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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第二十九夜 三日分の海

第二十九夜 三日分の海


 船の中は、船の中ではなかった。


 少なくとも、リシアが知っている船とは違っていた。


 港から見たロシナンテは、細く、低く、黒い船だった。


 中央の船体に、左右の小さな船体が寄り添う三胴船。


 大型商船よりは小さく、貴族が遊覧に使う船よりは鋭い。そんな印象だった。


 けれど、船室へ入った瞬間、その印象は役に立たなくなった。


 廊下がある。


 ただの廊下ではない。


 左右に扉が並び、足元には柔らかな敷物が敷かれ、壁面には淡い光が走っている。窓らしきものもあるが、そこに映る海は実際の外ではなく、船外の情報を加工した映像なのだとクラウディアが説明した。


 個室もあった。


 食堂もあった。


 小さな談話室も、学習用の部屋も、治療用の区画もあった。


 外から見た船体のどこにそれだけの空間が収まっているのか、リシアには分からない。


 分からないことは増えた。


 この数日で、ずいぶん増えた。


「外観と内部容積が一致していません」


 ステファニアが、廊下の途中で足を止めて言った。


 声は落ち着いている。


 けれど、目は明らかに落ち着いていなかった。


「空間拡張です」


 クラウディアが答えた。


「ただし、港内では過剰な位相変動を出さないよう抑制しています。外から見る限りは、少し変わった高速船にしか見えません」


「少し」


 ステファニアが繰り返した。


「少し、ですか」


「はい」


 クラウディアは何も揺れない顔で頷いた。


 リシアは、黒い船体と、帆も櫂も煙突もない外観を思い出した。


 少し変わった。


 ベルカの基準では、そうなのだろう。


 きっと、そういうことにしておくのが一番平和なのだ。


「リシア様」


 セラが小声で言った。


「この船、厨房も広いです」


「そこですか」


「重要です」


 セラは真面目だった。


 実際、重要なのかもしれない。


 三日間、海の上にいる。


 しかも通常なら一ヶ月かかる距離を三日で進むのだ。


 食事がどうなるかは、たしかに重要だった。


「安心してください」


 リジェナが、廊下の先で振り返った。


 今日は案内役として先頭に立っている。


「船内食は医療区画の食事より少しだけ通常寄りです。出発前の健康診断結果に合わせて調整されています」


「通常寄り」


 セラの目が少し輝いた。


「肉はありますか」


「あります」


「温かいものは」


「あります」


「甘いものは」


「あります」


「よい船です」


 セラは即答した。


 リシアは思わず笑いそうになった。


 横を見ると、アリシアが扇子で口元を隠している。


 目が笑っていた。


 アインは、少し離れたところで壁面の表示を見ていた。


 そこには海図が映っている。


 ファーランド公国の沿岸。


 聖王国へ向かう海路。


 通常航路を示す薄い線と、ロシナンテが実際に取る予定の航路を示す濃い線。


 濃い線は、いくつかの港を大きく避け、沖合を真っ直ぐに抜けていた。


「本当に三日で着くのですか」


 リシアが問うと、アインは表示から目を離さずに答えた。


「天候が荒れなければ三日。荒れても、四日にはしない」


「荒れても、四日にはしない」


「船が耐える」


「人は」


「揺れは調整する」


 その返答に、リシアは少しだけ考えた。


 船が耐える。


 人は揺れを調整する。


 普通なら順番が逆ではないだろうか。


「心配しなくてよい」


 アインが、ようやくリシアを見た。


「この船は、見た目よりずっと頑丈だ」


「見た目も十分、不思議です」


「不思議で済むなら、まだいい」


 そう言って、アインは視線を戻した。


 リシアは少しだけ目を細めた。


 最近、分かってきたことがある。


 アインは安心させようとしている時ほど、言葉が足りない。


 大丈夫だ、と言う代わりに、必要な性能だけを並べる。


 心配するな、と言う代わりに、壊れない理由を示そうとする。


