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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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幕間二 勝手を許す

幕間二 勝手を許す


 命令が下った瞬間、ガルフ・ファーランドは動けなかった。


 戦術室には、赤い警報灯が明滅していた。


 艦体は軋み、どこか遠くで隔壁の閉鎖音が続いている。伝声管からは損害報告が重なり、参謀たちは返答を待っていた。


 その中で、白い髪の少年だけが、まっすぐにガルフを見ていた。


「お前には戻ってもらう」


 少年はそう言った。


 ベルカ皇太子アイン。


 まだ少年と呼ぶほかない年齢でありながら、いまこの戦場で誰より遠くを見ている主君だった。


「我が艦はまだ沈んでおりません」


 ガルフは反論した。


「戦えます。殿下、我らを戦列にお残しください」


 それは懇願に近かったのかもしれない。


 騎士として、将として、この戦場で退く理由などない。艦は傷ついている。兵も減った。だが、まだ撃てる砲がある。まだ動く機関がある。まだ、ガルフ・ファーランドは立っている。


 そのすべてを込めて言った。


 だがアインが返した言葉は、説得でも、反論でもなかった。


「勝手を許す」


 たった一言だった。


 ガルフは息を止めた。


 その言葉の意味を知らぬ者なら、ただの許可と受け取っただろう。戦列を離れてよい。自由に動け。そういう軽い命令として。


 だが、ガルフは知っていた。


 勝手を許す。


 それは、主君が忠臣へ与える最大の信頼だった。


 命令の形を取りながら、その実、すべてを委ねる言葉。お前の判断を、お前の覚悟を、お前という人間を信じる、という意思表示。


 だからこそ、受け取った瞬間は、ただ悔しかった。


 戦列を離れる無念があった。


 死に場所を奪われたような怒りがあった。


 この場で剣を取れぬ己への、どうしようもない苛立ちもあった。


 それでも、ガルフは膝を折った。


「御意」


 声は、最後まで乱さなかった。


     ◇


 反転命令を出した後も、戦場は背後で燃えていた。


 艦橋の窓には、傷ついた艦列が映っている。避難民を載せた輸送艦を、まだ動ける護衛艦が左右から挟み、速度を合わせて針路を取る。


 煙の向こうで、白銀の艦が進んでいた。


 アークライト。


 その周囲に魔導騎装の群れが集まり、門へ向かっていく。


 ガルフは、遠ざかる背を見ていた。


 なぜ今、この言葉なのか。


 殿下はこれから門の中へ突入する。


 邪神と対峙する。


 最悪の場合、帰還できない可能性がある。


 それを、あの少年が計算していないはずがなかった。


 ならば、なぜ自分を外した。


 戦列から最も経験のある将を外す理由は何か。


 民間区の転送を急がせる理由は何か。


 俺が帰らなかった時、残る者たちを頼む。


 その言葉が、耳の奥で鳴り直した。


 ガルフは窓枠に置いた拳を握った。


 我が目に狂いはなかった。


 殿下は、すでにこの戦の先を見ておられる。


 いま、誰もが目前の敵に全力を注いでいる。その瞬間に、あの少年は一手先を、いや十手先を見ていた。


 誰を、どこへ置くべきか。


 それを戦闘の只中で決め、命令という形で静かに実行した。


 勝手を許す。


 それは追い払う言葉ではなかった。


 最も信頼できる駒を、最も重要な場所へ置く言葉だった。


 死に場所を与えてやれない。


 アインは、そう言った。


 その重さを、ガルフはようやく正確に受け取った。


 殿下は、ガルフに死なれては困ると思っていた。惜しいから、生き延びる命令を下した。


 ならばこそ、応えなければならない。


 悔恨は消えない。


 あの場で剣を取れなかった無念は、おそらく生涯消えない。


 それでも、足は前を向いていた。


「収容を急がせろ。負傷艦を中央に入れろ。速度を落とす艦があれば、左右の護衛を入れ替える」


 ガルフは命じた。


 背後の空は、なお赤く燃えていた。


     ◇


 帰還の航路は長かった。


