第三十五夜 測るものさし
第三十五夜 測るものさし
学院の朝は、鐘の音から始まる。
昨日よりも、その音は少し近く聞こえた。
高く、澄んでいる。
けれど、奥に沈む低い響きは、やはりただの鐘ではなかった。
リシアには、その正体までは分からない。
ただ、あの音が学院の石壁や白い廊下だけでなく、もっと深いところへ届いているように感じた。
朝食の席では、誰も大きな声を出さなかった。
昨日の顔合わせが重かったからではない。
むしろ、重さは別の形へ変わっていた。
席順。
呼び方。
一拍遅れた挨拶。
言いかけて飲み込まれた言葉。
それらは夜のうちに消えず、朝になっても、まだ食卓の端に薄く残っているようだった。
けれど、学院の日程は待ってくれない。
クラウディアが端末を確認しながら言った。
「本日は、午前にアリシア様の編入確認、殿下の編入試験第一段階があります」
殿下。
この屋敷の中では、まだそう呼ぶ。
外へ出れば、アイン・ベルン。
西方大陸西岸の沿岸諸邦に連なる公子であり、アリシアの護衛兼随行者。
昨日の顔合わせでは、彼はそれを必要最小限の言葉で済ませた。
必要最小限。
控えめに言えば。
「第一段階とは、何をするのですか」
ステファニアが問う。
彼女の声はいつも通り整っていたが、リシアには分かった。
今日のステファニアは、いつもより周囲の情報を閉じることに意識を使っている。
視線が、時々わずかに止まる。
見えすぎるものを、見ないようにしているのだ。
「筆記、礼法、魔力反応測定は予備確認で通過済みです」
クラウディアは淡々と続けた。
「本日は実技確認。学院側の分類では、制御、出力、反応速度、危険判断の四項目です」
「危険判断」
リシアは、その言葉を繰り返した。
「はい。強い術者ほど、危険物ですので」
クラウディアは顔色ひとつ変えずに言った。
セラがパンを持ったまま頷いた。
「分かります」
「セラは分かりすぎる方です」
ステファニアが即座に言う。
「私は、危険物ではありません」
「危険物とは申し上げておりません」
「似ています」
「似ていません」
リシアは少し笑いそうになった。
けれど、アリシアは優雅に茶器を置き、静かに言った。
「試験とは、測るためのものですわ」
その言い方に、リシアは顔を上げた。
昨日の続きを聞く時のような気がした。
「けれど、何を測るかは、測る者が決めます」
アリシアは微笑んでいる。
柔らかい。
けれど、その柔らかさの下に、硬いものがある。
「学院が測りたいものと、わたくしたちが見せるべきものは、必ずしも同じではありません」
「隠す、ということですか」
リシアが問うと、アリシアは首を横に振った。
「いいえ。嘘をつくのではありません。聞かれた問いに、問いの範囲で答えるのです」
リシアは少し考えた。
アリシアは続ける。
「試験は、真実を問う場とは限りませんもの」
以前、船の中でも聞いた言葉だった。
その時は、学問の問題として聞いた。
今は、少し違って聞こえる。
試験もまた、席順と同じだ。
誰が問うのか。
何を問うのか。
何を問わないのか。
その全てに意味がある。
アインは黙って温かい飲み物を飲んでいた。
自分が今日、測られる側だという顔をしていない。
「殿下」
クラウディアが言う。
「本日の試験では、可能な限り現代基準に合わせてください」
「分かってる」
「出力は抑えてください」
「分かってる」
「測定器を壊さないでください」
「壊さない」
クラウディアは、そこでほんの少しだけ間を置いた。
「壊れた場合は、殿下が壊したのではなく、測定器の設計限界です」
「同じだろ」
「違います」
アリシアが楽しそうに目を細めた。
「クラウディア、そこは大切ですわね」
「はい」
リシアは、なぜか少し不安になった。
測られるのは、アインのはずだった。
けれど今朝の食卓では、学院側の測定器の方が、これから試されるもののように聞こえた。
◇
実技確認が行われる場所は、学院本館の西側にある練成場だった。
屋内だが、天井は高い。
壁は白い石ではなく、灰色がかった厚い石材で組まれている。
