第三十四夜 席順のある顔合わせ
第三十四夜 席順のある顔合わせ
顔合わせは、夕刻から始まった。
場所は学院本館の東棟にある小広間だった。
小広間、と案内には書かれていた。
けれど実際には、ファーランドの城で使われる中規模の謁見室ほどの広さがある。
白い石の壁。
高い天井。
細い柱。
壁際には聖王国の紋章を織り込んだ青い垂れ布が掛けられ、窓から入る夕日の光を柔らかく受け止めていた。
中央には円形の卓がいくつか置かれている。
飲み物と軽食。
名札。
席札。
そして、人の視線。
リシアは入口で、一度だけ息を整えた。
学院主催の小規模な顔合わせ。
新入生と編入生、それに各国代表者の一部が招かれる。
そう聞いていた。
小規模。
その言葉は便利だ。
人数は少ない。
けれど、少ないからこそ、誰がどこにいるかが目立つ。
誰が誰の隣に置かれ、誰が離され、誰の名が先に呼ばれ、誰が最後に案内されるのか。
小さな場所ほど、そういうものがよく見える。
リシアは、今朝アリシアが席順を気にしていた理由を、少しだけ理解した。
「緊張していますか」
隣でステファニアが問う。
「はい」
リシアは正直に答えた。
「でも、逃げたいほどではありません」
「それなら十分です」
ステファニアは微笑んだ。
その微笑みは、いつも通り整っていた。
けれど、リシアはもう分かる。
ステファニアも緊張している。
緊張していても、それを表に出さないだけだ。
セラは二人の後ろに立っている。
食べ物の皿を見ている。
ただし、今日はすぐ手を伸ばさなかった。
騎士としての顔をしている。
そしてアリシアは、いつものように穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
メイが半歩後ろに控え、アリシアの視線の先を静かに追っている。
アインは少し離れた位置にいた。
黒に近い外套。
護衛兼随行者としての立場。
夕方まで予備審査を受けていたはずなのに、疲れた顔はしていない。
面倒だった、という顔だけはしている。
クラウディアはさらに少し後ろだ。
この場にいる者の動線、扉、窓、警備、給仕、視線の流れを、淡々と確認している。
学院側の案内係が近づいてきた。
「ファーランド大公家の皆様ですね」
「はい」
リシアが答える。
案内係は名簿を確認した。
「リシア・ファーランド様、アリシア・ファーランド様、ステファニア・レーヴェンハイト様、セラ・グレイヴェル様。こちらへどうぞ」
順番。
リシアは、その並びを聞いた。
おかしくはない。
大公家のリシア。
同じ大公家のアリシア。
侯爵令嬢のステファニア。
子爵令嬢のセラ。
礼法上は自然だ。
けれど、ステファニアの婚約者がこの場にいるなら、別の意味も生まれる。
案内係が示した卓は、部屋の中央から少し外れた位置だった。
悪い席ではない。
低い席でもない。
ただ、中央ではない。
中央の卓には、すでに数人の学生が集まっていた。
その中に、淡い金髪の青年がいる。
ジークフリート・オーラム・アレーナ。
アレーナ王国第一王子。
ステファニアの婚約者。
リシアは、彼を初めて見た。
整った顔立ちだった。
笑い方も柔らかい。
背筋も伸びている。
王子としての教育は受けているのだろう。
ただ、ステファニアを見た時の反応が、少し遅かった。
気づかなかったのではない。
気づいた上で、まず隣の学生との会話を切る間を置いた。
それから、笑顔を作った。
リシアは、その一拍を見た。
アリシアも見ていた。
たぶん、セラも見た。
「リシア」
アリシアが、小さく呼んだ。
声は穏やかだった。
けれど、リシアは背筋を伸ばした。
「はい、お姉様」
「よく見ておきなさい」
アリシアは中央の卓を見ていた。
視線は柔らかい。
けれど、その奥にあるものは、朝の回廊で見たものよりも少し深かった。
「学院は、学ぶ場所です。けれど、それだけではありません」
リシアは黙って聞いた。
「ここには家があり、国があり、商会があり、騎士団があり、教会があり、研究院があります。それぞれが自分の利を持ち、自分の正しさを持ち、自分の守るべきものを持っています」
アリシアは、リシアへ視線を戻した。
「派閥とは、小さな国ですわ」
「小さな、国」
「ええ。ここは、そうした小国同士が競い、争い、手を結び、裏切り、均衡を測る場所でもあります」
リシアは、目の前の広間を見た。
白い壁。
美しい卓。
軽食。
笑顔。
笑い声。
さっきまで、それは学院の社交の場に見えていた。
けれど、アリシアの言葉を聞いた後では、少し違って見えた。
