第二十八夜 黒い船出
第二十八夜 黒い船出
健康診断の日から、出発までの時間は驚くほど短かった。
短かった、と思う。
けれど、その間に起きたことを一つずつ数え上げれば、短いと言ってよいのか分からなくなる。
アリシアは、正式にファーランド大公家長女として扱われることになった。
リシアの双子の姉。
長い療養から戻った、伏せられていた姉。
アインは、西方大陸西岸の沿岸国家に連なる公子として書類に置かれた。
ベルン商会は、公都ラーンに看板を掲げるための準備を始めた。
ステファニアは、鍵スフィアへ触れた後、何事もなかったような顔で日々の支度を進めている。
セラは、健康診断の結果に何の衝撃も受けず、食事量も変えなかった。
そしてリシアは、自分の荷物の中に、学院へ戻るための衣服と、アークライトから渡された端末と、まだ呼び慣れない姉の名を一緒に詰めることになった。
普通なら、どれか一つだけでも一ヶ月は悩める。
けれど、一ヶ月はない。
聖王国の学院までは、およそ二千キロ。
馬車と船を使えば、通常なら一ヶ月ほどかかる距離だ。
それを、ロシナンテなら三日で行ける。
アインは、そう言った。
リシアは最初、冗談だと思った。
アインが冗談を言う顔をしていなかったので、冗談ではないのだと分かった。
分かった後で、少しだけ頭が痛くなった。
出発の朝、公都ラーンの港には、まだ薄い朝靄が残っていた。
海から湿った風が吹いている。
帆柱が軋む音。
荷を運ぶ人々の声。
波が岸壁を叩く音。
港は、いつもの港だった。
ただ一つ、いつもと違うものがある。
黒い船だった。
それは、港の中でもっとも深い桟橋に静かに停泊していた。
大きすぎるわけではない。
少なくとも、港に並ぶ大型商船と比べれば、むしろ細く、低く、美しい。
中央の細い船体の左右に、さらに小さな船体が寄り添っている。
三つの船体で水面を掴む、三胴船。
トリマラン、とクラウディアは短く説明した。
けれど、その船は、明らかに普通ではなかった。
船体は黒い。
ただの黒ではない。
磨き上げられた黒曜石を、そのまま船にしたような黒だった。
リシアは、そんなことを考えた。
帆はない。
大きな櫂も見えない。
煙突もない。
けれど、船体の側面には細い光の線が走り、時折、呼吸のように淡く明滅している。
「あれが、ロシナンテですか」
ステファニアが、静かに言った。
声は落ち着いている。
けれど、視線は船体の継ぎ目や水面との接し方を細かく追っていた。
「馬には見えませんね」
セラが言った。
「船だからな」
アインが短く答える。
「ロシナンテとは、馬の名なのですか」
リシアが問うと、アインは少しだけ困った顔をした。
「昔の物語に出てくる馬の名前だ」
「強い馬なのですか」
「……強いかどうかは、難しい」
クラウディアが、視線をわずかにそらした。
アリシアが、楽しそうに目を細める。
「殿下らしい名ですわね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですわ」
「答えになってない」
リシアは、二人のやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
アインは、最近こういう顔をすることが増えた気がする。
困った顔。
言い返そうとして、うまく返せない顔。
それは、怖いほど遠い人ではなく、少しだけ近い人の顔だった。
桟橋の手前には、見送りの者たちが並んでいた。
ガリウス大公と大公妃。
ウィリアム侯爵とクラリッサ夫人。
カリウス子爵とその夫人。
護衛や侍従は控えめに配置され、港に集まった一般の人々からは、いつもの公女一行の出立に見えるよう工夫されている。
もちろん、いつも通りで済むはずがない。
リシアの隣には、リシアと同じ顔の姉が立っている。
そのさらに近くには、西方大陸西岸の公子ということになったアインがいる。
そして、黒い船がある。
目立たないようにするには、少し無理があるのではないか。
リシアはそう思った。
クラウディアは、何も言わなかった。
つまり、これでも目立たない方なのだろう。
「リシア」
大公妃が、近づいてきた。
「はい、お母様」
「無理をしないように」
「はい」
「大丈夫です、ではなく」
「無理をしないようにします」
リシアがそう答えると、大公妃は小さく頷いた。
それから、アリシアへ視線を向ける。
「アリシア」
「はい」
その呼び方は、もう自然だった。
少なくとも、そうしようとしてくれている声だった。
「あなたもです」
「承知しておりますわ」
「承知している方ほど、無理をなさいます」
アリシアは、少しだけ目を瞬いた。
