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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第三十三夜 白い廊下の朝

第三十三夜 白い廊下の朝


 学院の朝は、鐘の音から始まった。


 低く、長く、白い石の街全体へ染み込むような音だった。


 リシアは寝台の上で目を開けた。


 見慣れない天井。


 白い漆喰。


 淡い青の装飾線。


 窓の向こうには、学院の尖塔が朝の光を受けて立っている。


 ここはファーランドではない。


 アークライトでもない。


 聖王国の学院。


 門の内側。


 昨日、自分の足で入った場所。


 リシアはしばらく、そのことを確かめるように息をした。


 隣の部屋から、布の擦れる音が聞こえた。


 セラだろうか。


 それともステファニアだろうか。


 この屋敷は、学院の敷地内にある貴族用の貸与邸だった。白い石造りで、外から見れば慎ましい二階建てに見える。けれど中は広く、客室、書斎、食堂、護衛控え室、使用人用の動線まで整っている。


 ファーランド大公家の名で借り受けた屋敷。


 そう説明された時、リシアはほんの少しだけ肩が重くなった。


 けれど、アリシアは何でもないことのように言った。


 使える名は、使うべきですわ。


 その言い方があまりにも自然だったので、リシアは頷くしかなかった。


 身支度を終えて廊下へ出ると、ステファニアが先に立っていた。


 淡い色の学院用外套をまとい、髪はいつも通り整えられている。


 ただ、目が少し違った。


「おはようございます、ステファニア様」


「おはようございます、リシア様」


 ステファニアは礼を返した。


 何も変わらない。


 そう見える。


 けれど、リシアには分かった。


 ステファニアは、何かを見ている。


 廊下。


 壁。


 階段。


 窓から差し込む光。


 それらの向こうに、別の層を重ねて見ているような目だった。


「大丈夫ですか」


 リシアが小さく問うと、ステファニアは少し考えた。


「不便ではありません」


「便利かどうかではなく」


「危険ではありません」


「それも少し違います」


 ステファニアは、そこでようやく微笑んだ。


「分かっています。ご心配ありがとうございます」


 その声は落ち着いている。


 だが、リシアはまだ少し心配だった。


 アリシアから鍵スフィアを受け取った後、ステファニアは平然としていた。平然と礼を言い、平然と返し、平然と日常に戻った。


 けれど、クラウディアが頭を抱えた。


 それだけで、リシアには十分だった。


 ステファニアにとって情報とは、辞書を開くものではないのかもしれない。


 歩けば、視界の端に文字が浮かぶ。


 見れば、そこに理由が重なる。


 知らない扉の向こうに、索引の気配がある。


 リシアが一冊ずつ本を探して歩いているのだとすれば、ステファニアは本棚そのものの並びを見て歩いている。


 そんな感じなのだろう。


 羨ましいとは、思わなかった。


 少し怖いと思った。


「ステファニア様」


「はい」


「無理をしている時は、無理をしていると言ってください」


「ええ」


 ステファニアは頷いた。


 頷き方が、とても丁寧だった。


 丁寧すぎて、リシアはじっと見た。


「……本当に」


「努力します」


「それは、あまり信用できません」


 ステファニアが目を瞬かせた。


 そこへ、階段の下から声が届いた。


「それは正しい判断ですわ」


 アリシアだった。


 白と淡い青を基調にした学院用の装いを、まるで以前から着慣れていたもののようにまとっている。


 隣にはメイがいた。


 こちらも整った侍女服だが、昨日までとは少し意匠が違う。学院の中で目立ちすぎず、それでいてファーランド大公家の侍女と分かる程度に調整されていた。


「努力します、は便利な言葉ですもの。できるとは言っておりませんから」


「アリシア様」


 ステファニアが少しだけ困った顔をした。


「わたくしもよく使います」


「説得力がありすぎます」


