第二十七夜 窓口と鍵
第二十七夜 窓口と鍵
ベルン商会。
その名が決まった後も、話はすぐには終わらなかった。
むしろ、そこからが本題なのだと、リシアには分かった。
名前を置くことと、実際に動かすことは違う。
アリシアを姉として迎えることも、アインを西方大陸西岸の公子として扱うことも、ベルン商会という窓口を公都ラーンに置くことも、言葉にすれば一息で終わる。
けれど、その言葉の後ろには、書類があり、人があり、物資があり、噂があり、疑いがある。
国を動かすとは、そういうものなのだ。
リシアは、そのことを知識としては知っていた。
けれど、目の前で動き出すそれは、書物の中の政治より、ずっと静かで、ずっと重かった。
中広間の卓上には、クラウディアが投影した資料がいくつも浮かんでいる。
商会の紋章案。
扱う品目。
初期人員。
公都ラーンに置く予定の店舗と倉庫。
医療品、保存食、工具、衣服、航海用品、教育用具。
それぞれの横には、流通量、価格帯、公開時期、取引相手の候補が細かく記されていた。
リシアは、その量を見ただけで少し眩暈がした。
「最初からすべてを出すわけにはいきません」
クラウディアが言った。
声はいつも通り、淡々としている。
「医療品と保存食、工具を中心にします。衣服と教育用具は後回しです。航海用品は、港湾関係者との接触が増えるため、さらに段階を分けます」
「便利すぎる物は、国内の商人を潰す」
ガリウス大公が、資料を見ながら言った。
「はい」
「価格を下げすぎれば、民は喜ぶ。だが既存の商会が潰れれば、国の流通そのものが壊れる」
「そのため、価格破壊はしません。最初は卸元、技術支援、医療支援の形で入ります。表に出る店舗は小さく。倉庫と工房を先に整えます」
「利益はどこへ流す」
「表向きは商会収益として処理します。実際には、ファーランド側の復興支援、情報網維持、アークライト側物資調整の三系統に分けます。帳簿は二重ではなく、用途別です」
ウィリアム侯爵が眉を寄せた。
「二重帳簿ではないのですか」
「はい。二重帳簿は露見した時に説明が面倒です。最初から用途を分けた方が、後の手間が少ないので」
「……それは正直なのか、悪質なのか、判断に困りますな」
「合理的です」
クラウディアは、少しも揺れなかった。
カリウス子爵が低く笑う。
「侯爵。慣れろ」
「だから、無理を言うな」
つい先ほども聞いたやり取りだった。
けれど、今日は少しだけ空気が違う。
墓前の沈黙を越え、アリシアの名が置かれ、ベルン商会の看板が置かれようとしている。
大きすぎるものが、ようやく手の届く場所の形に変わり始めていた。
「商会長はどうする」
ガリウス大公が問う。
「地上側の人間に見える者を置きます」
クラウディアが答える。
「実務はアークライト側が支えますが、表に立つ者は、遠方出身の商人として扱える者にします。ハイランダーや調整体をそのまま出すと、違和感が強すぎます」
「違和感で済むのか」
アインが短く言った。
全員の視線が、自然と彼へ向く。
アインは卓上の資料を見ていた。
表情は変わらない。
けれど、さきほどまでより少しだけ、声が低かった。
「ファーランドの商人を潰すな。ガルフが残した国を、俺たちの都合で歪めるな」
その言葉に、場が静かになった。
命令ではなかった。
怒りでもなかった。
けれど、そこには明確な線が引かれていた。
クラウディアが、わずかに目を伏せる。
「承知しています」
「ならいい」
短い。
それだけだった。
けれど、リシアはその短い言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
アインは、まだ遠い。
神話でも、魔王でも、亡霊でもなくなったわけではない。
それでも、今の言葉は、墓前で「戻った」と告げた人の続きにあるものだった。
戻ってきた人が、残された国を見ている。
そう思えた。
「では、商会の表向きの説明はこれで進めましょう」
クラウディアが資料を切り替える。
次に浮かんだのは、学院編入に関する整理だった。
聖王国の学院。
リシア、ステファニア、セラ。
そこへ加わる、ファーランド大公家長女アリシア。
そして、西方大陸西岸の沿岸国家に連なる公子としてのアイン。
