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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第三十夜 海の食卓

第三十夜 海の食卓


 ロシナンテの二日目は、静かに始まった。


 少なくとも、朝食の時点ではそう見えた。


 海は穏やかだった。


 窓の表示には、どこまでも続く青と、白く砕ける波が映っている。


 船内は揺れない。


 船体が速く進んでいることは、壁面の海が後ろへ流れていく速さでしか分からなかった。


 リシアは、温かいスープを飲みながら予定表を見ていた。


 午前は聖王国史。


 昼前に学院規則の確認。


 午後は、ステファニアの情報接続訓練と、リシア自身の感知訓練。


 合間に休憩。


 休憩。


 アリシアが増やした休憩枠は、まだ生きている。


 そのことに、リシアは少しだけ感謝していた。


 問題は、休憩ではなかった。


「食糧消費量が、当初見積もりを上回っています」


 クラウディアが、淡々と言った。


 食堂の空気が、少しだけ止まった。


 リシアは、無意識にセラを見た。


 ステファニアも見た。


 アリシアは、扇子で口元を隠している。


 メイは、なぜか目をそらした。


 セラだけが、皿の上の焼き魚をきれいにほぐしながら首を傾げている。


「足りないのですか」


「足りなくはありません」


 クラウディアが答えた。


「ただし、想定より早く予備食材へ入ります」


「なぜでしょう」


 セラは、本当に分かっていない顔だった。


 リシアは、言葉を選んだ。


「セラ」


「はい」


「今朝、何皿いただきましたか」


 セラは少し考えた。


「数えていません」


「そこです」


 ステファニアが、静かに額へ指を当てた。


「セラ。普通は、数えられる範囲で止まります」


「ですが、美味しいので」


「理由になっていません」


「活動量が戻ってきた証拠では」


「良い方向に解釈しすぎです」


 セラは真面目な顔のままだった。


 その真面目さが、かえって手強い。


「医学的には問題ありません」


 クラウディアが言った。


「むしろ、自己修復反応と代謝制御が安定している証拠です」


「では」


「食糧管理上は問題です」


 セラが、少しだけ黙った。


 リシアは、なぜか胸が痛んだ。


 怒られているわけではない。


 けれど、食べることを止められたセラを見るのは、少し違う気がした。


 セラが生きている。


 食べている。


 それは、リシアにとって、まだ小さな奇跡のようなものだった。


「では、補給すればよいのではありませんか」


 アリシアが言った。


 ごく自然に。


 食堂の視線が、アリシアへ向いた。


「ここは海ですわ」


「釣り、ですか」


 リシアが言うと、アリシアは微笑んだ。


「ええ。せっかくですもの」


「移動中の船で釣れるものなのですか」


「ロシナンテなら、速度を落とせます」


 クラウディアが答えた。


「水域の安全確認も可能です」


「安全確認」


 ステファニアが小さく繰り返した。


「その言葉が出る時点で、少し不安があります」


「通常の魚影です」


「通常でないものもいるのですね」


「海ですから」


 クラウディアの答えは、正しかった。


 正しいのに、不安は減らなかった。


     ◇


 ロシナンテは、昼前に速度を落とした。


 完全に停まったわけではない。


 船体は海面を滑るように進みながら、周囲に薄い水流を作っている。


 甲板の一部が開き、そこから細い竿と糸が出された。


 リシアが知っている釣り竿とは違う。


 持ち手には小さな表示があり、糸の先の深さや、周囲の魚影の位置が淡い光で示されていた。


「これは、釣りなのでしょうか」


「釣りです」


 クラウディアが答えた。


「非常に支援機能の多い釣りです」


「それは釣りなのですか」


「魚を待ち、糸で上げるなら釣りです」


 アインは、竿を一本持って海を見ていた。


 妙に似合っていた。


 落ち着いている。


 戦場にいる時とも、学習室で問題を解いている時とも違う。


 少しだけ、ただの少年に見えた。


 見えた、と思った次の瞬間、糸が引いた。


 アインは軽く手首を返す。


 魚が水面を割って跳ね、甲板脇の受け皿へきれいに落ちた。


「上手ですわね」


 アリシアが言った。


「昔、やったことがある」


「殿下の昔は、どこまで昔ですの」


「場合による」


「便利なお答えですこと」


 アリシアは楽しそうだった。


 セラも竿を持った。