 臨時医療室に変えられた艦内区画では、外科医たちが夜通し働いていた。担架が廊下を往来し、薬品と血の匂いが艦全体に染みている。


 ガルフは傷の処置を短く済ませ、すぐ艦橋へ戻った。


 座っていられなかった。


 動いていなければ、考えてしまう。


 だが夜が深まり、艦隊の針路が安定した頃、副官のデネルが強引に椅子を持ってきた。


「閣下、少しだけでも」


「構わん」


「構います」


 デネルは三十そこそこの男だったが、こういう時だけ頑固だった。


「艦は私が見ます。閣下は、目を閉じてください」


 ガルフは抗わなかった。


 椅子に背を預け、目を閉じる。


 眠れるとは思っていなかった。


 実際、眠れなかった。


 瞼の裏に門が見えた。


 白い光に呑まれていくアークライトが見えた。


 閉じていく門の輪郭が、最後の瞬間、収縮するように消えた。


 あの向こうに、今も少年がいるのだろうか。


 あるいは。


 ガルフは目を開いた。


 窓の外は夜だった。星が出ている。戦場から遠く離れているはずなのに、地平線の向こうがまだ赤い気がした。


 気のせいかもしれない。


 娘のことを考えた。


 アリシアは今頃どうしているだろう。


 先触れは入れてある。帰還の報は届いているはずだ。


 しかし、何を失ったかも、誰がどこへ消えたかも、伝えようがなかった。


 あの子に、なんと言えばいい。


 ガルフは、その問いを抱えたまま領地の空へ入った。


     ◇


 ファーランド邸の門が開いたのは、夜半を過ぎた頃だった。


 出立の時、ガルフ・ファーランドの背には二百の艦があった。


 帰還した艦は、三十八。


 しかもその三十八も、まともな形を保っているものは半数に満たなかった。主砲を失ったもの。艦橋が吹き飛んだもの。船体の三分の一が炭化したもの。


 それらが傷を隠すこともなく、夜の領空に並んでいた。


 旗艦が着陸する。


 タラップが降りた。


 最初に出てきたのは、担架だった。


 一台。また一台。次々に降ろされる担架へ、邸の医療班が走り寄る。臨時の処置場として開放された広間へ、負傷者が運び込まれていった。


 その流れの中を、ガルフは歩いた。


 鎧は戦場のままだった。


 右肩の装甲は砕け、革紐で括った布が代わりを務めている。額の包帯には血が滲んでいた。脇腹にも傷があり、踏み出す右足がわずかに遅れた。


 執事のバルデが進み出た。


 三十年この家に仕えた老執事は、すべてを飲み込んだ上で頭を下げた。


「お帰りなさいませ、閣下」


 ガルフは頷いた。


 それだけだった。


 書斎へ行くつもりだった。


 損失の数字を出さなければならない。遺族への通知を、一通ずつ書かなければならない。やることがあるという事実だけが、今のガルフには救いだった。


 手を動かしていれば、考えなくて済む。


 廊下の角を曲がったところで、足が止まった。


 階段の中段に、少女が座っていた。


 アリシアだった。


 夜着のまま、淡い色の上掛けを羽織っている。膝の上には本が一冊あったが、開かれていなかった。


 いつからそこにいたのか、分からない。


 燭台の灯りを受けて、白い頬が静かに光っていた。


 目が合った。


 少女は立ち上がり、本を脇に抱えて段を降りてくる。


 足音がなかった。


 白い寝衣の裾が、床すれすれで揺れた。


 ガルフは動けなかった。


 この子に、何を言えばいい。


 どんな顔をすればいい。


 武人として二十年戦ってきた。肉親を戦場で見送ったこともある。部下の訃報を届けたこともある。そのたびに言葉を選んできた。


 なのに今、自分の娘の前で、言葉が消えていた。


「お帰りなさいませ、お父様」


 アリシアが言った。


 声は平らだった。


 十一歳の子供の声ではなかった。かといって、大人が感情を押し殺した時の硬さでもない。


 ただ静かに、現実を受け取る声だった。


「……ああ」


 ガルフは答えた。


「アリシア」


「はい」


「殿下は」


 喉が詰まった。


 戦場で一度も出さなかった声が、ここで出そうになる。


 ガルフは奥歯を噛んだ。


「殿下は、門を閉じるために残られた。アークライトで、門へ直接」


 アリシアは瞬きをしなかった。


「今は、消息不明だ」