リシアは、自分の名前の隣にアリシアの名が並ぶのを見た。
同じファーランド。
双子の姉妹。
そう書かれている。
目で見ると、改めて不思議だった。
「アリシア様の療養記録、教育記録、面会制限の理由、医師の名は整えます」
クラウディアが続ける。
「アイン殿下については、西方大陸西岸の沿岸国家に連なる公子。ベルン商会を通じて、アリシア様の療養に必要な希少薬と治療技術を届けた人物。療養中の交流を経て、内々に婚約が整った相手。ただし学院では、まず護衛兼随行者として扱います」
「手紙も必要ですわね」
アリシアが、何でもないことのように言った。
全員が、彼女を見る。
「療養中、遠方の公子と交流があったのでしょう。であれば、いくつか文通の記録がなくては不自然です。筆跡なら残っておりますもの。季節の挨拶、薬への礼、体調の報告、少しだけ個人的な言葉。あまり甘すぎると嘘に見えますから、最初は礼に留め、後半で少し柔らかくすればよろしいかと」
クラウディアが、わずかに沈黙した。
「……用意できます」
「ええ。お願いできますか」
「既に構成案を作っている顔ですね」
「必要になると思いましたもの」
アリシアは、にこりと微笑んだ。
アインが片手で額を押さえる。
「お前、本当に目覚めたばかりか」
「千五百年眠っておりましたわ」
「答えになってない」
「では、休養十分ということで」
「そういう話でもない」
大公妃が口元を押さえ、メイが少し誇らしげにしている。
リシアは、また妙に疲れた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
今までなら、こんな偽装の話を聞けば、もっと強く警戒していたはずだ。
今も、警戒がないわけではない。
けれど、目の前の人たちは、ただ騙すために嘘を作っているのではなかった。
大きすぎる真実で国を壊さないために、今の世で受け止められる形を作っている。
その違いを、リシアは少しずつ理解し始めていた。
「学院での人間関係も確認しておくべきです」
クラウディアが、次の資料を開く。
学院の地図。
寮の配置。
王侯貴族の在籍一覧。
そして、婚約関係の一覧。
ステファニアの名の隣に、アレーナ王国第一王子ジークフリート・オーラム・アレーナの名が表示された。
リシアは、思わずステファニアを見た。
ステファニアは、表情を崩していない。
いつものように、背筋を伸ばし、静かに資料を見ている。
けれど、その横顔は、ほんの少しだけ硬かった。
「ステファニア様は、アレーナ王国第一王子の婚約者です」
クラウディアが言った。
事実を読み上げるだけの声だった。
「近年、王子側の態度に変化があります。学院内での接触頻度低下、同行行事の減少、周辺人物の入れ替わり。アレーナ王国第二王子カスパール周辺の動きも含めると、関係悪化の兆候と見てよいでしょう」
ウィリアム侯爵の表情が、苦く歪んだ。
「そこまで、調べがついているのですか」
「はい」
「……助かると言うべきなのでしょうな」
「判断材料です」
ステファニアは、静かに息を吸った。
「父上」
「ステファニア」
「私は、問題ありません」
ウィリアム侯爵が、娘を見る。
その目は、侯爵ではなく父親のものだった。
「問題がない者は、そういう顔をしない」
ステファニアの瞳が、一瞬だけ揺れた。
それでも、彼女は礼を崩さない。
「まだ、決まったことではありません」
「決まってからでは遅いこともある」
ウィリアム侯爵の声は低かった。
リシアは、胸の奥がざわつくのを感じた。
ジークフリート王子の名は、前から知っている。
ステファニアの婚約者。
アレーナ王国の第一王子。
けれど、今ここでその名が出ると、ただの婚約者の名ではなく見えた。
学院へ向かう道の先にある、もう一つの問題。
まだ起きていないが、すでに形を持ち始めている問題。
その時だった。
アリシアが、ほんの少しだけ目を細めた。
笑っている。
けれど、柔らかい笑みではなかった。
扇子を持っていれば、きっと音もなく閉じていた。
「一手、必要ですわね」
それだけだった。
誰も、すぐには返事をしなかった。
アリシアは、それ以上を語らない。
ただ、資料の中にあるステファニアの名と、ジークフリート王子の名を静かに見ていた。