それから、柔らかく微笑む。
「では、リシア様に叱っていただきます」
「お姉様」
思わず口から出た言葉に、リシア自身が少し驚いた。
アリシアも、ほんの一瞬だけ止まる。
けれど、すぐに微笑みを深くした。
「はい」
短い返事だった。
それだけなのに、リシアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
ガリウス大公は、アインの前へ進んだ。
公の場ではない。
けれど、港には人目がある。
大公は、必要以上に頭を下げなかった。
代わりに、深く、静かに言った。
「娘たちを、頼みます」
アインは、大公を見た。
いつものように、短く答えるのだろうとリシアは思った。
実際、言葉は短かった。
「預かる」
けれど、その後に、少しだけ間があった。
アインは、港の先に広がる海を一度見た。
それから、もう一度ガリウス大公を見る。
「無事に着ける」
ガリウス大公の表情が、わずかに動いた。
約束というには短い。
けれど、アインはできない約束をしない。
リシアは、もうそれを知っている。
だから、その短い言葉が、軽くないことも分かった。
ウィリアム侯爵は、ステファニアの前に立った。
「ステファニア」
「はい、父上」
「分からないことがあれば、聞きなさい。分かってしまったことも、抱え込むな」
ステファニアは、静かに目を伏せた。
「……承知しました」
「本当に承知したか」
「努力します」
「それでよい」
カリウス子爵は、セラを見た。
「食べ過ぎるな」
「努力します」
「お前もか」
「はい」
セラは真面目な顔だった。
真面目な顔だったので、リシアは笑いそうになった。
笑う前に、セラがこちらを見る。
「リシア様」
「はい」
「お守りします」
「お願いします」
いつものやり取り。
けれど、今日は少しだけ違って聞こえた。
リシアは、セラが傷ついた日のことを思い出す。
そして、今そのセラが、港に立っている。
生きている。
それだけで、十分すぎるほどだった。
出航の準備は、ほとんど音もなく進んでいた。
リジェナとリジェスカが、船体側面の確認を終える。
黒い船の周囲には、数名のハイランダーが普通の船員の格好で立っていた。
普通の船員に見える。
ただし、立ち方が普通ではない。
港の人々が気づくほどではないが、リシアには分かった。
彼女たちは、周囲の全てを見ている。
風も、人の流れも、視線も、足音も。
全てを。
「乗船してください」
クラウディアが告げた。
まずリシアたちが桟橋を渡る。
ロシナンテの甲板へ足を踏み入れた瞬間、足裏に伝わる感触が変わった。
木ではない。
石でも金属でもない。
硬いのに、わずかに柔らかい。
踏んだ衝撃を、船が受け止めて消しているようだった。
「揺れが少ないですね」
ステファニアが言う。
「港内では通常船舶の揺れに合わせています」
クラウディアが答えた。
「合わせている?」
「揺れなさすぎると不自然です」
リシアは、黙って甲板を見た。
揺れなさすぎると不自然。
そういう考え方もあるのだと、また一つ知ってしまった。
クラウディアが船室へ案内しようとした時だった。
船内へ続く扉が、内側から開いた。
「やあ」
そこにいたのは、見慣れない女性だった。
白衣のような上着を羽織り、腰には工具らしきものをいくつも下げている。表情は明るく、目だけが異様に鋭い。
「ボクはクラウディアの親友、マキナだよ。以後、よろしくね」
最後に、音符でも付きそうな調子で言った。
クラウディアが、わずかに沈黙した。
「……何故、貴女が」
「やだなあ。この船をよく知る人間が案内するのは当然じゃないか」
マキナは笑顔のまま胸を張った。
「技術部を代表して、ボクが案内するよ」
「代表を頼んだ覚えはありません」
「頼まれてから来る技術者は、二流だよ」
「帰ってください」
「ひどいなあ。親友に向かって」
リシアは、二人を見比べた。
クラウディアの表情はいつも通りに見える。
けれど、ほんの少しだけ空気が重い。
アインが片手で額を押さえた。
「マキナ」
「はい、殿下」
「問題を起こすな」
「起こさないよ。問題になる前に離脱するから」
「それは起こす側の言い方だ」
マキナは聞こえなかったように笑った。
アリシアが扇子で口元を隠す。
目が、完全に楽しんでいた。
船室へ案内されると、さらに驚いた。
外から見た船体より、中が広い。
広すぎるわけではない。
けれど、廊下の幅、天井の高さ、個室の配置、食堂の広さ。
すべてが、外見から想像するより余裕を持って作られていた。
「空間を少し折っています」
マキナが、当然のように言った。
「少し」