床にはいくつもの円が刻まれ、その中心に測定用の台座や標的が置かれていた。
学院の教官が三名。
記録係が二名。
そして、見学者が少し。
編入試験は公開行事ではない。
それでも、王族や高位貴族に関わる者の試験は、完全な密室にはならないらしい。
誰が見ていたか。
誰が聞いていたか。
誰が見ないふりをしたか。
リシアは、昨日アリシアから教わった言葉を思い出した。
練成場の端には、ジークフリートの姿もあった。
正式な見学者としてではなく、たまたま近くで別件の確認があった、という形だろう。
その隣に、昨日の少女、ミリア・セルヴィンもいる。
彼女は今日も明るい表情をしていた。
ただ、昨日より少しだけ、こちらを見る回数が多い。
ステファニアは気づいているはずだ。
けれど何も言わない。
アリシアも何も言わない。
メイだけが、手帳を開いた。
リシアは、そっと息を整えた。
今は見る場所。
怒る場所ではない。
教官の一人が進み出た。
年配の女性だった。
銀色の髪をきっちりまとめ、学院の紋章入りの長衣をまとっている。
「本日の実技確認を担当します。エルマ・サジェスです」
声はよく通った。
「アリシア・ファーランド様。まずは制御確認から始めます」
「承知いたしました」
アリシアは礼をした。
完璧だった。
昨日の顔合わせでも思ったが、アリシアの礼は美しい。
美しいだけではなく、相手に余計な解釈を許さない。
礼法という名の、きちんとした壁だ。
台座の上には、透明な水晶板が立てられていた。
その前に、小さな灯火用の燭台が並んでいる。
「第一課題。三つの灯火を同時に点け、同時に消してください。出力は最小。炎の高さを揃えること」
「はい」
アリシアが右手を軽く上げた。
詠唱はない。
派手な光もない。
三つの燭台に、同じ高さの火が灯った。
それは、あまりにも静かだった。
リシアがこれまで見た学院生の魔法は、もう少し揺れる。
炎は少し踊り、魔力は空気に薄く滲む。
けれどアリシアの炎は、揺れない。
まるで、そこに火という形を置いただけのようだった。
「消します」
アリシアが言う。
三つの火が、同時に消えた。
煙もほとんど立たない。
教官たちが記録を見る。
水晶板には、淡い線が三本並んでいた。
ほとんど同じ高さ。
ほとんど同じ形。
リシアには、それが良い結果だと分かる。
だが、ステファニアが小さく息を止めた。
「どうしました」
リシアが囁く。
「綺麗すぎます」
ステファニアは、視線を水晶板に向けたまま答えた。
「測定結果が、綺麗すぎます。普通は、癖が出ます。手の使い方、呼吸、出力の始点、消す時の逃がし方。けれど、今のは」
そこで、ステファニアは言葉を止めた。
クラウディアの方を見たのだ。
クラウディアは、軽く首を横に振った。
読まないでください。
言われなくても、そう言っているようだった。
ステファニアは口を閉じた。
アリシアは何も知らない顔で、教官の次の指示を待っている。
エルマ教官は記録係と短く言葉を交わした。
「非常に安定しています。次、構築速度確認」
その声には、少しだけ緊張が混じっていた。
◇
アリシアの確認は、淡々と進んだ。
火。
水。
風。
簡易防護膜。
文字列の読み取り。
古典語の設問。
礼法確認。
どれも大きく目立つことはなかった。
ただ、全てが整っていた。
できることだけを、問われた分だけ示す。
それ以上は見せない。
リシアには、だんだん分かってきた。
アリシアは手を抜いているのではない。
出しすぎないようにしている。
相手が持つ物差しから、はみ出さないように。
けれど、はみ出さない範囲の中で、最も美しい線を引いている。
教官たちは感心していた。
見学者たちも、小声で何かを話している。
ジークフリートは、アリシアを見る目を少し変えていた。
昨日までは、長期療養から戻った大公家長女。
今日は、優秀な編入候補。
たぶん、それくらいには見えたのだろう。
けれどリシアは思った。
違う。
お姉様は、そう見えるように置いているだけだ。
それは、嘘ではない。
だが全部でもない。
最後の設問を終えたアリシアが戻ってきた。
「お姉様」
リシアは小さく声をかけた。
