第二十二夜 忘れものの名
第二十二夜 忘れものの名
翌朝、訓練室へ向かう時間になっても、呼び出しは来なかった。
代わりに届いたのは、朝食後の医療確認と、衣装の確認だった。
リシアは寝台の端に座り、リジェナが広げた服を見ていた。
昨日までの病衣ではない。
かといって、宮廷で着るような正式な衣装でもなかった。動きやすい薄手の上衣と、淡い青を基調にした膝下丈の外套。袖口には細い刺繍が入っているが、装飾は控えめだった。
「地上へ戻るための服、ですか」
「本日はまだ戻りません」
リジェナが答えた。
「ただ、ご家族と対面連絡を行いますので、病衣ではなくリシア様ご自身の印象に近い服を選びました」
「私自身の印象」
リシアは少し困った。
ここへ来てから、自分の印象が何なのか、よく分からなくなっている。
公女。
患者。
保護された者。
ベルカの系譜かもしれない者。
そして、まだ何もできないが何もないわけではない者。
肩書きが増えるほど、自分の輪郭が薄くなるような気がした。
「似合うと思います」
ステファニアが言った。
リシアは顔を上げる。
ステファニアは、淡い灰色の上衣に深い紺の外套を合わせていた。装飾は少ないが、立ち姿だけで十分に侯爵令嬢だと分かる。
「ステファニア様も、とてもお似合いです」
「ありがとうございます」
ステファニアは、いつも通り静かに礼を返した。
セラは、補修済みの服の上から、軽い防護用の短外套を着せられていた。腰には剣がない。
そこだけ、少し落ち着かないように見える。
「剣は」
セラが聞いた。
リジェスカが柔らかく微笑んだ。
「本日の対面連絡では不要です」
「不要でも、あった方が落ち着きます」
「医療判断上、不要です」
セラは黙った。
リシアとステファニアは、同時に視線をそらした。
ここ数日で分かったことがある。
アークライトでは、医療判断という言葉が出ると、たいていの反論は力を失う。
◇
案内された部屋は、病室でも訓練室でもなかった。
小さな会議室に見えた。
白銀色の壁。中央に円形の卓。卓の周囲には椅子がいくつか置かれ、壁の一面だけが黒い鏡のように滑らかだった。
部屋の端には、アインとクラウディアが立っていた。
メディナもいる。医療監視用の端末を手にしているあたり、今日も私たち三人は患者扱いらしい。
「おはようございます」
リシアが挨拶すると、クラウディアが頷いた。
「おはようございます。本日は、まずご家族との対面連絡を行います」
リシアは、胸の奥が少し強く鳴った。
手紙を読み、父の字を見た。
無事を知らせるための言葉も、おそらく既に届いている。
それでも、顔を見るのは違う。
声を聞くのは、もっと違う。
「父と、話せるのですか」
「はい」
クラウディアは短く答えた。
「ガリウス大公閣下、ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵、カリウス・グレイヴェル子爵。三名を同一回線に招待しています」
ステファニアの指先が、わずかに動いた。
セラは、表情を変えなかった。
変えなかったが、背筋が少し伸びた。
「こちらの姿は、向こうからどのように見えるのですか」
ステファニアが聞いた。
「等身大の立体映像として見えます。音声もほぼ遅延なく届きます。向こう側には、こちらが用意した中継子機を設置済みです」
「設置済み……?」
リシアは思わず繰り返した。
「いつの間に」
「必要でしたので」
クラウディアは、説明になっているようで説明になっていない答えを返した。
アインは、椅子に座らず壁際に立っていた。
リシアは一度そちらを見る。
「アイン様も、同席されるのですか」
「必要なら話す」
アインは短く答えた。
「最初は、お前たちが話せ」
その言い方は、少しだけ優しかった。
リシアは頷いた。
メディナが、端末を見ながら言う。
「なお、感情負荷が高くなりすぎた場合は、こちらの判断で休憩を入れます」
「感情にも負荷があるのですね」
「あります」
メディナは当然のように答えた。
「患者ですので」
三人は、もう何も言わなかった。
◇
黒い鏡のような壁に、光が走った。
最初は線だった。
縦に、横に、細かな光が広がり、空間の奥行きを作る。
次の瞬間、そこに別の部屋が現れた。
重厚な木の机。
壁に掛けられた古い紋章旗。
燭台ではなく、魔道灯の柔らかな光。
ファーランド城の執務室だった。
リシアは、息を止めた。
父がいた。
