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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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幕間四 健康診断の日

幕間四 健康診断の日


 今日は、健康診断という日なのだそうだ。


 学院へ向かう前に、できる確認は済ませておく。


 そう決めたのは、アリシアだった。


 リシアたち三人だけではない。


 アリシアも、メイも、アインも、アークライト側で地上へ長く出る予定の者は、学院へ向かう前に医療区画で一通りの検査を受けることになった。


 さらに、ファーランド側にも話は広がっている。


 アインが「受けておいた方がいい」と短く言ったせいで、ガリウス大公を始めとする重鎮たちにも、順番に健康診断を受けてもらう予定が組まれたらしい。


 最初は大公もウィリアム侯爵も、やや困った顔をしていた。


 けれど、大公妃が「では、あなたから」と言った瞬間、話は決まった。


 国を動かす人々の健康状態を把握しておくことは、政治でもある。


 クラウディアはそう説明した。


 説明としては正しい。


 ただ、アインがそれを聞いて「倒れられると面倒だ」と付け加えたせいで、何とも言えない空気になった。


 けれど最近、リシアにも少し分かってきた。


 アインがそういう言い方をする時は、だいたい誰かの身を案じている。


 それを優しさとして差し出すのが、少し下手なだけなのだ。


 身長、体重、腹囲。


 血液、骨格、内臓の状態。


 魔力循環から、本人が気づいていない疲労の蓄積まで、アークライトの医療区画では身体の中を隅々まで調べることができる。


 そう説明された時、リシアは素直に感心した。


 感心した。


 したのだけれど。


「セラ。普段あれだけ召し上がっているのに、どうして前回と体重が変わっていないのですか」


 端末に表示された数値を見て、リシアは思わず声を低くした。


「……狡いではありませんか」


「そうです、セラ」


 隣では、ステファニアが静かに膝をついていた。


 侯爵令嬢としての矜持が最後の一線を支えているのか、両手までは床についていない。


 けれど、気持ちとしてはほとんど床に伏しているようなものだった。


「あの可愛らしい身なりをして、フォレスト・スクワラルのように両頬へ食べ物を溜め込んでいるというのに……なぜ」


「フォレスト・スクワラルとは何ですか」


 セラが、包み料理を手にしたまま首を傾げた。


 両頬は、見事に膨らんでいる。


 もきゅ、もきゅ、と音がしそうな食べ方だった。


「公都の西の森にもいる、リスに似た小動物です。一見すると可愛らしいのですが、雑食性で、時々人も襲います」


「そのうえ、すばしこいのです」


 ステファニアが、魂の抜けた声のまま付け加えた。


「なるほど」


 セラはよく分かっていない顔で頷き、それからもう一口食べた。


「そうは言っても、ここで食べられる食事は美味しいですからね」


「それで変わらないから申し上げているのです」


 リシアは端末を見た。


 数値は無慈悲だった。


 セラの体重は、前回測定値とほぼ同じ。


 誤差。


 誤差と表示されていた。


 何という言葉だろう。


 誤差。


 世の中には、もう少し人の心に寄り添った言葉があってもよいはずだった。


「自己修復反応が、代謝制御にも強く関与しているようです」


 少し離れた場所で、メディナが記録を確認しながら言った。


「過剰に蓄積する前に、損耗部位の補修や循環安定へ回されているのでしょう。健康上は、非常に良好です」


「非常に良好」


 ステファニアが、同じ言葉を小さく繰り返した。


 声に、魂がなかった。


 一方、そのさらに奥では、アイン、クラウディア、メディナの三人が別の資料を囲んでいた。


 話題は、ステファニアとセラの系譜だった。


「レーヴェンハイト侯爵家は、エルディア様を起点とする系譜として説明できます」


 メディナが言った。


「ですが、セラ様の反応も含めると、ファーランド系譜側の因子が思ったより濃い。分家筋というだけでは、少し説明が足りません」


「エルディア姉さんの婚姻先の記録が曖昧なんだよな」


 アインが眉を寄せた。


「魔獣の大侵攻で受け入れ先が消えた後、ファーランド領へ入った。そこまでは分かる」


「問題は、その後ですね」


 クラウディアが淡々と続けた。


「どの段階で旧ファーランド系譜が重なったのか。記録だけでは確定できません」


 その時だった。


 ローソファーでお茶を飲んでいたアリシアが、背もたれ越しにこちらを振り返った。


 そのすぐ横では、ニアが静かに給仕をしている。


「あら。簡単な話でしてよ」


 三人の視線が、同時に向いた。


