幕間零 帰還確認
幕間零 帰還確認
作戦司令室の照明は、昼夜の区別を持たない。
天井から落ちる光は薄く、壁面を埋める表示板だけが、星図、地表映像、航行記録、通信解析の結果を淡く浮かべていた。
その中央に、アインは座っていた。
指揮官席の背は、彼の身体には少し大きい。
それでも、そこに座る姿に違和感はなかった。
この二年、アークライトは走り続けた。
大戦の終わりに、船は母星がかつて存在した座標へ戻った。けれど、そこに母星はなかった。星は動く。恒星も、惑星も、空間の中に留まり続けるものではない。
だからアークライトは追った。
失われた座標から、星の現在位置を計算し、航路を引き、残された者を拾い、傷ついた区画を修復しながら、二年をかけて母星を追った。
そして今。
アークライト本体は、まだ母星へ直接降りる位置にはいない。
星系外縁から減速しながら、慎重に接近している。
かわりに、数週間前から先行特務艦が星系内へ入っていた。
母星外縁を周回し、星図照合、地表観測、通信断片の採取、文明分布の確認を続けている。
直接接触は、まだ許可されていない。
観測子機と短時間の回収要員が拾えるのは、断片だけだった。
それでも、断片は十分に多かった。
画面の一つに、青い星が映っていた。
「先行特務艦、第三次星図照合完了」
管制官の声が、静かに響いた。
「恒星スペクトル、衛星軌道、主要星座配置、海陸比率。全項目、既知母星記録と照合一致。ただし、地表文明分布は大きく変化しています」
「誤差は」
アインが短く問う。
「恒星運動補正後、地上時間換算で一四九八年から一五〇三年の範囲です」
作戦司令室に、わずかな沈黙が落ちた。
五年の幅。
数字としては誤差だった。
けれど、それが意味するものは誤差ではなかった。
千五百年。
アインは表示板を見たまま、少しだけ息を吐いた。
「帰ってきた、でいいな」
「はい」
クラウディアが答えた。
彼女は指揮官席の斜め後ろに立っている。手元の端末には、地表から拾い上げた文字情報が次々と整理されていた。
「母星であることは、ほぼ確定です。問題は、私たちが知る母星ではない、という点ですが」
「それは分かってる」
「では、現在文明側の情報を簡略に」
クラウディアは一つ表示を開いた。
地上の文字列が、翻訳補助を通して整列する。
王国。
公国。
正教。
魔王。
禁忌。
古代。
そして、ベルカ。
その名だけは、他の単語よりも少し重く見えた。
「地上記録におけるベルカの扱いは、断片的です。地域差も大きい。ですが、栄光ある帝国の名としては残っていません」
クラウディアの声は平坦だった。
「多くは滅びを招いた古代文明、禁忌技術の源、魔王伝承の前段、あるいは正教が封じた名として扱われています」
「悪者か」
「単純化すれば」
クラウディアは少しだけ間を置いた。
「ただし、全てが悪意ある改竄とは限りません。大戦末期の混乱、技術災害、境界崩壊、メシア教系記録の選別。複数の要因が重なっているようです」
「それでも、残った形はそれか」
「はい」
アインは画面から目をそらさなかった。
怒りはなかった。
少なくとも、表には出なかった。
ただ、少しだけ目が冷えた。
「ベルカは、終わった国だ」
「殿下」
「分かってる。だが、終わった後に何と呼ばれるかまでは、俺たちの手にない」
言葉は短かった。
短いのに、そこには二年より長い疲れがあった。
クラウディアは何も言わなかった。
「クラウ」
「はい」
「茶を頼む」
「今ですか」
「帰還祝いには早い。普通のでいい」
「承知しました」
表示板の一部では、地表の拡大観測が続いている。
旧大陸東部の一公国名。
その名が拾われた時、クラウディアの指がわずかに止まった。
「旧辺境伯領に近い位置に、古い守護家を称する公国名があります」
「断定するな」
「はい。現時点では候補として扱います」
「それでいい」
