第三十一夜 白い岸の灯
第三十一夜 白い岸の灯
三日目の朝、ロシナンテは速度を落としていた。
船室の壁面には、いつものように海と空が映っている。
けれど、その先に白い線があった。
最初は、雲かと思った。
違った。
陸だった。
聖王国。
ファーランドから、およそ二千キロ。
通常なら馬車と船を乗り継ぎ、一ヶ月ほどかけて辿り着く場所。
それが、三日目の朝にはもう見えていた。
リシアは、窓の表示から目を離せなかった。
白い岸。
高い崖。
その上に、朝の光を受ける尖塔がいくつも見える。
神殿の塔。
学院の塔。
研究棟の屋根。
それらが一つの街として繋がり、島の内側へ広がっている。
聖王国は、国というより、巨大な学院都市に見えた。
創造神を祀る神殿。
貴族の子女が集まる学院。
研究機関。
商会。
そして、五つのダンジョン。
それらが島の上に重なっている。
リシアは知識としては知っていた。
けれど、知っていることと、見ることは違う。
あの白い岸の向こうに、自分たちが入っていく。
そう思うと、胸の奥が静かに重くなった。
「見えてきましたわね」
アリシアが、リシアの隣に立った。
白い衣ではなく、学院へ向かうための外出着を着ている。
長い療養から戻った大公家長女。
リシアの双子の姉。
そのための姿だった。
けれど、背筋の伸び方は、昨夜までと変わらない。
アリシアはどこに立っても、アリシアなのだとリシアは思った。
「不思議です」
「何がかしら」
「一ヶ月かかると思っていた場所が、三日で見えていることもですけれど」
リシアは、少しだけ言葉を探した。
「それよりも、戻るのではなく、別の場所へ入っていくのだと思うと」
「怖い?」
「はい」
素直に答えた。
アリシアは笑わなかった。
「それでよいと思いますわ」
「よいのですか」
「怖くない場所へ行くのなら、覚悟はいりませんもの」
アリシアは白い岸を見た。
「怖い場所へ、それでも自分で歩いて入る。そういう時に、人は少しだけ変わるのだと思います」
リシアは、アリシアを見た。
アリシアは、千五百年を待った人だ。
けれど、その言葉は遠すぎなかった。
今のリシアにも届く言葉だった。
「お姉様も、怖いのですか」
リシアが問うと、アリシアは少しだけ目を細めた。
「もちろん」
意外なほど、あっさりした答えだった。
「わたくしは、この時代の学院を知りません。聖王国の礼儀も、言葉の裏も、噂の流れ方も、まだ完全には分かっておりませんわ」
「そうは見えません」
「見えないようにしておりますもの」
アリシアは、さらりと言った。
リシアは、少し笑ってしまった。
「けれど」
アリシアは続けた。
「分からないからといって、立ち止まるつもりはありません。殿下の隣に立つと決めた以上、知らない時代なら学べばよいだけです」
「強いですね」
「強がりも、使い続ければ少しは役に立ちますわ」
その言い方が、少しだけ子供っぽくて。
けれど、そこに本当の重さもあって。
リシアは、もう一度白い岸を見た。
◇
入港前の準備は、思ったより現実的だった。
クラウディアは、壁面に書類の一覧を表示した。
アリシアの身分記録。
アインの身分記録。
ベルン商会の紹介状。
療養記録。
編入試験に関する事前通知。
ファーランド大公家から学院長宛ての書状。
どれも、いつの間に用意されたのか分からないほど整っている。
リシアは、その一覧を見て少しだけ遠い目になった。
「クラウディア」
「はい」
「これは、全部いつの間に」
「必要になる前に」
答えになっているようで、なっていない。
けれど、クラウディアにとっては本当にそうなのだろう。
必要になる前に、必要なものを揃える。
それが彼女の仕事なのだ。
「表向き、ロシナンテは西方大陸西岸系の高速船です」
クラウディアが説明を続ける。
「入港時は、港内規定に合わせて速度と揺れを調整します。船内の空間拡張区画は閉じ、外部から確認できる範囲を通常船舶相当に制限します」
「通常船舶相当」
ステファニアが繰り返した。
「昨日、海竜と交渉していた船が」