 リシアが思わず言うと、アリシアは楽しそうに目を細めた。


「では、朝食にしましょう。初日から空腹で学院へ向かうのは、よくありませんわ」


     ◇


 食堂には、すでにセラがいた。


 正確には、席についていた。


 さらに正確に言えば、席について、朝食の第一皿を終えようとしていた。


「おはようございます」


 セラはいつもの調子で言った。


 皿の上には、焼いた白身魚、温野菜、柔らかいパン、豆のスープが並んでいる。


 並んでいた。


 今は、ほとんどない。


「セラ」


 ステファニアの声が静かに沈んだ。


「学院初日の朝です。少しは」


「はい。きちんと座っています」


「そこではありません」


 リシアは椅子に座りながら、少し笑ってしまった。


 緊張していた胸が、ほんの少し軽くなる。


 その向かいで、アインが淡々と茶を飲んでいた。


 いつ入ってきたのか分からない。


 黒に近い簡素な外套。


 学院の制服ではない。


 護衛兼随行者として登録されているため、学生の装いとは少し違うのだという。


 ただ、見た目だけなら年若い編入生に見えなくもない。


 本人は、そのことを気にしていなかった。


「今日の予定です」


 クラウディアが食堂の端に立ち、端末を手に告げた。


 彼女もまた、学院に合わせた控えめな服装だった。


 控えめ。


 ただし、控えめでも隙がない。


「午前、学院本館で初期案内。リシア様、ステファニア様、セラ様は復学扱いの手続き確認。アリシア様は編入面談。殿下は編入試験の予備審査です」


「予備審査」


 アインが茶器を置いた。


「筆記、口頭、実技の前段階です。西方大陸西岸の沿岸諸邦から来た人物として、最低限の学力と礼法、魔力反応を確認されます」


「面倒だな」


「必要な面倒です」


「そうか」


 アインはそれ以上文句を言わなかった。


 アリシアが微笑む。


「殿下。わたくしも一緒ですわ」


「余計に面倒が増える気がする」


「まあ」


 アリシアは、まったく傷ついていない顔で茶を飲んだ。


「午後は、各自の所属予定区画の確認。夕方、学院長代理との短時間面会。夜は屋敷で復習と、必要であれば情報接続訓練」


 クラウディアの視線がステファニアへ向いた。


「必要であれば、です」


「承知しております」


「観測に留めてください」


「はい」


「理解に進まないでください」


「……努力します」


 食堂の空気が、少し止まった。


 クラウディアは目を閉じた。


 アリシアは楽しそうだった。


 リシアは、少しだけ頭を抱えたくなった。


     ◇


 学院本館へ向かう道は、白い回廊だった。


 石畳は朝の光を受けて淡く光り、壁には細い青の装飾線が走っている。柱の間から見える庭には、低く刈り込まれた生け垣と、まだ名を知らない白い花が咲いていた。


 学生たちが歩いている。


 貴族の子女。


 商家の子。


 騎士家の若者。


 修道服に近い装いの者。


 聖王国の学院は、国というより一つの都市だと昨日思った。


 朝の回廊を歩いていると、その印象はさらに強くなる。


 ここには、いくつもの世界が重なっていた。


 礼法。


 学問。


 魔法。


 信仰。


 政治。


 その全部が、白い石の下に敷かれている。


 リシアは、隣を歩くアリシアを見た。


 アリシアは自然だった。


 初めて来た場所なのに、歩く速度も視線の置き方も乱れない。


 その少し後ろを、メイが静かについていく。


 ステファニアは、時々わずかに目を細めていた。


 壁の紋様。


 掲示板。


 案内板。


 遠くの鐘楼。


 それらを見るたび、何かを読み取っている。


 リシアには見えないものを。


「ステファニア様」


 小さく呼ぶと、ステファニアは足を止めずに答えた。


「大丈夫です。見えているだけです」


「見えているだけ、というのも十分怖いです」


「分かります」


「分かっている顔ではありません」


 セラが二人の後ろから言った。


 ステファニアは、わずかに口元を引き結んだ。


 その時、回廊の向こうから数人の学生が歩いてきた。


 先頭にいる少年は、身なりがよい。


