第二十一夜 抑制の形
第二十一夜 抑制の形
翌日の訓練は、昨日よりも静かに始まった。
朝食を終えてからしばらく、リシアは自分の手を見ていた。
昨日と同じ手だった。
指の長さも、爪の形も、手のひらに残る薄い傷も、何も変わっていない。
それなのに、その奥に何かがあると知ってしまった。
知ってしまうと、知らなかった頃には戻れない。
胸の中心から手のひらへ向かう、淡い気配。
糸でも流れでもない、けれど確かに触れたもの。
あれが本当に自分の中にあるものなら、なぜ今まで気づけなかったのだろう。
なぜ、あれほど必死に魔法を学んでも、何も掴めなかったのだろう。
「リシア様」
声をかけられ、リシアは顔を上げた。
ステファニアが、こちらを見ていた。表情はいつも通り整っている。けれど、その目の奥には昨日の訓練を反芻している色があった。
「考えすぎです」
「分かりますか」
「分かります」
ステファニアは短く答えた。
「私も、考えすぎていますので」
リシアは、少しだけ笑った。
「ステファニア様でも、ですか」
「私だから、です」
その言い方が、妙に正直だった。
寝台脇の椅子に座って両足首をゆっくり回すセラ。昨日、右足首と左膝に補正反応が出たからだ。
「痛みますか」
リシアが聞くと、セラは首を横に振った。
「痛みはありません」
「では」
「違和感を探しています」
セラは真面目な顔で言った。
「探して見つかるものなのかは、まだ分かりません」
「セラがそう言うと、訓練というより斥候みたいですね」
「似たものです。見落とせば、あとで困りますから」
あまりにも実務的な答えだったので、リシアは小さく笑った。
その時、扉が開いた。
入ってきたのはリジェナとリジェスカだった。二人とも、昨日と同じ柔らかな顔をしていた。だが、手には朝の確認用の端末があった。
「本日も、確認からです」
リジェナが言った。
セラが立とうとした瞬間、リジェスカが先に口を開いた。
「座ったままでお願いします」
セラは止まった。
「……承知しました」
リシアとステファニアは、同時に視線をそらした。
笑ってはいけない場面だと思ったからだ。
◇
訓練室は昨日と同じだった。
白銀色の壁。柔らかい床。細い光の線。部屋の中央に置かれた台。
同じ場所なのに、リシアには昨日より少しだけ広く見えた。
自分が何を見るべきか、昨日より少しだけ分かっているからかもしれなかった。
アインは、既に部屋の中央に立っていた。
クラウディアは台のそばにいて、感知補助球の出力を調整している。メディナは壁際で医療監視用の表示を開いていた。
「昨日と同じですか」
リシアが聞くと、アインは首を横に振った。
「少し違う」
短い答えだった。
クラウディアが補った。
「昨日は、反応があるかどうかを確認しました。本日は、反応の出方を見ます」
「出方、ですか」
「はい」
クラウディアは、感知補助球の中に細い光を浮かべた。
「同じ魔力量でも、流れ方、止まり方、戻り方が違います。特にリシア様の場合、出力の大きさより、反応がどこで止まるかが重要です」
リシアは、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
「止まる」
「はい」
クラウディアは淡々と頷いた。
「昨日の反応は、弱いというより、手前で折り返していました」
「折り返す、ですか」
「外へ向かう前に、内側へ戻る形です」
リシアは、思わず自分の胸元に手を当てた。
抑制されていた。
メディナ様に聞いた言葉が、今度は説明ではなく、自分の身体の話として戻ってきた。
「蓋をされている、という意味ではないのですか」
ステファニアが聞いた。
クラウディアは、少しだけ目を細めた。
「蓋なら、開ければ済みます」
それは、安心させるための言葉ではなかった。
「リシア様の反応は、もっと構造的です。流れようとしたものが、別の形へ戻るように癖づけられている。強引に押すと、むしろ閉じます」
リシアは、指先を握った。
「では、私は」
「焦るな」
アインが言った。
リシアは口を閉じた。
昨日も言われた。
焦るな。
簡単な言葉なのに、リシアには一番難しい。
