第二十六夜 伏せられた姉
第二十六夜 伏せられた姉
墓地から城へ戻った時、空の色は少しだけ明るさを増していた。
同じ朝の光のはずなのに、高台で見たものとは違って見える。
慰霊碑の前では、風も光も、どこか遠いもののようだった。
けれど城の中へ戻ると、石の床を踏む足音があり、控えていた侍女たちの衣擦れがあり、遠くで扉の開閉する音がある。
人が暮らしている場所の音だった。
リシアは、その音に少しだけ救われた気がした。
長い眠りは終わった。
戻ってきた祈りはある。
けれど、戻ってきた者たちには、次の席を用意しなければならない。
それが、今のファーランドで生きるということなのだと思う。
通されたのは、大広間ではなかった。
王侯を招くための謁見の間でもない。
城の奥にある、身内の会食に使われる中広間だった。
壁には古い織物が掛けられ、窓辺には季節の花が控えめに飾られている。
長卓ではなく、いくつかの小卓が置かれ、軽い食事と茶が用意されていた。
立食の形だった。
豪奢ではある。
けれど、誇示ではない。
外へ見せるための宴ではなく、集まった者たちが互いの顔を確かめるための場だった。
そこにいたのは、限られた者だけだ。
ガリウス大公と大公妃。
ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵と、カリウス・グレイヴェル子爵。
リシア、ステファニア、セラ。
アイン、アリシア、メイ。
クラウディア。
それから、控える者たちも、ごく少数に絞られていた。
誰も、最初の言葉をすぐには出さなかった。
墓前での沈黙が、まだそれぞれの喉に残っていたのだと思う。
最初に動いたのは、大公妃だった。
彼女はリシアの前へ歩み寄ると、両手を伸ばした。
「リシア」
「お母様」
抱きしめられた瞬間、リシアは自分がまだ少し震えていたことに気づいた。
大公妃の腕は強かった。
公女としてではなく、ただ娘として抱きしめられている。
そのことが、胸の奥に遅れて届く。
「無理はしていませんね」
「はい。……無理をしないようにしています」
「よろしい」
以前なら、大丈夫です、と答えていたと思う。
けれど、それでは信用されないことを、もう知っている。
大公妃は小さく頷き、リシアの頬に触れた。
その指先が離れる時、視線がアリシアへ向いた。
大公妃の表情が、わずかに揺れる。
リシアと同じ顔。
けれど、同じではない少女。
アリシアは、その視線を受けて、静かに一礼した。
「お初にお目にかかります。……と申し上げるべきなのでしょうね」
柔らかな声だった。
けれど、その言葉には、千五百年という時間が薄く重なっていた。
大公妃は少しだけ息を呑み、それから礼を返した。
「あなたが、アリシア様」
「はい。ガルフ・ファーランドの娘、アリシアにございます」
その場の空気が、もう一度引き締まる。
名乗りは、短かった。
それでも、その名が持つ重さを知らない者はいなかった。
ガリウス大公が、一歩進み出た。
「まずは、順番が逆になったことをお詫び申し上げます」
その声は、大公としてのものだった。
「本来であれば、墓前へ向かう前に、現当主としてあなたをお迎えすべきでした」
「いいえ」
アリシアは首を振った。
「お父様の前へ先に行くことを許してくださった。そのことに、感謝しておりますわ」
ガリウス大公は、深く頭を下げた。
その横で、アインが短く言った。
「順番が逆だったのは、俺も同じだ」
大公妃が、静かにアインを見た。
「殿下」
「何だ」
「帰ってこられた方々は、まず椅子にお座りください。立ったまま国の話を始めるものではありません」
アインが一瞬だけ黙った。
クラウディアが、ほんのわずかに目を伏せる。
笑ったのかもしれない。
リシアには、そう見えた。
「……悪い」
「謝罪ではなく、着席を」
「分かった」
アインは素直に椅子へ向かった。
アリシアも、メイを伴って席へ移る。
空気が、わずかに緩んだ。
大公妃の一言は、政治より先に人を座らせるためのものだったのだと、リシアは思った。
軽い食事が進む間、言葉は少しずつ戻ってきた。
ウィリアム侯爵は、ステファニアの前で一度立ち止まり、何か言いかけて、結局「無事でよかった」とだけ言った。
ステファニアは、いつものように美しく礼をした。
「ご心配をおかけしました」
「心配くらい、させなさい」
その声に、侯爵としてではなく父親としての響きが混じっていた。
ステファニアの目元が、一瞬だけ柔らかくなる。
カリウス子爵は、セラを見て眉間に皺を寄せた。
「お前は、もう少し重傷者らしくできんのか」
「申し訳ありません」
「謝るところではない」
「では、どう答えれば」
「……元気ならいい」
「はい」
セラは素直に頷いた。