ステファニアが小さく繰り返す。
「はい。少しです」
クラウディアが、横から静かに言った。
「快適性のため、内部容積を少しだけ増やすよう依頼しました」
「そう。クラウがそう言うから、体育館ほど確保しておいたよ」
リシアは、聞き間違いかと思った。
体育館。
今、そう言った。
船の中に。
「マキナ」
クラウディアの声が低くなる。
「少し、の範囲を逸脱しています」
「大丈夫。居住区画としては快適性重視の安全設計だよ。アークライト技術部が責任を持ってやらかしたから」
「やらかしたと自覚しているなら、なお悪いです」
マキナは、にこにこしていた。
リシアは理解した。
マキナとアークライト技術部。
混ぜると危険なものなのだ。
「その少しの基準について、後ほど伺っても?」
「低階層情報からであれば」
ステファニアは、何かを言いかけて、やめた。
鍵スフィアに触れた後の彼女は、時折こういう顔をする。
見えているものを、今ここで言葉にするべきかどうか考えている顔。
リシアは、それが少し心配だった。
同時に、少し頼もしくもあった。
出航の合図は、鐘ではなかった。
笛でもない。
甲板の下で、低い音が一つだけ鳴った。
それは、音というより、船体が目を覚ました気配に近かった。
ロシナンテが動き出す。
岸壁が、ゆっくりと離れていく。
ガリウス大公たちが、桟橋で見送っている。
大公妃が、片手を胸の前で小さく振った。
リシアも、同じように手を振り返す。
アリシアも並んで手を振った。
同じ顔の二人が、同じように手を振る。
桟橋の向こうで、何人かの侍女が目を丸くしているのが見えた。
リシアは、少しだけ頬が熱くなった。
港を出るまでは、ロシナンテは普通の船のように進んだ。
帆も櫂もないのに、水を押して進んでいる。
それだけでも十分不思議だったが、港の人々には、どう見えているのだろう。
船体の下に隠された機構なのか。
魔法なのか。
遠方の技術なのか。
たぶん、そのどれかとして受け取られるのだろう。
この時代にも、魔法で水流を作り出して進む遅い舟はある。
だから、船首や船尾に横向きの水流を生む装置があり、自力で進む船だと言われれば、まったく理解できない話ではない。
理解できる範囲に、ぎりぎり収めている。
リシアには、そう見えた。
港の防波堤を越え、外海へ出る。
ラーンの港が、少しずつ遠ざかる。
城壁が見える。
高台が見える。
あの墓地も、今は朝の光の中に小さく沈んでいる。
ガルフの墓。
アインが「戻った」と告げた場所。
そこを離れていくのだと思うと、リシアの胸に小さな痛みが走った。
けれど、戻らないわけではない。
今度は、出て行くための出発ではない。
戻る場所を持ったまま、向かうのだ。
「リシア」
隣で、アリシアが静かに呼んだ。
「はい」
「また戻りますわ」
リシアは、アリシアを見た。
同じ顔。
けれど、少しだけ違う瞳。
「はい」
今度は、自然に答えられた。
港が十分に遠ざかったところで、クラウディアが端末を操作した。
船室の壁が、静かに色を変える。
黒い壁が透明になったわけではない。
けれど、外の景色がそのまま映し出される。
海。
空。
遠ざかるファーランド。
そして、その上方に、薄く線が重なった。
最初は雲かと思った。
違った。
あまりにも大きすぎる輪郭。
海と空の境目を越えた、遠い場所。
そこに、淡い光で巨大な船影が示されていた。
「アークライト」
リシアは、思わず呟いた。
実物が見えているわけではないのだろう。
だが、ロシナンテの表示は、その位置と形を重ねて見せている。
七十キロメートル級の船。
内部に大きな国をいくつも閉じ込めた、失われたベルカの船。
今までリシアは、その中にいた。
医療区画で目覚め、草原の病室で食事をし、ダンジョンの街を歩き、星の間へ向かい、アリシアと出会った。
けれど、外から見るアークライトは、まるで別のものだった。
大きい。
その言葉では足りない。
空にあるというだけで、常識が揺らぐ。
その輪郭が、地上の空に重ねられているだけで、自分たちがどれほど大きなものの中にいたのか、改めて分かってしまう。
その時、船体が低く鳴った。
先ほどまでと音が違う。
水を押す音ではない。
水面から、船が少しだけ離れるような感覚があった。
「沖に出たね」
マキナが、どこか弾んだ声で言った。
「それじゃ、軽く性能を見ようか」
「マキナ」
クラウディアが制止する。
「予定航行速度を超えないでください」
「もちろん。予定の範囲内で、全力だよ」
「その二つは両立しません」
「技術部では両立するんだ」
アインが、深く息を吐いた。
次の瞬間、ロシナンテが走った。
帆はない。
