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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第二十四夜 待つことを選んだ姫

第二十四夜 待つことを選んだ姫


「解除しますか」


 クラウディアの声は、星の間に静かに響いた。


 誰もすぐには答えなかった。


 星の間の光は、呼吸するように明滅している。床も、壁も、天井も、夜空のように深い藍色をしていた。その中で、鍵スフィアだけが淡く白い光を放っている。


 その光の先に、アリシアがいた。


 白い衣をまとい、胸の前で手を重ね、目を閉じている。


 眠っているように見える。


 けれど、ただ眠っている人とは違う。


 時間そのものに閉じ込められているようだった。


 リシアは、自分の指先に残る光を見つめた。


 まだ温かい。


 扉を開けた時の感覚とは違う。


 これは、もっと深い。


 名前の奥にあるものへ触れてしまったような感覚だった。


「解除した場合の危険は」


 カリウスが低く聞いた。


 セラの父らしい、実務的な声だった。


 クラウディアは即座に答える。


「保存反応そのものは安定しています。解除時に想定される危険は三つ。術式崩壊、記憶同期の過負荷、覚醒直後の身体反応です」


「戦闘行動の可能性は」


「あります」


 クラウディアは迷わなかった。


 その場の空気が、少しだけ硬くなる。


 メディナがリシアたちの前で、わずかに立ち位置を変えた。守るための位置だ。


 セラも、剣を持っていない手を自然に下げた。


「セラ様」


 メディナが言った。


「止まれと言われたら止まる、でしたね」


「承知しています」


 セラは短く答えた。


 カリウスが満足そうに見えるかと思ったが、そうでもなかった。むしろ、少しだけ胃が痛そうな顔をしている。


 リシアは、目の前の白い少女を見た。


 戦闘行動。


 この眠っているような人が、目を覚ました直後に。


 想像できない。


 けれど、アークライトの人たちは想定している。


 つまり、あり得るのだ。


「アイン様」


 クラウディアが静かに呼んだ。


 アインは鍵スフィアの前に立ったまま、アリシアを見ていた。


 その横顔は、第二十三夜で見たものよりさらに遠かった。


 目の前にいる。


 けれど、まだ会えていない。


 リシアは、その言葉を思い出した。


「解除する」


 アインが言った。


 短い声だった。


 けれど、その一言に星の間全体が応えた。


 鍵スフィアの光が広がる。


 細い線が幾重にもほどけ、アリシアとメイの基部へ流れていく。光は白ではなく、少しだけ金に近い色を帯びていた。


 クラウディアが端末を操作する。


「鍵スフィア、解除手順開始。ファーランド系譜照合、継続。アイン様認証、継続。保存術式、外層から順次解除」


 リシアの前に浮かんでいた光の線が、ゆっくりと震えた。


「リシア様」


「はい」


「そのままです。何もしないでください」


「分かっています」


 何もしない。


 ただ、通す。


 何度も言われたことなのに、今ほど難しいと思ったことはなかった。


 目の前で、千五百年がほどけようとしている。


 その中に、自分の血の名が関わっている。


 何もしないでいる方が、ずっと難しい。


 それでも、リシアは息を整えた。


 指先から、胸の奥へ。


 胸の奥から、もっと深い場所へ。


 流れるものを押さえず、引かず、ただ通す。


 鍵スフィアの光が一段強くなった。


 アリシアの白い衣の裾が、風もないのにわずかに揺れる。


 メイの伏せた髪にも光が走った。


 メディナが小さく息を呑む。


「生体反応、立ち上がります」


 クラウディアが言った。


 星の間の奥で、何かが割れるような小さな音がした。


 石ではない。


 氷でもない。


 長い眠りの薄い膜が、剥がれ落ちる音だった。


 アリシアの指が動いた。