アインは短く頷いた。
次の表示が、地表監視の警告色に変わる。
「地上観測班より報告。大陸東部、森林街道付近で武装集団の接触を確認」
管制官の声が一段低くなった。
「馬車隊残骸。生存者、三名。追撃者、十一名。装備は野盗相当ではありません。訓練済みの可能性あり」
映像が拡大された。
木々の間を走る少女。
彼女を支えるもう一人。
その後ろで、血に濡れた鎧の少女が膝をつく。
アインは立ち上がった。
椅子の動く音が、作戦司令室に小さく響く。
「殿下」
クラウディアが呼んだ。
「映像拡大」
アインは答えずに言った。
画面がさらに寄る。
黒髪の少女の顔が映る。
逃げているのではない。
守ろうとしている顔だった。
その横で、金の髪の少女が剣を握っている。足は震えていた。けれど、まだ立とうとしていた。
倒れた少女の傷は深い。
この距離からでも分かった。
「搬送準備」
アインが言った。
「医療区画、高位救命態勢。ハイランダー二個分隊、非殺傷優先で待機。捕縛具、転送アンカーを持て」
「承認します」
クラウディアは即座に端末へ命令を流した。
「ただし、地上接触はまだ正式手順を満たしていません。現地政治状況、宗教勢力、周辺軍事力、全て未確定です」
「見れば分かる」
「何がでしょう」
「放っておけば死ぬ」
それで、会話は終わった。
アインは指揮官席の脇に置かれていた外套を手に取る。
クラウディアが一歩だけ前へ出た。
「殿下。どちらへ」
「少し出る」
「転移座標を開いておいて、その説明は雑です」
「トイレだ」
作戦司令室の空気が、一瞬だけ止まった。
クラウディアは無表情のまま、目だけを細める。
「殿下」
「茶は戻ったら飲む」
その言葉を最後に、アインの足元で淡い光が開いた。
転移陣は、一瞬だけ床に細かな線を描き、それから彼の姿ごと消えた。
クラウディアは、しばらく光の消えた床を見ていた。
「……トイレに、外套と転送アンカーは不要です」
誰に向けたものでもない呟きだった。
けれど、作戦司令室の誰も笑わなかった。
彼らは知っていた。
アインがそう言った時、もう止まらない。
「地上支援班、展開」
クラウディアの声が切り替わる。
「医療区画は受け入れ準備。高位救命槽を一基空けてください。搬送後の本人確認は後回しです。まず命を繋ぎます」
「了解」
「捕縛班は、殿下の後方を確保。襲撃者は可能な限り生かして回収。口内毒物、偽装装備、自害用術式の有無を警戒」
「了解」
「記録班。地上接触記録を開始。分類は、帰還後第一種接触」
「了解。記録開――」
記録班の声が、途中で止まった。
表示板の一つに、白い髪の少年が映っていた。
森の中。
さきほどまで指揮官席にいたはずのアインが、地上の湿った土の上に立っている。
「……あれ」
地表観測担当の管制官が、思わず声を漏らした。
「何で殿下が、もう画面に」
別の管制官が、慌てて表示を切り替える。
「転移ログ確認。殿下、単独転移済み。後続班、まだ展開準備中です」
「地上支援班、急いでください」
クラウディアが言った。
声は平坦だった。
平坦だったが、片手は額に添えられていた。
「あの方は、昔からこうです。理解しようとすると手順が遅れます」
「了解」
「記録班。分類に追記。殿下の独断先行。理由は救命判断」
「了解。……理由欄に、そのまま記載しますか」
「そのままです。婉曲表現を使うと、後で本人が読んで余計なことを言います」
そこで、クラウディアは一度だけ画面を見た。
森の映像の中で、白い髪の少年が地面の石を拾っていた。
その姿は、神話の帰還には見えなかった。
ただ、通りすがりの少年が、助けると決めたようにしか見えなかった。
「それと」
クラウディアは小さく息を吐いた。
「お茶を用意しておきます。戻った時に文句を言われるのは、面倒ですから」
作戦司令室の表示板に、森の光が揺れていた。




