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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第二十五夜 礎石の儀

第二十五夜 礎石の儀


 墓地は、公都ラーンの北にある高台に広がっていた。


 ファーランドの公都ラーンを、眼下に一望できる場所だった。


 星の間を出てから、長い時間は経っていない。


 それでも、ずいぶん遠いところまで来たように思えた。


 地下の星空。


 透明な台座。


 白い衣で目覚めたアリシア。


 アインを三度打った手。


 そして、千五百年。


 そのすべてを抱えたまま、今、ファーランドの高台に立っている。


 風があった。


 公都から吹き上がる風だ。


 城壁を越え、街路を抜け、屋根の上を渡り、この墓地まで届く風。


 その風の中で、眼下を見た。


 公都ラーンの城壁は厚い。


 街道は、今もまっすぐ海へ向かっている。


 港は遠く、朝の光の中に霞んでいた。


 知っている。


 この街が、どうしてそういう形をしているのか。


 この国が、どうして千五百年もの間、燃えずに残ったのか。


 千五百年前よりさらに百年ほど昔、ファーランドはまだ公国ではなかった。


 ベルカ魔導帝国の辺境に位置する、ファーランド辺境伯家の領地。


 北には、大陸を縦断する竜山脈がある。


 険しい山脈は東西を隔て、多くの道を拒んだ。


 けれど、山脈の南端に位置するファーランドだけは違った。


 限られた東西交易路のひとつが、ここを通っていた。


 陸路と海路が交わる場所。


 人と物資と情報が集まる、辺境でありながら要衝でもある土地。


 それが、かつてのファーランドだった。


 大戦が始まった時、偶然この地へ帰郷していた正皇妃は、ベルカ皇都ベルンの崩壊を免れた。


 皇都との通信が途絶したことを確認した正皇妃は、無事に産み落とした皇子を次期皇帝と定め、自らは摂政として国の舵を取った。


 それから百年。


 ファーランドは、反撃の拠点となった。


 城壁は厚くなり、港は軍港となり、街道は補給線となった。


 この地は、国境の町ではなく、南部戦線を支える要塞へ変わった。


 巧みな戦術で戦線を維持し続けたファーランドは、大戦終結後、公国を名乗る。


 その後も、戦乱は幾度となく訪れた。


 けれど、戦火が東のミース大河を越えることはなかった。


 千五百年。


 その長い時間、ファーランドは燃えなかった。


 その事実は、知識として知っていた。


 けれど、今日は違う。


 眼下に広がる街が、ただの公都ではなく見えた。


 ガルフ・ファーランドが残した場所。


 アインが「勝手を許す」と告げ、ガルフが守り抜いた場所。


 その重みが、風と一緒に胸へ入ってくる。


 高台の上には、広大な墓域があった。


 代々の大公家の墓。


 国を守って死んだ騎士たちの墓。


 名を刻まれた者も、名を残せなかった者も、同じ風の下に眠っている。


 その中央に、大きな慰霊碑が立っていた。


 初代大公ガルフ・ファーランド。


 そして、彼とともにファーランドの礎となった者たちの名を刻んだ碑だった。


 参道は広い。


 今日は、その参道の左右に、千に近い者たちが整列していた。


 アークライトのハイランダー。


 調整体たち。


 ファーランド大公家と、関係する家々の者たち。


 リシア、ステファニア、セラ。


 メイ。


 ガリウス大公と大公妃。


 ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵、カリウス・グレイヴェル子爵。


 誰も、声を出さない。


 空には、艦影はなかった。


 古代ベルカの船が影を落とすことも、魔導騎装が威を示すこともない。


 ミッドランド級も、ローランド級も、ラーンの空を通らなかった。


 ただ、空は高く、風は静かだった。


 けれど、守りがないとは誰も思わなかった。


 見えない場所に、見えない形で、アークライトはいる。


 そのことを、参列者の誰もが理解していた。


 見せない。


 けれど、いないわけではない。


 その静けさが、かえって深い圧になっていた。


 やがて、笛が鳴った。


 鹿の鳴く声にも似た、細く、遠い音だった。


 ひとつ。


 ふたつ。


 三つ目の音が風に溶けた時、静かな楽曲が始まった。


 軍楽ではない。


 勝利を告げる音でもない。


 人を奮い立たせるための音でもない。


 ただ、去った者の名を、忘れないための音だった。


 参道の奥で、二人が歩き出す。


 アインと、アリシアだった。


 中央には、深い色の絨毯が敷かれている。


 その上を、二人は並んで歩いた。


