第二十三夜 星の間
第二十三夜 星の間
地上へ戻る準備は、思っていたより静かに進んだ。
朝食の後、リシアたちは医療区画の小部屋に集められた。
壁の一面に薄い光が走り、三人の身体を順に照らしていく。痛みはない。ただ、視線だけで全身を測られているような落ち着かなさがあった。
メディナは表示を確認しながら、いつもの穏やかな顔で言った。
「リシア様、ステファニア様。魔力循環は安定しています。ただし、急激な魔力使用は禁止です。気分不快、めまい、息苦しさ、手足のしびれを感じた場合は、即時申告してください」
「はい」
「承知しました」
ステファニアの返事はいつも通り整っていた。
けれど、指先はわずかに重なっている。
メディナは次にセラを見た。
「セラ様。自己修復反応は安定していますが、昨日までの訓練で出た補正反応はまだ完全には消えていません。左膝、右足首、腰部の違和感に注意してください」
「問題ありません」
「その言葉は、昨日から判断材料として扱わないことになりました」
セラは黙った。
リシアは少しだけ笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。
ステファニアは視線をそらしている。
メディナは、何事もなかったように続けた。
「本日は地上へ降りますが、目的は帰宅ではなく限定区画での確認です。城内を自由に歩くことはできません。ご家族との通常面会も、星の間の確認後に再判断します」
「帰ったのに、帰ったことにはならないのですね」
リシアは思わず言った。
メディナは少し考えてから頷いた。
「医療者としては、その表現が近いです」
帰る。
帰らない。
その間に立たされているのだと思った。
ファーランド城は、リシアにとって生まれ育った場所だ。
けれど今から向かうのは、そこにあるはずなのに、自分が一度も知らなかった場所だった。
◇
転送室は、初めて見る部屋だった。
白銀色の床に、淡い光の円がいくつも重なっている。壁には細い文字が浮かび、リシアには読めない速度で流れていた。
アインは光の円の外に立っていた。
クラウディアがその横で、地上側との接続確認をしている。
リジェナとリジェスカは、三人の少し後ろに控えていた。メディナは当然のように端末を持っている。
「転送先は、ファーランド城北棟地下の封鎖室です」
クラウディアが言った。
「既にガリウス大公閣下、ウィリアム侯爵、カリウス子爵が現地で待機されています。護衛は最小限。城内には療養区画への移送と説明済みです」
「説明済み」
リシアは、小さく繰り返した。
「はい」
クラウディアは涼しい顔で答える。
「必要な虚偽は避けています。療養区画へ向かう、という説明は事実です。星の間が療養に直接関係するかは、解釈の余地はあります」
「それは、かなり余地を広く取っていませんか」
ステファニアが静かに言った。
「広く取る必要がありました」
クラウディアは否定しなかった。
リシアは、少しだけ肩の力が抜けた。
アークライトの人たちは、真面目な顔でときどきとても強引なことを言う。
セラが光の円を見下ろした。
「転送中に動かない方がよいですか」
「はい。動く必要はありません」
「もし襲撃があった場合は」
「転送中に襲撃された場合、まず私たちが対応します」
リジェスカが微笑んだ。
「セラ様は、転送後に足元を確認してください」
「承知しました」
セラは真面目に頷いた。
メディナが満足そうに小さく頷く。
アインがリシアたちを見た。
「行くぞ」
短い言葉だった。
それだけで、部屋の空気が変わった。
リシアは光の円の中に立つ。
足元から、冷たくも熱くもない感覚が上がってきた。
まばたきの間に、白銀色の壁が消える。
代わりに、石の匂いがした。
◇
ファーランド城の空気だった。
古い石。
磨かれた木。
奥にしまわれた紙と革の匂い。
リシアは、その匂いだけで胸が詰まりそうになった。
戻ってきた。
けれど、戻ってきたと言ってよいのか分からない。
転送先の部屋は、北棟地下の封鎖室だった。普段は予備の保管庫として使われている場所だ。窓はなく、扉は厚い。壁には臨時の幕が張られ、外から中が見えないようにされている。
部屋の中央で、ガリウスが待っていた。
その横に、ウィリアムとカリウスが立っている。
