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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門


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第一夜 邂逅

第一夜 邂逅


 森の中を、三つの影が走っていた。


 昼だというのに、森は暗い。

 鬱蒼と生い茂る枝葉が陽光を細かく砕き、地面にはまだらな光だけが落ちている。湿った土。腐葉土の匂い。足に絡む根。踏みしめるたびに沈む落ち葉。


 リシア・ファーランドは、裂けたドレスの裾を握りしめ、息を切らしながら走っていた。


「リシア様、こちらへ!」


 前を行くセラの声が飛ぶ。

 その声にも、もう余裕はない。


 隣では、ステファニアが青ざめた顔で木の幹を避けている。右手には剣。左手には、今にも消えそうな魔法陣。先ほどから、彼女の魔法は明らかに弱くなっていた。


 背後から、男たちの声が迫る。


「いたぞ!」


「森の奥だ!」


「逃がすな!」


 なぜ。


 リシアは、荒い息の隙間で考え続けていた。


 なぜ、昼なのか。

 なぜ、この道なのか。

 なぜ、あれほど迷いなく襲えたのか。


 貴人の馬車は夜には動かない。

 宿場と宿場の距離を測り、陽があるうちに安全な場所へ入る。護衛の数も、経路も、休憩地点も、事前に整えられる。


 だから襲撃があるとすれば、橋。峠。森の切れ目。道幅が狭まり、馬車が速度を落とさざるを得ない場所。


 それは分かる。


 分かるが、違う。


 あれは、野盗の襲撃ではなかった。


 野盗なら、まず馬を狙う。荷を奪う。護衛が多ければ威嚇し、勝てぬと見れば逃げる。少なくとも、仲間を斬った者をその場で殺しはしない。


 あの男は、仲間を殺した。


 最後の護衛騎士に斬られた男を、役立たずと罵り、その場で斬り捨てた。


 あれは、金目当てではない。


 目的は荷ではない。

 身代金でもない。


 おそらく、わたくしたち。


 そこまで考えた瞬間、リシアは足をもつれさせた。


「リシア様!」


 セラが腕を掴む。

 その手は熱かった。血で濡れていた。


「走ってください。考えるのは、あとです」


「いいえ」


 リシアは息を呑み、無理に足を前へ出した。


「考えなければ、次に死にます」


「……誘導されています」


 ステファニアが、掠れた声で言った。


「追い方が雑ではありません。こちらが選んでいるように見えて、逃げ道を削られています」


「やはり」


「ええ。野盗ではありませんわ」


 背後の足音が、近すぎない。


 追いつけるはずなのに、追いついてこない。

 怒号は荒い。だが足運びは乱れていない。

 まるで、こちらが進む先を知っているように、一定の距離を保っている。


 逃げているのではない。


 逃がされている。


 リシアの背筋に、冷たいものが走った。


 右手の茂みが揺れた。


「右です!」


 セラが叫ぶ。

 同時に、短剣が木の幹へ突き刺さった。


 進路を塞がれた。


「左へ!」


 ステファニアが風の魔法を放つ。

 だが、木々の間から飛んできた矢が、その魔法陣を撃ち抜いた。


 正面には倒木。

 右には短剣。

 左には弓手。

 背後には足音。


 残された道は、ひとつしかない。


 森の奥。

 馬車道から離れた、誰も来ない方角。


 リシアは歯を食いしばった。


 誘導されている。


     ◇


 少し前。


 街道の上で、馬車は横倒しになっていた。


 車輪は砕け、軸は折れ、荷台は半ば道端の土へめり込んでいる。周囲には、人が倒れていた。


 ファーランドの紋章をつけた騎士。

 御者。

 護衛兵。

 そして、粗末な革鎧を身につけた野盗たち。


 だが数は、あまりにも違っていた。


 倒れているのは、ほとんどが護衛側だった。

 野盗の死体は少ない。少なすぎる。


 最後まで立っていた男性騎士が、血まみれの剣を構え直した。鎧は割れ、片膝は震えている。それでも彼は、リシアたちの退路を塞ぐように立っていた。


「公女殿下を、行かせはせん……!」


 野盗の一人が踏み込む。

