第三十二夜 門の内側
第三十二夜 門の内側
門の内側へ入った瞬間、音が変わった。
外の通りにあった馬車の車輪音や、商人たちの声が、白い石の門を境に少し遠くなる。
代わりに聞こえてきたのは、靴音だった。
石畳を歩く生徒たちの靴音。
遠くの鐘。
庭木を揺らす風。
講堂の方から聞こえる、誰かが読み上げる声。
学院の音だった。
リシアは、一歩目を踏み出したまま、少しだけ立ち止まった。
ここに戻ってきた。
そう思うべきなのだろう。
けれど、少し違う。
以前のリシアなら、ただ学院へ入るだけだった。
貴族の子女として、定められた学びの場へ戻る。
それだけだった。
今は違う。
隣には、長い療養から戻ったことになっている双子の姉がいる。
後ろには、西方大陸西岸の公子という顔をしたアインがいる。
ステファニアは、鍵スフィアを通じて情報へ触れた後の目をしている。
セラは、いつでも剣へ手を伸ばせる距離で歩いている。
クラウディアは、随行者の一人として完璧に気配を薄くしている。
そしてメイは、アリシアの荷物係のような顔で、何食わぬ顔をしている。
戻ってきた。
けれど、戻ってきたものは、以前と同じではなかった。
「受付は、あちらですわ」
ステファニアが小さく言った。
声は落ち着いている。
だが、リシアには分かった。
彼女も少し緊張している。
白い石の道の先に、学院本館があった。
大きな扉。
整えられた庭。
門から本館へ続く道の両側には、制服姿の生徒たちが行き交っている。
皆、こちらを見た。
無理もない。
ファーランド大公家の公女。
レーヴェンハイト侯爵令嬢。
グレイヴェル子爵令嬢。
そこへ、リシアと同じ顔の姉が加わっている。
目立たない方が無理だった。
リシアは、背筋を伸ばした。
隣でアリシアが、ほんの少し微笑む。
その微笑みが、よくできた仮面のように見えた。
けれど、リシアはもう知っている。
仮面だから偽物というわけではない。
必要な場所で、必要な顔をする。
それもまた、強さなのだ。
◇
受付室は、白い石の本館一階にあった。
壁には学院の紋章。
机には厚い帳簿。
奥には、魔力測定用らしき水晶柱が淡く光っている。
係官は三人いた。
そのうち一人が、ファーランド大公家の封蝋を見て姿勢を正した。
「ファーランド大公家、リシア・ファーランド公女殿下」
「はい」
「レーヴェンハイト侯爵家、ステファニア・レーヴェンハイト様」
「はい」
「グレイヴェル子爵家、セラ・グレイヴェル様」
「はい」
そこまでは滑らかだった。
係官の視線が、次の書類へ落ちる。
一瞬、止まった。
「ファーランド大公家長女、アリシア・ファーランド様」
「はい」
アリシアが、穏やかに答えた。
係官は顔を上げる。
リシアを見る。
アリシアを見る。
もう一度、書類を見る。
気持ちは分かる。
リシアにも、気持ちは分かる。
だが、そこで止まられると困る。
「長期療養のため、名を伏せておりました」
アリシアが言った。
声は柔らかい。
けれど、説明を求める余地はあまり残していなかった。
「本日より、編入手続きに従いますわ」
「失礼いたしました」
係官は慌てて頭を下げた。
「記録は届いております。事前通知も確認済みです」
別の係官が、次の書類を手に取る。
「西方大陸西岸、ヴェルニア沿岸諸邦より、アイン・ベルン様」
アインが一歩前へ出た。
受付室の空気が、わずかに揺れた。
外見だけなら、年少の少年だ。
だが、歩き方が違う。
リシアは、係官が一瞬だけ判断に迷ったのを見た。
子供として扱うべきか。
貴人として扱うべきか。
護衛として扱うべきか。
その迷いは、ほんの短いものだった。
アインは自分から書類を差し出した。
「護衛兼随行者。必要なら編入試験を受ける」
「承っております」
係官は書類を受け取り、内容を確認する。
「薬療支援者としての記録もございますね。アリシア様の療養に関わられた、と」
「そういうことになっている」
リシアは、少しだけ固まった。
そういうことになっている。
正直すぎる。
係官は幸い、深くは受け取らなかった。
「では、随行者区分と編入試験待機区分の双方で仮登録いたします」
