第三十七夜 噂の置き場所
第三十七夜 噂の置き場所
共同基礎講義が終わった後、教室の空気はすぐには解けなかった。
学生たちは席を立ち、資料をまとめ、次の講義へ向かう。
それだけなら、ただの移動時間だ。
けれど、リシアにはもう分かる。
移動時間ほど、言葉が軽くなる。
軽くなった言葉ほど、遠くまで転がる。
誰かが小さな声で言った。
ファーランドの公女が研究院推薦生を班へ入れた。
別の誰かが言った。
アイン・ベルンは実技確認を通ったらしい。
また別の誰かが言った。
アリシア・ファーランドは長期療養明けなのに、制御が異様に安定していた。
声はすぐ消える。
だが、消えたのではない。
別の場所へ移っただけだ。
噂は、席より早く動く。
リシアは、教室の出口で一度だけ足を止めた。
ユリア・ノートンが、少し離れた場所で資料を抱えている。
共同課題では一緒に笑えた。
発表でも、魔石板の案をきちんと説明できた。
けれど講義が終わった瞬間、彼女はまた一人に戻ろうとしていた。
研究院推薦生。
貴族ではない。
魔石加工理論で評価されている。
学院では価値のある才能だ。
けれど、社交の場では必ずしも守りにならない。
リシアは、昨日までならどうしただろう。
たぶん、礼を言って別れていた。
それは失礼ではない。
だが、橋を架けると言ったばかりで、渡る前に離れてしまえば意味がない。
「ユリア様」
リシアが声をかけると、ユリアは驚いたように振り返った。
「は、はい」
まだ少し慣れていない返事だった。
「昼食は、もうお決まりですか」
「いえ。研究院棟の食堂へ戻ろうかと」
ユリアはそこで、自分の答えが断りに聞こえたと思ったのか、慌てて言葉を足した。
「あの、いつもそうしているだけで、特に用があるわけでは」
「では、ご一緒しませんか」
リシアは微笑んだ。
「先ほどの魔石板のお話を、もう少し伺いたいのです」
ユリアは目を瞬いた。
誘われたこと自体を、すぐには飲み込めていない顔だった。
ステファニアが隣で静かに言う。
「私も興味があります。記録用魔石板の精度と改竄対策について、少し伺えれば」
その言葉に、ユリアの顔が変わった。
緊張は残っている。
けれど、怯えではない。
自分の知っている話題を求められた時の顔だ。
「改竄対策でしたら、完全ではありませんが、二層記録にすれば」
そこまで言って、ユリアははっとしたように口を押さえた。
「すみません。長くなります」
「昼食には、ちょうどよい長さかもしれません」
リシアが答えると、ユリアは少しだけ笑った。
「では、ご一緒させていただきます」
小さな返事だった。
けれど、その声は先ほどより少し確かだった。
リシアは頷いた。
その瞬間、周囲の視線がいくつか動く。
また一つ、噂の種が増えた。
ファーランド公女が、研究院推薦生を昼食に誘った。
それはきっと、昼の食堂へ着く頃には、少し形を変えている。
リシアは、胸の中で息を整えた。
噂を消すことはできない。
ならば、どこに置くかを考える。
そういうことなのだろう。
◇
学院本館の食堂は、食堂というよりも広い談話室に近かった。
長い配膳台。
白い石の柱。
中庭へ向いた大きな窓。
中央には大きな卓があり、周囲には小さな卓がいくつも置かれている。
学生たちは、自然にいくつかの塊を作って座っていた。
神殿関係者。
騎士家。
研究院。
商会。
周辺諸国。
同じ制服を着ていても、座る場所で色が分かれる。
リシアは、それを見た。
昨日よりも、少しだけ速く。
「自由席ですわね」
アリシアが楽しそうに言う。
「またですか」
リシアは思わず小声で返した。
「学院はお優しいですわ。何度も練習させてくださいますもの」
「お姉様、それは優しさなのでしょうか」
「少なくとも、教材としては上質です」
アリシアは迷いなく言った。
リシアは少しだけ息を吐いた。
セラは配膳台を見ている。
真剣だった。
ここでも、食事は軽い戦いなのかもしれない。
「セラ」
ステファニアが呼ぶ。
「はい」
「先に席を決めます」
「承知しています」
「お皿を取る前に」
「承知しました」
セラは一歩だけ配膳台へ向かいかけて、戻った。
リシアは笑いそうになったが、こらえた。
席を選ぶ。
今度は、ユリアがいる。
研究院の卓へ行けば、ユリアは落ち着くだろう。
だが、リシアたちは研究院の輪に入ることになる。
ファーランド側の席へ寄れば、ユリアだけが客になる。
中央は目立つ。
隅は閉じる。
リシアは食堂を見回した。
中庭に近い窓際に、四人掛けの卓が一つ空いている。
研究院の卓から遠すぎず、神殿側からも見える。
ジークフリートたちの席からも、見える。
だが、どの輪にも属さない。
そこがいい。
「あちらにしましょう」
リシアが言うと、ステファニアが頷いた。
「よろしいかと」
アリシアも微笑む。
「今日のリシアは、席を選ぶのが早くなりましたわね」