 その不器用さを、前なら怖いと思ったかもしれない。


 今は、少し違う。


 この人は、たぶん、守ると決めたものを言葉ではなく構造で守ろうとする。


 そう思うようになった。


     ◇


 ロシナンテは、港を出てしばらくの間、普通の船のように揺れていた。


 波に乗り、わずかに傾き、船体が水を切る音がする。


 リシアが知る船旅の感覚に近い。


 けれど、外海に出てから、その感覚は変わった。


 揺れが消えたわけではない。


 むしろ、ちょうどよい揺れだけが残った。


 身体が船に乗っていることを忘れない程度に、けれど不快にはならない程度に。


 窓に映る海は、港の近くよりもずっと広かった。


 青い。


 ただ、青い。


 公都ラーンの港から見た海とは、同じ海のはずなのに違って見えた。


 遠くに陸影はない。


 空と海の境だけが、細い線のように続いている。


「速い、のですよね」


 リシアは窓の前で呟いた。


 実感がない。


 風が顔に当たっているわけでもない。


 船体が軋んでいるわけでもない。


 ただ、表示の中の航路だけが異常な速度で進んでいる。


「速いです」


 リジェスカが答えた。


 彼女は談話室の壁面に表示された数値を確認している。


「ただし、今はかなり抑えています」


「抑えて、これですか」


「はい。港湾関係者や沿岸の監視に違和感を与えない範囲です」


 違和感。


 リシアは、その言葉を心の中で転がした。


 この船が違和感を与えない範囲。


 それは、どこまでが範囲なのだろう。


「聖王国側には、普通の高速船として入港します」


 クラウディアが補足した。


「西方大陸西岸の沿岸国家由来の船舶技術、という表向きの説明です。船体の細部は見られないよう手配します」


「見られたら困るのですか」


「説明が長くなります」


「それは困りますね」


 ステファニアが即座に言った。


 リシアは隣を見た。


 ステファニアは真顔だった。


 彼女は今、分かってきているのだ。


 ベルカの技術を説明しようとすると、話が長くなる。


 そして、その長さは普通の長さではない。


「船旅中の予定を確認します」


 クラウディアが、壁面表示を切り替えた。


 海図が消え、三日分の予定表が現れる。


 一日目。


 船内環境への慣熟。


 学院での立場と表向き設定の確認。


 聖王国の基礎法と学院規則。


 二日目。


 編入試験対策。


 アイン、アリシアの現代語彙補正。


 ステファニアの情報接続訓練。


 三日目。


 入港前確認。


 学院関係者への説明手順。


 緊急時の退避経路。


 リシアは予定表を見上げた。


「休む時間は」


「あります」


 クラウディアが答えた。


 表示の隅に、休憩と書かれた小さな枠があった。


 小さい。


 とても小さい。


「……ありますね」


「あります」


 クラウディアは譲らなかった。


 アリシアが扇子で口元を隠し、楽しそうに言う。


「クラウディア様。休憩というものは、枠が存在すればよいわけではありませんわ」


「必要量は確保しています」


「ベルカ基準ではなく、現代の学院生基準でお願いします」


 クラウディアは一瞬だけ黙った。


 そして、予定表の休憩枠が少し広がった。


 リシアは、心の中でアリシアに感謝した。


 ステファニアも、ほとんど同じ顔をしていた。


 セラだけは、食事の枠が広がらなかったことを少し残念そうに見ていた。


     ◇


 昼食の後、学習室が開かれた。


 学習室という名だが、そこも船内とは思えない部屋だった。


 壁の一面が淡い光の板になっていて、文字や図が自在に浮かび上がる。机は人数分あり、椅子は身体に合わせてわずかに形を変える。


 窓には海が映っていた。


 外の海ではなく、外の海を見やすく調整した映像だという。


 リシアは、もう驚くのを少し休むことにした。


「まず、聖王国の学院での立場を確認します」


 クラウディアが言った。


「リシア様、ステファニア様、セラ様は復学。アリシア様は長期療養から戻ったファーランド大公家長女として編入。殿下は西方大陸西岸の沿岸国家に連なる公子として、護衛兼随行者、必要に応じて編入試験を受ける立場です」