 アリシアは、何でもないことのように微笑んでいた。


「末のお兄様が、アインのディアお姉様と結婚なさったのですもの。お子様も三人お生まれになりましたわ」


 沈黙。


 リシアは端末を握ったまま固まった。


 ステファニアも、床に膝をついた姿勢のまま動かない。


 セラだけが、包み料理を口に運びかけたところで止まっていた。


 アインが、ゆっくりと瞬きをした。


「……誰が?」


「末のお兄様ですわ」


「アリシアの?」


「ええ。出奔して行方不明扱いでしたけれど、わたくしには報告してくださいましたのよ。ディアお姉様と一緒になります、と」


 沈黙が、もう一度落ちた。


 今度の沈黙は、少し重かった。


 クラウディアが目を閉じ、深く息を吐く。


「……アリシア様」


「はい」


「それは、もう少し早く仰ってください」


「目覚めたばかりでしたもの」


 アリシアは悪びれなかった。


「それに、皆様が真剣に調べていらしたので」


「止めてくれ」


 アインが片手で額を押さえた。


「そういう時は止めてくれ。俺たちは多分、ものすごく遠回りをしていた」


「まあ」


 アリシアは、楽しそうに目を細めた。


「では、次からはそういたしますわ」


「次がある前提で話さないでください」


 クラウディアの声は、いつも通り平坦だった。


 けれど、その平坦さの底に、わずかな疲労が混じっていた。


 メディナだけは、すでに端末へ猛烈な速度で記録を打ち込んでいる。


「エルディア様とルシアン・ファーランド様の婚姻。子は三名。旧ファーランド系譜との接続点確定。なるほど、これなら説明がつきます」


「ついてしまいましたね」


 クラウディアが言った。


「ええ。ついてしまいました」


 メディナの声は、どこか満足げだった。


 その満足げな声は、少し離れた検査待機区画にも届いていた。


 そこでは、ガリウス大公と大公妃、ウィリアム侯爵、カリウス子爵が、順番を待つ形で控えている。


 全員の腕には、簡易測定用の細い帯が巻かれていた。


 健康診断を受ける側である。


 そして今、健康診断を受ける前から、精神的な負荷だけが先に測定されていた。


「……今、初代大公家の直系に近い話をしておられたか」


 ガリウス大公が、ゆっくりと顔を上げた。


 大公妃が、リシアとアリシアを見比べる。


「あなた。今は健康診断です」


「そうだな。だが、健康診断で聞く話ではない」


 その時、検査端末が小さく音を立てた。


 クラウディアが、そちらへ視線を向ける。


「大公閣下。心拍数と血圧が上昇しています」


「上がる話を聞かされているからだ」


「負荷反応としては、非常に分かりやすいです」


「分かりやすくなくてよい」


 メディナが、さらに端末へ記録を追加した。


「精神的刺激に対する循環反応、記録します」


「記録しないでいただきたい」


 ウィリアム侯爵は、ステファニアを見た。


 カリウス子爵は、セラを見た。


 どちらも、今まで知っていた血筋が、突然もう一段深いところで繋がった顔をしていた。


「……ステファニア」


「はい、父上」


「お前は、今の話を理解したか」


「理解はしました。受け止めるには、少し時間をいただきたいです」


 カリウス子爵が低く言う。


「セラ」


「はい」


「お前は」


「リシア様をお守りします」


「……そう答えると思った」


 ガリウス大公が、深く息を吐いた。


「健康診断とは、血圧を測るものではなかったのか」


「血統も測定対象に含まれます」


 クラウディアが淡々と答えた。


「含めないでいただきたい」


 大公妃が、静かに椅子を指した。


「あなた。お座りなさい」


「……私は、まだ」


「お座りなさい」


「はい」


 ガリウス大公は、静かに椅子へ沈んだ。


 少し離れた場所で、ステファニアが、錆びた機械が軋んで動くかのように顔を上げた。


「……今、何か、とても重要なことが聞こえた気がするのですが」


 セラは包み料理を持ったまま、口の動きを止めている。


「つまり、わたくしとステファニア様は……」


 リシアは端末を握りしめたまま、二人を見た。


「ええ。たぶん、思っていたより近いところで、繋がっていたようです」


「そうですか」


 セラは少し考えた。


 それから、残りの包み料理を口へ運んだ。


「では、今まで通りですね」


「今まで通りとは」


「リシア様をお守りします」


 セラは当然のように言った。


 その頬は、また丸く膨らんでいる。


 ステファニアが、とうとう片手を床についた。


「……どうして、そこで食べ続けられるのですか」


「美味しいので」


 ステファニアのもう片方の手が、とうとう床についた。


「……ああ……」


 今日も、アークライト医療区画は平和だった。


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