卓は国境。
席順は地図。
呼び方は条約。
笑顔は、時に剣より薄く鋭いもの。
「では、どう戦えばよいのでしょう」
リシアは小さく問うた。
アリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「まず、怒らないこと」
「怒ってはいけないのですか」
「怒ってよいのです。ただし、怒りを相手に渡してはいけません」
リシアは少し考えた。
「顔に出せば、使われる」
「その通りですわ」
アリシアは頷いた。
「次に、数えること」
「数える」
「言葉、席、視線、呼び名、順番、沈黙。すべてです。小さなものほど、後で重くなります」
昨日から続いている言葉だった。
小さなことほど、積み重なると重くなる。
「そして、証人を増やすこと」
「証人」
「誰が見ていたか。誰が聞いていたか。誰が見ないふりをしたか。それを覚えておくのです」
リシアは、胸の中でゆっくり頷いた。
ここは、学問だけの場所ではない。
戦場でもない。
けれど、戦いはある。
剣ではなく、席順と声の高さと、少し遅れた挨拶で戦う場所。
「分かりました」
リシアは答えた。
「今日は、見ます」
「ええ」
アリシアは満足そうに目を細めた。
「それが最初の戦い方ですわ」
◇
「ステファニア」
ジークフリートが歩み寄ってきた。
声は穏やかだった。
「無事に到着したと聞いた。安心したよ」
「お心遣い、ありがとうございます。ジークフリート殿下」
ステファニアは深く礼をした。
完璧だった。
婚約者への礼。
王子への礼。
学院の公的な場での礼。
すべてが過不足なく収まっている。
「長旅で疲れただろう。今日は無理をしない方がいい」
「ありがとうございます」
「こちらも少し立て込んでいてね。各国代表との挨拶が多くて、なかなか時間が取れなかった」
「承知しております」
ジークフリートはそこで、ようやくリシアとアリシアへ向いた。
「リシア公女殿下。ご到着をお喜び申し上げます」
「ありがとうございます。ジークフリート殿下」
リシアは礼を返す。
ジークフリートの視線が、アリシアへ移った。
ほんのわずか、迷いがあった。
アリシアは微笑んでいる。
名乗るのを待っている。
優雅に。
逃げ場を塞ぐように。
「そして」
ジークフリートは言葉を探した。
「アリシア・ファーランド様。長くご療養だったと伺いました。学院でお会いできたこと、喜ばしく思います」
「ありがとうございます」
アリシアは礼を返した。
「わたくしも、皆様にお会いできて嬉しく思いますわ」
皆様。
その一語が、少しだけ広い。
ジークフリートは気づいただろうか。
リシアには分からなかった。
ただ、アリシアは何も責めない。
何も指摘しない。
ただ、覚えている。
「後ほど、少し話せる時間を」
ジークフリートがステファニアへ言いかけた時だった。
中央の卓から、明るい声が届いた。
「ジーク様、そろそろこちらへ。聖都代表の方が」
ジーク様。
リシアは、その呼び方に瞬きをした。
声の主は、淡い栗色の髪をした少女だった。
制服は学院のものだが、胸元の飾りは少し華やかだった。男爵家か、裕福な商家か。リシアにはまだ判断がつかない。
彼女は悪びれずにジークフリートへ手を振っている。
親しげだった。
親しすぎた。
ステファニアは何も言わない。
表情も変えない。
ジークフリートは一瞬だけ困ったように笑った。
「すまない。すぐに戻る」
「お気になさらず」
ステファニアは、静かに答えた。
ジークフリートは中央の卓へ戻っていく。
少女は彼の隣に立ち、何かを楽しそうに話し始めた。
リシアは、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
怒り。
たぶん、怒りだ。
けれど、ここで顔に出してはいけない。
怒りを相手に渡してはいけない。
アリシアの言葉が、胸の中で止め金になった。
リシアは息を整えた。
セラが、少しだけ前に出ていた。
ほんの半歩。
護衛の距離だ。
アリシアは席札を見ていた。
リシア。
アリシア。
ステファニア。
セラ。
四人の席は同じ卓にある。
だが、ステファニアの正面にはジークフリートはいない。
斜め向こうの中央卓にいる。
近い。
見える。
けれど、同席ではない。
「なるほど」
アリシアが小さく言った。
「席順というのは、よく喋りますのね」
「お姉様」
「三つ目ですわ」
リシアは、思わずアリシアを見た。
三つ目。
到着挨拶の書状。
回廊での使者。
そして、この席順。