「それでいい」
アリシアが扇子で口元を隠した。
目だけが、少し笑っている。
クラウディアは、完全に無表情だった。
無表情だったが、リシアには分かった。
あとで言い方について指導が入る。
きっと入る。
◇
受付手続きは、思ったより時間がかかった。
学院では、入学基準として魔力、実技、学力の三つを評価する。
リシアとステファニアとセラは既に記録がある。
アリシアは編入扱い。
アインは随行者扱いだが、学院内での行動範囲を広げるため、仮試験の結果が必要になる。
その説明を受ける間、リシアは時折ステファニアを見た。
ステファニアの視線は、帳簿の文字に向いている。
ただ読んでいるだけではない。
何かを見ている。
紙の上の記録だけではなく、その奥にある流れを。
「ステファニア様」
リシアが小さく呼ぶと、ステファニアは瞬きをした。
「失礼しました」
「何か見えましたか」
「少しだけ」
ステファニアは、声を落とした。
「この学院の記録体系は、思ったより古い層を残しています。表面は現代式ですが、奥に別の索引があります」
「索引」
「はい。触れない方がよいものも、あるようです」
リシアは、思わずクラウディアを見た。
クラウディアは既にこちらを見ていた。
「現時点では、観測だけに留めてください」
「承知しています」
ステファニアは静かに答えた。
その返事は、以前より少しだけ硬い。
自分が何へ触れられるのか。
触れてはいけないものがあるのか。
それを、彼女自身も分かり始めているのだろう。
リシアは、胸の奥で小さく息を吐いた。
学院に着いたばかりだ。
まだ授業も始まっていない。
それなのに、もう何かがこちらを覗いている気がする。
◇
滞在先は、学院の東側にある小さな屋敷だった。
小さい、と説明された。
だが、リシアの感覚では十分に大きい。
白い壁。
青い屋根。
小さな庭。
馬車を置ける裏手。
護衛が立てる門。
王族や高位貴族が学院内で借りる屋敷の一つだという。
ファーランド大公家の名で、事前に用意されていた。
事前に。
その言葉が最近、少し怖い。
「ベルン商会経由で、維持管理は済ませてあります」
クラウディアが言った。
「ベルン商会は、もうここにも?」
「表向きの取引窓口だけです」
「表向き」
「はい」
リシアは、それ以上聞かないことにした。
聞けば、きっと答えは返ってくる。
けれど、今聞くと頭が痛くなる。
屋敷へ入ると、部屋割りが説明された。
リシアとアリシアは隣室。
ステファニアはその向かい。
セラは護衛として廊下側の部屋。
アインとクラウディアは、別棟扱いの随行者区画。
メイは、アリシアの侍女として同じ棟に入る。
「私は廊下でも構いません」
セラが言った。
「構います」
ステファニアが即答した。
「護衛のためには」
「部屋で寝てください」
「ですが」
「セラ」
リシアも言った。
「部屋で寝てください」
セラは少しだけ考えた。
「承知しました」
「本当に?」
「努力します」
「寝ることに努力が必要なのですか」
アリシアが、楽しそうに目を細めた。
「よい護衛ですわね」
「よすぎて困る時があります」
リシアが言うと、セラは不思議そうな顔をした。
その顔を見て、リシアは少し笑った。
船の中ではない。
アークライトでもない。
けれど、この屋敷にも、自分たちの空気が少しずつ入り始めている。
そう思えた。
◇
荷ほどきが終わる前に、最初の来客があった。
来客というより、使者だった。
アレーナ王国の紋章が入った封筒を持つ、若い従者。
彼は門の前で丁寧に頭を下げた。
丁寧だった。
丁寧すぎるほどだった。
「ステファニア・レーヴェンハイト様へ、ジークフリート・オーラム・アレーナ殿下よりご挨拶の書状でございます」
ステファニアの表情は変わらなかった。
だが、リシアは胸の奥が少し冷えるのを感じた。
ジークフリート。
ステファニアの婚約者。
アレーナ王国第一王子。
最近、手紙の回数が減り、同行行事が減り、周囲の人間が変わり始めた相手。
従者は封筒を差し出した。
宛名は、ステファニアだけだった。