ガリウス・ファーランド大公は、机の向こうに立っていた。いつものように整った服装で、表情も崩れていない。
ただ、その手は机の縁を強く掴んでいた。
その横に、ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵がいる。目元が少し赤い。だが背筋は伸び、顔は侯爵のものだった。
もう一人。
カリウス・グレイヴェル子爵は、少し後ろに立っていた。表情は読みにくい。けれど視線は、迷わずセラへ向いていた。
「リシア」
父が言った。
声は、いつもの父の声だった。
短く、余計なものが少ない。
けれど、その一言だけで、リシアの胸の奥が熱くなった。
「お父様」
リシアは、立ったまま礼をした。
「ご心配をおかけしました」
言えた。
公女として、まず言うべき言葉を。
だが、顔を上げた瞬間、父の表情が少しだけ歪んだ。
それを見た途端、リシアは次の言葉を失った。
ガリウスは、ゆっくり息を吐いた。
「無事で、よかった」
短い。
それだけだった。
けれどリシアには、十分すぎた。
「はい」
声が少し震えた。
父はそれを聞いて、目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
次に目を開けた時には、もう大公の顔へ戻っていた。
「ステファニア嬢」
ガリウスが視線を移す。
ステファニアは、深く礼をした。
「大公閣下。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない」
ガリウスは即答した。
「よく、リシアを守ってくれた」
ステファニアの肩が、ほんの少しだけ動いた。
その隣で、ウィリアムが一歩前へ出た。
「ステファニア」
「お父様」
ステファニアは、姿勢を崩さなかった。
崩さなかったが、リシアには分かった。
彼女は今、かなり耐えている。
「ご無事で何よりです」
ステファニアが言った。
ウィリアムは、少しだけ額に手を当てた。
「それはこちらの台詞だ」
低い声だった。
「お前は、いつも先にこちらを案じる」
「役目ですので」
「娘の役目ではない」
ステファニアは、そこで少しだけ目を伏せた。
「……はい」
ウィリアムは、何かを言いかけて飲み込んだ。
代わりに、ゆっくり頷いた。
「よく戻った」
ステファニアは、もう一度礼をした。
「はい」
最後に、カリウスが口を開いた。
「セラ」
「父上」
セラは、騎士として礼をした。
「ご心配をおかけしました」
「傷は」
「治療済みです」
カリウスの眉が、わずかに動いた。
「誰に似た」
「父上に」
即答だった。
部屋の空気が、ほんの少しだけ止まった。
リシアは、思わずセラを見た。
ステファニアも見た。
カリウスは、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その声の奥に、ほんの少しだけ笑いが混じっているように聞こえた。
「問題ありません」
セラが続けた。
カリウスは即座に返した。
「お前の『問題ありません』は、判断材料として扱わない」
セラは黙った。
メディナが、こちら側で満足そうに頷いていた。
リシアは、こらえきれずに笑ってしまった。
ステファニアも、口元を押さえた。
張り詰めていた空気が、少しだけほどけた。
◇
父たちの後ろに、人影があった。
リシアは、少し遅れて気づいた。
扉のそばに、母が立っている。
大公妃としての落ち着いた装いだった。けれど、両手は胸の前で固く組まれている。
その隣に、ステファニアの母クラリッサと、セラの母リリアーナも控えていた。
正式な場ではない。
だが、完全な私室でもない。
だから、彼女たちは前に出すぎず、しかし離れもしなかったのだろう。
リシアの母が、一歩だけ近づいた。
「リシア」
その声に、リシアはもう一度胸が詰まった。
「はい、お母様」
「顔を、よく見せて」
リシアは、少しだけ顔を上げた。
母は、何も言わずにリシアを見た。
髪。
頬。
目元。
首。
手。
傷がないか、痩せていないか、熱はないか。
母の目が、そういうものを一つずつ確かめている。
「大丈夫です」
リシアは言った。
「本当に」
母は、少しだけ微笑んだ。
「あなたの大丈夫も、少し信用できなくなりました」
リシアは言葉に詰まった。
向こう側で、父が軽く咳払いをした。
どうやら、同意しているらしい。
ウィリアムの後ろでは、ステファニアの母が娘を見つめていた。ステファニアは静かに礼をしている。いつもの完璧な礼だったが、指先だけが少し震えていた。