 髪は淡い金色。


 胸元には、アレーナ王国の小さな紋章があった。


 ジークフリート本人ではない。


 けれど、その周辺の者だと分かるには十分だった。


 少年はステファニアに気づくと、足を止めた。


「レーヴェンハイト侯爵令嬢」


 声は明るい。


 礼も正しい。


「ご無事に到着されたようで何よりです」


「ありがとうございます」


 ステファニアは丁寧に礼を返した。


「殿下もお気遣いくださいました」


「ええ。殿下も大変ご多忙でいらっしゃいますから」


 少年は笑った。


 柔らかく、悪意なく。


 悪意なく聞こえるように。


「本日は新入生へのご挨拶や各国代表との面会が重なっております。侯爵令嬢には、また落ち着かれてからお時間を取られるのではないかと」


 リシアは、意味を考えた。


 婚約者に、到着翌日の朝に会わない。


 忙しいから。


 各国代表との面会があるから。


 落ち着いてから。


 言葉は丁寧だった。


 だが、順番がおかしい。


 リシアがそれに気づいた時、アリシアはもう微笑んでいた。


「まあ」


 とても柔らかい声だった。


「殿下は、お忙しい方なのですね」


 少年はアリシアを見た。


 一瞬だけ、誰だろう、という顔をした。


 その一瞬が、あまりにも正直だった。


「失礼ですが」


「アリシア・ファーランドですわ」


 空気が変わった。


 少年の顔から、笑みがほんの少し遅れて消える。


 ファーランド大公家長女。


 昨日登録されたばかりの名。


 だが、軽く扱ってよい名ではない。


「これは、失礼を」


 少年はすぐに礼を深くした。


 反応は早い。


 けれど、遅かった。


 リシアには、そう見えた。


「構いませんわ。長く療養しておりましたもの。知られていないのは当然です」


 アリシアは穏やかに言った。


「ただ、殿下にお伝えくださいな」


「はい」


「ステファニア様は、無事に学院へ戻られました。同行者も皆、問題なく到着しております、と」


「承知いたしました」


「皆、です」


 アリシアは微笑んだまま、少しだけ言葉を重ねた。


「ええ。皆様、と」


 少年はもう一度礼をした。


 そして、仲間たちと共に回廊の向こうへ去っていく。


 足音が遠ざかった後、リシアは小さく息を吐いた。


「今のは」


「まだ、何も」


 アリシアが言った。


 昨日と同じ言葉だった。


「ただ、二つ目ですわ」


 二つ目。


 リシアは、その数え方に少し寒くなった。


 ステファニアは表情を崩さなかった。


 だが、セラが一歩近づいた。


 何も言わない。


 ただ、近づいた。


 それだけで十分だった。


     ◇


 本館の受付室は、昨日とは別の部屋だった。


 壁一面に名簿が掲げられ、机の上には書類が整然と積まれている。学生たちが順に呼ばれ、所属区画、授業予定、試験日程、寮または貸与邸の確認を受けていた。


 リシアたちの番が来ると、担当官が顔を上げた。


「ファーランド大公家一行ですね」


「はい」


 リシアが答える。


 担当官は書類を確認しながら、順に名を読み上げた。


「リシア・ファーランド様。復学扱い。基礎課程上位」


「はい」


「ステファニア・レーヴェンハイト様。復学扱い。魔法理論および実技上位」


「はい」


「セラ・グレイヴェル様。復学扱い。武術実技上位」


「はい」


 セラの返事は短かった。


「アリシア・ファーランド様。長期療養からの編入。面談後、暫定所属を決定」


「はい」


「アイン・ベルン様。西方大陸西岸ヴェルニア沿岸諸邦より、護衛兼随行者。編入希望。予備審査の後、筆記および実技の可否を決定」


「分かった」


 担当官が少しだけ目を上げた。


 返事が短すぎたのだろう。


 けれど、アインは気にしていない。


 担当官は咳払いを一つして、書類を差し出した。


「本日の案内です。午前は学院規則と聖王国基礎法の確認。午後は各区画の案内。アリシア様とアイン様は、別途面談および予備審査を行います」


「別々ですの?」


 アリシアが問う。


「はい。規定により」


「では、わたくしの面談に、メイを同席させることはできますか」