 廊下に沈黙が落ちた。


「殿下の御命令で、わしは戦列を離れた」


 ガルフは続けた。


 声を平らに保つことに、すべての力を使っていた。


「勝手を許す、と仰った。万一に備えよ、ということだった。だからわしは民の収容を優先し、残存艦と共に帰還した」


「……殿下が、お父様にそう仰ったのですか」


「直接に」


 アリシアは小さく息を吸った。


 ガルフは、帰還の航路でずっと抱えていた言葉を、ようやく口にした。


「最初は、追い払われたと思った」


「お父様」


「正直に言う。悔しかった。死に場所を奪われたと、そう感じた」


 ガルフは娘の目を見た。


「だが、帰りの艦の中でずっと考えていた。なぜあの瞬間に、あの言葉だったのか」


 アリシアは黙って聞いている。


「殿下は、あの瞬間にも先を見ておられた」


 声が、わずかに揺れた。


「誰を残すべきか。何を守らせるべきか。それを、命令という形で実行された」


 ガルフは拳を握った。


「勝手を許す、は、お前を信じるという言葉だ。同時に、万が一の布石を今打つという意思だ。あの少年は、自分が戻らない可能性を正確に計算した上で、それでも先を整えようとされた」


 老将の声が低くなる。


「わしが帰ってこなければならない理由は、そこにある。お前を守ることだけではない。殿下が打った布石を、無駄にしてはならない」


 しばらく、廊下が静かだった。


 アリシアはずっと父を見ていた。


 その目の中に、何かが灯っている。


 揺れているが、消えない。風の中の灯のような光だった。


「……殿下は」


 やがて少女が口を開いた。


「殿下は、何か仰いましたか。最後に」


「ああ」


 ガルフは答えた。


「必ず戻る、と」


 その瞬間、アリシアの表情が動いた。


 ほんの少しだった。


 目の奥の何かが一瞬だけ大きく揺れて、すぐ静まる。嵐が来て、波が立ち、また凪になる。それだけのことが、一瞬で顔の上を過ぎた。


「お父様に、直接」


「直接に。わしの顔を見て、そう言われた」


 アリシアは一度だけ目を伏せた。


 そして、上げる。


「では戻ります」


 それだけだった。


 疑念がなかった。


 縋りがなかった。


 慰めを求める色が、欠片もなかった。


 戻ります。


 ただ、それだけを事実として口にした。


「ただ」


 少女は続けた。


「いつになるかは、誰にも分かりません」


「……そうだ」


「一年かもしれない。十年かもしれない。百年、あるいはそれ以上かもしれない」


 ガルフはすぐに答えられなかった。


 その言葉が十一歳の娘の口から出た重さを、受け止めるのに少し時間が必要だった。


「ならば、待つための支度をしなければなりません」


 アリシアの声は変わらなかった。


「殿下がいつお戻りになっても、足を引くわけにはいきません。どれだけ時が経っていても、隣に立てなければ意味がない。世界が変わっていても、殿下の邪魔をするようでは、お父様が言った布石が無駄になります」


 ガルフは目を見開いた。


 娘はもう、そこまで繋げていた。


「私が今この瞬間から動かなければ、時間は常にこちらの不利に働きます。殿下がどのような形で戻られるか分からない以上、考え得るあらゆる場合に備えなければなりません」


「アリシア」


「お父様が仰った通りです。殿下は布石を打たれた。ならば私たちは、その布石が機能するよう整えなければなりません」


 少女の目が、真っ直ぐにガルフを見た。


「お父様、私を仕上げてください」


 その言葉を聞いた瞬間、ガルフの胸の奥で何かが鳴った。


「殿下が戻られた時に、恥をかかせないように。隣に立てるように。それだけではなく、殿下がお戻りになるまでの間に世界がどう動くかも分かりません。秩序がどれほど乱れるか。誰が何を狙うか。ファーランドの家に何が求められるか。全部、考えておかなければ」


「……お前は、怖くないのか」


 少女は黙った。


 一呼吸分の沈黙だった。


「怖い、というのとは少し違います」


 やがて静かに答えた。


「殿下が戻ると言ったのだから、戻ります。それは疑っていません。ただ、何もしなくていいという意味ではないとも分かっています。何の準備もなく待っているだけでは、殿下の帰る場所を守れない」


