第三夜 忘れ物
第三夜 忘れ物
リシア・ファーランドが意識を失ってから、七分後。
医療区画の隣に設けられた隔離床で、魔法陣が開いた。
光が収まるより早く、鈍い音がした。
誰かが床に叩きつけられた音だった。
「ぐ、ぁっ!」
現れたのは、白髪の少年だった。
その隣には、黒装備の女兵が二名。
そして少年の手には、猿轡を噛まされた男の襟首が握られている。
「ただいま」
少年は、何事もなかったように言った。
「殿下」
濃紺の軍服をまとった女、クラウディアの声が少しだけ低くなる。
「救助対象の搬送後は、速やかに帰還する手筈でした」
「しただろ」
「七分遅れています」
「忘れ物があった」
少年は、男を床へ放った。
男はうめき、身体を起こそうとした。
だが次の瞬間、黒装備の女兵たちが左右から押さえ込む。
「ただの野盗ではなさそうだ」
少年が言った。
クラウディアの目が、わずかに細くなる。
「隔離を」
「了解」
灰色の拘束具が、男の手首、足首、首元へ次々と巻き付いた。
男が暴れようとする。
だが、拘束具はわずかに光り、その動きを奪った。
「猿轡を外します。口腔内を確認。毒物、暗器、呪具を優先」
「了解」
「噛ませないで」
「顎関節固定」
男の目が見開かれる。
黒装備の女兵の指が、男の顎に触れた。
かくん、と小さな音がした。
「ん、ぐっ……!」
「固定完了」
「猿轡、解除」
布が外される。
男が何かを吐き出そうとした。
「奥歯」
「確認」
細い器具が差し込まれる。
男の喉が鳴った。
「右上奥歯、人工物。毒嚢と思われます」
「摘出」
「了解」
クラウディアは一歩も近づかない。
ただ、淡々と命じる。
「所持品を全部。縫い目、靴底、歯、爪、髪の中まで」
「了解」
「体表の傷、剣だこ、歩き方の癖、魔力反応。全部記録」
「了解」
「会話はまだ不要。先に身体から聞きましょう」
少年は、少しだけ眉を上げた。
「相変わらずだな、クラウ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めたか?」
「必要な解釈を採用しました」
黒装備の女兵たちは、男を器具の上へ固定していく。
灰色の細い光が、男の身体を頭から足先まで走査した。
男は叫ぼうとした。
だが顎を固定されているため、声は濁った呻きにしかならない。
「刃物の扱いは野盗のものではありません」
クラウディアが表示を見ながら言う。
「利き腕の筋肉のつき方が揃いすぎています。靴底の減り方から、長距離行軍訓練の経験あり。装備は粗悪に見せていますが、留め具だけ規格品です」
「偽装か」
「可能性は高いです」
「口の中に毒袋まで仕込んでる野盗は、まあ少ないな」
「少ない、ではなく、ほぼいません」
「断定はしないのか」
「現時点では」
クラウディアは、視線を別の表示へ移した。
「なお、現地周辺の探査範囲を拡大済みです」
「また勝手に?」
「殿下なら命じます」
「便利な言葉だな、それ」
「便利に使わせていただいております」
クラウディアは、澄ました顔で答えた。
少なくとも、部屋にいる者たちにはそう見えた。
声も、姿勢も、目線も、いつもと変わらない。
だがアインには分かった。
いまのクラウディアは、ほんの少しだけ機嫌がいい。
口元が動いたわけではない。
目元が緩んだわけでもない。
ただ、長く共に戦場を渡ってきた者にだけ分かる、ごくわずかな澄まし方だった。
「どこまで広げた」
「襲撃地点を中心に半径二十キロ。街道、森、湿地、馬車残骸、周辺魔力反応、足跡、血痕、通信痕跡を優先して走査しています」
「それだけか」
「いいえ。半径二十キロは初期範囲です。少数ですが、観測班を国単位で展開しました。主要街道、港湾、王都、国境、魔力通信の中継点を優先して探査を開始しています」
「国単位?」
「はい。まだ薄い網ですが、何もしないよりは拾えます」
「早いな」
「救助対象が王侯貴族、あるいはそれに準ずる身分である可能性が高かったためです」
「可能性?」
「衣服、護衛の装備、言葉遣い、追跡側の動きからの暫定判断です。現時点では本人確認前ですので」
「そこは固いんだな」
「はい」
クラウディアの声に揺らぎはない。
「初期報告です。馬車残骸を確認。護衛側の遺体多数。襲撃者側の遺体は少数。交戦痕から見て、襲撃者側は意図的に損耗を抑えています」
「野盗じゃないな」