 騎士は吠え、剣を振り抜いた。


 刃が野盗の脇腹を裂く。


「ぐ、ぁっ!」


 野盗が膝をついた。

 だが次の瞬間、周囲から笑い声が上がった。


「おいおい」


「こんな雑魚に斬られてんじゃねえよ」


「使えねえな」


 斬られた男が顔を上げる。


「ま、待て、傷は浅――」


 言葉は最後まで続かなかった。


 仲間の一人が、無造作に剣を振り下ろした。

 斬られた野盗の首筋から血が噴く。


 敵が、味方を殺した。


 ためらいもなく。

 怒りもなく。

 まるで汚れた道具を捨てるように。


「次」


 男が言った。


 最後の騎士が動く。

 だが、遅かった。


 背後から短剣が突き立ち、正面から槍が胸を貫く。

 騎士の身体が大きく揺れた。


「逃げ……」


 彼は振り返ろうとした。

 リシアたちを見るために。


「逃げて、ください……」


 その言葉を最後に、騎士は崩れ落ちた。


     ◇


 森が開けた。


 リシアは、そこで足を止めた。


 前方の地面が、黒く濡れている。


 湿地だ。


 馬車道から外れた森の奥に広がる、底の見えない泥。ドレスでは進めない。負傷者を連れてはなおさら無理だ。


 背後の足音が、ぴたりと止まる。


「上出来だ」


 男が言った。


 襲撃者たちが、ゆっくりと扇状に広がる。

 逃げ道は、もうない。


 セラが前に出た。

 リシアを背に隠すように、剣を構える。


 そのすぐ横、半歩下がった位置にステファニアが立つ。

 右手の剣先はわずかに下がっている。だが左手には、すでに魔法陣が浮かんでいた。


 剣と魔法。

 その両方を、彼女は同時に構えている。


「リシア様。私の後ろへ」


「セラ」


「下がってください」


 セラの声は静かだった。

 だが、肩で息をしている。鎧の隙間からは血が滲み、剣を握る指も白くなっていた。


 襲撃者の頭目が笑う。


「まだやるのか。大した忠義だ」


「野盗に褒められる筋合いはありません」


「野盗、ねえ」


 頭目が剣を抜いた。


 次の瞬間、二人の剣がぶつかった。


 一合。


 鋭い金属音が森に響く。


 二合。


 セラの足が湿った土を抉る。


 三合。


 頭目の剣筋が、急に沈んだ。


 セラが反応する。

 だが、ほんのわずかに遅い。


 刃が右肩口へ食い込んだ。


「セラ!」


 リシアの叫びが森に響く。


 斬撃は肩から胸元へ抜け、血が跳ねた。

 セラの身体が大きく傾く。それでも彼女は膝をつく直前まで、リシアの前から退かなかった。


「まだ、です……」


 そう言いかけて、崩れ落ちる。


 ステファニアが動いた。


「下がりなさい!」


 左手の魔法陣が輝く。

 風の刃が二つ走り、迫っていた襲撃者二人の喉を裂いた。


 二人が倒れる。


 だが、それだけだった。


 襲撃者たちは止まらない。

 倒れた仲間を踏み越え、左右から詰めてくる。


 ステファニアは剣を振るった。

 一人の短剣を弾き、もう一人の腕を浅く裂く。


 その時、横合いから銀色の光が飛んだ。


 投げナイフ。


 ステファニアの右太腿に突き刺さる。


「っ……!」


 膝が落ちた。


 その隙を、襲撃者は逃さない。

 別の男が踏み込み、ステファニアの右上腕を斬りつけた。


 剣が、彼女の手から落ちかける。


「ステファニア様!」


「まだ……!」


 ステファニアは歯を食いしばった。

 だが右腕は上がらない。左手の魔法陣も、もう形を保てなかった。


 リシアは前に出た。


 出てしまった。


 彼女の魔法は無属性だ。

 火も水も風も土も従えない。けれど、魔力そのものを押し出すことはできる。


 手のひらに、淡い光が集まる。


「来ないで!」


 魔力弾が放たれた。


 先頭の男が顔を歪め、数歩よろめく。

 だが倒れない。


 もう一発。

 さらに一発。


 男たちは怯んだ。

 しかし、それだけだった。


 魔力が薄い。

 威力が足りない。

 何より、リシア自身がもう限界だった。


 足が震える。

 視界が白む。

 セラの血の匂いが、あまりにも濃い。


「いいねえ」


 頭目が笑った。