 燭台の灯りに照らされた横顔は、ひどく儚げだった。


 白い肌。


 薄い肩。


 子供の輪郭。


 それなのに、その目の中に住んでいるものが違った。


「……分かった」


 ガルフは言った。


 声が、少し掠れていた。


「ファーランドの名にかけて、お前を仕上げる。剣も、政も、外交も、世の動きも。殿下がお戻りになった時に、お前が恥をかくことのないように」


「ありがとうございます」


「だが条件がある」


 アリシアが父を見る。


「侍医にすべて診せること。わしも、お前も。今夜すぐに」


「……お父様の方が、傷は重いでしょう」


「同時にやる」


「分かりました」


 素直に頷いた。


 ガルフは、娘の前に片膝をついた。


 戦場で主君に向けるように。


「ガルフ・ファーランド、誓う」


 アリシアが目を見開く。


「お前が待つ間、お前を守る。戦う間も、学ぶ間も、どのような時も。ファーランドの剣は、お前のためにある」


「お父様、そのような」


「受け取れ」


 ガルフは娘を見た。


「殿下から、わしはお前を託された。それがどういう意味か、お前も分かるだろう」


 アリシアは黙った。


 やがて、小さく頷く。


「……謹んで」


 ガルフは立ち上がった。


「アリシア。一つだけ言わせてくれ」


 少女は黙って父を見た。


「よく堪えた」


 その瞬間、アリシアの表情が揺れた。


 ほんの少し。


 子供の顔になった。


 目の端が、かすかに光った。


 それは涙になる前に引っ込んでいったが、確かにそこにあった。


「……泣いては、おりません」


「分かっている」


「泣く理由は、まだありません」


 アリシアは、小さく息を吸った。


「殿下は必ず戻られますから」


「アリシア」


 ガルフは静かに繰り返した。


「分かっている」


 少女は口を閉じた。


 廊下に、また静寂が落ちる。


 燭台の火が揺れた。


 やがてアリシアは小さく息をついて、階段へ引き返した。


 二段上がったところで振り返る。


「お父様も、必ずお休みください」


「ああ」


「侍医が参りましたら、逃げないでください」


「逃げんと言っている」


「……本当に」


「逃げん」


 アリシアはじっと父を見た。


 信じていない目だった。


「先生には、お父様が逃げた場合は私に知らせるよう、伝えておきます」


「お前は」


「おやすみなさいませ、お父様」


 言い切って、少女は上へ消えた。


 足音は、最後まで聞こえなかった。


     ◇


 ガルフは一人、廊下に残された。


 しばらく動けなかった。


 壁に片手をつく。


 体が重い。


 鎧の重さでも、傷の痛みでもなかった。ここまで帰り着くまで引きずってきたものが、ようやく足元へ落ちようとしていた。


 廊下の奥から、小さな灯りが近づいてくる。


 侍女が二人、侍医を連れて歩いてきた。その後ろにバルデがいる。


「閣下、ご無事で」


「令嬢のお言いつけで参りました。今夜中に処置を、と」


「……聞いていたのか」


「いいえ。先ほど令嬢が直接、書き付けを渡してこられました」


 バルデが折り畳んだ紙を差し出した。


 ガルフは受け取り、開く。


 整った文字で、端的に書いてあった。


 父が帰還次第、傷のすべてを診ること。


 逃げた場合は私に報告すること。


 夜食と湯を用意すること。


 明朝、詳細を私に報告すること。


 以上。


 日付と、小さなアリシアの署名。


 一行も余分がなかった。


 ガルフは長い息を吐き、書き付けを折り畳んだ。


「……診てもらおう」


 侍医に案内されながら、廊下を歩く。


 ふと窓の外を見た。


 夜空に、傷ついた艦たちが停泊している。灯りをともし、それぞれの傷を抱えて、静かに浮かんでいた。


 待つと決めた者には、やるべきことがある。


 娘が今夜から動き出したように、自分もまた立っていなければならない。


 それが今のガルフにできる、すべてだった。


     ◇


 世界は、あの夜から変わった。


 門は閉じた。


 異形の侵攻は止まった。


 しかし残ったものは、廃墟と混乱と、誰も正確に答えられない問いだけだった。


 中央政府は麻痺した。


 戦前に存在した秩序の多くは、業火の中で形を失った。大陸の三分の一が焼け、主要な通信網は寸断され、王都の機能は半年が過ぎても完全には戻らなかった。