 持った瞬間、クラウディアが少しだけ目を細める。


「セラ様」


「はい」


「引きがあっても、強く引きすぎないでください」


「承知しました」


 返事はよかった。


 返事は。


 すぐに糸が沈んだ。


 セラの腕が動く。


 海面が割れた。


 魚が一匹、ではなかった。


 三匹。


 絡んだ糸に巻き込まれるように、銀色の魚が三匹まとめて跳ね上がった。


 セラは平然と受け皿へ落とす。


「釣れました」


「釣れました、ではありません」


 ステファニアが言った。


「どうして三匹なのですか」


「近くにいたので」


「近くにいたので、ではありません」


 その後も、セラはよく釣った。


 というより、捕った。


 竿を持っているだけなのに、どこか狩りに近い。


 魚影を見ているわけではないはずなのに、糸を落とす場所が妙に正確だった。


 本人は楽しそうでも、得意げでもない。


 ただ、必要なものを淡々と確保している。


 リシアは、その横顔を見て思った。


 やはりセラは、騎士なのだ。


 魚を相手にしていても、どこか戦場の目をしている。


 その時だった。


 クラウディアの端末が、短く鳴った。


 表示の海面に、赤い線が走る。


「大型反応」


 声が低くなる。


 甲板の空気が変わった。


 海面が、不自然に盛り上がる。


 最初は、波かと思った。


 違った。


 黒い影が、水の下から近づいてくる。


 次の瞬間、太い脚のようなものが海面を破った。


 吸盤。


 濡れた皮膚。


 船体へ伸びる、巨大な触腕。


「クラーケン、でしょうか」


 ステファニアが言った。


「分類上は近いものです」


 クラウディアが答えた。


 近いもの。


 つまり、ほぼそういうものなのだ。


 リシアは息を呑んだ。


 触腕がロシナンテへ迫る。


 船体の防御が間に合うのか。


 リシアがそう思うより早く、アインが一歩前へ出た。


 大きな動きではなかった。


 ただ右手を上げる。


 その掌の前に、青白い光が集まった。


 魔力の塊。


 凝縮された、重い光。


 アインは、それを見せびらかすことも、詠唱することもしなかった。


 ただ、海面の一点を見た。


「そこだ」


 短く言って、撃った。


 光が走る。


 音は遅れて来た。


 海面の下で、何かが弾ける。


 巨大な触腕が、びくりと跳ねた。


 次の瞬間、力を失ったように海へ落ちる。


 黒い影が大きく傾き、白い泡が海面へ広がった。


「急所、ですか」


 ステファニアが呟いた。


「中枢核だ」


 アインは淡々と答えた。


「外から殴ると面倒だが、核を抜けば止まる」


「今の説明で、なぜか余計に面倒なものに聞こえます」


「実際、面倒だ」


 アインは海を見る。


「この水域の主ではない。逃げてきたか、追われたか」


「追われた?」


 リシアが問い返した、その時。


 海が、また盛り上がった。


 今度は、違った。


 触腕ではない。


 長い首。


 濡れた鱗。


 陽の光を受けて、深い青緑に光る巨大な身体。


 海竜だった。


 ロシナンテの横に、まるで島が浮かび上がるように現れる。


 リシアは、息を止めた。


 大きい。


 クラーケンに似た魔物より、さらに大きい。


 けれど、不思議と敵意は感じなかった。


 海竜の目が、アインを見る。


 アインも、海竜を見た。


 しばらく、言葉がなかった。


 アインが軽く右手を上げる。


「邪魔をした」


 挨拶だった。


 少なくとも、リシアにはそう聞こえた。


 海竜は、低く喉を鳴らした。


 音というより、海そのものが震えるような響きだった。


 アインは、倒れた巨大な触腕の方を指す。


「脚一本で手を打て」


「殿下」


 クラウディアが、少しだけ確認するように呼んだ。


「この水域の取り分だろう」


 アインは短く言った。


 なるほど。


 そういうことなのか。


 リシアは、ようやく理解した。


 あの魔物は、海竜の獲物だったのだ。


 ロシナンテを襲ったから止めた。


 けれど、すべてを奪う気はない。


 だから、脚一本。


 この海に対する礼。


 そういう話なのだ。


 海竜が、また低く鳴いた。


 その時、セラが一歩前へ出た。


「アイン様」


「なんだ」


「これは、美味しいものですか」


 リシアは、思わずセラを見た。


 今、この場で。


 海竜の前で。


 その質問を。


 アインは、ほんの少しだけ目を細めた。


「食える」


「美味しいのですね」


「処理を間違えなければな」


 セラは海竜を見た。