「必要に応じて、ですか」


 アインが言った。


「既に受ける予定にされている気がする」


「はい」


「必要に応じてとは」


「表向きの表現です」


 アインは黙った。


 アリシアが、ひどく満足そうに微笑んでいる。


「殿下も学院生ですわね」


「まだ決まっていない」


「ほぼ決まっておりますわ」


「俺は護衛でいい」


「護衛だけでは、動ける場所が限られます」


 クラウディアが淡々と刺した。


「学院内で自然に行動するには、学生身分が最も効率的です」


「効率」


 アインは小さく息を吐いた。


「分かった」


 リシアは、そのやり取りを聞いていて、不思議な気持ちになった。


 アインが学院生。


 アリシアが姉。


 ステファニアとセラが一緒に戻る。


 数日前なら、考えただけで頭が追いつかなかっただろう。


 今も、追いついているとは言えない。


 けれど、少しだけ、楽しみだと思っている自分がいる。


 それが不思議だった。


「次に、現代聖王国の基礎知識です」


 壁面に文字が並ぶ。


 聖王国の成り立ち。


 王家と大貴族。


 学院の設立経緯。


 メシア教との距離。


 周辺国との関係。


 ステファニアは、表示を見た瞬間に姿勢を正した。


 セラは少しだけ目を細めた。


 アリシアは静かに読み進めている。


 アインは、顔にほとんど出していないが、ところどころで眉がわずかに動いた。


「違うのですか」


 リシアは小声で問うた。


 アインは少し間を置いた。


「どこまでが違うのか、まだ判断できない」


「全部ではなく?」


「全部ではない。残っているものもある」


 アインは壁面を見たまま言う。


「ただ、残り方が歪んでいる」


 その声は静かだった。


 怒っているようにも聞こえない。


 けれど、リシアは、その静けさの奥にあるものを少しだけ感じた。


 千五百年。


 言葉ではもう何度も聞いた。


 けれど、こうして歴史として並べられると、その長さが違う重さで迫ってくる。


「今は直しませんわ」


 アリシアが言った。


 全員の視線が向く。


「学院で最初にすることは、正しい歴史を教えることではありません。まず、今の時代が何を正しいと信じているかを把握することです」


「アリシア様の仰る通りです」


 クラウディアが頷いた。


「反論は後です。まず、採点者の持つ正解を理解してください」


「正しくなくても?」


 リシアが問うと、アリシアは微笑んだ。


「正しくなくても、です。試験は真実を問う場とは限りませんもの」


 それは、いかにもアリシアらしい言い方だった。


 穏やかで、優雅で、少し怖い。


     ◇


 夕刻、ステファニアの情報接続訓練が行われた。


 場所は学習室の隣にある小さな区画だった。


 リシアも見学を許された。


 セラもいる。


 アインとアリシアも、少し離れた席で見ていた。


 クラウディアの手の上には、小さな光の球が浮かんでいる。


 鍵スフィアではない。


 訓練用に制限された、小さな窓口だという。


「前回の接続は、予定外でした」


 クラウディアが言った。


 言葉は平坦だったが、リシアには、ほんの少しだけ疲れが混じっているように聞こえた。


「今回は範囲を絞ります。用語辞書、学院規則、基礎地理。そこまでです」


「はい」


 ステファニアは真剣に頷いた。


「手を」


 ステファニアが両手を差し出す。


 クラウディアは光の球を、その上へ置いた。


 次の瞬間、ステファニアの周囲に淡い魔力の渦が生まれる。


 怖いものではない。


 けれど、ただの光でもない。


 薄い膜のようなものが、彼女の手元を包み、光の球に触れていく。


 ステファニアは目を閉じた。


 数秒。


 それだけだった。


 目を開ける。


「接続できました」


「取得できる情報を一つだけ読み上げてください」


「学院規則、入寮時持ち込み制限。刃渡り十五センチを超える刃物は申請制。ただし従者または護衛登録者の武装は別枠。魔導具は医療用、学習用、防護用に分類され、未登録品は検査対象」