「侍女の同席は、健康上の理由がある場合に限り許可されます」


「ございます」


 アリシアは即答した。


 担当官は書類を見た。


 長期療養。


 名を伏せていた大公家長女。


 西方からの治療技術。


 そうした説明が、そこにはきちんと整えられている。


 担当官は頷いた。


「許可します」


「ありがとうございます」


 リシアは、そのやり取りを横で見ていた。


 アリシアは、本当に隙がない。


 そして、隙がないように見せない。


 それが一番怖い。


 担当官は最後に、もう一枚の紙を取り出した。


「それと、今夜、学院主催の小規模な顔合わせがあります。新入生と編入生、それに各国代表者の一部が招かれます」


 リシアの胸が、少し鳴った。


 各国代表者。


 つまり、ジークフリートも来る可能性がある。


 ステファニアの横顔は静かだった。


「出席は義務ですか」


 アリシアが尋ねた。


「義務ではありません。ただし、初日ですので出席を推奨します」


「分かりましたわ」


 アリシアは紙を受け取った。


 視線を一度だけ走らせる。


 それから、微笑んだ。


「席順は、当日発表なのですね」


「はい」


「そうですか」


 その声が、妙に楽しそうだった。


 リシアは、何も聞かなかった。


 聞かない方がよい気がした。


     ◇


 案内が終わると、リシアたちは本館の中庭へ出た。


 白い石に囲まれた庭の中央には、小さな噴水がある。水音は涼しく、周囲では学生たちが談笑していた。


 セラは噴水の縁を見ている。


「魚はいませんね」


「食べませんよ」


 ステファニアが即座に言った。


「確認しただけです」


「確認しなくてよろしいです」


 リシアは笑いそうになった。


 その時、アインが中庭の端に立っているのが見えた。


 クラウディアと何か話している。


 遠目にも、面倒そうな顔をしていた。


「予備審査、嫌そうですね」


 リシアが言うと、アリシアは頷いた。


「殿下は、できないわけではありません。面倒なだけですわ」


「それは、分かる気がします」


「ただ」


 アリシアは少しだけ目を細めた。


「学院側が殿下をどう測るかは、見ておく価値があります」


「測れるのでしょうか」


「測れませんわ」


 即答だった。


「けれど、測ろうとした時に、何を基準にするかは分かります」


 リシアは、なるほどと思った。


 強さそのものは分からなくても、ものさしは見える。


 この学院が何を優秀とし、何を異物とするのか。


 今日の試験は、アインだけが見られる場ではない。


 アインもまた、学院を見ている。


「リシア様」


 ステファニアが呼んだ。


「はい」


「私たちも、見られています」


 リシアは周囲を見た。


 学生たちの視線。


 好奇心。


 警戒。


 噂。


 ファーランド大公家。


 長期療養から戻った姉。


 レーヴェンハイト侯爵令嬢。


 異国から来た護衛。


 そして、ジークフリートの婚約者。


 そのすべてが、今朝の中庭で混ざっている。


 リシアは背筋を伸ばした。


「では、見せましょう」


 自分でも少し驚くほど、声は落ち着いていた。


「私たちが、ここにいるところを」


 アリシアが満足そうに微笑んだ。


「ええ。それでよろしいですわ」


 学院の鐘が鳴る。


 朝より少し高く、短い音だった。


 白い廊下の向こうで、初日の予定が動き始める。


 まだ何も起きていない。


 けれど、何もないわけではない。


 小さな紙。


 小さな言葉。


 小さな視線。


 それらが、少しずつ積もっていく。


 リシアは、昨日アリシアが言った言葉を思い出した。


 小さなことほど、積み重なると重くなる。


 その重さを、今朝、少しだけ理解した気がした。


 ここは学院。


 学ぶ場所。


 選ぶ場所。


 そしてたぶん、見極める場所でもある。


 リシアは白い回廊の先を見た。


 自分の足で、そこへ歩き出した。



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