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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古の残響

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第二十三夜 星の間

第二十三夜 星の間


 地上へ戻る準備は、思っていたより静かに進んだ。


 朝食の後、リシアたちは医療区画の小部屋に集められた。


 壁の一面に薄い光が走り、三人の身体を順に照らしていく。痛みはない。ただ、視線だけで全身を測られているような落ち着かなさがあった。


 メディナは表示を確認しながら、いつもの穏やかな顔で言った。


「リシア様、ステファニア様。魔力循環は安定しています。ただし、急激な魔力使用は禁止です。気分不快、めまい、息苦しさ、手足のしびれを感じた場合は、即時申告してください」


「はい」


「承知しました」


 ステファニアの返事はいつも通り整っていた。


 けれど、指先はわずかに重なっている。

 

 メディナは次にセラを見た。


「セラ様。自己修復反応は安定していますが、昨日までの訓練で出た補正反応はまだ完全には消えていません。左膝、右足首、腰部の違和感に注意してください」


「問題ありません」


「その言葉は、昨日から判断材料として扱わないことになりました」


 セラは黙った。


 リシアは少しだけ笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。


 ステファニアは視線をそらしている。


 メディナは、何事もなかったように続けた。


「本日は地上へ降りますが、目的は帰宅ではなく限定区画での確認です。城内を自由に歩くことはできません。ご家族との通常面会も、星の間の確認後に再判断します」


「帰ったのに、帰ったことにはならないのですね」


 リシアは思わず言った。


 メディナは少し考えてから頷いた。


「医療者としては、その表現が近いです」


 帰る。


 帰らない。


 その間に立たされているのだと思った。


 ファーランド城は、リシアにとって生まれ育った場所だ。


 けれど今から向かうのは、そこにあるはずなのに、自分が一度も知らなかった場所だった。



 転送室は、初めて見る部屋だった。


 白銀色の床に、淡い光の円がいくつも重なっている。壁には細い文字が浮かび、リシアには読めない速度で流れていた。


 アインは光の円の外に立っていた。


 クラウディアがその横で、地上側との接続確認をしている。


 リジェナとリジェスカは、三人の少し後ろに控えていた。メディナは当然のように端末を持っている。


「転送先は、ファーランド城北棟地下の封鎖室です」


 クラウディアが言った。


「既にガリウス大公閣下、ウィリアム侯爵、カリウス子爵が現地で待機されています。護衛は最小限。城内には療養区画への移送と説明済みです」


「説明済み」


 リシアは、小さく繰り返した。


「はい」


 クラウディアは涼しい顔で答える。


「必要な虚偽は避けています。療養区画へ向かう、という説明は事実です。星の間が療養に直接関係するかは、解釈の余地はあります」


「それは、かなり余地を広く取っていませんか」


 ステファニアが静かに言った。


「広く取る必要がありました」


 クラウディアは否定しなかった。


 リシアは、少しだけ肩の力が抜けた。


 アークライトの人たちは、真面目な顔でときどきとても強引なことを言う。


 セラが光の円を見下ろした。


「転送中に動かない方がよいですか」


「はい。動く必要はありません」


「もし襲撃があった場合は」


「転送中に襲撃された場合、まず私たちが対応します」


 リジェスカが微笑んだ。


「セラ様は、転送後に足元を確認してください」


「承知しました」


 セラは真面目に頷いた。


 メディナが満足そうに小さく頷く。


 アインがリシアたちを見た。


「行くぞ」


 短い言葉だった。


 それだけで、部屋の空気が変わった。


 リシアは光の円の中に立つ。


 足元から、冷たくも熱くもない感覚が上がってきた。


 まばたきの間に、白銀色の壁が消える。


 代わりに、石の匂いがした。



 ファーランド城の空気だった。


 古い石。


 磨かれた木。


 奥にしまわれた紙と革の匂い。


 リシアは、その匂いだけで胸が詰まりそうになった。


 戻ってきた。


 けれど、戻ってきたと言ってよいのか分からない。


 転送先の部屋は、北棟地下の封鎖室だった。普段は予備の保管庫として使われている場所だ。窓はなく、扉は厚い。壁には臨時の幕が張られ、外から中が見えないようにされている。