レーヴェンハイト侯爵令嬢。
それだけ。
ファーランド大公家の公女が到着していることも。
長期療養から戻った大公家長女が同行していることも。
書状の表には、触れられていない。
偶然かもしれない。
知らなかったのかもしれない。
けれど、知らないはずがない。
この学院で、ファーランド大公家の一行が屋敷へ入ったことは、既に見られている。
リシアは、黙ってステファニアを見た。
ステファニアは、静かに封筒を受け取る。
「確かに」
「殿下は、到着直後のご多忙につき、本日のご挨拶は書状にて失礼させていただくとのことです」
「承知しました」
「後日、改めてお時間を」
「ありがとうございます」
最後まで礼儀正しい。
従者も礼儀正しかった。
何一つ、明確な無礼はない。
けれど、リシアは不快だった。
なぜ不快なのか、すぐには言葉にならない。
すると、アリシアが一歩だけ近づいた。
「ご苦労様です」
従者は、そこで初めてアリシアを見た。
一瞬、目が揺れる。
リシアと同じ顔。
けれど、リシアではない人。
その判断に、遅れた。
「失礼いたしました。ファーランド大公家長女、アリシア様でいらっしゃいますね」
「ええ」
アリシアは微笑んだ。
「殿下へお伝えください。ステファニア様へのお気遣い、確かに拝見いたしました、と」
「承りました」
従者は頭を下げ、去っていった。
門が閉じる。
しばらく、誰も言わなかった。
やがてステファニアが封を切る。
中の文面は短かった。
到着を祝う言葉。
長旅を労う言葉。
近いうちに会う機会を設けたいという言葉。
整っている。
礼法として、破綻はない。
けれど。
「丁寧ですね」
リシアが言うと、ステファニアは小さく頷いた。
「はい。丁寧です」
その声に、わずかな疲れがあった。
アリシアは書状を見た。
「ええ。形は、とても丁寧ですわ」
形は。
リシアは、その言葉を聞き逃さなかった。
「お姉様」
「はい」
「何か、ありましたか」
アリシアは微笑んだ。
「まだ、何も」
まだ。
その言い方が、少し怖かった。
「ただ、これは覚えておくべきものです」
アリシアは、書状の紙質、封蝋、使者の到着時刻、宛名の書き方を順に見た。
「とても小さなことですけれど、小さなことほど、積み重なると重くなりますもの」
ステファニアは、静かに書状を畳んだ。
「アリシア様」
「何かしら」
「今は、まだ」
「ええ」
アリシアは、先回りするように頷いた。
「今は、まだ何もしませんわ」
今は。
リシアは、もう一度その言葉を胸の中で繰り返した。
◇
夕方、学院の鐘が鳴った。
港で聞いたものより、近い。
低く、長い音。
その奥に、リシアには分からない何かが混ざっている。
封印系の音。
アインは、そう言った。
屋敷の窓からは、学院の塔が見えた。
夕日を受けて、白い石が淡く赤く染まっている。
リシアは、窓辺に立っていた。
今日、門をくぐった。
受付を済ませた。
屋敷に入った。
最初の書状を受け取った。
それだけの一日だった。
けれど、心は妙に疲れている。
振り返ると、アインが部屋の入口に立っていた。
「入っても?」
「はい」
アインは室内へ入らず、入口に立ったままだった。
「今日は終わりだ。余計なことは考えずに寝ろ」
「余計なこと」
「明日から考えればいい」
リシアは少し笑った。
「アイン様は、雑に優しいですね」
「雑か」
「はい」
「そうか」
アインは否定しなかった。
リシアは、窓の外へ視線を戻す。
「ここからは、私たちの場所だと仰いました」
「言った」
「本当に、そうできるでしょうか」
「できるかどうかは知らん」
アインは、いつものように短く答える。
「だが、選ぶのはお前たちだ」
リシアは、その言葉を受け取った。
重い。
けれど、嫌な重さではない。
「はい」
リシアは頷いた。
学院の鐘が、もう一度遠くで鳴る。
白い門の内側で、最初の夜が始まろうとしていた。
何が待っているのか、まだ分からない。
けれど、リシアはもう門の外にはいない。
ここから先は、選ぶ場所だ。
そう思いながら、リシアは夕日に染まる学院の塔を見つめていた。