「今日やるのは、閉じる場所を見ることだ」
アインは、感知補助球を指した。
「壊すんじゃない。見る」
「……はい」
リシアは頷いた。
自分の中のものを壊すのではなく、見る。
それなら、できるかもしれない。
できる、と言い切るほどの自信はなかったが、昨日の自分よりは、少しだけ前にいる。
◇
最初はリシアからだった。
台の前に立つ。
透明な球体へ、両手を添える。
昨日と同じように、冷たくも熱くもない感触が指先に触れた。
何もしようとしない。
そう思った瞬間、何かをしようとしている自分に気づいた。
何もしない、をしようとしている。
おかしな話だった。
リシアは息を吐いた。
魔法を使わない。
探しに行かない。
ただ、待つ。
手のひらの奥に、淡い気配が浮かんだ。
昨日より、少しだけ早い。
球体の中に、細い光が現れる。一本ではない。小さな輪のように揺れて、外へ伸びようとして、そこでふっと向きを変えた。
光は外へ行かない。
自分の中へ戻る。
リシアは、その動きから目を離せなかった。
「これが、折り返しですか」
「はい」
クラウディアが答えた。
「今、何かしようとしましたか」
「……いいえ。いえ、分かりません。何もしないようにしようとはしました」
「それで十分です」
クラウディアは表示を見た。
「反応は安定しています。出力は低い。ですが、消えてはいません」
リシアは、球体の中の光を見つめた。
消えてはいない。
それは昨日の「入口」と同じくらい、リシアにとって大きな言葉だった。
「少しだけ、外へ向けてみろ」
アインが言った。
リシアは顔を上げた。
「使うのではないのですよね」
「使うな。向きを見るだけだ」
向きを見るだけ。
リシアは頷いた。
胸の奥の気配に、手のひらの方を向いてほしいと思った。
水を出すわけではない。
風を起こすわけでもない。
ただ、こちら。
そう思った瞬間、球体の中の光が少しだけ伸びた。
次の瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
痛みではなかった。
けれど、押し戻される感覚があった。
外へ向かおうとしたものが、内側で折れて、丸く閉じる。
リシアは思わず手を離した。
「今の」
「止めたのは正しい」
アインが言った。
「痛みは」
メディナが問う。
「ありません。ただ、胸の奥が縮むような」
「身体反応は安定。魔力枯渇の兆候なし。精神負荷は少し上がっていますが、許容範囲です」
メディナの声は、いつも通り穏やかだった。
リシアは息を整えた。
「これが、私が今まで失敗していた理由ですか」
「理由の一つです」
クラウディアが答えた。
「現代の系統魔法は、外へ効果を出すことを前提に練習します。リシア様が同じ方法で押せば、反応は閉じる。弱いからではなく、閉じるように働く」
弱いからではなく。
その言葉は、優しい慰めではなかった。
むしろ、問題はもっと面倒だと告げていた。
それでも、リシアは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
自分が何も持っていなかったわけではない。
間違った扉を、ずっと押していたのかもしれない。
「では、私は」
「まだ何もできない」
アインが言った。
リシアは固まった。
「はい」
アインは、少しも悪びれずに続けた。
「だが、どこで閉じるかは見えた。昨日より進んだ」
リシアは、少しだけ肩の力を抜いた。
「……はい」
不思議なことに、傷つかなかった。
まだ何もできない。
けれど、昨日より進んだ。
その両方が、今は同じ場所にあった。
◇
ステファニアの番になると、部屋の空気が少し変わった。
本人は落ち着いている。
むしろ、昨日より静かだった。
けれど、クラウディアの視線がわずかに鋭くなった。メディナも医療表示とは別に、もう一つの記録窓を開く。
リシアは、その変化に気づいた。
ステファニアも、もちろん気づいていた。
「警戒されていますね」
ステファニアが言った。
クラウディアは否定しなかった。
「観察精度を上げています」
「同じことではありませんか」
「似ています」
クラウディアは平然と答えた。
ステファニアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「承知しました」
彼女は台の前に立ち、球体へ触れた。
最初の反応は、昨日より穏やかだった。
球体の中に薄い光が広がる。リシアのように細く折り返すのではない。細い線が何本も生まれ、それぞれが位置を確かめるように伸びていく。
綺麗だ、とリシアは思った。
そして、すぐに少し怖いと思った。
光はただ伸びているのではなかった。
並んでいる。
何かの意味を持つように、勝手に揃っていく。
「ステファニア様」
クラウディアの声が、少し低くなった。
「組まないでください」
「組んでいません」
ステファニアの声は落ち着いていた。
だが、球体の中の線は、さらに整った。
線と線の間に、見えない規則が生まれていく。リシアには意味が分からない。分からないのに、何かが完成に近づいていることだけは分かった。
「停止」
クラウディアが言った。
球体の光が一瞬で消えた。
同時に、ステファニアの手が球体から離れる。
リシアは息を呑んだ。
「ステファニア様」
「問題ありません」
ステファニアはそう答えたが、わずかに眉を寄せていた。
メディナがすぐに近づく。
「頭痛は」
「少しだけ」
「吐き気は」
「ありません」
「視界の揺れは」
「ありません」
メディナは表示を見た。
「医療上は軽微です。ただし、続行は短くします」
「承知しました」
ステファニアは素直に頷いた。
その素直さが、かえって事態の重さを示しているように見えた。
「私は、何をしましたか」
ステファニアが聞いた。
クラウディアは、少しだけ間を置いた。
「説明は段階を分けます」
「危険だからですか」
「危険というより、あなたが理解してしまうからです」
ステファニアの目が、わずかに動いた。
以前にも似たことを言われていた。
理解できないからではない。
理解しようとしてしまうから。
今度は、それより一歩進んでいるように聞こえた。
「今の反応は、術式構築というより、道筋の探索に近いものでした」
クラウディアは言った。
「普通は、触れた反応を自分の知っている形へ寄せます。ステファニア様は、知らない形のまま、繋がる場所を探しました」
「それは、悪いことですか」
「目的によります」
クラウディアは、嘘をつかなかった。
「本日については、悪いことです」
ステファニアは、少しだけ息を吐いた。
「難しいですね」
「はい」
クラウディアは頷いた。
「あなたは、難しいことを簡単にしようとする癖があります」
「褒められている気がしません」
「褒めています」
「本当ですか」
「半分ほど」
リシアは、思わず瞬きをした。
ステファニアも、少しだけ目を細めた。
「残り半分は」
「困っています」
クラウディアは淡々と言った。
ステファニアは、今度こそ小さく笑った。
「それは、申し訳ありません」
「謝罪は不要です。制御してください」
「承知しました」
その返事は、いつも通り丁寧だった。
けれどリシアには、ステファニアが少し楽しそうに見えた。
困ったことに、たぶん本当に楽しんでいる。
◇
セラの訓練は、昨日より一段階だけ増えた。
歩く。
止まる。
向きを変える。
それだけではある。
ただし、今日は目を閉じる時間があった。
「視覚情報を減らします」
メディナが説明した。
「床面反応と身体の違和感を照合するためです。無理に当てようとしないでください。外れても問題ありません」
「承知しました」
セラは、すぐに目を閉じた。
リシアは少しだけ不安になった。
見えない状態で歩くのは、普通に怖い。
だが、セラの立ち姿は崩れなかった。
足を肩幅に置き、手は自然に下ろしている。いつでも動けるが、余計な力は入っていない。騎士として訓練された身体の形だった。
「前へ三歩」
メディナが言った。
セラは歩いた。
一歩。
二歩。
三歩目の手前で、止まった。
床の線は、まだ赤くなっていない。
メディナが顔を上げた。
「理由は」
「左膝の内側に、ほんの少し引っかかりがあります」
「痛みは」
「ありません」
メディナの目が、明らかに輝いた。
リシアは見逃さなかった。