アリシアは、数えている。
静かに。
正確に。
◇
顔合わせは、和やかに進んだ。
少なくとも、表面上は。
学院側の教官が短い挨拶をし、各国から来た学生や代表者が順に紹介される。聖王国の貴族、周辺諸国の王子や令嬢、研究院の推薦を受けた学生、騎士家の子息。
リシアは名を聞きながら、できるだけ覚えようとした。
半分も覚えられた気がしない。
その横で、ステファニアは静かに頷いている。
見えているのだろうか。
名前。
家名。
所属。
関係。
リシアが尋ねる前に、ステファニアが小さく言った。
「見えすぎるので、閉じています」
「閉じられるのですか」
「完全には」
「それは閉じられるとは言いません」
「努力します」
「それも違います」
リシアは小声で返した。
ステファニアの口元が、ほんの少し緩んだ。
よかった。
笑えた。
リシアは、それだけで少し安心した。
給仕が飲み物を運んでくる。
軽食の皿には、小さな焼き菓子、果物、薄切りの肉を挟んだパン、香草を添えた白身魚が並んでいた。
セラは、皿を見ている。
真剣だった。
「セラ」
ステファニアが小さく呼んだ。
「はい」
「ここは顔合わせです」
「承知しています」
「食事会ではありません」
「軽食は出ています」
「それはそうですが」
リシアは少し笑いそうになった。
その時、中央の卓から笑い声が上がった。
ジークフリートと、先ほどの少女。
それに数人の学生たち。
少女は、ジークフリートの話に大きく頷き、時折彼の袖近くへ手を伸ばす。
触れてはいない。
触れてはいないが、距離が近い。
近すぎる。
ステファニアは見ない。
見ないようにしているのではない。
見る必要がないものとして扱っている。
それが、リシアには少し痛かった。
「リシア様」
アリシアが静かに言った。
「怒ることは、悪いことではありませんわ」
リシアは息を止めた。
「ただ、怒りは使う場所を選ぶものです」
「はい」
「今は、見る場所です」
見る。
リシアは頷いた。
怒る前に、見る。
何が起きているのか。
誰がどう振る舞っているのか。
誰が見て見ぬふりをしているのか。
誰が、それを当然だと思っているのか。
リシアは中央卓を見た。
ジークフリートは楽しそうだった。
悪意があるようには見えない。
少なくとも、今この場でステファニアを傷つけようとしている顔ではない。
だからこそ、悪い。
傷つけている自覚がない。
それは、悪意よりたちが悪いのかもしれない。
◇
しばらくして、学院側の教官がアリシアとアインの名を呼んだ。
「アリシア・ファーランド様。アイン・ベルン様。お二人は本日の編入予備確認について、簡単にご報告を」
広間の視線が集まった。
アインが面倒そうに目を上げる。
アリシアは優雅に立ち上がった。
「わたくしからでよろしいでしょうか」
「はい」
教官は頷く。
アリシアは、広間全体へ向けて礼をした。
「本日は、長期療養後の学力確認と面談を受けました。療養中は限られた環境で学んでおりましたので、足りないところも多くございます。皆様には、ご指導いただけますと幸いです」
完璧だった。
謙虚。
丁寧。
隙がない。
けれど、弱くは見えない。
長期療養から戻った大公家長女。
その立場を、アリシアは一言で整えてみせた。
次に、教官がアインを見た。
「アイン・ベルン様」
アインは立った。
立っただけで、少し空気が変わった。
彼は自分から場を支配しようとはしない。
ただ、無駄な動きがない。
それだけで、妙に目立つ。
「予備確認を受けた」
短い。
教官が、少し困った顔をした。
「感想などは」
「問題ない」
さらに短い。
広間の一部から、小さな笑いが漏れた。
嘲笑ではない。
戸惑いに近い笑いだ。
リシアは頭を抱えたくなった。
アリシアは楽しそうだった。
クラウディアは表情を変えない。
教官は咳払いをした。
「アイン様は、筆記の基礎項目、礼法確認、魔力反応測定において、編入試験へ進むことが妥当と判断されました。実技については、別途日程を調整します」
ざわめきが起きた。
西方大陸西岸の沿岸諸邦から来た護衛。
年若く見える少年。
それが、初日の予備確認で編入試験へ進む。
珍しいのだろう。
アインは座った。
それだけだった。
ジークフリートがこちらを見ている。
その視線には、初めて少しだけ別の色が混ざっていた。
警戒。
値踏み。
そして、興味。
リシアはそれを見た。
アリシアも見た。
たぶん、クラウディアも見ている。
◇
顔合わせの終わり頃、先ほどの少女がリシアたちの卓へやって来た。
ジークフリートはいない。