そのやり取りを見て、リシアは少しだけ笑いそうになった。
笑っていい場なのか分からなかったので、茶器へ視線を落とす。
その時、アリシアが静かに杯を置いた。
澄んだ、小さな音がした。
「ガリウス大公」
呼びかけは、柔らかかった。
けれど、その場にいた全員が、自然と彼女を見る。
アリシアは、背筋を伸ばして座っていた。
白い礼装は墓前のままだ。
けれど、そこにいるのは、父の墓へ帰った娘だけではなかった。
王妃教育を受けた旧ファーランド公爵家の姫。
そして、未来に目覚めることを想定し、自分の居場所を作る準備までしていた人だった。
「お願いがございます」
「伺いましょう」
ガリウス大公の顔が、当主のものへ変わる。
アリシアは、ほんの少しリシアへ視線を向けた。
それから、言った。
「わたくしを、リシア様の双子の姉として存在させていただきたいのです」
リシアは、息を止めた。
双子。
姉。
自分と同じ顔をした少女が、当たり前のようにその言葉を口にする。
けれど、冗談ではないことは分かった。
アリシアの目は、笑っていなかった。
「名は、アリシアのままでよろしいかと存じます。ファーランド大公家の長女。長い闘病生活により、幼い頃から名を伏せられ、外へ出ることを許されなかった。近年、ようやく容体が安定し、療養先から戻った。そういう形にしていただければ」
大公妃の手が、膝の上でわずかに強く握られた。
ガリウス大公は、すぐには答えなかった。
「それをすれば」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「我々は、娘を一人、長く隠していたことになる」
「はい」
「病弱な長女を公表せず、存在を伏せていた大公夫妻、と見られる」
「はい」
「場合によっては、あなたを政治的に利用するために隠していた、という噂も立つ」
「その程度の噂で済むよう、理由を整える必要がございます」
アリシアは、少しも怯まない。
「療養先の記録、医師の名、発作の時期、面会制限の理由、教育記録。必要なものは、アークライト側の協力を得れば整えられます。もちろん、地上側の記録として不自然でない形に」
クラウディアが静かに頷いた。
「可能です。嘘を増やしすぎると後の手間が増えますので、事実に近い形へ寄せます」
「事実に近い形、ですか」
ガリウス大公が言った。
「石化睡眠を、長期療養に置き換える」
「はい」
「アークライトを、療養先に置き換える」
「はい」
「千五百年を、十六年に圧縮する」
「はい」
アリシアは静かに頷いた。
「わたくしは、今の世にとって、その程度に小さく畳まれなければならない存在です」
リシアは、その言葉に胸を押さえられたような気がした。
小さく畳まれる。
初代大公ガルフの娘。
アインの婚約者。
千五百年を待った少女。
その人が、今の世に入るために、自分の名前を折り畳もうとしている。
「本来の名と立場をそのまま出せば、ファーランドは混乱します」
アリシアは続けた。
「アイン様の帰還も、アークライトの存在も、正教国や帝国がどう受け止めるか分かりません。わたくしが初代大公の娘として表に立てば、ファーランドは神話を政治に引きずり出した国になります」
その声は、穏やかだった。
穏やかだからこそ、逃げ道がなかった。
「ですから、わたくしはリシア様の姉でよいのです」
「よい、ではなく」
大公妃が言った。
声が少しだけ震えていた。
「それを、あなたが望むのですか」
アリシアは大公妃を見た。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「望みます」
「なぜ」
「お父様の国を、余計に燃やしたくありません」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
その答えは、あまりにもまっすぐだった。
ガリウス大公が、深く息を吐く。
「……あなたは、我々に父母の役を求めるのですな」
「はい」
「長く病んだ娘を伏せていた、という汚名も含めて」
「はい」
「それは、軽いものではありません」
「承知しております」
アリシアは頭を下げた。
「ですから、お願い申し上げます」
ガリウス大公は、しばらくアリシアを見ていた。
それから、リシアを見た。
リシアは、答えを求められているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「リシア」
「はい」
「あなたは、どう思う」
どう思う。
簡単な問いではなかった。
目の前の少女は、祖先だ。
伝承の中の人だ。
けれど、墓前で父に報告した娘でもあり、アインを三度打って綺麗に着地した人でもある。
そして今、自分の姉になろうとしている。
