問われた時、リシアは少し振り返った。


 セラは頷く。


「橋の上で軍用車両と商人の馬車が混じると、退避場所がありません。襲撃時にも動線が詰まります」


 教室が少し静かになった。


 ラウル教官がセラを見る。


「実務的な観点ですね」


「はい」


 セラは簡潔に答えた。


「護衛としては、混ぜない方がよいです」


 ラウル教官は頷いた。


「なるほど。良い補足です」


 セラが少しだけ瞬きをした。


 褒められたのだと理解するまで、わずかに時間がかかった顔だった。


 リシアは、その顔を見て少し安心した。


 発表が終わると、ラウル教官は三つの案を黒板に並べた。


 中央集権型。


 分権帳簿型。


 利用記録型。


「どれが正解か、という話ではありません」


 教官は言った。


「どの案も、守るものが違います。ジークフリート殿下の班は速度と安全を重視した。アリシア様の班は権限の分散と検証性を重視した。リシア様の班は利用実態と現場運用を重視した」


 リシアは、少しだけ目を見開いた。


 自分の案が、教室の中でそう名付けられた。


 利用実態と現場運用。


 それは、リシア一人では出せなかった。


 ステファニアの制度の目。


 ユリアの魔石加工の知識。


 セラの護衛の感覚。


 それが一つになった結果だった。


「共同課題で最初に見るべきものは、才能ではありません」


 ラウル教官は続けた。


「相手が何を守ろうとしているかです。それを見誤ると、良い案でも通りません」


 リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 何を守ろうとしているか。


 ジークフリートは、何を守ろうとしているのだろう。


 ミリアは。


 アリシアは。


 ステファニアは。


 そして、自分は。


     ◇


 講義が終わると、学生たちはそれぞれ席を立ち始めた。


 ユリアは資料を抱え、少し緊張した顔でリシアたちへ礼をした。


「ありがとうございました。あの、私などにお声をかけていただいて」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 リシアは答えた。


「ユリア様がいなければ、魔石板の案は出ませんでした」


「いえ、そんな」


「本当です」


 ステファニアが静かに言う。


「記録を残す発想は、とても有効でした。感情ではなく、後で確認できる材料になります」


 ユリアの頬が、少し赤くなった。


「ありがとうございます」


 その時、ミリアが近づいてきた。


 彼女は笑っている。


 だが、昨日より少し慎重だった。


「リシア様、素敵な発表でした」


「ありがとうございます」


「ユリア様も、すごいですわ。魔石板の記録なんて、私には思いつきませんでした」


 ユリアが少し慌てる。


「いえ、私は」


「本当に」


 ミリアは明るく言った。


 その言葉は悪意だけでできているわけではない。


 少なくとも、リシアにはそう見えた。


 ただ、彼女は距離の取り方が近い。


 近すぎる。


 そして、その近さを武器として使うことに慣れている。


「ステファニア様も、さすがでした。ジーク様も、感心していらっしゃいましたわ」


 ジーク様。


 三度目。


 ステファニアの前で。


 リシアは、胸の中で数えた。


 だが、口には出さない。


 アリシアが少し離れた場所からこちらを見ている。


 今は、リシアが答える場だ。


「そうですか」


 リシアは微笑んだ。


「では、ジークフリート殿下にも、ステファニア様の案が届いていたのですね」


 ミリアの笑顔が、ほんの少し止まった。


 リシアは続けた。


「婚約者の優れた発表をご覧いただけたなら、私も嬉しく思います」


 言葉は穏やかだった。


 責めてはいない。


 ただ、事実を置いた。


 昨日、アリシアがしたように。


 ステファニアは隣で静かに立っている。


 セラは半歩後ろ。


 ユリアは、何が起きているのか完全には分かっていない顔で、けれど口を挟まなかった。


 ミリアは一拍置いてから笑った。


「もちろんですわ」


「ありがとうございます」


 リシアは礼をした。


 ミリアも礼を返し、去っていく。


 その背を見送りながら、リシアは小さく息を吐いた。


「今のは」


 ステファニアが囁く。


「怒ってはいません」


 リシアは答えた。


「使う場所を、少し選びました」


 ステファニアの目が、ほんの少し柔らかくなった。


「お見事でした」


「まだ、真似をしただけです」


 リシアは小さく言った。


 アリシアの真似。


 事実だけを置く。


 怒りを渡さない。


 証人の前で。


 ただ、それを自分でできた。


 ほんの少しだけ。


 アリシアが近づいてきた。


「リシア」


「はい、お姉様」


「今の一手は、よろしいですわ」


 褒められた。


 リシアは、思わず背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


「ですが」


 やはり続きがあった。


 アリシアは微笑んだまま言う。


「次からは、相手が逃げる道も一つ残しておきなさい。完全に塞ぐと、相手は傷つけられたことだけを覚えます」


 リシアは少し考えた。


「先ほどは、塞ぎすぎましたか」


「少しだけ」


「少しだけ」


「ええ。けれど、初めてにしては上出来ですわ」


 リシアは息を吐いた。


 嬉しい。


 けれど、難しい。


 相手を止める。


 けれど、逃げ道を残す。


 怒りを渡さない。


 けれど、何もなかったことにはしない。


 学院の戦い方は、剣よりも面倒かもしれない。


「お姉様」


「はい」


「これは、慣れるものなのでしょうか」


 アリシアは、少しだけ楽しそうに笑った。


「慣れますわ」


「そうですか」


「ただし、慣れすぎると性格が悪くなります」


「お姉様」


「何か?」


 アリシアは微笑んでいる。


 リシアは、何も言えなかった。


 ステファニアが口元を押さえ、セラが首を傾げ、ユリアが困ったように笑う。


 白い教室の中に、少しだけ柔らかい空気が戻った。


 リシアは、空になった席を見た。


 自由席。


 自由な班分け。


 それは、誰かに置かれるのを待つ場所ではなかった。


 自分で選ぶ場所だった。


 小さな国境を、自分で引く場所。


 そして、必要なら橋を架ける場所。


 リシアは、自分が選んだ席をもう一度見た。


 そこには、まだ何も刻まれていない。


 けれど、今日の午後、確かに一本の線が引かれた。


 それは細く、頼りなく、すぐ消えてしまいそうな線だった。


 それでも、リシア自身が引いた線だった。


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