 ほんのわずかに。


 それだけで、リシアの心臓が強く跳ねた。


 アインは動かない。


 ただ、見ている。


 アリシアの睫毛が震えた。


 次の瞬間、彼女は目を開けた。



 青い瞳だった。


 リシアは、自分の目を鏡で見た時の色を思い出した。


 似ている。


 けれど、違う。


 アリシアの瞳には、起き抜けのぼんやりした色がなかった。


 眠りから戻ったばかりの人ではない。


 ずっと待っていて、ようやく扉が開いた人の目だった。


 アリシアは、ゆっくりと瞬きをした。


 視線が星の間を一巡する。


 ガリウス。


 ウィリアム。


 カリウス。


 クラウディア。


 メディナ。


 リジェナとリジェスカ。


 リシアたち三人。


 そして、最後にアインで止まった。


 その瞬間だけ、アリシアの表情からすべての整えられたものが消えた。


 リシアには、そう見えた。


 怒りでもない。


 驚きでもない。


 ただ、会いたかった人を見つけた顔。


 けれど、それは一瞬だけだった。


 次に浮かんだのは、完璧な微笑だった。


 王妃教育を受けた公女の微笑。


 礼儀正しく、優雅で、少しも乱れていない。


 だからこそ、怖い。


「おかえりなさい……いいえ、おかえりなさいませ、殿下」


 アリシアは言った。


 声は澄んでいた。


 千五百年の眠りを越えたとは思えないほど、乱れがない。


 アインは答えなかった。


 アリシアの微笑が、ほんの少し深くなる。


「……いえ、亡霊とお呼びすべきでしょうか?」


 リシアは息を止めた。


 亡霊。


 その言葉を、アリシアは知っている。


 アインが自分をそう呼んだことを。


 この時代のことを。


 ある程度、知っているのだ。


 アインが小さく息を吐いた。


「アリシア」


 アインは一歩踏み出し、ゆっくりと両腕を広げた。


 千五百年の眠りから戻ったばかりの少女を、そのまま抱きとめようとするかのような、あまりに無防備で、優しい迎え入れの形だった。


「はい」


 アリシアは、優雅に答えた。


 そして、にこりと笑った。


 次の瞬間、音がした。


 乾いた音だった。


 アリシアの拳が、吸い込まれるようにアインの腹部に入っていた。


 速すぎて、リシアにはほとんど見えなかった。


 アインは避けなかった。


 広げた腕を閉じることも、拒むこともせず、その衝撃を正面から受け止めた。


「これは、わたくしの分ですわ」


 アリシアの声は、乱れない。


 リシアは目を見開いたまま固まった。


 ステファニアも同じだった。


 セラだけが、反射的に半歩動きかけた。


「止まれ」


 カリウスとメディナの声が重なった。


 セラは止まった。


 本当に止まった。


 その間に、二撃目が入る。


「次は、お父様の分です」


 先ほどより深い音がした。


 ガリウスが、何とも言えない顔をした。


 ウィリアムは完全に言葉を失っている。


 カリウスは、止まったセラを確認しながら、アインを見るという器用なことをしていた。


 クラウディアは平然としている。


 リジェナとリジェスカも、平然としている。


 メディナは医療端末を見ていた。


 リシアは、その落ち着きの方が怖かった。


「最後は……」


 アリシアの声が、少しだけ柔らかくなった。


 怒っている。


 確かに怒っている。


 けれど、その奥に、泣きそうな何かがあった。


「わたくしの方が年上になってしまった分ですわ」


 言い終えるより早く、アリシアの足が床を蹴った。


 真下から、アインの顎へ掌底が入る。


 白い衣の裾がふわりと広がる。アリシアは空中で身をひねり、何事もなかったように床へ降り立った。


 アインの顔が少し上を向いた。


 それでも倒れない。


 避けもしない。


 ただ、受けた。


 星の間は、しばらく静まり返った。


 リシアは、自分が口を開けたままになっていることに気づき、慌てて閉じた。


 ステファニアは扇子を持っていない手で口元を押さえている。