セラの母は、カリウスの後ろからそっと顔を出し、セラを見ていた。
セラは、少し困ったように姿勢を正す。
「母上も、ご心配をおかけしました」
セラの母は、何かを言おうとして、口元を押さえた。
カリウスが横目でそれを見てから、静かに言った。
「後で直接叱られろ」
「承知しました」
セラは真顔で答えた。
リシアは、また少し笑いそうになった。
笑える。
不思議だった。
数日前、森の中で死を覚悟した。
自分たち以外は助からなかった。
セラは透明な棺の中にいた。
それなのに今、父と母の声を聞き、ステファニアの父の不器用な怒りを見て、セラの父が娘の「問題ありません」を切り捨てるのを聞いている。
生きている。
その事実が、ようやく形になって胸に落ちた。
◇
しばらくして、クラウディアが一歩前へ出た。
空気が自然に引き締まる。
ガリウス、ウィリアム、カリウスは直ぐに親の顔から当主の顔へと戻した。
「大公閣下」
クラウディアが言った。
「本日は、ご息女方の無事を直接確認いただくことと、地上帰還に向けた事前確認が目的です」
「承知している」
ガリウスは頷いた。
「まず、三名の地上帰還について」
クラウディアは卓の上に光の図を浮かべた。
ファーランド城の簡略図だった。
「帰還地点は、城内の封鎖可能な一室を希望します。人員は最小。医療確認が完了するまで、外部への公開は避けてください」
「理由は」
ガリウスが問う。
「リシア様、ステファニア様は魔力枯渇後の回復途上。セラ様は自己修復反応の制御訓練中です。一般的な面会、儀礼、長時間の説明にはまだ向きません」
メディナが穏やかに付け加えた。
「患者ですので」
向こう側で、三人の父親がほぼ同時に頷いた。
少しだけ、悔しい。
リシアはそう思った。
こちらが言われると反論したくなるのに、父たちが頷くと反論しづらい。
「加えて」
クラウディアが続けた。
「襲撃に内部協力者が存在する可能性は、まだ排除できません」
空気が、冷たく引き締まる。
ウィリアムの目が細くなり、カリウスは表情を変えない。
ガリウスは、ゆっくり息を吐いた。
「そこまで読まれているか」
「こちらでも調査中です」
「こちらでも、だ」
ガリウスの声は静かだった。
「城内に戻すなら、表向きは療養継続。公表は最小限。動かす者も絞る」
「妥当です」
クラウディアは即答した。
ステファニアが、少しだけクラウディアを見た。
その時、アインが壁際から一歩前へ出た。
リシアは、自然に背筋を正した。
「ガリウス」
アインは、大公を呼び捨てにした。
リシアは一瞬だけ息を止めた。
けれどガリウスは怒らなかった。
むしろ、静かに頭を下げた。
「はい」
その返答で、向こう側の空気も変わった。
ウィリアムとカリウスも、わずかに姿勢を改める。
アインは、短く言った。
「城の奥を開けたい」
ガリウスの目が、わずかに動いた。
「奥、とは」
「お前が知らない場所だ」
リシアは、父の顔を見た。
父は怒らなかった。
驚きもしなかった。
ただ、深く考える顔になった。
「家伝に、近い記述があります」
ガリウスが言った。
「開かずの記録庫。星の名を持つ部屋。大公であっても、時が来るまでは探すな、と」
リシアは、思わず父を見つめた。
そんな話は、聞いたことがない。
ステファニアも、わずかに目を細めている。
セラは、黙って警戒の姿勢に入っていた。剣はないが、護衛の顔だった。
「星の間」
クラウディアが静かに言った。
その言葉が、部屋に落ちた。
星の間。
リシアは、その音を胸の中で繰り返した。
古文献に出てきそうな名だった。
けれど、クラウディアの口から出ると、それは神話ではなく施設名に聞こえた。
「そこに、何があるのですか」
ガリウスが問う。
アインは、すぐには答えなかった。
リシアは、昨日の休憩室を思い出した。
忘れ物だ。
あの短い言葉。
今、その中身が少しだけ開かれようとしている。
「待たせた人がいる」
アインが言った。
部屋の誰も、すぐには反応できなかった。
人。
物ではなく。
記録でもなく。
武器でもなく。
「正確には、いる可能性が高い」
その声は、やはり短かった。
けれど、昨日よりも少しだけ重かった。
ガリウスは、ゆっくり問う。
「その方の名は」
アインは答えた。
「アリシア・ファーランド」
リシアは、呼吸を忘れた。
ファーランド。
その名は、自分の家名と同じだった。
けれど、ただの同姓ではない。
胸の奥で、古い何かが動いた。
伝承。