クラウディアが、ゆっくりとアリシアを見る。
アインも、同じように彼女を見た。
二人は、今この場で何かが決まったことを察したようだった。
リシアには、まだ分からない。
分からないが、背筋だけが少し冷えた。
セラは、ステファニアの一歩後ろで、静かに姿勢を変えた。
剣はない。
けれど、目だけはもう敵を探すものになっていた。
「学院での情報接続についても、整理が必要です」
クラウディアが話を戻した。
戻した、のだと思う。
けれど、アリシアの一言は、部屋のどこかに残ったままだった。
「リシア様、ステファニア様、セラ様には、学院へ向かう前に端末操作、認証情報、情報閲覧制限について説明します。特にステファニア様は、理解が早すぎます。記録系統への接触は、段階を踏むべきです」
「私が、危険なのですか」
ステファニアが問う。
「危険というより、あなたが理解してしまうからです」
クラウディアは、第二十一夜と同じ言い方をした。
ステファニアは、小さく頷く。
「承知しました」
「まずは低階層情報からです。端末を介し、閲覧範囲を限定します。鍵スフィアへの直接接触は、今はまだ推奨しません」
アインが、資料から顔を上げた。
「渡すべきか」
クラウディアは、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、簡単な問いではないのだと分かる。
「判断を急ぐ必要はありません」
「だが、学院へ行けば外部の記録に触れる。聖王国の封印系統や、古いベルカ由来の禁書が残っている可能性もある」
「あります」
「なら、見えないまま触るより、見えるようにしておく方がいい」
「理屈としては」
クラウディアは、少しだけ目を伏せた。
「ただし、鍵スフィアは入口です。扉ではありません。ステファニア様の場合、入口を見ただけで道筋を辿る可能性があります」
「だから相談している」
「はい」
二人の会話は短い。
けれど、その短さの中に、重いものがあった。
リシアは、ステファニアの手を見た。
白く整った指。
いつもなら、礼法の中で美しく置かれている手。
その手が、何か危険なものに触れるかもしれない。
そう思うと、胸が落ち着かなかった。
「では」
アリシアが、穏やかに言った。
全員の視線が、彼女へ向く。
その手には、いつの間にか、小さなスフィアがあった。
星の間で見た、鍵。
透明で、内側に微かな光を含む球体。
クラウディアの表情が、ほんのわずかに固まった。
「アリシア様」
「ステファニア様」
アリシアは、クラウディアではなく、ステファニアを見た。
「両手を、上へ向けて開いてくださいませ」
ステファニアは、瞬きをした。
それから、アインとクラウディアを見る。
アインは止めなかった。
クラウディアは、止めようとしたのかもしれない。
けれど、その前にアリシアが微笑んだ。
「ええ。そのまま。これを包むように受け取って」
ぽん、と。
あまりにも軽い音で、鍵スフィアがステファニアの掌に置かれた。
次の瞬間、空気が変わった。
魔力が、渦を巻く。
リシアには、最初、何が起きたのか分からなかった。
けれど、感じる。
ステファニアの周囲に、見えない糸のようなものが生まれた。
外へ広がるのではない。
内側へ折り返すのでもない。
彼女自身を守るように、幾重にも回りながら、掌の上のスフィアへ触れていく。
拒絶ではなかった。
暴走でもなかった。
知らないものを、そのまま受け入れるのではなく、傷つかないように自分の形で包み込む反応。
そう見えた。
「保護反応」
メディナがいれば、そう言ったかもしれない。
リシアは、なぜかそう思った。
鍵スフィアの内側に、細い光が走る。
ステファニアの瞳が、静かに開いたまま止まった。
彼女は、どこかを見ている。
けれど、この部屋を見ているのではない。
もっと奥。
もっと遠く。
星の間の奥にあった、知らない記録の海。
SEAK。
その名を、リシアはまだ完全には理解していない。
けれど今、ステファニアがそこへ触れているのだと分かった。
「……アリシア様」
クラウディアの声は、低かった。
静かだ。
けれど、これまで聞いた中で一番、低かった。
「はい」