三人とも、昨日の立体映像よりも近かった。
本物の距離。
リシアは一瞬、父の方へ駆け寄りそうになった。
けれど、ここは正式な場だ。
今はまだ、帰宅ではない。
そう思った時、ガリウスが先に歩み寄った。
「リシア」
「お父様」
それ以上の言葉は出なかった。
ガリウスは、リシアの肩にそっと手を置いた。
強く抱きしめることはしない。
けれど、その手の重さだけで、リシアは自分が本当に戻ってきたのだと分かった。
ステファニアの前では、ウィリアムが言葉を探していた。
「ステファニア」
「はい、お父様」
「その、顔色は」
「医療上は安定しております」
「そうか」
会話はそれだけだった。
けれど、ウィリアムの目元が少しだけ緩んだ。
セラの前では、カリウスが腕を組んでいた。
「歩けるか」
「歩けます」
「走るな」
「承知しました」
「戦うな」
「状況によります」
カリウスの眉が動いた。
メディナが一歩前に出る。
「状況によらず、医療判断を優先します」
「承知しました」
セラは即答した。
カリウスは、少しだけ安心したように息を吐いた。
アインは、そのやり取りを黙って見ていた。
ガリウスが彼へ向き直る。
「準備は整えてある。星の間へ向かう道は、既に封鎖した」
「案内を頼む」
「承知した」
大公が、十四歳ほどに見える少年へ頷く。
その光景は、やはり不思議だった。
けれど、昨日ほど驚きはなかった。
父が頭を下げる理由が、少しずつ見えてきている。
◇
星の間へ向かう道は、城の奥へ続いていた。
リシアが知る北棟地下は、古い文書や儀礼用の品をしまう場所だった。年に数度、管理役が風を通す。子供の頃に迷い込もうとして、侍女たちに止められたこともある。
けれど、今日歩いている道は、その記憶よりもさらに奥だった。
灯りは少ない。
壁の石は古く、手で触れれば冷たそうだった。
先頭をガリウスが歩く。
その後ろにアインとクラウディア。
リシアたちは、メディナとリジェナ、リジェスカに挟まれる形で進んだ。ウィリアムとカリウスは少し後ろにいる。
護衛はさらに外側だ。
少ない。
けれど、少ないからこそ、選ばれた者だけなのだと分かる。
「この先は、私も数えるほどしか入ったことがない」
ガリウスが言った。
「大公であっても、奥の扉には触れるなと伝えられている」
「本当にあったのですね」
リシアの声は、自然に小さくなった。
「あった」
ガリウスは前を向いたまま答える。
「だが、何のための部屋かは伝わっていない。星の名を持つ部屋。時が来るまでは探すな。時が来たなら、戻る者の名を問え。それだけだ」
「戻る者の名」
ステファニアが呟いた。
クラウディアがちらりと彼女を見る。
「ステファニア様」
「理解しようとしていません」
ステファニアは即答した。
クラウディアは、少しだけ間を置いた。
「今の返答は、理解しようとしている方の返答です」
「……失礼しました」
リシアは、緊張していたはずなのに、少しだけ笑ってしまった。
セラも横目でステファニアを見る。
ステファニアは、真面目な顔で前を向いていた。
けれど耳が少し赤い。
暗い廊下の先に、扉が見えた。
扉、と呼んでよいのか分からない。
それは壁そのものの一部に見えた。
古い石の中央に、円形の文様が刻まれている。
星のような線。
花のようにも見える。
その中心に、ファーランド家の紋章に似た形があった。
けれど、少し違う。
今の紋章より古い。
リシアは、それを見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。
知っている。
知らないのに、知っている。
「リシア」
ガリウスが言った。
「ここから先は、私にも分からない」
「はい」
「だが、おそらくお前も関わる」
リシアは扉を見つめた。
まだ何もできない。
昨日まで、何度もそう思った。
けれど、何もないわけではない。
その言葉も、もう知っている。
「分かりました」
アインが扉の前に立った。
クラウディアが端末を開き、周囲に薄い光の枠を展開する。
「反応、微弱に上昇。星の間側がアイン様を認識しています」
「千五百年ぶりでもか」
「はい。記録系の一部は生きています」
アインは、扉に手を伸ばさなかった。
ただ、低く言った。
「戻った」
石の文様に、淡い光が走った。