「公女様まで戦うか。泣いて命乞いでもすると思ったが」


 リシアは返事をしなかった。

 できなかった。


 ただ、セラの前に立った。

 ステファニアの前に立った。


 それしか、もう残っていなかった。


 その時だった。


 ご、と。


 空気が、重く鳴った。


 何かが森の奥から飛んできた。


 石だった。


 小石ではない。

 子供が両腕で抱えるほどの、大きな石。


 それが、まるで投げられた球のように一直線に飛び、男の一人に直撃した。


 鈍い音。


 男の身体が地面を跳ね、湿った落ち葉の上を転がった。

 手足が不自然に震えている。喉から、ひゅう、と細い息が漏れた。


 リシアは、その男を覚えていた。


 最後の騎士に斬られた仲間を、役立たずと罵り、その場で斬り捨てた男。


 その男が今、地面の上でぴくぴくと痙攣していた。


 森が静まり返る。


「……誰だ」


 頭目が低く言った。


 返事はなかった。


 代わりに、木々の奥から足音がした。


 軽い足音だった。

 湿った森の土を踏んでいるはずなのに、不思議なほど乱れがない。


 やがて、枝葉の影から一人の少年が現れる。


 白い髪。

 赤い瞳。

 細い身体。


 少年は倒れた男を一瞥し、それから頭目たちを見た。


「続けるか?」


 その声は、驚くほど静かだった。


 頭目は笑った。


「やれ」


 短い命令だった。


 少年は、大きめのため息をついた。


「そうか」


 次の瞬間、彼の姿が消えた。


 リシアには、そう見えた。


 風が鳴るより早く、少年は頭目の前にいた。

 頭目の目が見開かれる。

 剣を上げる暇すらなかった。


 少年の右手が、頭目の顔面を鷲掴みにする。


「が――」


 声は、地面に叩きつけられて潰れた。


 鈍い音。

 湿った土が跳ねる。

 頭目の身体が一度大きく痙攣し、そのまま動かなくなる。


 少年は振り返らなかった。


 ただ両腕を下ろす。


 その手刀の先に、魔力が集まった。

 淡い光ではない。

 炎でも、雷でも、氷でもない。


 魔力そのものが形を持ち、刃となる。


 左右の手から伸びたそれは、一振り一メートルほどの剣だった。

 透明なようで、白銀に輝いている。

 刃というより、世界に刻まれた線のようだった。


 襲撃者たちが一斉に動く。


 少年が、すう、と息を吸った。


「ひとつ、昼から悪党三昧」


 右の刃が、最初の男を斬り伏せた。


「ふたつ、不埒に弱きを追って」


 左の刃が、投げナイフを構えた男の腕を落とす。

 返す刃が胸元を裂き、男は声もなく崩れた。


「みっつ、見苦しく仲間を捨てる」


 背後から迫った男の短剣を、少年は見もせずにかわした。

 肘で顎を砕き、白銀の刃で地面へ沈める。


「よっつ、寄ってたかって女を斬る」


 斧を振り上げた男が、振り下ろす前に倒れた。


「いつつ、命乞いだけ一人前」


 逃げようとした男の足元へ刃が走る。

 男は泥へ転がり、喉から短い悲鳴を漏らした。


 少年は足を止めた。


 残っている襲撃者たちが、森の中で固まっていた。

 剣を構えた者。

 ナイフを握った者。

 腰が引けている者。


 それでも誰一人、武器を捨ててはいない。


 少年の白銀の刃が、すっと下がる。


「……さて」


 赤い瞳が、残りの男たちをなぞった。


「六つ目、いるか?」


 答えは、刃で返ってきた。


 一人が叫び、投げナイフを放つ。

 もう一人が横から駆ける。

 さらに二人が、倒れたセラとステファニアを越えてリシアへ向かおうとした。


 少年の姿が、ぶれた。


 リシアには、何が起きたのか分からなかった。


 白い線が、森の中を幾筋も走った。

 風が鳴る。

 落ち葉が舞う。

 血が、遅れて散る。


 次の瞬間。


 四人の襲撃者が、ほとんど同時に崩れ落ちた。


 石に撃たれて痙攣する男。

 顔面から地面へ叩きつけられた頭目。

 そして、白銀の刃に沈んだ九人。


 合わせて十一人。


 ほんの数呼吸前まで森を支配していた襲撃者たちは、一人残らず沈黙していた。


 少年の両手から、魔力の刃が霧のようにほどける。


「いらなかったな」


 少年は、少しだけ面倒そうに呟いた。