 部屋の中央で、ガリウスが待っていた。


 その横に、ウィリアムとカリウスが立っている。


 三人とも、昨日の立体映像よりも近かった。


 本物の距離。


 リシアは一瞬、父の方へ駆け寄りそうになった。


 けれど、ここは正式な場だ。


 今はまだ、帰宅ではない。


 そう思った時、ガリウスが先に歩み寄った。


「リシア」


「お父様」


 それ以上の言葉は出なかった。


 ガリウスは、リシアの肩にそっと手を置いた。


 強く抱きしめることはしない。


 けれど、その手の重さだけで、リシアは自分が本当に戻ってきたのだと分かった。


 ステファニアの前では、ウィリアムが言葉を探していた。


「ステファニア」


「はい、お父様」


「その、顔色は」


「医療上は安定しております」


「そうか」


 会話はそれだけだった。


 けれど、ウィリアムの目元が少しだけ緩んだ。


 セラの前では、カリウスが腕を組んでいた。


「歩けるか」


「歩けます」


「走るな」


「承知しました」


「戦うな」


「状況によります」


 カリウスの眉が動いた。


 メディナが一歩前に出る。


「状況によらず、医療判断を優先します」


「承知しました」


 セラは即答した。


 カリウスは、少しだけ安心したように息を吐いた。


 アインは、そのやり取りを黙って見ていた。


 ガリウスが彼へ向き直る。


「準備は整えてある。星の間へ向かう道は、既に封鎖した」


「案内を頼む」


「承知した」


 大公が、十四歳ほどに見える少年へ頷く。


 その光景は、やはり不思議だった。


 けれど、昨日ほど驚きはなかった。


 父が頭を下げる理由が、少しずつ見えてきている。



 星の間へ向かう道は、城の奥へ続いていた。


 リシアが知る北棟地下は、古い文書や儀礼用の品をしまう場所だった。年に数度、管理役が風を通す。子供の頃に迷い込もうとして、侍女たちに止められたこともある。


 けれど、今日歩いている道は、その記憶よりもさらに奥だった。


 灯りは少ない。


 壁の石は古く、手で触れれば冷たそうだった。


 先頭をガリウスが歩く。


 その後ろにアインとクラウディア。


 リシアたちは、メディナとリジェナ、リジェスカに挟まれる形で進んだ。ウィリアムとカリウスは少し後ろにいる。


 護衛はさらに外側だ。


 少ない。


 けれど、少ないからこそ、選ばれた者だけなのだと分かる。


「この先は、私も数えるほどしか入ったことがない」


 ガリウスが言った。


「大公であっても、奥の扉には触れるなと伝えられている」


「本当にあったのですね」


 リシアの声は、自然に小さくなった。


「あった」


 ガリウスは前を向いたまま答える。


「だが、何のための部屋かは伝わっていない。星の名を持つ部屋。時が来るまでは探すな。時が来たなら、戻る者の名を問え。それだけだ」


「戻る者の名」


 ステファニアが呟いた。


 クラウディアがちらりと彼女を見る。


「ステファニア様」


「理解しようとしていません」


 ステファニアは即答した。


 クラウディアは、少しだけ間を置いた。


「今の返答は、理解しようとしている方の返答です」


「……失礼しました」


 リシアは、緊張していたはずなのに、少しだけ笑ってしまった。


 セラも横目でステファニアを見る。


 ステファニアは、真面目な顔で前を向いていた。


 けれど耳が少し赤い。


 暗い廊下の先に、扉が見えた。


 扉、と呼んでよいのか分からない。


 それは壁そのものの一部に見えた。


 古い石の中央に、円形の文様が刻まれている。


 星のような線。


 花のようにも見える。


 その中心に、ファーランド家の紋章に似た形があった。