 指導者たちは互いに責任を押し付け合い、復興の優先順位を巡って争い、力の空白を埋めようとする者たちが各地で頭をもたげた。


 その混乱の中で、ガルフ・ファーランドは動いた。


 まず、領地を固めた。


 残存艦隊を再編し、周辺への哨戒を強化した。戦災民の受け入れを積極的に行い、近隣の崩壊した領地から流れてくる者たちへ食糧と住居を提供した。


 他の領主が自領を守るため門を閉じる中で、ファーランドだけが開いていた。


 それは善意でもあった。


 だが、戦略でもあった。


 人が集まれば、技術が集まる。


 知恵が集まる。


 やがて産業が生まれ、交易が生まれ、そこに秩序が根づく。


 ガルフはそれを知っていた。


 いや、アリシアが最初の夜に示した方向を、忠実に実行していた。


 娘は、その間ずっと傍にいた。


 政務の場で。


 外交の席で。


 時に口を挟み、時に黙ってすべてを記録し、夜には父の執務室へ入って「本日の問題点」を箇条書きにした紙を置いていった。


 感情の言葉は一行もない。


 すべて、事実と提案だった。


 ガルフは一度だけ、その紙を手に苦笑した。


 似ている、と思った。


 あの少年が戦術室で出していた指示の書き方に、この娘の文章は似ていた。


 無駄がなく、優先順位が明確で、読んだ者が迷わない。


 殿下に鍛えられたのか。


 それとも、最初からそういう子だったのか。


 どちらでもよかった。


 ファーランドは立っていた。


 それで十分だった。


     ◇


 三年が経った頃、ガルフは公爵位を得た。


 正確には、得たというより、周囲が認めるしかなくなったという方が近い。


 中央政府が機能を回復しつつある中、各地の有力領主への爵位再編が行われた。戦後の混乱を最も安定した形で乗り越え、周辺領地の復興を主導し、難民の受け入れで他に抜きん出た実績を持つファーランドに対し、公爵位を与えないという選択肢を、政府は持てなかった。


 叙任式の朝、アリシアがガルフの執務室に入ってきた。


 当時まだ十四歳だったが、その目はもう完全に子供のものではなかった。


「おめでとうございます、お父様」


「お前の成果だ」


「お父様が動かれなければ、私が何を考えても意味がありませんでした」


「お前が考えなければ、わしは方向を誤っていた」


 二人は互いを見た。


 どちらも、笑わなかった。


 どちらも、誇りを目の奥に持っていた。


「殿下なら」


 アリシアが静かに言った。


「公爵位など飾りに過ぎん、と仰るでしょうね」


「……そうだな」


「実質が伴わなければ意味がない、と」


「殿下は、そういうお方だ」


 アリシアは窓の外を見た。


 ファーランド公国の旗が、朝の風に揺れている。


 青地に銀の剣。


 ガルフが選んだ紋章だった。


「ならば、実質を作り続けるだけです」


 少女はそう言って、部屋を出た。


 ガルフは、その背を見送った。


 似ている、ともう一度思った。


 けれど今度は、誰に似ているか、などという問いが消えていた。


 あの子自身が、すでに何者かになっている。


 そう感じた。


     ◇


 転機が来たのは、アリシアが十六になる年の初春だった。


 その頃、アリシアはガルフに一冊の技術論文を持ってきた。


 内容は、石化睡眠の安定維持と、時間を超えた情報引き継ぎ体系の構築に関するものだった。


「これを、実用化します」


 ガルフは論文を読んだ。


 読み終えて、黙った。


「まだ実用段階にない技術だ」


「今は。ですが、時間は私の方にあります」


「……どのくらいかかる」


「半年から一年、見ています」


 ガルフは娘を見た。


「何のためにやる。正直に言え」


 アリシアは躊躇わなかった。


「殿下がお戻りになった時、私だけが過去の人間では困ります」


 ガルフは目を細めた。


「石化睡眠に入れば、時間の経過を受けません。覚醒した瞬間に、眠る前と変わらない状態で殿下をお迎えできる。ただし」


 アリシアは続けた。


「眠っている間に世界が変わります。政治が変わります。ファーランドを取り巻く状況も変わります。目覚めた瞬間に、そのすべてを把握できなければ、私は役に立てない。だから、目覚めた段階で必要な情報が引き継がれるよう、体系を作っておく必要があります」