 クラウディアが少しだけ黙った。


「範囲外の補足を読んでいます」


「え」


 ステファニアが瞬きをした。


「表示されていましたので」


「表示されていても、今回は読まなくてよい情報です」


「……申し訳ありません」


 ステファニアは素直に頭を下げた。


 けれど、顔はどこか嬉しそうだった。


 リシアには、少し分かる気がした。


 ステファニアは、ずっと何かを掴もうとしていた。


 見えないものを見ようとしていた。


 それが今、少しだけ形を持って目の前に出てきている。


 嬉しくないはずがない。


「リシア様の場合は、辞書を片手に歩いている状態です」


 クラウディアが唐突に言った。


「え」


 リシアは自分を指差した。


「わたくしですか」


「はい。必要な時に調べ、理解し、次へ進む。非常に安定しています」


「安定」


「ステファニア様は、常時視界に情報が重なっている状態に近い」


 クラウディアはステファニアを見る。


「便利ですが、負荷も高い。情報を得ることより、見ないことを覚える必要があります」


「見ないこと」


 ステファニアは、その言葉を噛みしめるように繰り返した。


「はい。知る能力より、選ぶ能力です」


 その場が静かになった。


 リシアは、ステファニアの横顔を見た。


 彼女は真剣だった。


 少し怖いほどに。


 セラが、ふと口を開く。


「つまり、ステファニア様は見えすぎるのですね」


「そうです」


「では、リシア様の方が迷子になりにくいです」


「セラ」


「辞書を持っている人は、必要な時に開きます。常に全部見えている人は、前が見えなくなるかもしれません」


 セラは淡々と言った。


 ステファニアが少し驚いた顔をする。


 それから、ゆっくり頷いた。


「……その通りですね」


 クラウディアも、わずかに目を細めた。


「良い理解です」


 セラは真顔で頷いた。


「ありがとうございます。ところで、夕食は」


「予定通りです」


「安心しました」


 やはりセラは、セラだった。


     ◇


 夜、リシアは甲板に出た。


 正確には、甲板のように見える場所だった。


 風はある。


 潮の匂いもする。


 けれど、それが本物の風なのか、調整された空気なのか、リシアにはもう分からない。


 分からなくても、気持ちはよかった。


 空には星が出ている。


 海は黒く、ロシナンテの船体と溶け合うように見えた。


 遠くに光はない。


 ただ、船の周囲だけが静かに進んでいる。


 甲板の先に、アインがいた。


 手すりに片手を置き、海を見ている。


「眠れないのか」


 こちらを見ずに、アインが言った。


「少しだけ」


 リシアは隣に立った。


「速いのに、静かですね」


「静かな方がいい」


「そうですね」


 リシアは海を見る。


 しばらく、何も言わなかった。


 沈黙が怖くないことに、少し驚いた。


「学院は」


 アインが言った。


「どんな場所だ」


 リシアは少し考えた。


「広いです。規則が多くて、建物も古くて、先生方はよく咳払いをします」


「咳払い」


「大事なところで、よく」


「そうか」


「でも、好きです」


 リシアは、そう言ってから自分でも少し驚いた。


 好き。


 口にしてみると、それは確かにそうだった。


「面倒なこともあります。派閥もありますし、貴族同士の見栄もありますし、ステファニアの婚約者のことも、たぶん避けられません」


 アインは黙って聞いている。


「でも、学ぶ場所です。わたくしたちが、自分で何かを選べる場所でもあります」


「選べる場所」


「はい」


 リシアは頷いた。


「だから、戻りたいのだと思います」


 アインは少しだけ目を伏せた。


「なら、戻ればいい」


「はい」


「戻って、選べ」


 短い言葉だった。


 けれど、リシアには十分だった。


 アインはいつも、選ぶことを軽く扱わない。


 選べと言う時、その裏には責任も危険もある。


 それでも、選べと言う。


 それが少し、嬉しかった。


 背後で扉が開いた。


 アリシアが出てくる。


 白い夜用の上着を羽織り、髪を軽くまとめていた。


「殿下。リシア様を夜更かしさせてはいけませんわ」


「俺のせいか」


「違いますの?」


「リシアが先にいた」


「では、二人ともですわ」


 アリシアは当然のように言った。


 リシアは少し笑った。


 アインは反論しかけて、やめた。


 その横顔が、やはり少しだけ近く見えた。


     ◇


 翌朝、ロシナンテはさらに沖合へ出ていた。


 海は穏やかだった。


 予定表の休憩枠は、アリシアの一言によって広がったまま維持されている。


 セラは朝食に満足し、ステファニアは情報接続訓練の復習をし、アインは現代聖王国史の模擬問題に無言で向き合っていた。


 その隣で、アリシアが同じ問題を解いている。


「殿下」


「なんだ」


「この問題、採点上の正解は三番ですわ」


「史実なら二番だ」


「はい。ですから三番です」


 アインは問題用紙を見た。


 しばらく黙る。


「試験とは面倒だな」


「真実ではなく、採点者の期待に答えるものですもの」


「教育としてどうなんだ」


「学院に入ってから考えましょう」


 アリシアは楽しそうだった。


 リシアはその光景を見ながら、少しだけ安心した。


 学院へ向かっている。


 ファーランドから離れている。


 けれど、ただ遠ざかっているわけではない。


 次の場所へ進んでいる。


 ロシナンテは、三日分の海を切り取るように進んでいく。


 その先に、聖王国がある。


 学院がある。


 そして、まだ誰も知らない問題が待っている。


 リシアは窓の外の海を見た。


 青い線が、どこまでも続いている。


 その先へ、自分たちは向かっていた。


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