ステファニアも見逃さなかった。
「非常に」
メディナはそこで一度止まった。
「良い判断です」
リシアは、今の間に何か別の言葉が入りかけたのを感じた。
セラは、目を閉じたまま少し首を傾げた。
「褒められた、という理解でよろしいですか」
「はい」
「承知しました」
セラは真面目に頷いた。
それから、ほんの少しだけ困ったような顔をした。
褒められることに慣れていない顔だった。
リシアは胸が少し痛くなった。
セラはずっと、できて当然の場所に立っていたのかもしれない。
護衛であること。
前に出ること。
傷を負っても戻ること。
それを誰かが「良い判断」と言葉にする機会は、少なかったのかもしれない。
「セラ」
リシアは声をかけた。
セラが目を閉じたまま、わずかに顔を向ける。
「今のは、私から見ても良い判断でした」
セラは一瞬、動きを止めた。
「ありがとうございます」
短い返事だった。
けれど、その耳の後ろが少しだけ赤くなっているように見えた。
リシアは見なかったことにした。
ステファニアも見なかったことにした。
メディナだけが、にこにこと見ていた。
◇
休憩を挟んで、もう一度リシアの確認が行われた。
リシアは球体に触れる。
淡い気配は、昨日よりも今日の方が探しやすい。
だが、外へ向けようとすると閉じる。
何度やっても同じだった。
外へ。
閉じる。
もう少しだけ。
閉じる。
閉じるたびに、胸の奥が小さく縮む。
痛くはない。
けれど、悔しい。
リシアは唇を噛みそうになって、やめた。
焦るな。
アインの声が、頭の中で先に聞こえた気がした。
「焦るな」
実際に言われた。
リシアは顔を上げた。
「今、言われると思いました」
「なら言わせるな」
あまりに短い返答だったので、リシアは少しだけ目を丸くした。
クラウディアが横で、ごく薄く笑ったように見えた。
「閉じる場所が同じなら、今日は十分だ」
アインは言った。
「同じ、なのですか」
「同じだ。毎回違う場所で閉じるより、ずっといい」
リシアは球体を見た。
同じ場所で閉じる。
それは、壁があるということでもある。
けれど、壁の位置が分かったということでもある。
「壁、でしょうか」
「今はそう思っておけ」
「本当は違うのですか」
「違う」
あっさり言われた。
リシアは、少しだけ困った。
「では、何ですか」
「今説明すると、たぶん押す」
リシアは言葉に詰まった。
否定できなかった。
ステファニアが、横で静かに目を伏せる。
笑いをこらえた顔だった。
「ステファニア様」
「失礼しました」
「まだ何も言っていません」
「今のうちに謝罪を」
「それはずるいです」
リシアが言うと、ステファニアは少しだけ微笑んだ。
訓練室の空気が、わずかに緩んだ。
その直後、メディナが端末を閉じた。
「本日の訓練は、ここまでです」
「もう、ですか」
リシアは思わず言った。
メディナの微笑みが深くなる。
「はい。患者ですので」
「……はい」
それを言われると、リシアは弱い。
ステファニアも素直に頷いた。
セラも、何か言いかけてやめた。
メディナは満足そうだった。
「良い傾向です。止めると言われた時に止まれるのは、大切な訓練です」
「それも訓練なのですか」
リシアが聞くと、メディナは当然のように頷いた。
「はい」
アインも頷いた。
「一番大事かもしれない」
その言葉に、リシアは少しだけ背筋を正した。
力を出すこと。
使えるようになること。
強くなること。
そればかり考えていた。
けれど、止まれること。
壊す前に気づくこと。
押しすぎないこと。
それも、訓練なのだ。
◇
訓練室を出たあと、三人は隣の休憩室へ案内された。
透明な壁の向こうに、作られた緑が見える。葉の表面に水滴のような光が置かれていて、風もないのにゆっくり揺れていた。
リシアは椅子に座り、出された薄い果実水を口に含んだ。
甘さは控えめだった。
身体に染みるような味がした。
「今日は、何もできませんでした」
リシアは、ぽつりと言った。
昨日も似たことを思った。
だが、今日のそれは少し違う。
何もできなかった。
けれど、何ができないのかは昨日より分かった。
「私もです」