 セラは、今度は完全に護衛の顔だった。


 ただし、動かない。


 偉い。


 と、リシアは場違いなことを思った。


 アリシアは、アインを見上げている。


 どうだ、と言わんばかりの顔だった。


 満足している。


 けれど、その瞳の奥は、少しだけ揺れていた。


 アインは、ゆっくりと顎を戻した。


「気は済んだか」


「まだですわ」


 即答だった。


 アインは、少しだけ困ったように見えた。


 リシアは、その表情を初めて見た気がした。


 アリシアは一歩近づいた。


 今度は殴らなかった。


 ただ、アインの胸元に額を近づける。


 触れるか触れないかの距離で止まる。


「ですが」


 声が小さくなった。


「今は、これで足りることにして差し上げます」


 アインは何も言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。



 その時、アリシアの後ろで小さな声がした。


「あ、あわ」


 全員の視線が動いた。


 基部の後ろで、膝をついていた少女が顔を上げていた。


 メイ。


 アリシア付きの侍女。


 彼女は、目をぱちぱちと瞬かせ、星の間を見回し、最後にアリシアを見た。


「アリシア様」


「メイ」


 アリシアの声が、少しだけ緩んだ。


 メイは立とうとして、ふらついた。


 リジェナがすぐに支える。


「ご無理をなさらず」


「あ、ありがとうございます。ええと、ここは」


 メイの視線がアインに止まった。


 次に、アリシアに戻る。


 そして、もう一度アインを見た。


「あわわわわ」


 リシアは、少しだけ安心した。


 この人は、たぶん普通に驚いている。


 アリシアが落ち着きすぎているだけだ。


「落ち着きなさい、メイ」


「はい、アリシア様。落ち着きます。落ち着きますが、殿下が」


「亡霊ですわ」


「あわわ」


 メイはもう一度混乱した。


 クラウディアが、ほんの少しだけ視線をそらした。


 リシアは見逃さなかった。


 クラウディアが、少し困っている。


 アリシアの前では大人しい、という言葉がどこかから聞こえた気がした。


 もちろん、誰も言っていない。


 それでも、そう見えた。


「メディナ」


 クラウディアが言った。


「二名の医療確認を」


「はい。ですが、まず」


 メディナはアリシアを見た。


「アリシア様。お身体の確認をさせていただきます。現在、ご自身で痛み、違和感、吐き気、めまいなどは」


「ありません」


 即答だった。


「確認します」


「ありません」


「確認します」


 メディナは微笑んでいる。


 アリシアも微笑んでいる。


 どちらも譲る気がない。


 リシアは、なぜか少しだけ震えた。


 アインが短く言う。


「受けろ」


「殿下に命じられる筋合いは、少し考えたいところですわね」


「受けろ」


「……分かりました」


 アリシアは、今度は素直に頷いた。


 メディナが満足そうに端末を開く。


 メイもリジェナに支えられたまま、医療確認を受ける姿勢になった。


 その間、アリシアの視線がリシアへ向いた。


 リシアの心臓が跳ねる。


 青い瞳。


 自分とよく似た顔。


 けれど、自分よりずっと強く、ずっと整っていて、ずっと古い時間を持つ人。


 アリシアは、ゆっくりとリシアを見た。


 無遠慮ではない。


 むしろ礼を尽くした視線だった。


 けれど、逃げ場がなかった。


「あなたは?」


 アリシアが言った。


 リシアは背筋を伸ばす。


「リシア・ファーランドと申します」


 自分の名を言う。


 その瞬間、アリシアの瞳がわずかに揺れた。


「ファーランド」


「はい」


「お父様の……」


 アリシアは、そこまで言って止まった。スフィアから流し込まれた膨大な記録。その片隅にあった「初代大公ガルフ」という文字が、今、目の前の少女の瞳の色と重なり、血の通った意味を持ち始めていた。