アリシアは、にこにことしている。
「段階的に、と申し上げました」
「ええ。ですから、一段階だけですわ」
「今のは一段階ではありません」
「壊れるようなら渡しませんもの」
「そういう問題ではありません」
クラウディアが、片手で額を押さえた。
リシアは、初めて見るものを見た気がした。
クラウディアが、頭を抱えている。
比喩ではなく、本当に。
ガリウス大公と大公妃は、動くべきか止まるべきか分からない顔をしていた。
ウィリアム侯爵は、娘の名を呼びかけて、声を飲み込む。
カリウス子爵は、セラを見た。
セラは、ステファニアの呼吸と姿勢を見ていた。
「呼吸は乱れていません」
セラが言った。
「膝も、肩も、崩れていません。危険なら、私が止めます」
短い言葉だった。
けれど、その言葉で、リシアは少しだけ息ができた。
アインは、ステファニアを見ている。
止める気配はない。
ただ、何かあれば斬る。
そういう静けさだった。
どれほど時間が経ったのか、リシアには分からなかった。
ほんの数秒だったのかもしれない。
もっと長かったのかもしれない。
やがて、ステファニアの周囲の魔力が、すう、とほどけた。
渦が消える。
鍵スフィアの光も静まる。
ステファニアは、まばたきを一つした。
それから、何事もなかったように、アリシアへ両手を差し出す。
「ありがとうございました」
声は、いつものステファニアだった。
礼法通りに整った、静かな声。
アリシアは、鍵スフィアを受け取った。
「どういたしまして」
「ステファニア」
ウィリアム侯爵が、ようやく声を出した。
「はい、父上」
「何を、見た」
ステファニアは、少しだけ考えた。
その顔は、平静だった。
むしろ、どこか晴れやかですらあった。
「言葉にするには、少し整理が必要です」
「危険は」
「ありませんでした」
即答だった。
クラウディアが、さらに深く額を押さえる。
「危険がないと判断する段階ではありません」
「では、危険だと判断する材料も、今のところありません」
ステファニアは、静かに返した。
リシアは、思わずステファニアを見つめた。
いつものステファニアだ。
けれど、少し違う。
何かを得た顔ではない。
何かを開いた顔だった。
「クラウディア様」
ステファニアが言う。
「はい」
「先ほどの説明制限は、理解できます。確かに、あれを無造作に読むのは危険です」
「それを理解された時点で、こちらの予定は数段崩れました」
「申し訳ありません」
「謝罪先は、私ではなく段階管理です」
「では、段階管理に」
「しなくて結構です」
アリシアが、楽しそうに目を細めた。
アインが、低く息を吐く。
「お前、わざとだろ」
「もちろんですわ」
迷いのない返事だった。
クラウディアが、今度こそ完全に沈黙する。
メイが小さく「あわわ」と言いかけて、アリシアに視線だけで止められた。
リシアは、両手を握った。
ベルン商会という窓口が開いた。
アリシアという姉の名が置かれた。
アインという護衛の表向きも整えられた。
そして今、ステファニアの掌に、鍵が置かれた。
まだ何も終わっていない。
むしろ、何かが始まってしまったのだと思う。
クラウディアは、しばらく沈黙した後、端末を閉じた。
その音は小さかった。
けれど、部屋の中に妙にはっきり響いた。
「では」
クラウディアは言った。
「ベルン商会を開きます。学院編入準備、身分記録、護衛配置、ステファニア様の情報接続訓練は、すべて予定を組み直します」
「ご苦労をおかけしますわ」
アリシアが優雅に言う。
「原因の一部が仰る台詞ではありません」
「一部ですのね」
「大部分です」
アリシアは、満足そうに微笑んだ。
ガリウス大公が、深く息を吐く。
「どうやら、我々の一日はまだ終わらないらしい」
「はい」
クラウディアは、迷いなく頷いた。
「ですが、必要な窓口は開きました」
リシアは、その言葉を聞いて、窓の外を見た。
公都ラーンの空は、午後の光に変わり始めている。
墓前の朝の光とは違う。
城へ戻った時の現実の光とも、また少し違う。
動き出したものを照らす光だった。
表の窓口。
掌の鍵。
そして、アリシアが黙って胸にしまった一手。
そのすべてが、まだ見ぬ学院への道に、静かに並び始めていた。