「練習の成果です」
リシアは答えた。
「ただ、少し疲れます」
「慣れますわ」
「性格が悪くなる方の慣れではありませんよね」
「そこは努力次第です」
アリシアは、とても楽しそうだった。
◇
昼食は、思ったより賑やかだった。
配膳台には、温かい煮込み、焼いた魚、香草を混ぜた麦、薄いパン、果物、甘い焼き菓子が並んでいた。
聖王国の料理は、ファーランドより香草の使い方が少し強い。
第三ダンジョン商業区の香辛料に比べれば穏やかだが、それでもリシアには新鮮だった。
セラは最初に一皿だけ取った。
ステファニアが安心した顔をした。
だが、セラはその皿を食べ終えると、静かに二皿目を取りに立った。
ステファニアが目を閉じた。
「セラ」
「補給です」
「先ほども聞いた言葉です」
「重要なので」
ユリアが小さく笑った。
その笑いは、少し緊張をほどいた。
「グレイヴェル様は、よく召し上がるのですね」
「はい」
セラは正直に答えた。
「動くには必要です」
「それは、そうですね」
ユリアは少し考えた。
「魔石加工も、燃料管理を間違えると出力が落ちます」
「同じです」
「同じ、でしょうか」
ステファニアが小さく言った。
リシアは、とうとう少し笑ってしまった。
その笑いの後で、ユリアは魔石板の話を始めた。
「記録用魔石板は、基本的には荷重、通過時刻、魔力反応の三つを取ります。ただし、単層記録だと、上書きできてしまうことがあります」
「改竄される、ということですか」
リシアが問う。
「はい。高価なものなら防げますが、橋のような実用設備へ大量に置くには費用がかかります。ですから、私は二層式を考えています」
ユリアはパンを皿の端に置き、指で卓の上に簡単な図を描いた。
「表層は通常記録。管理者が確認できます。深層は差分記録。普段は読みにくいですが、表層を書き換えると差分が残ります」
ステファニアが興味深そうに目を細めた。
「つまり、正しい記録を守るというより、書き換えた事実を残すのですね」
「はい。その方が安くできます」
「発想が実務的です」
ステファニアの声には、はっきりと感心があった。
ユリアは少し頬を赤くした。
「研究院では、安く作れることも評価されますので」
「良いことです」
アリシアが言った。
ユリアは背筋を伸ばした。
「高すぎる正しさは、正しい場所にしか置けませんもの」
アリシアは茶を一口飲む。
「安く広く置ける仕組みは、時に高価な正義より役に立ちます」
ユリアは目を見開いた。
今の言葉は、彼女にとってかなり大きかったのだろう。
リシアにも分かる。
貴族でもない研究院推薦生の案を、大公家の姉がきちんと価値として言葉にした。
それは、ただの褒め言葉ではない。
周囲に聞こえる場所で言うことに意味がある。
リシアは食堂を見た。
近くの卓の学生が、こちらを見ないふりをしている。
聞いている。
聞いていないふりをしている。
これも証人だ。
◇
昼食の途中で、ミリアがやって来た。
昨日と同じように、明るい笑みを浮かべている。
ただ、近づく速度は少し遅かった。
昨日、そして先ほどの教室で、アリシアとリシアに止められたからだろう。
彼女は学んでいる。
それとも、測っている。
どちらにせよ、前と同じではない。
「ご一緒してもよろしいですか」
ミリアは言った。
リシアは一瞬考えた。
席は四人掛け。
リシア、ステファニア、アリシア、ユリアで埋まっている。
セラとメイは後ろに控えている。
椅子を足せば座れる。
断ることもできる。
ただ、断れば閉じたと見られる。
受ければ、場を使われる可能性がある。
リシアが迷った瞬間、アリシアが何も言わずに茶器を置いた。
音は小さい。
けれど、リシアには聞こえた。
自分で決めなさい。
そう言われた気がした。
「もちろんです」
リシアは答えた。
「ただ、今はユリア様に魔石板のお話を伺っているところです。少し専門的な話になりますが、よろしいですか」
ミリアの笑顔が、ほんの少し止まった。
逃げ道を残す。
来てもよい。
ただし、今この場の中心はユリアの話だ。
リシアは、そう置いた。
「ええ。私も勉強させていただきます」
ミリアは椅子を一つ持ってきて座った。
その動きは自然だった。
社交に慣れている。
座った位置は、リシアとステファニアの間ではない。
アリシア側でもない。
ユリアの斜め向かい。
悪くない。
リシアは少しだけ安心した。
「魔石板の二層記録、でしたか」
ミリアが言う。
「はい」
ユリアは緊張したが、逃げなかった。
「表層記録と深層記録を分けることで、通常利用と改竄検出を両立させます」
「それは、商会の帳簿にも使えそうですわね」
ミリアが言った。
ユリアの目が少し動く。
「はい。実際、応用例としてはあります。ただ、商会用は取引相手の魔力署名も併記するので、橋の通行記録より複雑です」
「まあ。難しいのですね」
ミリアは素直に感心しているように見えた。