 リシアは、どう答えるべきか迷った。


 初代大公ガルフ。


 アリシアの父。


 リシアの遠い祖先。


 その名を、同じ距離で扱うことはできない。


「初代大公ガルフ様の血を引く者です」


 リシアは、そう答えた。


 アリシアは、静かに息を吸った。


「そう」


 それだけだった。


 けれど、その声は三連撃の時よりもずっと危うかった。


 リシアは、踏み込んではいけない場所に立っている気がした。


 それでも、目をそらさなかった。


「アリシア様のお名前は、ファーランドに伝わっています」


 アリシアがこちらを見る。


「名前だけです。絵姿は失われたと聞いていました。けれど、初代大公ガルフ様のご息女として」


 言葉が途中で詰まりそうになる。


 リシアはゆっくり息を吸った。


「残っています」


 アリシアは目を伏せた。


「お父様は」


 その一言で、星の間の空気が変わった。


 アインの表情がわずかに固まる。


 ガリウスが目を閉じた。


 メイは、支えられたまま口元を押さえた。


 リシアは、答えられなかった。


 答える資格がない気がした。


 アインが口を開く。


「ガルフは」


 そこまで言って、止まった。


 アリシアは、アインを見た。


 先ほどまでの微笑はない。


 ただ、娘の顔だった。


 父の名を待つ顔。


 アインは、短く言った。


「墓がある」


 アリシアは動かなかった。


 言葉の意味を、受け取ったのだと思った。


 けれど、すぐには表情が変わらない。


 王妃教育。


 礼儀。


 自制。


 そういうものが、彼女を支えている。


 あるいは、今はまだ壊れないように押さえている。


「そうですか」


 アリシアは言った。


 その声は、ひどく静かだった。


「お父様は、墓を持てたのですね」


 ガリウスが深く頭を下げた。


「はい。初代大公として、ファーランドに」


「ありがとうございます」


 アリシアは、丁寧に礼をした。


 目覚めたばかりとは思えない、美しい礼だった。


 それが、かえって痛かった。



 メディナの確認は続いていた。


 アリシアの身体反応は安定。


 メイも軽いめまいはあるが、危険域ではない。


 クラウディアは鍵スフィアの記録を読み取り、必要な情報の隔離を進めている。


 リシアには、そのほとんどが分からなかった。


 ただ、星の間の光が先ほどより穏やかになっていることだけは分かった。


 アリシアは、医療確認を受けながら、周囲の情報を淡々と受け取っていた。


 アークライト。


 帰還。


 ファーランド公国。


 現代の年号。


 メシア正教国。


 ベルカ魔導帝国の消失。


 その言葉の一つ一つが、リシアにとっては説明で、アリシアにとっては喪失なのだと気づいたのは、しばらく後だった。


 アリシアは、大きく取り乱さなかった。


 質問も的確だった。


 鍵スフィア経由で、ある程度の情報を持っているのだろう。


 けれど、持っていることと、受け入れることは違う。


 リシアは、それをアインの言葉で知ったばかりだ。


 そこにいる。


 けれど、まだ会えていない。


 知っている。


 けれど、まだ受け入れていない。


 似ているのだと思った。


 アインとアリシアは、どちらも千五百年の向こう側に立っている。


 ただ、置いていかれた方向が違う。


 クラウディアが最後に確認した。


「アリシア様。現在の年数差について、改めて明示します」


 アリシアは頷いた。


「お願いします」


「アイン様が次元の歪みに消失されてから、地上側では約千五百年が経過しています」


 言葉は静かだった。


 数字としては、さきほどから出ていた。


 けれど、改めて口にされると、星の間の光まで遠くなったように感じた。


 アリシアは、すぐには答えなかった。


 青い瞳が、アインを見た。


 次にリシアを見た。


 ガリウスを見た。


 最後に、またアインへ戻る。


「……千五百年?」


 その声は、怒りよりも先に、行き場をなくしていた。


 アインは答えない。


 アリシアは小さく笑った。


 笑おうとしたのだと思う。


 けれど、それは微笑になりきらなかった。


「殿下」


「ああ」


「わたくし、待つのは得意な方だと思っておりました」


 アインは黙っていた。


「ですが」


 アリシアは、白い衣の袖を握った。


 それは、彼女が初めて見せた乱れだった。


「少し、長すぎますわ」


 誰も笑わなかった。


 メイが泣きそうな顔で、アリシアを見ている。


 リシアは、自分の胸元を押さえた。


 何と言えばよいのか分からない。


 慰める言葉など、あるはずがない。


 アリシアは顔を上げた。


 目元は赤くなっていない。


 涙もない。


 けれど、リシアには分かった。


 この人は、今、泣かないことを選んでいる。


「お父様の墓へ」


 アリシアが言った。


「参ります」


 アインが頷いた。


「ああ」


「殿下も」


「行く」


 アリシアは、ようやく少しだけ微笑んだ。


「当然ですわ」


 その声には、先ほどの鋭さが少しだけ戻っていた。


 けれど、リシアはもう怖いとは思わなかった。


 星の間で目覚めた公女は、アインを三度殴った。


 父の名を聞き、千五百年を知り、それでも背筋を伸ばしている。


 リシアは、その姿を見て思った。


 この人は、置いていかれたのではない。


 置いていかれて、それでも立っている人なのだ。


 星の間の光が、静かに瞬いた。


 長い眠りは終わった。


 けれど、失われた時間は、まだそこにあった。


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