ステファニアが言った。
リシアは顔を向けた。
「ステファニア様は、できすぎて止められたのでは」
「できたのではありません。制御できませんでした」
ステファニアは、自分の手を見た。
「それは、できないのと同じです」
厳しい言い方だった。
自分に対して、特に。
セラは果実水を飲み終えてから、真面目な顔で言った。
「私は、止まれました」
リシアとステファニアは、同時にセラを見た。
セラは、少しだけ眉を動かした。
「違いましたか」
「いいえ」
リシアは微笑んだ。
「とても大切なことです」
「では、今日はそれでよしとします」
セラは頷いた。
あまりにもまっすぐで、リシアは少し救われた。
できないことばかり見ていると、できたことを見落とす。
セラは、そういうところを簡単に拾う。
本人にそのつもりはないのだろうけれど。
扉が開いた。
アインとクラウディアが入ってくる。
メディナは後ろから入り、端末を閉じた。どうやら訓練後の確認も終わったらしい。
「体調は」
アインが聞いた。
「問題ありません」
三人がほとんど同時に答えた。
メディナが静かに微笑んだ。
「患者の『問題ありません』は、医療判断には含まれません」
三人は黙った。
クラウディアが、何事もなかったように言った。
「医療判断上、本日はこの後、休息です」
「はい」
リシアは素直に答えた。
ステファニアも頷く。セラも今度は反論しなかった。
アインは三人を見た。
「明日は訓練しない」
リシアは瞬きをした。
「しないのですか」
「ああ」
アインは短く答えた。
「次の準備をする」
次。
その言葉だけで、休憩室の空気が変わった。
クラウディアが続ける。
「ご家族への対面連絡、地上帰還の段取り、そしてファーランド城内の確認事項があります」
リシアの手が、膝の上で止まった。
家族。
地上。
ファーランド城。
その三つが並んだだけで、今まで見ないようにしていた現実が戻ってくる。
自分たちは助かった。
セラも目覚めた。
訓練も始まった。
けれど、地上では父が動いている。
帝国の偽装兵があり、内部協力者の可能性があり、聖王国の学院へ向かう期限がある。
そして。
アークライトが、まだ話していないものがある。
「確認事項、ですか」
ステファニアが静かに聞いた。
クラウディアは頷いた。
「はい。ファーランド城の奥に、こちらで確認したい場所があります」
リシアは、喉が少し乾くのを感じた。
「それは、父に許可を取る必要がありますか」
「必要です」
クラウディアは即答した。
「ただし、おそらく大公閣下はご存じありません」
リシアは言葉を失った。
ファーランド城の奥にある。
けれど、父は知らないかもしれない。
そんなものが、あるのだろうか。
アインは、窓の向こうの作られた緑を見ていた。
表情は読めない。
けれど、リシアには、その横顔が少しだけ遠く見えた。
「何があるのですか」
リシアは聞いた。
アインは、すぐには答えなかった。
短い沈黙のあと、言った。
「忘れ物だ」
その声は、いつもと同じように短かった。
けれど、軽くはなかった。
リシアは、自分の胸の奥で、今日触れたばかりの淡い気配が静かに揺れるのを感じた。
外へ向かおうとして、閉じる。
けれど、消えてはいない。
何かがある。
自分の中にも。
ファーランドにも。
そしてたぶん、アインの中にも。
リシアは、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
まだ、何も分かっていない。
それでも、答えは同じだった。
「お聞きします」
アインは、少しだけリシアを見た。
「明日話す」
それだけ言って、彼は休憩室を出ていった。
クラウディアは、その背を見送ってから、三人へ向き直る。
「本日は、よく休んでください」
そして、いつもの澄ました顔で付け加えた。
「明日は、少し話が重くなります」
リシアは、果実水の入った杯を両手で包んだ。
作られた緑の向こうで、光が静かに揺れている。
本物ではない。
けれど、雑ではない。
その光の下で、リシアは自分の手を見た。
まだ何もできない手だった。
けれど、何もない手ではなかった。