「はい」
「今のは、どのくらい出していたのですか」
アリシアは少し考えるように目を伏せた。
「学院の設問に対して、失礼にならない程度ですわ」
「それは、答えになっているのでしょうか」
「なっていますわ」
アリシアは微笑んだ。
「試験とは、相手の問いに答える場ですもの」
リシアは、返す言葉を少し失った。
たぶん、これも戦い方の一つなのだ。
◇
「次、アイン・ベルン様」
名を呼ばれて、アインが前に出た。
練成場の空気が、ほんの少し変わる。
アリシアの時とは違う。
華やかさではない。
むしろ、逆だ。
アインは何も広げていない。
ただ、無駄なものを全部閉じている。
それなのに、近くに立つと分かる。
何かがある。
リシアには、それをうまく言葉にできなかった。
エルマ教官は、台座の水晶を交換させた。
「第一課題。魔力反応測定を行います。こちらの測定石へ手を置き、合図に合わせて少量の魔力を流してください」
アインは測定石を見た。
透明な石の中に、細い金属線のようなものがいくつも走っている。
現代の学院で使われる標準測定具だろう。
アインは、ほんの一瞬だけクラウディアを見た。
クラウディアは静かに言った。
「最低出力で」
「分かってる」
アインが手を置く。
教官が合図した。
何も起きなかった。
水晶は光らない。
線も動かない。
記録係が顔を見合わせた。
「もう一度お願いします」
エルマ教官が言った。
アインは頷く。
二度目。
やはり、何も起きない。
練成場の端で、誰かが小さく笑った。
リシアは、その笑いの方を見そうになった。
けれど、見なかった。
見るべきは、そこではない。
エルマ教官の眉が動く。
アインの表情。
クラウディアの沈黙。
アリシアの口元。
ステファニアの視線。
セラの足の位置。
全部だ。
「反応がありません」
記録係が言った。
その声には、困惑と、少しの優越が混じっていた。
西方の公子。
昨日、編入試験へ進むと発表された少年。
その測定石が反応しない。
そう見えているのだろう。
「測定石を、別のものへ」
エルマ教官はすぐに指示した。
安易に失格とは言わなかった。
その判断に、リシアは少しだけ好感を持った。
新しい測定石が置かれる。
アインが手を置く。
三度目。
今度は、石の奥で小さく光が点いた。
点いた。
そう思った瞬間、光は細い線になり、測定石の外縁を一周した。
そして、消えた。
音もない。
割れもしない。
ただ、水晶の中の金属線のうち、一本だけが、黒く変色していた。
練成場が静かになった。
クラウディアが目を閉じた。
「殿下」
「壊してない」
「一部、機能を失っています」
「壊れてるじゃないですか」
リシアは思わず小声で言った。
アインがこちらを見た。
「壊してない。限界だった」
「それは、壊れたという意味では」
「違う」
クラウディアとアインが同時に言った。
息が合いすぎていた。
アリシアが、口元を押さえている。
笑っている。
リシアは頭を抱えたくなった。
エルマ教官は黒くなった測定石を見ていた。
その顔から、先ほどまでの試験官としての落ち着きが少し消えている。
「今の反応は」
彼女は慎重に言葉を選んだ。
「通常の魔力波形ではありませんでした」
「分類が違う」
アインは短く答えた。
「分類」
「そちらの測定石は、漏れた魔力を拾っている。俺のは、ほとんど漏れない」
教官たちの視線が集まった。
クラウディアが一歩進み出る。
「補足します」
その声は、練成場の空気をすぐに整えた。
「アイン様の術式制御は、西方沿岸諸邦の閉鎖系訓練法に基づくものです。外部へ漏出する魔力を極端に抑えます。そのため、一般的な漏出検知型測定石では、反応が低く出ます」
嘘ではない。
たぶん。
リシアにも、それくらいは分かった。
西方沿岸諸邦という言葉が、便利すぎる。
「閉鎖系訓練法」
エルマ教官が繰り返す。
「文献で読んだことはありますが、実例を見るのは初めてです」
「珍しい地域ですので」
クラウディアは淡々と答えた。
珍しい。
そういう問題ではない気がした。
だが、教官はそれ以上踏み込まなかった。