それでも、全力帆走という言葉が似合う速度だった。
黒い三胴船が水面を滑り、左右の船体が波を切り、船首から白い筋が伸びていく。
リシアの身体には、ほとんど衝撃が来ない。
けれど、壁面表示の海面だけが、異様な速度で後ろへ流れていた。
「いいね」
マキナは満足そうに頷いた。
「重心制御も悪くない。空間折り畳みの位相ずれも許容範囲。船体剛性はまだ余裕がある。うん、やっぱりトリマランにして正解だった」
「危険域に近づいています」
クラウディアが告げた。
「まだ警告域だよ」
「危険域に近づいています」
「分かった分かった」
マキナは両手を上げた。
「それじゃ、ボクはこれで」
「どこへ」
「技術部に戻る。記録を解析したいからね」
マキナが壁面の一部へ手をかざすと、船尾側の小区画が開いた。
そこには、細い小舟とも、馬乗りになって扱う何かともつかない機体が格納されていた。
彼女は軽い足取りでそれに跨がる。
「皆、よい船旅を」
「待ちなさい。何でエアバイクを持って来ているんです!」
クラウディアの声が、珍しく鋭くなった。
次の瞬間、機体が海面へ滑り出した。
水上を白い線を引いて走る。
そして、まるで水面そのものを蹴ったように、ふわりと持ち上がった。
飛んだ。
馬のように跨がっていたはずのそれは、空へ向けて角度を上げ、アークライトの方角へ一直線に消えていく。
リシアは、言葉を失った。
セラも珍しく食べ物以外のことで目を丸くしている。
ステファニアは額に指を当てていた。
「今のは」
「見なかったことにしてください」
クラウディアが言った。
「無理があります」
ステファニアが即座に返した。
アインは、まだ額を押さえていた。
「技術部を代表して、あとで叱っておく」
「代表が本人では」
「だから問題なんだ」
「……船、なのですよね」
ステファニアが言った。
「はい」
クラウディアが答える。
「船です」
「大きな国を、いくつも閉じ込めているようなもの、と申し上げましたが」
「概ね正確です」
「正確でしたか」
ステファニアは、小さく息を吐いた。
セラは、表示された船影を見上げている。
「あの中に、街がある」
「はい」
「食堂も」
「あります」
「では、戻る場所でもありますね」
セラは、あっさりと言った。
リシアは、その言葉に少し救われた。
そうだ。
あれは、巨大な船で、失われた国の亡霊で、信じがたい技術の塊だ。
けれど同時に、戻る場所でもある。
草原の病室があり、昼食の店があり、健康診断で魂を抜かれる場所があり、誰かが待っている場所。
恐ろしいだけではない。
遠いだけでもない。
「出力を上げます」
クラウディアが告げた。
船体の低い音が、わずかに変わる。
海面の白い線が、後方へ伸びた。
風が変わる。
けれど、揺れはほとんどない。
ロシナンテは、海の上を滑るように進み始めた。
ファーランドの海岸線が、ゆっくりと遠ざかる。
いや、ゆっくりではない。
速い。
速すぎる。
それでも船内は静かだった。
「三日」
リシアは、小さく言った。
「はい」
クラウディアが答える。
「通常約一ヶ月の距離を、三日で到着します」
「学院へ」
「はい」
学院。
リシアが本来戻るはずだった場所。
ステファニアの婚約者がいる場所。
メシア正教国の影がある場所。
アリシアが一手を必要だと言った場所。
ステファニアが、鍵を持ったまま向かう場所。
アインが護衛として同行する場所。
考えるほど、胸の奥が重くなる。
けれど、不思議と怖いだけではなかった。
ロシナンテは、黒い船体で海を切って進んでいる。
戻る場所を背にして、知らない場所へ向かっている。
その船の中には、リシアだけではない。
ステファニアがいる。
セラがいる。
アリシアがいる。
アインがいる。
クラウディアがいる。
メイが、船室の隅で窓の表示を見ながら、小さく何度も頷いている。
これだけ揃っていて、何も起きないはずがない。
リシアは、そう思った。
そして、少しだけ笑ってしまった。
「どうされました」
ステファニアが問う。
「いいえ」
リシアは首を振る。
「少しだけ、開き直りました」
ステファニアは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「それは、よいことです」
「本当に?」
「たぶん」
その答えに、リシアはまた少し笑った。
ロシナンテは、速度を上げる。
黒い船体が、朝の海に細い光の筋を残していく。
ファーランドは遠ざかり、聖王国はまだ見えない。
けれど、道はもう開いていた。
海の上に。
空の下に。
そして、戻ってきた者たちと、これから選ぶ者たちの前に。