「通常船舶相当です」
「言い切りましたね」
「言い切る必要があります」
クラウディアは平然としている。
アインは、椅子に座ったまま資料を見ていた。
表情は変わらない。
けれど、リシアには分かった。
少しだけ面倒そうだ。
「殿下」
アリシアが声をかける。
「編入試験の最終確認はなさいました?」
「した」
「採点上の正解は」
「覚えた」
「本当の正解ではなく」
「採点上の正解だ」
「よろしいですわ」
アリシアは満足そうに頷いた。
アインは、少しだけ不満そうだった。
「教育として間違っている」
「学院に入ってから、ぜひ問題提起なさってください」
「初日から問題児にする気か」
「殿下は黙っていても目立ちますもの」
「褒めてないな」
「信頼ですわ」
アインは返事をしなかった。
その代わり、資料を閉じた。
リシアは、そのやり取りを見て少しだけ安心した。
アインも、アリシアも、完全にこの時代へ馴染んだわけではない。
けれど、二人はもう歩き出している。
置いていかれた時間の中に留まっているわけではない。
そのことが、今朝ははっきり分かった。
部屋の端では、セラが荷物を確認していた。
剣。
護衛用の装備。
補修済みの服。
そして、なぜか干した魚。
「セラ」
「はい」
「それは何ですか」
「非常食です」
「昨日、あれだけ食べましたよね」
「学院で食事が合わない可能性があります」
「準備がよすぎます」
ステファニアが額に指を当てる。
「セラ。学院では、あまり目立たないように」
「承知しました」
「食事量もです」
「努力します」
「その返事は信用できません」
セラは真面目な顔だった。
リシアは笑いそうになり、堪えた。
堪えきれず、少しだけ笑った。
◇
ロシナンテは、聖王国の港へ入った。
港は広かった。
白い石で組まれた岸壁。
整然と並ぶ倉庫。
神殿の印を掲げた船。
商会の旗をつけた大型船。
学院へ向かう生徒らしき若者たちを乗せた馬車。
ファーランドの港とは違う。
ラーンの港が交易と防衛の匂いを持つなら、聖王国の港は制度の匂いを持っていた。
規則。
記録。
審査。
許可。
そういうものが、白い石の上にきれいに並んでいる。
リシアは、少し息苦しさを覚えた。
けれど、ロシナンテの入港手続きは驚くほど静かに終わった。
クラウディアが書類を出し、港の係官が確認し、何度か判を押す。
係官はロシナンテを見上げて何かを言いたそうにしたが、最終的には「西方船」の一言で処理した。
たぶん、理解するより分類した方が早いのだ。
リシアは少しだけ同情した。
ロシナンテを理解しようとすると、たぶん疲れる。
桟橋へ降りると、空気が変わった。
海の匂いに、香の匂いが混じっている。
遠くから鐘の音が聞こえた。
神殿の鐘だろうか。
低く、長く、島全体に染み込むような音だった。
アリシアが立ち止まる。
アインも、わずかに視線を上げた。
「何か」
リシアが問うと、アインは短く答えた。
「封印系の音だ」
「鐘が、ですか」
「音に混ぜている」
リシアには分からなかった。
ただの鐘に聞こえる。
けれど、アインには別のものが聞こえているのだろう。
アリシアも、静かに目を細めていた。
「粗くはありませんわね」
「古い」
アインが言う。
「だが、まだ生きている」
クラウディアが、二人を見た。
「現時点では観測だけに留めます」
「分かっている」
アインは歩き出した。
リシアは、鐘の音をもう一度聞いた。
聖王国。
創造神を祀る国。
学院都市国家。
けれど、その奥には、別の何かがある。
今の短いやり取りだけで、それが分かってしまった。
怖い。
けれど、目をそらしてはいけない。
リシアは、自分にそう言い聞かせた。
◇
学院へ向かう馬車は、ファーランド大公家の名で手配されていた。
外観は控えめだ。
けれど、車輪も座席もよく整えられている。
王族や高位貴族が屋敷を借りることもある学院では、こうした馬車は珍しくないらしい。
リシア、アリシア、ステファニア、セラ。
その四人が同じ馬車に乗る。