家の奥にしまわれた古い話。
初代大公ガルフの娘。
大戦終結直後の戦乱の時代に姿を消した公女。
名だけが残り、絵姿は失われたと聞かされていた人。
「アリシア様、ですか」
リシアの声は、自分でも驚くほど小さかった。
アインが、こちらを見た。
「知っているのか」
「名前だけです」
リシアは答えた。
「初代大公ガルフ様の、ご息女のお名前として」
アインは目を伏せた。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その一言で、リシアは確信した。
アインにとって、その名は歴史ではない。
伝承でもない。
会うはずだった誰かの名だ。
ガリウスは、机の上に置かれた手をゆっくり握った。
「アリシア・ファーランドが、城の奥に」
「可能性が高い」
「生きている……と?」
アインは答えなかった。
代わりに、クラウディアが静かに口を開いた。
「正確には、未確認です」
未確認。
その言葉で、リシアの胸が冷えた。
「ただ、星の間の奥に、石化睡眠に近い保存反応があります。記録照合上、アリシア様本人である可能性は極めて高い」
「近い……とは?」
ウィリアムが聞いた。
「アイン様が消失された時点では、まだ実用化されていなかった技術です。ですので、こちらも断定はできません」
「解除には」
カリウスが聞いた。
「星の間に保管された鍵が必要と推定されます」
クラウディアが答える。
「鍵……ですか」
「はい。こちらも現物確認前ですので、断定は避けます」
リシアは、アインを見た。
アインは否定しなかった。
知らなかったのだ。
アリシアが、どういう形でそこにいるかを。
それでも、待たせた人がいる、と言った。
ステファニアが、わずかに息を呑んだ。
石化睡眠。
鍵。
星の間。
その三つの言葉は、あまりにも古い物語のようで、同時にあまりにもアークライトらしい技術の言葉だった。
「危険は」
カリウスが聞いた。
実務的な問いだった。
アインは答える。
「ある」
リシアは、息が詰まった。
「だが、開けない方が危険になる可能性もある」
「理由は」
ウィリアムが聞いた。
クラウディアが答えた。
「星の間は、単なる保管庫ではありません。古いベルカの知識体系に接続する小規模区画です。時間経過、外部干渉、現代魔術体系との接触によって、予期しない反応を起こす可能性があります」
ステファニアの顔が、少しだけ変わった。唇が、わずかに動いた。
リシアは気づいた。
クラウディアも気づいた。
「ステファニア様」
クラウディアが言う。
「今の説明は、入口だけです」
ステファニアは、静かに目を伏せた。
「承知しました」
「理解しようとしないでください」
「それは、少し難しいお願いです」
「知っています」
クラウディアは淡々と言った。
ガリウスは、そのやり取りを見てから、リシアへ視線を移した。
「リシア」
「はい」
「お前は、どうしたい」
リシアは、すぐには答えられなかった。
どうしたい。
それは、許可の話ではない。
当主としての判断を問われているのではなく、娘として、当事者として問われている。
城の奥に、知らない場所がある。
そこに、初代大公の娘が眠っているかもしれない。
アインの忘れ物。
ベルカの残したもの。
そして、ファーランドの血に繋がるもの。
怖くないわけがなかった。
けれど、見ないままでいる方が、もっと怖い。
「私は」
リシアは、ゆっくり息を吸った。
「知りたいです」
父の目を見る。
「知らなければ、選べません」
ガリウスは、ほんの少しだけ目を細めた。
それは、笑ったのかもしれない。
困ったのかもしれない。
両方かもしれない。
「そう言うと思った」
父は静かに言った。
ステファニアが一歩前へ出る。
「私も同行を希望します」
ウィリアムが眉を上げた。
「理由は」
「リシア様の安全確認です」
少し間が空いた。
ウィリアムが、じっと娘を見る。
「本音は」
ステファニアは、目をそらさなかった。
「知りたいです」
ウィリアムは、深く息を吐いた。
「だろうな」
クラウディアが、ほんの少しだけ満足そうに見えた。
セラも前へ出た。
「私も同行します」
カリウスが言った。
「お前は患者だ」
「護衛です」
「患者だ」
「護衛でもあります」
カリウスは、しばらく黙った。
向こう側で、セラの母が口元を押さえている。泣きそうなのか、笑いそうなのか、リシアには分からなかった。
カリウスは、結局こう言った。
「止まれと言われたら止まれ」
「承知しました」