リシアは息を止める。
光は一度だけ扉全体に広がり、すぐに弱まった。
開かない。
「足りません」
クラウディアが言った。
「アイン様の認証だけでは、封鎖が解除されません」
「ファーランド側か」
「はい」
ガリウスが前へ出ようとした。
けれど、その前に文様の一部がリシアへ向けて細く光った。
リシアは思わず一歩下がる。
アインがこちらを見た。
「リシア」
「私、ですか」
「たぶん」
たぶん。
アインがそう言うのは珍しい気がした。
リシアは自分の手を見る。
何も持っていない。
剣も、杖も、魔法も。
それでも、光は自分を呼んでいる。
「何をすれば」
クラウディアが答えた。
「扉に触れてください。何かをしようとは考えないでください。反応を通すだけで構いません」
「何もしない、ですね」
リシアは、小さく息を吸った。
感知の訓練と同じだ。
何かをしようとすると、閉じる。
なら、何もしない。
リシアは扉に近づいた。
石は、見た目ほど冷たくなかった。
指先が文様に触れた瞬間、胸の奥で何かがほどける。
魔力ではない。
言葉でもない。
遠い場所から、誰かに名前を呼ばれたような感覚だった。
リシアは目を閉じる。
何もしない。
ただ、通す。
光が扉を満たした。
ガリウスが息を呑む気配がした。
文様の中心がゆっくりと沈み、石の壁に縦の線が生まれる。
千五百年閉じていたはずの扉が、音もなく開いた。
◇
星の間は、城の地下にあるとは思えない場所だった。
広くはない。
けれど、奥行きの感覚が狂う。
壁は石ではなく、黒に近い深い藍色をしていた。そこに細い光の点が浮かび、ゆっくりと位置を変えている。
星だった。
天井にも、壁にも、床にも。
足元の黒い面に、無数の光が沈んでいる。
まるで夜空の中に立っているようだった。
「これは」
ステファニアの声が震えた。
クラウディアが即座に言った。
「ステファニア様。見てください。読まないでください」
「はい」
ステファニアは、今度は素直に頷いた。
リシアにも分かる。
この部屋は、ただ美しいだけではない。
何かを記録している。
何かを待っている。
そして、何かを選ばせようとしている。
部屋の中央には、低い台座があった。
その上に、透明な球体が浮いている。
拳より少し大きい。
水晶にも見える。
けれど、内部には光の線が幾重にも折り畳まれていた。
「鍵スフィア」
クラウディアが言った。
リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
鍵。
けれど、扉を開ける鍵ではない。
もっと深い場所に触れるための鍵。
アインは、しばらく球体を見つめていた。
手を伸ばさない。
触れれば何かが始まると分かっているように。
「反応は」
「安定しています」
クラウディアが答えた。
「ただし、奥の保存区画と接続しています。鍵スフィア単独ではありません」
奥。
リシアは、台座の向こうを見た。
星の光が薄く重なる先に、白いものが見えた。
最初は彫像だと思った。
人の形をしている。
台座の上に、二人。
一人は、胸の前で手を重ねるようにして立っていた。
もう一人は、その少し後ろで膝をつき、祈るように頭を垂れている。
白い衣。
長い髪。
眠るように閉じた瞳。
リシアは、足が止まった。
息ができない。
前に立つ少女の顔が、自分に似ていた。
似ている、では足りない。
年が違う。
表情も違う。
纏う気配も違う。
けれど、鏡の中で遠い昔の自分を見つけたようだった。
「アリシア」
アインの声が落ちた。
誰も動かなかった。
星の間の光だけが、ゆっくりと瞬いている。
リシアは、アインを見た。
その横顔に、今まで見たことのないものがあった。
喜びではない。
安堵でもない。
痛みに似ている。
けれど、それだけでもない。
千五百年という隔たりが、人の横顔に落とす影を、初めて見た。
ガリウスが、かすれた声で言った。
「本当に」
その先は続かなかった。
初代大公ガルフの娘。
ファーランドに名だけが残った公女。
その人が、城の奥で眠っている。
ウィリアムも、カリウスも言葉を失っていた。
セラは周囲を警戒している。
けれど、その視線も一度だけアリシアへ向かった。
ステファニアは、リシアとアリシアを交互に見ていた。