 アインは、黒に近い礼装をまとっていた。


 装飾は少ない。


 けれど、その少なさがかえって、彼が何者であるかを隠さなかった。


 アリシアは、白い衣をまとっていた。


 覚醒直後に着せられたものとは違う、ファーランドとベルカの双方に配慮した礼装だった。


 白い布が風を受け、わずかに揺れる。


 彼女はまっすぐ前を見ていた。


 墓の前へ向かう顔だった。


 父の前へ、ようやく帰る顔だった。


 メイは、参道の片側で両手を胸の前に重ねていた。


 泣きそうな顔をしている。


 それでも、声は出さない。


 その少し後ろに、彼女は立っていた。


 自分の祖先の墓へ向かう二人を、ただ見ていた。


 千五百年。


 それだけの時間が、今、この絨毯の上で一歩ずつ縮まっていくように見えた。


 アインとアリシアは、慰霊碑の前で足を止めた。


 碑の前には、豪奢な敷物が敷かれている。


 祈りのための場所だった。


 アインが、片膝をついた。


 その隣で、アリシアが両膝をつく。


 誰も、動かなかった。


 笛の音も、楽曲も、いつの間にか遠くなっていた。


 風だけがあった。


 花を揺らす風。


 碑に刻まれた名の上を撫でる風。


 そして、長い沈黙があった。


 演説はない。


 宣言もない。


 勝利の報告も、帰還の誇示もない。


 そこにあるのは、ただ悼むための時間だった。


「お父様」


 アリシアが、小さく言った。


 その声は大きくない。


 けれど、不思議と、参道の端に立つ者にも届いた。


「お父様の分まで、アイン様を殴って差し上げましたわよ」


 誰も笑わなかった。


 けれど、その言葉が涙だけでできているものではないことを、誰もが分かった。


 怒り。


 安堵。


 再会。


 置いていかれた時間。


 それらすべてを抱えた、娘の報告だった。


 アインは、目を伏せたままだった。


 やがて、クラウディアが音もなく進み出た。


 その手には、一本の酒瓶と、ひとつのグラスがある。


 ガルフが好んだ酒だった。


 アインはそれを受け取った。


 瓶の封を切る。


 小さな音がした。


 広大な墓域に、その音だけが不思議なほど澄んで響いた。


 琥珀色の酒が、グラスに注がれていく。


 とく、とく、と。


 朝の光を受けて、液面が小さく揺れた。


 アインはグラスを慰霊碑の前に置いた。


 そして、酒瓶もその隣へ置く。


 皇太子としてではなかった。


 ベルカの後継者としてでもなかった。


 その時のアインは、ただ、かつて同じ戦場に立った者だった。


 同じ空を見て、同じ戦を知り、最後に別れた戦友だった。


「向こうで、皆と呑むが良い」


 言葉は、それだけだった。


 それだけでよかった。


 ガリウス大公が、深く頭を垂れた。


 その肩が、わずかに震えていた。


 建国の祖の墓前に、その主君が立っている。


 神話ではなく、伝承でもなく、今、目の前で。


 大公妃も、ウィリアムも、カリウスも、それに続く。


 ハイランダーたちは、音もなく膝を折った。


 調整体たちも、同じように頭を下げる。


 ファーランドの者たちは、その所作が何を意味するのかを完全には知らない。


 けれど、それが軍礼ではないことだけは分かった。


 命令ではない。


 示威でもない。


 ベルカ皇族が、ひとりの死者へ捧げる慰霊だった。


 リシアも、頭を下げた。


 ステファニアも。


 セラも。


 その沈黙の向こうに、公都ラーンがあった。


 ガルフが残した国があった。


 アインが「勝手を許す」と告げて、ガルフが守り抜いた場所があった。


 風が、また吹いた。


 誰も、言葉を足さなかった。


 墓前のグラスだけが、朝の光の中で静かに輝いていた。


 しばらくして、アインが立ち上がった。


 アリシアも、ゆっくりと立つ。


 その顔に、涙はなかった。


 けれど、星の間を出た時とは違っていた。


 何かを置いてきた顔ではない。


 置いてきたものに、ようやく手を伸ばせた顔だった。


 アインは一度だけ、慰霊碑に目を向けた。


「戻った」


 声は、ごく小さかった。


 誰へ向けた言葉なのか、分からなかった。


 ガルフへなのか。


 その向こうにいる者たちへなのか。


 あるいは、千五百年前の自分自身へなのか。


 けれど、その言葉が墓地の風に消えた時、思った。


 長い眠りは、終わった。


 失われた時間は戻らない。


 それでも、戻ってきた人たちはいる。


 戻ってきた祈りも、確かにここにある。


 公都ラーンの上に、朝の光が広がっていた。


 その光は、艦影のない空から、静かに降り注いでいた。


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