リシアは、少し意外だった。
ミリアは、ただ距離が近いだけではない。
相手の話に乗るのが上手い。
だから、人が集まる。
それは力だ。
良い方にも、悪い方にも使える。
「ジーク様も、こういう実務の話はお好きです」
ミリアが続けた。
出た。
リシアは胸の中で数えた。
だが、すぐには返さない。
今は、ユリアの話を中心に置いた場だ。
ここでジークフリートの話に移せば、場の中心がずれる。
それは、ユリアから場所を奪うことになる。
リシアが口を開く前に、ステファニアが静かに言った。
「殿下がお好きでしたら、いずれユリア様のお話を直接お聞きになる機会もありましょう」
声は穏やかだった。
表情も変わらない。
「今は、私たちが先に勉強させていただいております」
ミリアの笑顔が止まった。
リシアは、ステファニアを見た。
今の言葉は、柔らかい。
だが、はっきりと線を引いた。
ジークフリートの名を否定せず、しかし場の中心を戻した。
ミリアは一拍置いてから頷いた。
「そうですわね。失礼いたしました」
逃げ道があった。
だから、彼女は戻れた。
リシアは、アリシアが教室で言った意味を少し理解した。
完全に塞ぐと、相手は傷つけられたことだけを覚える。
今のステファニアは、塞がなかった。
戻る道を残して、場を戻した。
アリシアは何も言わない。
ただ、ほんの少し満足そうだった。
◇
昼食が終わる頃、ユリアの周りには小さな変化が起きていた。
最初は一人だった。
次に、リシアたちの卓へ来た。
ミリアが加わった。
少し離れた研究院の学生が一人、質問に来た。
商会の子息も、帳簿用魔石板について尋ねに来た。
ユリアは戸惑いながらも、ひとつずつ答えていた。
彼女は社交が得意ではない。
けれど、自分の専門について話す時は、まっすぐだった。
噂は、置き場所を間違えると人を傷つける。
だが、置き場所を選べば、人の価値を見える場所へ運ぶこともできる。
リシアは、そのことを初めて実感した。
食堂を出る時、ユリアは深く礼をした。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
リシアは答えた。
「また、お話を聞かせてください」
ユリアは目を丸くした。
また。
その一語が、彼女には意外だったのだろう。
「はい。ぜひ」
今度の返事は、朝よりずっとはっきりしていた。
ユリアが研究院側の廊下へ向かうと、アリシアがリシアの隣へ並んだ。
「良い置き場所でしたわ」
「噂の、ですか」
「ええ」
アリシアは微笑む。
「ユリア様は、今日からただの研究院推薦生ではなくなりました。ファーランド公女が話を聞き、レーヴェンハイト侯爵令嬢が評価し、セルヴィン男爵家の令嬢が同席した魔石板の才女です」
リシアは少し驚いた。
「そこまで変わるのですか」
「噂とは、そういうものですわ」
アリシアは窓の外を見る。
「人を傷つけもします。守りもします。持ち上げもします。落としもします」
「怖いですね」
「ええ。ですから、置き場所を選ぶのです」
リシアは、食堂の方を振り返った。
そこにはもう、さっきの卓だけが残っている。
しかし、言葉は残っていないようで、たぶん残っている。
誰かの記憶に。
誰かの話題に。
誰かの次の席選びに。
「お姉様」
「はい」
「私は、少しずつできているのでしょうか」
アリシアはすぐには答えなかった。
その代わり、リシアの顔をまっすぐ見た。
「できていますわ」
短い答えだった。
けれど、軽くはなかった。
リシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「ただし」
続きがあるのは、もう分かっていた。
「はい」
「これから、もっと面倒になります」
やはり。
リシアは少しだけ肩を落とした。
「今よりもですか」
「ええ。今はまだ、皆様が様子を見ている段階ですもの」
アリシアは楽しそうに言った。
「本格的に手を伸ばしてくるのは、こちらに価値があると確信してからです」
リシアは、ユリアが去った廊下を見た。
価値。
アインの実技。
アリシアの制御。
ステファニアの知識。
セラの実務感覚。
ユリアの魔石板。
そして、ファーランドの名。
見られている。
測られている。
数えられている。
こちらもまた、見て、測って、数えなければならない。
「では」
リシアは小さく息を吸った。
「次も、見ます」
アリシアは満足そうに頷いた。
「ええ。それが最初の戦い方ですわ」
昨日聞いた言葉だった。
けれど、今日のリシアには、その意味が少しだけ違って聞こえた。
見ることは、受け身ではない。
見る場所を選び、置く場所を選び、必要なら橋を架ける。
それもまた、戦いなのだ。
白い廊下の向こうで、午後の鐘が鳴った。
高く、澄んだ音。
その奥にある低い響きを聞きながら、リシアは次の講義へ歩き出した。