「……それをお前は、半年で」


「私一人で技術を作るわけではありません」


 アリシアは、論文の端に指を置いた。


「技師たちや学者たちが、それぞれ未完成のまま抱えている理論があります。私がするのは、それらを一つの目的へ束ねることです」


「一年かかっても構いません。入眠の時期を逆算すれば、準備に使える時間は分かります」


 ガルフは立ち上がった。


 部屋の中を一度歩き、窓の外を見た。


 それから戻って、娘と向き合う。


「お前が眠っている間、わしはどうすればいい」


「ファーランドを守ってください」


「それだけか」


「それだけです」


 アリシアは真っ直ぐに言った。


「お父様には、殿下がお戻りになるまで生きていていただきたい。でも、それがどれだけ難しいことかも分かっています」


 ガルフは答えなかった。


「だから、後継を育てておいてください。お父様の意思を継ぐ者を。私が目覚めた時に、ファーランドが盤石であるように」


 少女の目は揺れなかった。


「私が眠っている間のことは、お父様にすべて委ねます。信じています」


 ガルフはその言葉を、しばらく胸の中で転がした。


 信じています。


 あの子がその言葉を使う時、それは最大の言葉だということを、ガルフはこの五年で知っていた。


「分かった」


 ガルフは頷いた。


「お前の言う通りにする」


     ◇


 技術の実用化に、アリシアは十一ヶ月を要した。


 彼女が作ったのは、技術そのものではない。


 技師や学者たちが散らばって抱えていた未完成の理論を、一つの目的へ束ねる道筋だった。


 その間、アリシアは一日も休まなかった。技師たちを率い、実験を繰り返し、失敗の記録をすべて文書化し、次の試みへ繋げた。


 泣き言は一度も言わなかった。


 ただ、時々執務室の窓から空を見ている時、その横顔だけが少し遠くなった。


 何を見ているのか、ガルフには分かっていた。


 分かっていて、何も言わなかった。


 入眠の前夜、アリシアはガルフの書斎に来た。


 夕刻の光の中で、十六になった娘は、十一の頃と同じ静かな目をしていた。


 背だけが少し伸びていた。


 それ以外は、あの夜の廊下と変わらないように見えた。


「明日の朝です」


「……ああ」


「準備はすべて終わっています」


「確認した。完璧だった」


「ありがとうございます」


 二人は向き合った。


 ガルフは何か言おうとした。


 言葉が、また出てこなかった。


「お父様」


 アリシアが先に口を開いた。


「一つだけ、聞いてもよいですか」


「なんだ」


「殿下が戻られた時のことを、どう想像されていますか」


 ガルフは少し考えた。


「正直に言えば、想像できん」


「……そうですか」


「お前は?」


 アリシアは窓の外を見た。


「私も、うまく想像できません。でも」


 少し間があった。


「目を覚ました瞬間に、殿下がそこにいたら、と思うことはあります」


「そうか」


「現実的ではないとは分かっています」


「分かっていても、思うことはある」


「……はい」


 それだけだった。


 ガルフは娘の横顔を見た。


 儚い、と思った。


 この子の外見はいつもそう見える。


 けれど、その内側には鋼が通っている。


 その両方が、今この瞬間、同時に見えた。


「アリシア」


「はい」


「よく、やった」


 少女はしばらく黙っていた。


「……お父様に、そう言っていただけるのは」


 声が、ほんの少し揺れた。


「殿下に言っていただくまでの、代わりでしょうか」


「代わりではない」


 ガルフはきっぱりと言った。


「わしが言いたいから言っている」


 アリシアは小さく頷いた。


 それ以上は何も言わなかった。


 夕刻の光が、書斎の床を橙に染めていた。


     ◇


 翌朝、夜明け前に城の奥へ向かった。


 星の間、と呼ばれるその部屋は、城の最深部にあった。


 分厚い石壁が、季節を、天候を、音を、すべて遮断する。天井には古い文様が刻まれ、仄かな青白い光を放っていた。まるで室内に夜空が広がっているように見えた。


 部屋の中央に、低い基部がある。


 アリシアはその前に立った。