「では、出力確認へ移ります。標的を使用します」
標的が運ばれてきた。
厚い木板の中央に、魔石を埋め込んだものだ。
学院生の実技試験で使われる標準標的らしい。
「標的を破壊せず、中央の魔石だけを反応させてください。出力は任意。ただし、標的の外枠に損傷を与えた場合は減点です」
アインは標的を見た。
「中央だけでいいのか」
「はい」
「分かった」
アインが右手を上げる。
構えというほどのものではなかった。
ただ、指先が標的へ向いた。
次の瞬間、標的の中央に埋め込まれていた魔石だけが、ぱき、と音を立てて割れた。
木板は無傷だった。
外枠も、台座も、何も動いていない。
魔石だけが、正確に割れている。
リシアは瞬きをした。
早すぎて、何が起きたのか分からなかった。
セラが低く言う。
「急所だけを抜いた」
「標的の急所とは」
ステファニアが小声で返す。
「中心です」
「それは、そうですが」
エルマ教官は標的へ近づいた。
記録係も続く。
木板を確認し、外枠を確認し、台座を確認し、最後に割れた魔石を見た。
「外枠損傷なし」
記録係が言う。
「中央魔石のみ反応、破砕」
「破壊ではなく反応だったはずでは」
別の記録係が呟いた。
エルマ教官が彼を見た。
記録係は口を閉じた。
アインは何も言わない。
ただ、次を待っている。
ジークフリートが、さっきより真剣な顔でアインを見ていた。
ミリアも黙っている。
リシアは思った。
昨日まで、彼らはアインをどう見ていただろう。
護衛。
随行者。
西方から来た少年。
アリシアの療養に関わった人物。
たぶん、その程度だった。
けれど今、少し変わった。
名前の置き場所が、変わった。
◇
最後の課題は、危険判断だった。
練成場の床に、三つの標的が置かれた。
一つは正面。
一つは右。
一つは左。
それぞれに異なる色の札が付いている。
「赤は攻撃対象。青は保護対象。白は無視してください」
エルマ教官が説明する。
「合図後、標的の配置が変わります。赤のみを処理し、青と白には影響を与えないこと。時間制限があります」
実戦想定としては、分かりやすい。
リシアにも理解できる。
赤を撃つ。
青を守る。
白は見逃す。
アインは短く頷いた。
合図が鳴る。
床の術式が光り、三つの標的が位置を変えた。
同時に、壁際から小さな音がした。
見学者の誰かが、ほんの少し動いたのだ。
リシアはそちらを見かけて、やめた。
今は、試験を見る。
アインは動かなかった。
一拍。
二拍。
赤の標的が、床の仕掛けで青の背後へ回り込む。
普通なら、撃ちにくい位置だ。
誤れば青に当たる。
次の瞬間、赤の標的だけが床へ落ちた。
倒れたのではない。
支えていた内部の留め具だけが、抜かれたように外れていた。
青も白も無傷。
アインは、まだ手を下ろしていない。
エルマ教官は、すぐに次の配置を合図した。
二回目。
赤が二つ。
青が一つ。
白が一つ追加される。
標的が四つになった。
リシアは、最初と違うと思った。
説明では、三つの標的だったはずだ。
だが、教官は何も言わない。
追加条件。
試験の途中で条件を変えたのだ。
アインは表情を変えなかった。
赤の一つが砕ける。
もう一つは、床へ落ちる。
青は動かない。
白も動かない。
ただ、白の標的の影に隠れていた小さな魔石が、静かに割れていた。
エルマ教官の目が細くなる。
「なぜ、白の内部魔石を処理しましたか」
「罠だった」
アインは答えた。
「白は無視する対象です」
「白の中に、赤が入っていた」
練成場が静かになった。
記録係が白の標的へ走る。
中を確認する。
確かに、白札の内部に小さな赤い魔石が埋め込まれていた。
外側からは見えない。
学院側の隠し条件だったのだろう。
エルマ教官は、しばらくアインを見た。
「どのように判断を」
「音」
「音、ですか」
「配置が変わった時、白だけ重かった」
それだけだった。
リシアは、言葉を失った。
音。
あの一瞬の、床の仕掛けの音で。
白の中に別の魔石が入っていると判断した。
そんなものは、魔法の才能以前の話ではないのか。
セラが小さく頷いた。
「分かります」
「分かるのですか」