 リシアは、声を出せなかった。


 何を見たのか、理解できなかった。

 だが、ひとつだけ分かる。


 助かった。


 少なくとも、今この瞬間だけは。


「セラ……」


 リシアは膝をつき、倒れたセラの手を握った。


「セラ、聞こえますか。目を閉じてはなりません」


 声を出すだけで、喉の奥に血の味がした。

 魔力は底をついている。指先は冷え、視界は何度も白く霞んだ。


 それでも、彼女はセラの手を離さなかった。


「あなたは、わたくしの護衛でしょう。なら、勝手に先へ行くことは許しません」


 返事はない。

 セラのまつげが、かすかに震えただけだった。


 少年が近づいてくる。


 リシアは顔を上げた。

 警戒も恐怖もあった。だが、それ以上に強いものがあった。


「お願い、します」


 リシアは剣も杖も持たない手を、血に濡れた土へついた。


「報いなら、ファーランドの名にかけて必ず。ですから、セラを……この者を、助けてください」


 ステファニアが息を呑む。

 彼女もまた、剣を支えにしてようやく立っていた。


 少年は、ほんの少しだけ眉を動かした。


「いらない」


 短い言葉だった。


 リシアは顔を上げる。

 赤い瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。


「家名も、報いもいらない」


 少年はセラのそばに膝をつく。


「助ける。だから、もう喋るな」


 その言葉で、リシアの中の糸が切れかけた。


 けれど、まだ倒れられない。


 少年がセラの傷口に手を当てる。

 淡い光が、血に濡れた鎧の隙間からこぼれた。


「繋いだ。けど、ここじゃ足りない」


 少年は振り返らずに言った。


「三人を寄せろ」


 誰に命じたのか、リシアには分からなかった。


 だが、次の瞬間。

 ステファニアの傍らに、黒い装備の女兵が膝をついた。


「失礼します」


 低く、よく通る女の声だった。


 いつからそこにいたのか。

 リシアには、まるで分からなかった。


 ステファニアが剣を上げようとする。

 けれど、腕はもう動かない。


「敵ではありません。動かないでください」


 黒装備の女兵は、手早く彼女の身体を支えた。


 もう一人の女兵が、セラの隣にいた。

 血に濡れた鎧の留め具を、迷いなく外していく。


「なにを――」


「気道確保。圧迫止血。搬送準備です」


 返答は短い。

 無礼なほど冷静で、恐ろしいほど正確だった。


「怒るな。助けるためだ」


 少年が言った。


 リシアは唇を噛んだ。

 頷くことしかできなかった。


 森のあちこちで、黒い影が動いていた。

 倒れた襲撃者の武器を蹴り離し、手首を拘束し、喉元に指を当てて生死を確認していく。


 その声は、どれも女のものだった。


 兵士。

 騎士。

 暗殺者。


 リシアの知るどの言葉とも、少し違う。

 彼女たちは、命令を受けるより早く動き、言葉を交わすより早く役割を分けていた。


「アンカー」


「はい、殿下」


 ステファニアを支えていた女兵が、黒い杭を差し出す。


 殿下。


 リシアは、その呼び名を聞いた。

 だが意味を考える余裕はなかった。


 少年は円錐状の杭を受け取り、三人のすぐそばの地面に突き立てた。


 金属にも石にも見える、黒い杭。

 表面には、リシアの知らない細かな紋様が刻まれている。


「転送する」


「てん、そう……?」


「すぐ終わる。目を閉じるな。気分が悪くなる」


 杭の紋様が青白く光った。

 次の瞬間、三人の足元に魔法陣が広がる。


 リシアは息を呑んだ。


 こんな魔法陣を、見たことがない。

 線が多すぎる。文字が細かすぎる。なのに、無駄が一つもない。


「セラを、お願いします」


「助ける」


 白髪の少年は、短く答えた。


 光が跳ねた。


 森も、血の匂いも、湿った土も、遠ざかっていく。

 リシアが最後に見たのは、赤い瞳と、倒れた襲撃者たちの向こうへ歩いていく少年の背中だった。


 これは、本当に人なのだろうか。


 そう思ったところで、光が弾けた。


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