普通なら、ありえない。
けれど、普通ならありえないことばかりが続いている。
リシアは、アリシアを見た。
同じ顔。
けれど、自分より少しだけ背筋の強い、白い衣の少女。
「私は」
声が、思ったより小さくなった。
それでも、続ける。
「アリシア様を、神話の中の方としてだけ見ることは、もうできません」
アリシアの目が、わずかに細くなる。
「お父様の墓の前で、あのように報告される方を、遠い昔の人だとは思えませんでした」
胸の奥にある言葉を、一つずつ選ぶ。
「姉と呼ぶには、まだ、時間が必要かもしれません。ですが……ファーランドに戻ってきた方を、ファーランドが外へ置いたままにするのは、違うと思います」
大公妃が目を閉じた。
ガリウス大公は、少しだけ口元を緩めた。
「そうか」
「はい」
「では、我々は娘を一人増やすことになる」
大公妃が、夫を見た。
「あなた」
「病弱な長女を伏せていたと言われる程度で、初代大公の娘を守れるなら安い」
ガリウス大公は言った。
その声には、先ほど墓前で震えていた人と同じ人間の熱があった。
「それに、父親の評判など、娘の命に比べれば軽い」
大公妃は、少しだけ目を伏せた。
それから、アリシアへ向き直る。
「アリシア」
「はい」
「長い療養でしたね」
アリシアの表情が、一瞬だけ止まった。
大公妃は立ち上がり、彼女の前へ歩み寄った。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
そう言って、アリシアを抱きしめた。
リシアは、息を呑んだ。
アリシアは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと両手を上げる。
大公妃の背へ、そっと手を置いた。
「……ただいま、戻りました」
その声は、とても小さかった。
けれど、確かに届いた。
メイが、隅で目元を押さえている。
アインは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を外していた。
クラウディアは、その沈黙の間だけ、端末へ触れなかった。
やがて、大公妃がアリシアから離れる。
ガリウス大公は、改めて席へ戻った。
「では、表向きの整理はそうしましょう。ファーランド大公家長女、アリシア・ファーランド。長期療養のため公表を控えていたが、容体安定により帰還。リシアの双子の姉」
「ありがとうございます」
アリシアが礼をする。
そこで、アインが短く言った。
「俺は護衛でいい」
全員の視線が、アインへ向いた。
アインは本気の顔だった。
「リシアたちが学院へ戻り、アリシアがそこへ編入するなら、俺は護衛で同行する。目立たない方がいい」
ガリウス大公は、しばらくアインを見た。
「殿下」
「何だ」
「婚約者として同行なさればよいのでは」
アインが黙った。
アリシアが、扇子も持っていないのに、扇子を閉じる音が聞こえそうな笑みを浮かべた。
「まあ」
「いや」
アインが即座に言う。
「今それを出すと、面倒が増える」
「事実ではありますわ」
「事実だが、順番がある」
「順番を気にするようになられたのですね」
「……悪かった」
アリシアは楽しそうに目を細めた。
大公妃が口元を押さえ、ウィリアム侯爵が咳払いをし、カリウス子爵が天井を見た。
リシアは、何だか妙に疲れた。
この方たちは、本当に千五百年を越えて再会したばかりなのだろうか。
そう思うくらい、やり取りが自然だった。
「婚約者の件は、内側の事実として保持しましょう」
クラウディアが淡々と言った。
「外部へ出すのは、アリシア様の帰還と、リシア様たちに同行して学院へ編入するために必要な範囲まで。殿下は護衛として同行。必要が生じた場合のみ、婚約関係を開示します」
「それでよいでしょう」
ガリウス大公が頷いた。
「殿下ご自身の出自は、どう扱います」
ウィリアム侯爵が問うた。
それもまた、避けて通れないことだった。
リシアの姉が長い療養から戻った。
そこまでは、まだ整えられる。
けれど、その姉の傍らに、どこの誰とも知れない少年が当然のように立っていれば、必ず目立つ。
アインは、少しだけ面倒そうに目を細めた。
「適当でいい」
「適当では困ります」
大公妃が即座に言った。
「……では、適切に」
「言い換えただけです」
アリシアが、楽しそうに微笑んだ。
「西方大陸の西岸地区など、いかがでしょう。東方では未開の地として扱われておりますけれど、実際には沿岸にいくつかの国がある。航路が険しいため、往来も確認も容易ではない。そういう土地であれば、交易商会を通じた縁にもできますわ」
クラウディアが頷く。