「野盗と断定する材料はありません」
「言い方」
「現時点で断定を避けています」
「はいはい」
クラウディアは続ける。
「逃走経路も不自然です。三名は自力で逃げたように見えますが、実際には湿地へ誘導されています」
「追い込みか」
「はい。目撃者、痕跡、回収手順のいずれかを考慮した位置選定です」
少年の赤い瞳が、わずかに細くなった。
「殺す場所を選んだ、か」
「その可能性があります」
「回収は」
「馬車残骸、護衛側遺体、襲撃者側遺体、装備、血痕、足跡、全て記録中です。必要であれば現物回収へ移行します」
「やっておけ」
「すでに準備しています」
「だろうな」
少年は、隔離床に固定された男を見下ろした。
男は汗を浮かべている。
目だけが、忙しなく動いていた。
恐怖。
怒り。
計算。
そのどれもが、もう遅い。
「分類は」
少年が問う。
クラウディアは短く答えた。
「結論は保留。ただし、野盗として扱う理由はありません」
その言葉で十分だった。
「所属不明の訓練済み襲撃者。現時点では、そう扱います」
「尋問は」
「身体情報の取得後に。先に嘘を吐ける余地を減らします」
「任せた」
「承りました」
そこで、灰白色の服を着た女が一歩近づいた。
「副司令。対象三、心拍安定。出血制御完了。呼吸補助継続中。高負荷再生へ移行可能です」
「右腕機能は」
「完全回復見込み。ただし二日程度の管理が必要です」
「対象一と二は」
「対象一、魔力枯渇。外傷軽微。鎮静中。対象二、右大腿部刺創、右上腕裂傷。処置中。命に別状なし」
「よし」
クラウディアが頷く。
少年の肩から、わずかに力が抜けた。
「助かるか」
「三名とも」
「そうか」
短い返事だった。
だが、その声だけは、ほんの少しだけ柔らかかった。
「対象一が、最後まで対象三の名を呼んでいました」
灰白色の女が報告する。
「対象三?」
「護衛騎士と思われる女性です。名前はセラ。対象一はセラの助命を繰り返し要請していました」
「……そうか」
少年は少しだけ黙った。
その時、クラウディアの端末に新たな表示が浮かんだ。
彼女の視線が、ほんのわずかに動く。
「対象一の身元照合、進展しました」
「誰だ」
「所持品、衣服の紋章、護衛の装備、周辺記録、ならびに現地資料との照合結果です」
クラウディアは一拍置いた。
「ファーランド公国公女、リシア・ファーランドである可能性が極めて高いと判定されました。確定は本人の覚醒後に」
「ファーランド」
少年が、その名を繰り返した。
クラウディアの視線が、ほんのわずかに表示から外れる。
「知っているな」
「はい。大戦末期、殿下が勝手を許したガルフ・ファーランド卿の家名です」
「今のファーランドと同じか」
「紋章、地形、伝承記録は一致しています。ただし、千五百年の空白があります。齟齬の可能性は否定できません」
「確認が必要だな」
「はい。殿下に確認をお願いしたいと考えていました」
アインは、医療区画の方へ視線を向けた。
「生きて戻ったんだな」
「その可能性が高いです」
「可能性、か」
「はい。確定は、殿下の確認後に」
「固いな」
「必要な固さです」
アインは小さく笑った。
そこには、怒りでも焦りでもない、遠いものを見るような色があった。
「なら、よかった」
その言葉は、あまりにも小さかった。
隔離床の警告音にも、走査装置の低い駆動音にも、すぐに紛れてしまうほどに。
それでもクラウディアは聞き逃さなかった。
「殿下」
「なんだ」
「お茶を用意しますか」
少年が彼女を見る。
「さっきは後でって言っただろ」
「今は後です」
「便利な言葉だな、それ」
「便利に使わせていただいております」
クラウディアは、やはり澄ました顔で答えた。
アインは、今度こそ小さく笑った。
「じゃあ、頼む」
「承りました」
クラウディアは振り返る。
隔離床では、所属不明の襲撃者が情報を吸い上げられている。
医療区画では、三人の少女が命を繋ぎ止めている。
探査班は、昼日中の襲撃が残した痕跡を、広げた網で拾い続けている。
まだ結論は出ない。
だが、ただの野盗でないことだけは、もう誰の目にも明らかだった。
アインは、白い壁の向こうへもう一度だけ視線を向けた。
「リシア・ファーランド、か」
その名を、確かめるように呟く。
千五百年。
それだけの時が過ぎても、残ったものがある。
アインは湯呑みを受け取り、静かに目を伏せた。