中央卓で、別の学生と話している。
少女は明るく礼をした。
「初めまして。ミリア・セルヴィンと申します」
セルヴィン。
リシアは記憶を探した。
確か、アレーナ王国の男爵家にその名があったはずだ。
「リシア・ファーランドです」
「アリシア・ファーランドですわ」
「ステファニア・レーヴェンハイトです」
「セラ・グレイヴェルです」
順に名乗る。
ミリアはにこにこと笑っていた。
「皆様、長旅でお疲れでしょう。ジーク様も、とても心配していらっしゃいました」
ジーク様。
二度目だった。
ステファニアの前で。
アリシアの微笑みは変わらない。
セラの目が少し細くなった。
「殿下はお優しい方ですものね」
ミリアは続けた。
「いつも、周りのことを気にかけてくださいます。私も、学院に慣れない頃に何度も助けていただきました」
「そうですか」
ステファニアは静かに答えた。
「はい。ですから、レーヴェンハイト様もご安心ください。殿下はお忙しいだけで、決して」
そこで、ミリアは言葉を切った。
切ったことに、自分で気づいていないようだった。
決して。
その後に続く言葉は何だったのか。
忘れているわけではない。
軽んじているわけではない。
避けているわけではない。
どれであっても、言葉にすれば形になる。
形になる前に飲み込まれた言葉が、卓の上に残った。
「ミリア様」
アリシアが静かに呼んだ。
「はい」
「ジークフリート殿下には、普段からそのようにお呼びしていらっしゃいますの?」
声は柔らかい。
問いも穏やかだ。
だが、ミリアの笑顔が一瞬だけ止まった。
「あ、いえ、その」
「構いませんわ。学院では親しい呼び方をなさる方も多いのでしょう?」
「はい。殿下も、あまり堅苦しいのは好まれませんので」
「まあ」
アリシアは微笑んだ。
「親しみやすい方なのですね」
「はい」
ミリアは少し安心したように頷いた。
「とても」
「では、ステファニア様にも同じようにお気遣いいただけるとよろしいですわね。婚約者でいらっしゃいますもの」
その場が、静かになった。
ミリアの笑顔が止まる。
リシアは、呼吸を忘れかけた。
アリシアは、何も責めていない。
ただ、事実を置いただけだ。
ステファニアはジークフリートの婚約者である。
それだけ。
それだけなのに、その言葉は卓の上で重くなった。
「もちろんです」
ミリアは少し遅れて答えた。
「私などが、差し出がましいことを」
「いいえ。ご親切に感謝いたしますわ」
アリシアは優しく言った。
優しすぎた。
ミリアは礼をして戻っていった。
その背中を見送りながら、リシアは小さく息を吐いた。
「今のは」
「四つ目ですわね」
アリシアが即答した。
セラが低く言った。
「斬りますか」
「斬りません」
ステファニアが即座に止めた。
「まだ」
リシアは、思わずステファニアを見た。
ステファニア自身も、自分の言葉に気づいたように目を伏せた。
まだ。
その言葉は、アリシアのものに似ていた。
アリシアは満足そうに微笑んだ。
「ええ。まだ、ですわ」
◇
顔合わせが終わり、屋敷へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
白い廊下は夜の灯りを受けて、昼とは違う表情をしている。
学院の鐘が遠くで鳴った。
朝より低い。
夕方より深い。
その奥にある封印系の響きは、リシアにはまだ分からない。
けれど、ここがただの学び舎ではないことだけは、もう分かっていた。
屋敷の玄関へ入ると、アインが短く言った。
「疲れたか」
「はい」
リシアは答えた。
「でも、分かりました」
「何が」
「ここは、学問だけの場所ではありません」
アインは頷いた。
「そうだな」
「礼儀も、席順も、呼び方も、全部が意味を持つ場所です」
「面倒だろ」
「はい」
リシアは少し笑った。
「ですが、見ます」
アインはリシアを見た。
何も言わない。
ただ、少しだけ目を細めた。
「そうしろ」
それだけだった。
リシアは頷いた。
後ろでは、アリシアがメイへ何かを囁いている。
メイは小さく頷き、手帳に記録していた。
たぶん、今日の席順。
呼び方。
誰が笑ったか。
誰が沈黙したか。
誰が見ないふりをしたか。
すべて。
小さなことほど、積み重なると重くなる。
リシアは、その言葉をもう一度思い出した。
今夜、その重さは四つになった。
まだ軽い。
けれど、確かに積もり始めている。
白い学院の夜は静かだった。
その静けさの中で、リシアは初めて、ここでの戦い方を少しだけ知った気がした。