「生き写し、という言葉は」
ステファニアが小さく言った。
「軽すぎますね」
リシアは答えられなかった。
自分の顔をしている。
けれど、自分ではない。
自分よりずっと前に生まれ、アインを待ち、父を失い、未来に置かれた人。
リシアは、胸の奥が苦しくなった。
「後ろの方は」
セラが静かに聞いた。
クラウディアが表示を確認する。
「メイ。アリシア様付きの侍女です。記録上は、アリシア様と共に消失扱いになっています」
「一緒に」
リシアは呟いた。
「はい」
クラウディアの声は、いつもより少し低かった。
「一つの基部に、二名分の保存反応があります。アリシア様を単独で保存したのではなく、メイ様も同じ術式範囲内に入っています」
アインは、まだ動かない。
リシアは、その背中を見た。
声をかけてよいのか分からなかった。
けれど、黙っていることもできなかった。
「アイン様」
彼はこちらを見ない。
それでも、聞いていることは分かった。
「会えましたね」
アインの肩が、ほんのわずかに動いた。
「まだだ」
短い声だった。
「まだ、会えていない」
リシアは唇を噛んだ。
確かにそうだ。
そこにいる。
けれど、まだこちらを見ていない。
まだ声を聞いていない。
まだ、千五百年の向こうからこちらを見ていない。
クラウディアが鍵スフィアの前に立った。
「現物確認を開始します」
「待て」
アインが言った。
クラウディアは手を止める。
「解除ではありません。確認のみです」
「分かっている」
アインは、ようやく球体へ近づいた。
その手が、途中で止まる。
リシアは気づいた。
アインが迷っている。
今まで、迷いを見せたことのほとんどない人が。
その手を、あと少し伸ばせずにいる。
ガリウスが静かに言った。
「アイン殿」
アインは振り返らない。
「ファーランドは、この部屋を守ってきた。意味も知らずに、ただ守ってきた」
ガリウスは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「ならば、その意味を知る時も、見届けるべきだと思っている」
アインはしばらく黙っていた。
やがて、短く頷いた。
指先が鍵スフィアに触れる。
透明な球体の中で、光がほどけた。
幾重にも折り畳まれていた線が、星の間の空間へ広がっていく。
リシアの胸の奥が、また震えた。
今度は扉の時より深い。
鍵スフィアから伸びた光の一つが、リシアの前で止まった。
「私にも」
「はい」
クラウディアが言った。
「ファーランド系譜の照合を求めています。リシア様、触れてください。ただし、流そうとしないでください」
「何もしない」
「はい」
リシアは光へ手を伸ばした。
指先が触れる。
今度は、名前ではなく、記憶の扉に手を置いたような感覚がした。
知らない言葉。
知らない景色。
けれど、その奥に、自分の家の古い匂いがある。
ガルフ。
アリシア。
ファーランド。
ばらばらだった名前が、一本の線で繋がっていく。
鍵スフィアの光が、さらにほどけた。
アリシアの胸元へ、細い線が伸びる。
メイの基部にも、別の線が灯った。
クラウディアの表示が、一斉に変わる。
「保存反応、安定。本人照合、第一段階一致。鍵スフィア、起動可能状態へ移行」
メディナが、リシアたちの前に一歩出た。
「全員、その場から動かないでください」
セラが無言で頷く。
ステファニアは、息を止めたまま光を見つめていた。
クラウディアがアインを見る。
「解除手順に入れます」
星の間の光が、静かに脈を打った。
アリシアの白い睫毛に、小さな影が落ちる。
眠っている。
たしかに、眠っているように見えた。
けれど、今にも目を開けそうでもあった。
アインは、長い沈黙の後で言った。
「アリシア」
声は、星の間に吸い込まれるように落ちた。
鍵スフィアの光が、ひときわ強くなる。
クラウディアが、静かに問いかけた。
「解除しますか」
誰も、すぐには答えなかった。
リシアは、自分の指先に残る光を見つめていた。
怖い。
知りたい。
そして今度は、もう一つ増えていた。
会いたい。
まだ名しか知らない人に。
自分によく似た、遠い昔の公女に。
アインが千五百年、会えていなかった人に。
星の間で、白い少女は眠っている。
名前だけではなく、姿も、そこにあった。