メディナがこちら側で、にこりと笑った。
「よいお父様ですね」
セラは、少しだけ困った顔をした。
◇
許可は、その場で下りた。
正式な文書は後で整える。
城内の封鎖区画を確保する。
外部への説明は、三人の療養継続とする。
星の間に関わる人員は、ガリウス、ウィリアム、カリウス、必要最小限の護衛。アークライト側はアイン、クラウディア、メディナ、リジェナ、リジェスカ。三人の少女は医療判断の範囲内で同行。
メディナがその条件に「医療判断の範囲内」を何度も入れた。
セラが一度だけ何か言いかけたが、カリウスとメディナに同時に見られて黙った。
リシアは、その光景を見て、少しだけ安心した。
セラを止める人が増えた。
それは、たぶん良いことだ。
対面連絡が終わる直前、ガリウスがアインへ向き直った。
「アイン殿」
呼び方が、少しだけ変わっていた。
アインは黙って見る。
「娘たちを救っていただいたこと、改めて礼を申し上げる」
ガリウスは、深く頭を下げた。
ウィリアムとカリウスも続く。
向こう側で、三人の母たちも頭を下げた。
リシアは、息を止めた。
大公が、侯爵が、子爵が、そして母たちが。
十四歳に見える少年へ、深く礼をしている。
アインは、少しだけ居心地が悪そうにした。
「助けると決めた」
彼は、いつものように短く言った。
「それだけだ」
「それでも、礼は必要だ」
ガリウスは顔を上げた。
「ファーランドは、借りを忘れない」
アインは、少しだけ目を細めた。
「忘れないのは、得意そうだな」
リシアは、その言葉がどこを向いているのか、少し測り損ねた。
ガリウスは、静かに笑った。
「家訓のようなものです」
アインは、それ以上は何も言わなかった。
通信が切れる直前、リシアの母がもう一度だけ言った。
「リシア」
「はい」
「無理をしないで」
リシアは、少しだけ迷った。
大丈夫です、と言いそうになった。
けれど、その言葉が信用されないことは、もう分かっている。
「はい」
だから、そう答えた。
「無理をしないようにします」
母は、今度こそ少し安心したように微笑んだ。
光が薄れ、壁は黒い鏡へ戻った。
◇
対面連絡が終わると、部屋の中はしばらく静かだった。
誰もすぐには動かなかった。
リシアは、黒い壁を見つめていた。
父の顔。
母の声。
ウィリアム侯爵の不器用な安堵。
カリウス子爵の短い言葉。
そのすべてが、まだ耳の奥に残っている。
「疲れましたか」
メディナが聞いた。
リシアは、正直に頷いた。
「少し」
「良い判断です」
メディナは満足そうに言った。
ステファニアも、椅子に腰を下ろした。
「私も、少し疲れました」
「私もです」
セラが言った。
リシアとステファニアは、同時にセラを見た。
セラは真面目な顔だった。
「叱られる予定が増えました」
リシアは、思わず笑った。
ステファニアも、今度は隠さずに笑った。
メディナまで、静かに笑っている。
その中で、アインだけは黒い壁を見ていた。
リシアは、笑いを収める。
「アイン様」
彼がこちらを見る。
「アリシア様は」
そこまで言って、リシアは少し迷った。
聞いてよいのか。
今聞くべきなのか。
だが、アインは短く答えた。
「俺の婚約者だった」
リシアは、胸の奥が小さく跳ねた。
婚約者。
その言葉は、古い伝承の名を、一気に近いものへ変えた。
「だった、なのですか」
ステファニアが静かに聞いた。
アインは、少しだけ目を伏せた。
「千五百年、会っていない」
それは答えになっているようで、なっていなかった。
けれど、誰もそれ以上は踏み込めなかった。
クラウディアが言った。
「詳細は、星の間へ向かう前に説明します。今は、休息を優先してください」
「はい」
リシアは頷いた。
休息。
今日も、その言葉が必要だった。
けれど、昨日までとは少し違う。
地上へ戻る準備が始まった。
城の奥に、星の間がある。
そこに、アリシア・ファーランドが眠っているかもしれない。
アインの忘れ物。
ファーランドの古い名前。
そして、たぶん自分たちが知らなければならないもの。
リシアは、自分の手を見た。
まだ何もできない手。
けれど、昨日より少しだけ、自分の中の何かを知っている手。
その手を、ゆっくり握る。
怖い。
知りたい。
その二つは、同じ場所にあった。
黒い鏡のような壁に、リシアの姿が薄く映っている。
その向こうに、まだ見ぬ誰かの影が重なったような気がした。
アリシア・ファーランド。
名前だけが、先にこちらへ来ていた。