 白い礼装だった。


 髪は丁寧に結われ、細い首筋が露わになっている。


 その隣には、メイがいた。


 アリシア付きの侍女は、いつものように一歩後ろに控えている。ただ、その表情だけはいつもと違っていた。泣きそうで、それでも泣かない顔だった。


 技師たちが最終確認を終え、頭を下げて退室した。


 最後にガルフだけが残った。


「お父様」


「ここにいる」


「情報体系の最終文書は、書斎の第三引き出しに」


「知っている」


「後継への引き継ぎ手順は」


「全部読んだ」


「覚醒時の確認項目は」


「アリシア」


 ガルフは静かに娘の名を呼んだ。


「全部、分かっている」


 少女は口を閉じた。


 深呼吸を一つする。


「……はい」


「基部に上がれ」


 アリシアは頷いた。


 基部へ一歩、また一歩。


 振り返らなかった。


 振り返れなかったのかもしれなかった。


 メイも続いた。


 アリシアは基部の中央で、まっすぐに立った。


 両手を胸の前で静かに重ねる。


 白い礼装と青白い光のせいで、その姿はまるで聖女の像のように見えた。


 いや、そう見えるように整えたのだろう。


 未来に残る者が、どう受け取るかまで計算して。


 メイはその少し後ろで膝を折り、祈るように両手を組んだ。


 主の眠りを見送るのではなく、自分もまた同じ時の中へ入るための姿だった。


 石化は、外側から静かに始まった。


 指先から、手の甲へ。


 手首から腕へ。


 痛みを伴わないと聞いていたが、ガルフには確かめようがなかった。ただ、娘の顔が穏やかなままであることだけは見えた。


 石化が顔に達する直前、アリシアの唇が動いた。


 声は聞こえなかった。


 しかし、ガルフには読めた。


 お待ちしております。


 誰に向けた言葉か、言うまでもなかった。


 石化が完了した。


 部屋の青白い光の中に、純白の石像が立っていた。


 それはアリシアだった。


 目を閉じ、胸の前で手を重ね、まるで静かな祈りの中で眠りについているように見えた。


 石になっているはずなのに、今にも息をしそうだった。


 その後ろには、祈る姿のまま石化したメイがいる。


 聖女と、その祈りを守る侍女。


 後の世が何を見ることになるのか、ガルフにも分かった。


 ガルフはしばらく動かなかった。


 それから、片膝をついた。


 戦場で主君に向けるように。


「よく眠れ」


 老将はそれだけ言った。


 声は、最後まで揺れなかった。


     ◇


 後継の名はレイナルドといった。


 ガルフの甥の子だった。


 早くに親を失い、ファーランドに引き取られた経緯がある。


 物静かで、決断が早く、人の話をよく聞いた。


 剣の筋は普通だったが、努力で補う種類の人間だった。


 ガルフはあの夜から、この子の教育を始めていた。


 政務の場へ連れていき、外交の席へ同席させ、問いを立て、答えさせ、どこが足りないかを指摘した。


 感情的な叱り方はしなかった。


 なぜそうなるのか。


 どうすれば違ったか。


 常に、それだけを問うた。


 剣は、毎朝鍛錬した。


 ガルフ自身が相手を務めた。衰えた体を奮い立て、記憶の中にある最良の型を見せ続けた。


 レイナルドは伸びた。


 才能ではなく、意志で伸びた。


 それがガルフには好ましかった。


 才能は裏切ることがあるが、意志は自分で管理できる。


 歳月が重なった。


 ガルフの髪は完全に白くなった。脇腹の古傷が、雨の日に疼くようになった。右足の遅れが、若い頃より顕著になった。


 それでも毎朝、鍛錬の場に立った。


 サボることはしなかった。


 できなかった。


 約束があったからだ。


 殿下が打たれた布石を、無駄にしてはならない。


 アリシアが整えた体系を、潰してはならない。


 星の間で眠るあの子が目覚めた時、ファーランドが盤石でなければならない。


 それだけが、ガルフの足を前へ向け続けていた。


     ◇


 その日の朝も、鍛錬は夜明けと共に始まった。


 中庭に二人が立つ。


 石畳の上に、朝の光が斜めに差し込んでいた。


 ガルフは木剣を持った。