 けれど、少し違う。


 今の紋章より古い。


 リシアは、それを見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。


 知っている。


 知らないのに、知っている。


「リシア」


 ガリウスが言った。


「ここから先は、私にも分からない」


「はい」


「だが、おそらくお前も関わる」


 リシアは扉を見つめた。


 まだ何もできない。


 昨日まで、何度もそう思った。


 けれど、何もないわけではない。


 その言葉も、もう知っている。


「分かりました」


 アインが扉の前に立った。


 クラウディアが端末を開き、周囲に薄い光の枠を展開する。


「反応、微弱に上昇。星の間側がアイン様を認識しています」


「千五百年ぶりでもか」


「はい。記録系の一部は生きています」


 アインは、扉に手を伸ばさなかった。


 ただ、低く言った。


「戻った」


 石の文様に、淡い光が走った。


 リシアは息を止める。


 光は一度だけ扉全体に広がり、すぐに弱まった。


 開かない。


「足りません」


 クラウディアが言った。


「アイン様の認証だけでは、封鎖が解除されません」


「ファーランド側か」


「はい」


 ガリウスが前へ出ようとした。


 けれど、その前に文様の一部がリシアへ向けて細く光った。


 リシアは思わず一歩下がる。


 アインがこちらを見た。


「リシア」


「私、ですか」


「たぶん」


 たぶん。


 アインがそう言うのは珍しい気がした。


 リシアは自分の手を見る。


 何も持っていない。


 剣も、杖も、魔法も。


 それでも、光は自分を呼んでいる。


「何をすれば」


 クラウディアが答えた。


「扉に触れてください。何かをしようとは考えないでください。反応を通すだけで構いません」


「何もしない、ですね」


 リシアは、小さく息を吸った。


 感知の訓練と同じだ。


 何かをしようとすると、閉じる。


 なら、何もしない。


 リシアは扉に近づいた。


 石は、見た目ほど冷たくなかった。


 指先が文様に触れた瞬間、胸の奥で何かがほどける。


 魔力ではない。


 言葉でもない。


 遠い場所から、誰かに名前を呼ばれたような感覚だった。


 リシアは目を閉じる。


 何もしない。


 ただ、通す。


 光が扉を満たした。


 ガリウスが息を呑む気配がした。


 文様の中心がゆっくりと沈み、石の壁に縦の線が生まれる。


 千五百年閉じていたはずの扉が、音もなく開いた。



 星の間は、城の地下にあるとは思えない場所だった。


 広くはない。


 けれど、奥行きの感覚が狂う。


 壁は石ではなく、黒に近い深い藍色をしていた。そこに細い光の点が浮かび、ゆっくりと位置を変えている。


 星だった。


 天井にも、壁にも、床にも。


 足元の黒い面に、無数の光が沈んでいる。


 まるで夜空の中に立っているようだった。


「これは」


 ステファニアの声が震えた。

 

 クラウディアが即座に言った。


「ステファニア様。見てください。読まないでください」


「はい」


 ステファニアは、今度は素直に頷いた。


 リシアにも分かる。


 この部屋は、ただ美しいだけではない。


 何かを記録している。


 何かを待っている。


 そして、何かを選ばせようとしている。


 部屋の中央には、低い台座があった。


 その上に、透明な球体が浮いている。


 拳より少し大きい。


 水晶にも見える。


 けれど、内部には光の線が幾重にも折り畳まれていた。


「鍵スフィア」


 クラウディアが言った。

 

 リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 鍵。


 けれど、扉を開ける鍵ではない。


 もっと深い場所に触れるための鍵。


 アインは、しばらく球体を見つめていた。


 手を伸ばさない。


 触れれば何かが始まると分かっているように。


「反応は」


「安定しています」


 クラウディアが答えた。


「ただし、奥の保存区画と接続しています。鍵スフィア単独ではありません」


 奥。


 リシアは、台座の向こうを見た。


 星の光が薄く重なる先に、白いものが見えた。


 最初は彫像だと思った。


 人の形をしている。


 台座の上に、二人。


 一人は、胸の前で手を重ねるようにして立っていた。


 もう一人は、その少し後ろで膝をつき、祈るように頭を垂れている。


 白い衣。


 長い髪。


 眠るように閉じた瞳。


 リシアは、足が止まった。


 息ができない。


 前に立つ少女の顔が、自分に似ていた。


 似ている、では足りない。


 年が違う。


 表情も違う。


 纏う気配も違う。


 けれど、鏡の中で遠い昔の自分を見つけたようだった。


「アリシア」


 アインの声が落ちた。


 誰も動かなかった。


 星の間の光だけが、ゆっくりと瞬いている。


 リシアは、アインを見た。


 その横顔に、今まで見たことのないものがあった。


 喜びではない。


 安堵でもない。


 痛みに似ている。


 けれど、それだけでもない。


 千五百年という隔たりが、人の横顔に落とす影を、初めて見た。


 ガリウスが、かすれた声で言った。


「本当に」


 その先は続かなかった。


 初代大公ガルフの娘。


 ファーランドに名だけが残った公女。


 その人が、城の奥で眠っている。


 ウィリアムも、カリウスも言葉を失っていた。


 セラは周囲を警戒している。


 けれど、その視線も一度だけアリシアへ向かった。


 ステファニアは、リシアとアリシアを交互に見ていた。


「生き写し、という言葉は」


 ステファニアが小さく言った。


「軽すぎますね」


 リシアは答えられなかった。


 自分の顔をしている。


 けれど、自分ではない。


 自分よりずっと前に生まれ、アインを待ち、父を失い、未来に置かれた人。


 リシアは、胸の奥が苦しくなった。


「後ろの方は」


 セラが静かに聞いた。


 クラウディアが表示を確認する。


「メイ。アリシア様付きの侍女です。記録上は、アリシア様と共に消失扱いになっています」


「一緒に」


 リシアは呟いた。


「はい」


 クラウディアの声は、いつもより少し低かった。


「一つの基部に、二名分の保存反応があります。アリシア様を単独で保存したのではなく、メイ様も同じ術式範囲内に入っています」


 アインは、まだ動かない。


 リシアは、その背中を見た。


 声をかけてよいのか分からなかった。


 けれど、黙っていることもできなかった。


「アイン様」


 彼はこちらを見ない。


 それでも、聞いていることは分かった。


「会えましたね」


 アインの肩が、ほんのわずかに動いた。


「まだだ」


 短い声だった。


「まだ、会えていない」


 リシアは唇を噛んだ。


 確かにそうだ。


 そこにいる。


 けれど、まだこちらを見ていない。


 まだ声を聞いていない。


 まだ、千五百年の向こうからこちらを見ていない。


 クラウディアが鍵スフィアの前に立った。


「現物確認を開始します」


「待て」


 アインが言った。


 クラウディアは手を止める。


「解除ではありません。確認のみです」


「分かっている」


 アインは、ようやく球体へ近づいた。


 その手が、途中で止まる。


 リシアは気づいた。


 アインが迷っている。


 今まで、迷いを見せたことのほとんどない人が。


 その手を、あと少し伸ばせずにいる。


 ガリウスが静かに言った。


「アイン殿」


 アインは振り返らない。


「ファーランドは、この部屋を守ってきた。意味も知らずに、ただ守ってきた」


 ガリウスは、ゆっくり言葉を選ぶ。


「ならば、その意味を知る時も、見届けるべきだと思っている」


 アインはしばらく黙っていた。


 やがて、短く頷いた。


 指先が鍵スフィアに触れる。


 透明な球体の中で、光がほどけた。


 幾重にも折り畳まれていた線が、星の間の空間へ広がっていく。


 リシアの胸の奥が、また震えた。


 今度は扉の時より深い。


 鍵スフィアから伸びた光の一つが、リシアの前で止まった。


「私にも」


「はい」


 クラウディアが言った。


「ファーランド系譜の照合を求めています。リシア様、触れてください。ただし、流そうとしないでください」


「何もしない」


「はい」


 リシアは光へ手を伸ばした。


 指先が触れる。


 今度は、名前ではなく、記憶の扉に手を置いたような感覚がした。


 知らない言葉。


 知らない景色。


 けれど、その奥に、自分の家の古い匂いがある。


 ガルフ。


 アリシア。


 ファーランド。


 ばらばらだった名前が、一本の線で繋がっていく。


 鍵スフィアの光が、さらにほどけた。


 アリシアの胸元へ、細い線が伸びる。


 メイの基部にも、別の線が灯った。


 クラウディアの表示が、一斉に変わる。


「保存反応、安定。本人照合、第一段階一致。鍵スフィア、起動可能状態へ移行」


 メディナが、リシアたちの前に一歩出た。


「全員、その場から動かないでください」


 セラが無言で頷く。


 ステファニアは、息を止めたまま光を見つめていた。


 クラウディアがアインを見る。


「解除手順に入れます」


 星の間の光が、静かに脈を打った。


 アリシアの白い睫毛に、小さな影が落ちる。


 眠っている。


 たしかに、眠っているように見えた。


 けれど、今にも目を開けそうでもあった。


 アインは、長い沈黙の後で言った。


「アリシア」


 声は、星の間に吸い込まれるように落ちた。


 鍵スフィアの光が、ひときわ強くなる。


 クラウディアが、静かに問いかけた。


「解除しますか」


 誰も、すぐには答えなかった。


 リシアは、自分の指先に残る光を見つめていた。


 怖い。


 知りたい。


 そして今度は、もう一つ増えていた。


 会いたい。


 まだ名しか知らない人に。


 自分によく似た、遠い昔の公女に。


 アインが千五百年、会えていなかった人に。


 星の間で、白い少女は眠っている。


 名前だけではなく、姿も、そこにあった。


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