 そして、真面目な顔で頭を下げる。


「可能であれば、余分に二本ほど譲っていただけますか」


 ステファニアが口元を押さえた。


 リシアも、何を言えばよいか分からなかった。


 海竜は、セラを見た。


 長い沈黙。


 そして。


 海が震えた。


 海竜が、喉を鳴らしたのだ。


 笑った、のかもしれない。


 アインが、小さく息を吐く。


「三本でいいそうだ」


「ありがとうございます」


 セラは、きちんと礼をした。


 海竜は、倒れた魔物の本体を軽く咥えると、残された触腕を器用に切り分けるように海面へ浮かべた。


 三本。


 巨大な脚が、ロシナンテの横へ漂う。


 クラウディアが端末を操作し、船体側面から回収用の腕が伸びた。


 それを見届けると、海竜はもう一度アインを見た。


 アインが、軽く頷く。


 海竜は、深い青緑の身体を沈めていった。


 大きな波だけが残る。


 やがて海は、何事もなかったように静かになった。


 リシアは、しばらく動けなかった。


「今のは」


「海竜です」


 クラウディアが答えた。


「それは、見れば分かります」


 ステファニアが言った。


「なぜ、普通に交渉が成立したのですか」


「相手に知性があったからだ」


 アインが言った。


「知性があれば、話せる」


「相手が海竜でも?」


「相手が人間でも、話せない時は話せない」


 その答えは、妙に説得力があった。


 セラは、回収されていく巨大な脚を見ている。


 目が、少しだけ輝いていた。


 リシアは思った。


 今日の夕食は、きっと多い。


     ◇


 夕方、ロシナンテの後部甲板は、いつの間にか食事の場になっていた。


 正確には、甲板の一部が開き、風を避ける透明な囲いが立ち上がり、中央に調理台と焼き台が現れた。


 海の上の食堂。


 あるいは、野外の宴。


 リシアには、どちらとも言い切れなかった。


 触腕は、きれいに処理されていた。


 薄く切られたもの。


 厚く輪切りにされたもの。


 香草と油に漬け込まれたもの。


 串に刺されたもの。


 どれも、先ほどまで海にいた巨大な魔物の一部だとは思えないほど、きちんと食材になっている。


「魔物なのですよね」


 リシアが確認すると、クラウディアが頷いた。


「はい」


「食べて大丈夫なのですか」


「毒性部位は除去済みです。可食部は高たんぱくで、栄養価も高い」


「栄養価」


「セラ様向きです」


 セラが、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


「褒めてはいません」


 ステファニアが言った。


 焼き台の上で、触腕の輪切りが音を立てる。


 じゅう、と油が跳ねた。


 香草の匂い。


 塩の匂い。


 海の風。


 そこに、少し甘いソースの香りが混ざる。


 リシアの腹が、正直に鳴りそうになった。


「これは」


 一口食べたステファニアが、目を少し見開いた。


「……美味しいですね」


「はい」


 セラはもう二口目を食べていた。


「美味しいです」


「早い」


「熱いうちがよいので」


「正論で押し切らないでください」


 アリシアは、串に刺したものを上品に食べながら微笑んでいた。


「学院へ着く前から、よい思い出ができましたわね」


「クラーケンに似た魔物と海竜が出たことを、よい思い出に含めるのですか」


 リシアが問うと、アリシアは首を傾げた。


「結果として、美味しい夕食になりましたもの」


「お姉様まで」


「そういえば、学院では呼び方も少し考えた方がよいかもしれませんわね」


 アリシアが、ふと思いついたように言った。


「呼び方、ですか」


「ええ。わたくしはシア。リシアはリア。ステファニアはティファ、などいかがかしら」


 リシアは、少しだけ考えた。


「お姉様。シアとリアは、似すぎています」


「そうかしら」


「たぶん、呼ばれた二人とも振り向きます」


「私は混乱しません」


 セラが、焼き立てを飲み込んでから言った。


「今、少し間がありました」


 ステファニアが即座に指摘する。


「確認していました」


「それを混乱と言うのではありませんか」


 アリシアは扇子で口元を隠し、楽しそうに目を細めた。


「では、これは保留にいたしましょう」


「保留ではなく、却下でお願いします」


 リシアが言うと、アリシアはますます楽しそうに笑った。


「リシアも食べてみなさいな」


 勧められて、リシアは焼き立てを一切れ取った。


 少しだけ警戒しながら口に運ぶ。


 噛む。


 弾力がある。


 けれど固くない。