アインとクラウディアは、別の馬車で随行者として動く。
メイは、いつの間にかアリシアの荷物係のような顔をしていた。
見た目だけなら、本当にどこかの侍女に見える。
本人がそれでよいのかは分からない。
聞かない方がよい気もした。
馬車が動き出す。
港から学院区画へ向かう道は、白い石で舗装されていた。
左右には商会の建物が並ぶ。
薬草。
魔石。
書籍。
術具。
制服。
学生向けの店が増えていくにつれ、通りの空気も変わっていった。
若い声が増える。
制服姿が増える。
知らない紋章の馬車が増える。
リシアは、窓の外を見た。
ここが、学院。
いや、まだ学院の外側だ。
けれど、もうその気配はある。
自分で何かを選べる場所。
夜の甲板で、そう言った。
今、その場所が目の前に近づいている。
「リシア」
ステファニアが、そっと声をかけた。
「緊張していますか」
「しています」
「私もです」
ステファニアは、少しだけ笑った。
「そうは見えません」
「見えないようにしています」
「お姉様と同じことを言いますね」
「それは少し光栄です」
ステファニアは、窓の外へ視線を戻した。
その横顔は穏やかだった。
けれど、リシアは知っている。
この学院には、ステファニアの婚約者がいる。
近頃、手紙の回数が減り、同行行事が減り、周囲の人間が変わり始めた相手。
アリシアが「一手、必要ですわね」と言った相手。
ステファニアは、それを知っている。
知った上で、ここへ戻ってきた。
「ステファニア様」
「はい」
「何かあれば、言ってください」
リシアが言うと、ステファニアは目を瞬いた。
「リシアが、それを言ってくださるのですね」
「はい」
「では、覚えておきます」
その返事は、少しだけ軽かった。
けれど、逃げてはいなかった。
セラが、静かに頷く。
「リシア様とステファニア様は、私がお守りします」
「セラも、無理はしないでください」
「努力します」
「それも信用できません」
ステファニアが即座に言い、馬車の中に小さな笑いが落ちた。
アリシアは、それを見ていた。
何も言わない。
ただ、少しだけ嬉しそうだった。
◇
学院の門は、大きかった。
城門ほどではない。
けれど、人を拒むためではなく、人を測るために立っているような門だった。
白い石の柱。
古い文字が刻まれた横梁。
両側には、制服姿の門衛と、記録係らしき者が立っている。
門の向こうには、広い道が続いていた。
その先に、校舎が見える。
講堂らしき建物。
高い塔。
練兵場。
庭園。
そして、さらに奥に、神殿の尖塔。
リシアは馬車を降りた。
足が、白い石の上に触れる。
ファーランドの土でも、アークライトの床でも、ロシナンテの甲板でもない。
聖王国の学院の石。
ここから先は、知らない場所だ。
リシアは、少しだけ息を吸った。
その時、後ろからアインの声がした。
「ここからは、お前たちの場所だ」
振り返る。
アインは、随行者としての服装で立っていた。
西方大陸西岸の公子。
護衛兼随行者。
必要なら編入試験を受ける者。
そういう顔をしている。
けれど、目はいつものアインだった。
「俺は後ろにいる」
短い言葉だった。
それだけで、リシアは少し楽になった。
前へ進むのは、自分たち。
でも、後ろにはいる。
アインは、そう言っているのだ。
「はい」
リシアは答えた。
ステファニアも、静かに頷く。
セラは剣の位置を確認した。
アリシアは、白い門を見上げる。
「では、参りましょう」
扇子で口元を隠し、楽しそうに目を細めた。
「舞台は、向こうですわ」
その言い方に、リシアは少しだけ嫌な予感を覚えた。
アリシアが楽しそうな時は、たいてい何かが起きる。
あるいは、何かを起こす。
けれど、今はそれでもよかった。
リシアは門の向こうを見た。
選ぶ場所。
学ぶ場所。
知らなかったものを知り、自分で決める場所。
そして、きっと厄介なことが待っている場所。
白い岸の灯は、もう背後にある。
目の前には、学院の門がある。
リシアは、一歩を踏み出した。
その先へ。