「妥当です。西方大陸西岸の沿岸国家。その王族に連なる公子。ベルン商会を通じてファーランド大公家と接点を持ち、アリシア様の長期療養に必要な希少薬と治療技術を届けた人物。療養中の交流を経て、内々に婚約が整った。外向きには、まず護衛兼随行者」
「詐称が増えるな」
アインが言った。
「殿下」
クラウディアが、淡々と返す。
「今さらです」
「今さらですわね」
アリシアも同じ調子で頷いた。
アインは、何か言い返そうとして、やめた。
その顔が、ほんの少しだけ昔の話をしている人のものに見えた。
リシアは、なぜかそのことに気づいた。
「では次に、帝国の件を」
空気が変わった。
柔らかくなっていた場が、再び当主と指揮官のものへ戻る。
クラウディアは端末を開いた。
卓上に、淡い光で地図が浮かぶ。
ファーランド公国。
東のミース大河。
さらにその先にある国境線。
そして、グランカーン帝国の名。
「先の襲撃に関して、野盗を装っていた者たちは帝国の偽装兵であると確定しています」
ウィリアム侯爵の目が細くなった。
カリウス子爵は表情を動かさない。
けれど、手にしていた杯は、置かれていた。
「自白、装備、連絡経路、資金の流れ。いずれも一致しました」
クラウディアは、必要な情報だけを過不足なく並べていく。
「また、ファーランド方面への動員準備と見られる動きも確認しています。ただし、現時点で即時侵攻と断定する段階ではありません」
「時間はあると」
ガリウス大公が問う。
「多少は」
クラウディアは答えた。
「ですが、余裕と呼べるほどではありません」
大公は頷いた。
その横で、アインが地図を見ている。
表情は変わらない。
けれど、リシアには分かった。
アインは、もう次の手を考えている。
「アークライトは、ファーランドを表立って軍事支配する意思はありません」
クラウディアが続けた。
「その形を取れば、正教国、帝国、周辺諸国すべてに余計な口実を与えます」
「では、どう繋ぐ」
ガリウス大公の問いに、クラウディアは即答した。
「商会を設立します」
リシアは瞬きをした。
商会。
今、この場で出る言葉としては、少しだけ日常に近すぎる気がした。
けれど、ガリウス大公は驚かなかった。
「名は」
「ベルン商会」
クラウディアは言った。
「表向きはファーランド公国に新設される交易商会。医療品、保存食、工具、衣服、航海用品、教育用具など、段階的に扱います。裏側では、アークライトとファーランドを繋ぐ窓口、情報収集、物資調整、対外接触の緩衝材として機能させます」
ガリウス大公が、深く息を吐いた。
「既に準備しているな」
「はい」
「疑問形ではないのだが」
「その方が後の手間が少ないので」
クラウディアの声は、いつも通りだった。
リシアは、なぜか少しだけ安心した。
アークライトの人々は、異常なことを異常な速度で進める。
けれど、クラウディアが淡々としていると、少なくとも方向は見えているのだと思える。
「ベルン」
大公妃が、小さく名を繰り返した。
「皇都の名ですね」
「はい」
クラウディアが頷く。
「隠しません。ですが、意味を知る者は限られます」
ガリウス大公はしばらく考え、それから頷いた。
「よいでしょう。公都ラーンに商会を置く。表向きは交易と復興支援。内側では同盟の窓口」
「正式な同盟文書は、次に」
クラウディアが言う。
「本日は、方針確認までで十分です」
ガリウス大公は苦笑した。
「十分、ですか」
「はい」
「墓参りの後に、娘が一人増え、帝国の偽装兵が確定し、古代ベルカの商会が公都に設立される。これで十分」
「一日で処理する量としては、控えめです」
ウィリアム侯爵が、とうとう額を押さえた。
カリウス子爵が低く言う。
「侯爵。慣れろ」
「無理を言うな」
ステファニアが、静かに息を吐く。
セラは、卓上の軽食を見ていた。
リシアは、その横顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
世界は、また大きく動こうとしている。
アリシアという名が、リシアの姉としてファーランドに置かれる。
ベルン商会という名が、公都ラーンに置かれる。
帝国の影が、東から伸びている。
それでも、この場には茶があり、軽い食事があり、父母がいて、友人がいて、まだ笑いに似たものも残っている。
リシアは、自分の杯をそっと持ち上げた。
長い眠りは終わった。
けれど、終わったものの後には、必ず次の名前が必要になる。
アリシア・ファーランド。
伏せられていた姉。
ベルン商会。
帰ってきた亡霊たちが、今の世界に置く、新しい窓口。
その名前たちが、静かにこの部屋で決まっていく。
公都ラーンの外では、午後の光が城壁を照らしていた。
その光は、墓前で見たものよりも少しだけ、現実の色をしていた。