 香草と塩がよく合っていて、噛むほど甘みが出る。


「……美味しい」


 思わず言ってしまった。


 セラが、なぜか満足そうに頷く。


「やはり、美味しいものでした」


「セラが見つけたように言わないでください」


「海竜様にお願いしました」


「そこは確かにそうですが」


 ステファニアは、もう諦めた顔をしていた。


 アインは、少し離れた場所で皿を持っていた。


 食べる量は多くない。


 けれど、リシアが見ていると、アリシアが自然に串を一本渡している。


 アインはそれを受け取り、何も言わずに食べた。


 そのやり取りが、妙に自然だった。


 千五百年。


 その言葉は重い。


 けれど、今の二人の間にあるのは、重さだけではない。


 焼けた食材を渡す。


 受け取る。


 食べる。


 それだけのことが、失われた時間の向こうから戻ってきたもののように見えた。


 リシアは、少しだけ目を伏せた。


 この船旅は、学院へ向かうための時間だ。


 けれど、それだけではないのかもしれない。


 戻ってきた人たちが、今の時間に慣れていくための時間。


 自分たちが、戻ってきた人たちを受け止めるための時間。


 そう思うと、海の上の夕食も、少しだけ大切なものに見えた。


 その時だった。


 リシアの背筋に、ぞわりとした感覚が走った。


 寒気ではない。


 恐怖でもない。


 もっと別のもの。


 見てはいけないものを、見落としているような感覚。


 妙な胸騒ぎ。


 リシアは、ゆっくり後ろを振り返った。


 後部甲板のさらに奥。


 普段は壁にしか見えない場所。


 そこに、細い継ぎ目があった。


「リシア様?」


 セラが気づく。


「少し、気になります」


 リシアは立ち上がった。


 ステファニアも、すぐに続く。


「どちらへ」


「後ろです」


 クラウディアが端末を見る。


 その表情が、わずかに止まった。


 ほんのわずか。


 けれど、リシアには分かった。


 今、クラウディアは何かを見つけた。


「クラウディア?」


「確認します」


 クラウディアが壁面へ手をかざす。


 後部の継ぎ目が、静かに開いた。


 中は、格納区画だった。


 昼間マキナが飛び出していった小区画より、少し大きい。


 そして、そこに二台。


 細い板のようなものと、馬乗りになって扱う機体を組み合わせたような、奇妙な乗り物が収まっていた。


 リシアには、名前が分からない。


 海の上を滑るためのものなのか。


 空を飛ぶためのものなのか。


 その両方なのか。


 とにかく、普通の船に積まれているものではないことだけは分かった。


 ステファニアが、静かに息を吸う。


「これは」


「エアバイクです」


 クラウディアが答えた。


 声が、いつもより平坦だった。


 平坦すぎた。


「なぜ二台あるのですか」


 ステファニアが問う。


「私も、今確認しています」


 クラウディアの端末に、文字列が流れる。


 アインが後ろから覗き込んだ。


 そして、額を押さえた。


「マキナだな」


「はい」


 クラウディアが短く答える。


「整備記録に、技術部主任権限で追加搭載とあります」


「理由は」


「船旅の娯楽と非常時離脱手段を兼ねる、と」


 沈黙。


 海の音だけが聞こえた。


 アリシアが、扇子で口元を隠す。


 また楽しんでいる。


「クラウディア」


 アインが言った。


「技術部を代表して、叱る件が増えた」


「承知しています」


 クラウディアは、静かに目を閉じた。


「ただし、先に安全ロックをかけます」


「それがいい」


 セラが、格納された二台をじっと見ていた。


 リシアは嫌な予感がした。


「セラ」


「はい」


「乗ってみたい、と思っていませんか」


「少しだけ」


「思っているのですね」


「はい」


 ステファニアが、深く息を吐いた。


「学院へ着く前に、問題が増えています」


「船旅とは、こういうものですの?」


 アリシアが、わざとらしく首を傾げる。


 アインは短く答えた。


「違う」


 その答えがあまりにも早かったので、リシアは少し笑ってしまった。


 海の上で、ロシナンテは静かに進んでいる。


 聖王国は、まだ遠い。


 けれど、三日分の海は、どうやら静かに過ぎてはくれないらしい。


 リシアは、格納区画の中で眠る二台のエアバイクを見た。


 そして思った。


 明日も、きっと何かが起きる。


 それはもう、ほとんど確信に近かった。


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