リシアは思わず聞いた。
「重いものは、音が違います」
「それは、そうかもしれませんが」
「隠し武器も同じです」
セラは真顔だった。
ステファニアが額に手を当てる。
「セラ、あなたも基準にしてはいけない側です」
「そうですか」
「そうです」
リシアは、少しだけ笑った。
緊張の糸が、そこでほんの少し緩んだ。
けれど、エルマ教官の顔は真剣なままだった。
彼女は記録係から報告を受け、短く頷く。
「危険判断、確認。追加条件対応、確認」
そして、アインへ向き直った。
「アイン・ベルン様。第一段階実技確認は、通過とします」
練成場の端で、小さなどよめきが起きた。
アインは軽く頷いた。
「そうか」
それだけだった。
通過した者の反応ではない。
むしろ、面倒な手続きが一つ減った、という顔だった。
リシアは、少しだけ理解した。
学院は、アインを測った。
測ろうとした。
けれど、その結果見えたのは、アインの全てではない。
学院の物差しが、どこまで届くかだった。
◇
練成場を出る頃、ジークフリートが近づいてきた。
昨日よりも、足取りは少し慎重だった。
「アイン殿」
呼び方が、昨日より丁寧だった。
リシアは、それを聞いた。
アリシアも聞いていた。
メイが手帳に何かを書く。
「見事な実技だった」
ジークフリートは微笑む。
「西方沿岸諸邦には、あのような訓練法があるのか」
「一部には」
アインは短く答えた。
「興味深い。機会があれば、ぜひ話を聞きたい」
「必要なら」
必要なら。
リシアは、その言葉の短さにひやりとした。
ジークフリートは一瞬だけ笑みを止めたが、すぐに戻した。
「それでは、また後ほど」
彼は去っていく。
ミリアがその後ろからこちらを見た。
ステファニアへではない。
アインへ。
それから、アリシアへ。
最後に、リシアへ。
視線が一つ増えた。
リシアは、そう感じた。
「今のは」
リシアが小さく言うと、アリシアが穏やかに答えた。
「まだ数えるほどではありませんわ」
「そうなのですか」
「ええ。今のは、ただ見方が変わっただけです」
アリシアは、練成場の扉の向こうへ消えていくジークフリートの背を見ていた。
「ですが、見方が変われば、席も変わります」
席。
昨日の言葉が、また戻ってくる。
リシアは頷いた。
「では、覚えておきます」
「それで十分ですわ」
アリシアは満足そうに微笑んだ。
ステファニアは、少し離れた場所でエルマ教官と話している。
どうやら、学院記録体系の閲覧制限について確認しているらしい。
彼女の横顔は静かだった。
昨日より少しだけ、硬さが取れている。
セラはその後ろで、練成場の軽食台を見ていた。
軽食台。
なぜ実技確認の場に軽食台があるのか、リシアには分からない。
けれどセラは真剣だった。
「セラ」
リシアが呼ぶ。
「はい」
「ここは、試験場です」
「承知しています」
「食事会ではありません」
「試験後の補給は重要です」
ステファニアが振り返った。
「セラ」
「はい」
「一つだけです」
「承知しました」
セラは迷わず三つ取りかけて、一つに戻した。
リシアは、とうとう少し笑ってしまった。
アインがこちらを見る。
「疲れたか」
「少し」
リシアは答えた。
「ですが、昨日よりは見えました」
「何が」
「測る側も、測られているのだと」
アインは少しだけ目を細めた。
「そうだな」
それだけだった。
けれど、リシアにはそれで十分だった。
学院は白く、美しく、整っている。
けれど、その中で使われる物差しは一つではない。
学院の物差し。
貴族の物差し。
騎士の物差し。
アリシアの物差し。
アインの物差し。
そして、まだ形になっていない自分の物差し。
リシアは、練成場の扉を振り返った。
昨日は、席順を見た。
今日は、試験を見た。
同じことだ。
どちらも、ただ並べられたものではない。
意味を持って置かれ、意味を持って測られる。
ならば、見なければならない。
怒る前に。
決める前に。
選ぶ前に。
白い学院の廊下に、朝の光が差していた。
その光の中で、リシアは自分の足元に、まだ小さな線が一本引かれたような気がした。