 レイナルドも同じく。


 始めの礼が終わる。


 二人は構えた。


 先に動いたのはレイナルドだった。


 踏み込みが速い。


 以前より一歩、明らかに速かった。


 ガルフは受け、右へ流した。


 すぐに返しが来る。


 角度が変わっていた。


 昨日と違う。


 悪くない、とガルフは思った。


 打ち合いが続く。


 ガルフは受け続けた。


 捌き、流し、空間を作り、相手の動きを見た。


 レイナルドは焦らなかった。


 それが成長の証だと、ガルフは知っていた。


 若い頃のレイナルドは、膠着すると仕掛けを急いだ。今は違う。待てるようになっていた。


 機を読もうとしている。


 ガルフは一度、深く踏み込んだ。


 右の大振り。


 全力ではないが、圧のある一撃だった。


 レイナルドはそれを外した。


 外した後、左から差し込む。


 木剣の腹が、ガルフの脇腹を捉えた。


 軽い当たりではなかった。


 ガルフはわずかに体勢を崩した。


 レイナルドが動きを止める。


 驚いていた。


 自分の剣がガルフを崩したことに、まだ慣れていない顔だった。


 ガルフは構えを解いた。


 木剣の先を石畳に当て、そのまま体重を預ける。


 しばらく、中庭が静かだった。


「閣下」


 レイナルドが声をかけた。


 心配の色がある。


「……よい」


 ガルフは答えた。


「お前が打った」


「それは」


「打ったのだ」


 静かに、しかしはっきりと言った。


「今日、お前はわしに勝った」


 レイナルドは黙った。


「剣だけではない。政でも、外交でも、わしが教えられることはすべて、お前に渡した。お前の中にある」


「閣下……」


「ファーランドを、頼む」


 レイナルドの顔が引き締まった。


 それが何を意味する言葉か、理解したのだろう。


「……承知いたしました」


「星の間のことも、お前には話してある」


「はい」


「あの子が目覚めた時、お前が誰より先に知らせろ。どのような状況であっても、それだけは必ず」


「必ず」


「それから」


 ガルフは言葉を選んだ。


「殿下がお戻りになる日が来るかもしれん。来ないかもしれん。それは、わしには分からん。だがお前の子に、またその子に、伝え続けろ。ファーランドは何を守るために立っているのか」


「伝えます。必ず」


 ガルフは頷いた。


 それから、木剣を両手で持ち直した。


 切っ先を石畳につけたまま、まっすぐに立つ。


 朝の光が、中庭を満たしていた。


 遠くで、城の旗が風に揺れる音がした。


 ガルフは目を閉じた。


 あの夜の廊下が見えた。


 燭台の灯りの中で、白い寝衣の少女が階段を降りてくる。


 足音がない。


 膝の上には開かれていない本がある。


 戦術室が見えた。


 赤い警報灯の下で、白い髪の少年がまっすぐにこちらを見ている。


 必ず戻る。


 その声が、耳の奥で鳴った。


 ガルフは薄く笑った。


 殿下。


 わしはここまでです。


 あとは、ちゃんとした者たちに任せました。


 だから、どうか。


 お帰りの時には。


 あの子が、ちゃんとお側に立てますように。


 老将の体が、ゆっくりと傾いた。


 それでも、剣を手放さなかった。


 両手で支えたまま、石畳の上に膝をつかず、倒れず、まるで最後の敬礼のように、まっすぐな姿勢を保ったまま、静かに動かなくなった。


 レイナルドが駆け寄る。


 声をかける。


 答えはなかった。


 穏やかな顔だった。


 眠っているようだった。


 戦場で幾度も見てきた、力尽きた武人の顔ではない。


 ただ静かに、全うした者の顔だった。


 中庭に、朝の光が満ちていた。


 レイナルドはしばらく膝をついて、動かなかった。


 それから、深く頭を下げた。


 戦場で主君に向けるように。


「……ガルフ・ファーランド公」


 低く、静かに言った。


「お疲れさまでした」


 城の旗が、風に揺れた。


 青地に銀の剣。


 ファーランドの旗は、その日も変わらずそこにあった。


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